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    akia_basket

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    akia_basket

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    すったもんだして復縁する洋三① ──水戸のセックスって、砂糖の雨が降ってくるみてぇ。
     まるで人生最大の秘密を打ち明ける時のように小さく囁いて、カメラで切り取って永遠にしたいくらいに美しく微笑んだ彼を、きっと一生忘れられない。


    1

    「アンタ、私に興味なんかないんでしょ!!」
     三宿の路上、真昼間の往来で水戸は彼女に頬を張られた。パシン、と水戸が大昔によく聞いていた肌を殴る音よりずっと大人しい音が、真横を通る大型トラックにかき消される。
     目の前の彼女は顔をぐしゃぐしゃに歪めて泣いていた。ファンデーションとチークが乗った丸い頬の上を大粒の涙がこぼれ落ちていく。その様子を『こんな男のために泣くなんていい子だな』とどこか他人事のように見つめた。……いや、事実他人事だった。その証拠に水戸の手は彼女の涙を拭おうとも、彼女の震える体を抱きしめようともしない。爪の先さえ彼女のために動かなかった。
     興味。……興味か。興味ってなんだろうな。水戸の頭は彼女からぶつけられる罵詈雑言をスルーして、ビンタと共に言われた言葉を反芻していた。『洋平くんって私に興味ないよね』と言われるのは──そう言われてフラれるのは──今日が初めてではない。これまでの恋人はみな最後に同じ言葉を水戸に残していった。興味ないよね、私なんかどうでもいいんでしょ、愛されてる実感がない、だから別れよう。
     水戸とて興味がないつもりはない。ああこの子いいなと好意を抱いて、彼女との未来を想像したからこそ付き合ったのだし、もちろん彼女の誕生日も記念日も覚えている。だが、女はみんなそれだけじゃ満足しないらしい。いつも余裕綽々で必要に駆られなければ激しい感情を見せない、そういう姿勢が気に入らないのだろうか。何度も『一線引かれてる感じがする』と言われてきた。……女だけではなく、男にも。
     薄ぼんやりと自覚はある。水戸はスポーツマンになってしまった親友のように、ただ一心に情熱を傾けられる存在を持たない。趣味という趣味もなければ仕事に人生かけているわけでもなかった。のらりくらりと波に流されるように生きて、腹が減れば飯を食い、夜になれば眠る。ただその繰り返し。親友の応援のためバスケの試合に通っていた高校生の頃は──“あの頃”は、心が燃えるような日々を送っていたけれど、今は遠い昔の記憶だ。水戸の心はもう高校生の時のように震えたりしない。……水戸の心に触れる存在が、もうどこにもいないから。
    「もう二度とその顔見せないで。これ返す」
     ぼんやりとありし日の体育館を思い出していた水戸の手のひらに、ひんやり冷たい金属が押しつけられた。見ると、それは水戸の部屋の合鍵だった。渡した当初彼女が楽しそうにつけていたキャラクターのキーホルダーは取り外され、ただただ無機質な金属の塊が手のひらの上で無様な姿を晒している。
     顔を上げると彼女の姿はなかった。歴代の恋人の中で二番目に長続きした人だったが、恋はいつも呆気なく終焉を迎える。もっとも、彼女に抱いていた感情が恋だったと水戸はもう自信を持って言えなくなっていたけれど。
     
     池尻大橋駅を素通りして水戸は徒歩で渋谷まで向かった。合鍵は途中の道路側溝に投げ捨てた。昨晩の大雨で溜まった泥水が水戸の感情と共に合鍵を流してくれる。あの側溝はどこへ繋がっているのだろう。湘南の海に繋がっていればいいのに、そしてあの人が拾い上げて、うちの玄関を開けてくれないか──なんて、天地がひっくり返ってもありえないことを夢想する。随分と感傷的になっていた。フラれたってどうってことないのに。
     早足で歩けばものの30分で渋谷に着いた。渋谷の百貨店の地下一階、そこにある花屋が水戸の職場だ。
    「お疲れ様でーす」
    「おはよ水戸くん。……あれ? なんか疲れてる?」
    「あー、昨日飲みすぎたからかも」
    「またぁ? 仕事に支障出したら給料半分カットだから」
    「そりゃ気をつけねえと」
     水戸は店主に笑いかけると奥に入ってジャケットを脱いだ。それからストライプの入った赤いエプロンを身につける。桜木軍団にひとしきり笑われたファンシーな格好は10年目にもなればすっかり板についている。
     高校の時にやっていたいくつかのアルバイト、そのうちの一つがこの花屋だ。時給が高く、物言わぬ植物を相手にするのが気が楽で高校3年間続けていた。さて就職はどうしようかと悩んでいた時、社員にならないかと店主に声をかけられたのだ。2年前に神奈川から渋谷に店を移したのをきっかけに水戸も上京した。──神奈川にはあの人との思い出がそこらじゅうにあったから、振り切りためにも好都合だった。
    「えーっと、この花とこれ、……あとこれを、花束にしてください」
    「かしこまりました。リボンの色はどうしましょう?」
    「あー……じゃあ赤で」
    「はい。ではしばらくお待ちください」
     バケツから抜き取った花たちを並べ包装紙で包んでいく。リボンを巻き付けて形を整えればあっという間に花束の出来上がり。金銭と引き換えに花束を女性客に渡すと彼女は小さく微笑んだ。
     水戸はこの瞬間が好きだった。花束を想い人に渡した時の反応を思い浮かべて客が笑う瞬間。尊いと思う。なにより美しいものだと思う。幸せを育む手伝いをするこの仕事を、水戸は気に入っている。
     まあ、そのお手伝いさんの方はさっき失恋したばっかだけど……と水戸は自嘲した。そんな水戸の背中に低い声が投げかけられる。
    「あの、スイマセン。花束、作ってほしいんすけど」
    「ああはい。どういうのがいいですか? 使いたいやつとかあれば──」
     振り向いて顔を合わせお互い同時に息を止めた。
     百貨店の地下一階はこの花屋を除けば食品売り場で占められている。だから常に買い物客で賑わっていた。客を呼び込む店員の声、夕飯のおかずはどれにしようかと言い合う家族の声、そんな喧騒の中にポツンと置き去りにされたような感覚に陥る。目の前の男の色彩だけが鮮やかで、周囲はみな白黒に見えた。わずかに色素が薄い瞳が水戸を見下ろしまたたく。
    「三井さん」
    「水戸」
     息を止めるのも同時なら名を紡ぐのも同時だった。数年振りに紡いだ名と数年振りに聞いた声が明確な刃になって水戸の胸に突き刺さる。刃は紗幕を引き裂き、遠い夏の体育館の記憶を呼び覚ます。
     白いシャツを着て首元を汗で濡らしはにかむ、少年と青年の狭間を行き来していた彼。その彼、三井寿は立派な大人になって水戸の前に佇んでいた。
    「……久しぶりだな。ここ、あの店? 渋谷に移転したのか?」
    「あー……そう。2年前に……」
    「水戸もこっち、住んでんの?」
    「うん、」
     言葉尻が震えるのを必死に隠した。三井は鈍感だからきっと気づかない。
     上手にしまいこんでいたはずの感情が胸の奥に濁流の如く溢れ出し、水戸の心臓を圧迫する。だめだ、繕えない。余裕綽々のいつもの自分が、この人の前だと呆気なく崩壊する。
     最後に見た時よりも伸びた髪が三井の目元にかかっている。いつか写真を見せてもらった中学生の彼を思い出す姿だった。あれよりも短いけれど、水戸がずっと見つめていた彼よりも長い。知らない三井の姿、本来ならその髪が伸びていく様を隣で見つめるはずだったのに失われた時間──自ら手放した時間が、水戸の首を締めつける。
     そして三井の薬指……左の薬指にはまった指輪が、水戸にとどめを刺した。
    「ッ、すいません。花束だよね。花、どれがいいですか」
    「よくわかんねえんだよな。なんか適当に選んでくれよ」
    「そう言ってもなあ、渡す相手によって変わってくるから」
    「あー、渡すのは女」
     ピシッと心にヒビが入った。
     わかっていたはずだ。指輪のつけた既婚者が花屋に来る理由なんて大体は配偶者に渡すため。わかっていたのに傷つく自分のなんと女々しいことか。昼間、彼女に見せたあの置き物のような自分はどこへ行った? 何に対しても心が動かないんじゃなかったのか?
     感情の濁流が止まらない。そうだ、唯一心が燃えるような日々を送っていたあの頃。水戸の心を揺らしていたのは三井だった。
    「……じゃあ、かわいい花のほうがいいかな」
    「ハッ、お前がかわいい花とか言うの、ウケる」
     突然の再会に多少固くなっていた三井の顔が綻ぶ。かつて『リーゼントの花屋とか客逃げちまうだろ』と笑った時と同じ顔で。
     三井といると離れた故郷の潮風が蘇ってくる。今は嗅ぎたくない匂いだ。
     三井から目を逸らし水戸は作業台の上をじっと見つめた。物言わぬ花々を手に取り、ちょうどいい長さに切って形を整えていく。
     黙々と作業を進めながらも、横顔にひしひしと感じる視線に水戸は唇を引き結んだ。三井がそばに立ってじっとこちらを見ている。普通の客は作業中店頭の花々を見たりしてこの場を離れるのに、どうしてこの人はそうしてくれないのか。苛立ちにも似た感情を抱き水戸は口を開いた。
    「あのさミッチー、どっか行っても大丈夫だから」
    「おー」
    「……そこのメンチカツすげえ美味いよ、買ってきたら?」
    「お前今どこ住み?」
     相変わらずこの人全然話聞かねえな。水戸は思わず舌打ちしそうになる。話したくない、早くどこかに行ってほしい。とっととメンチカツ買いに行けよ。このまま三井のそばにいると水戸にとって良くないことが起きる予感があった。
    「……三宿」
    「三宿って、田都?」
    「そう。池尻大橋と三茶の間」
    「結構いいとこ住んでんじゃん」
    「ここ給料いいから。まあ、東京のうさぎ小屋だけどね」
     駄目だ。話したくないのに勝手に口が開く。言葉がスルスル紡がれていく。三井との再会に体が本能の部分で喜んでいるみたいだった。何時間だって喋れた、あの頃の感覚が蘇ってくる。
    「アンタは……アンタも都内?」
    「おう。2年前に東京のチームに移籍した」
     2年前。水戸が神奈川を離れたのと同じタイミングだ。三井の姿を見たくなくて上京したのに彼も来ていたとは、なんてひどい話だろう。水戸の情報を意図的にシャットアウトしていたのがかえって裏目に出たようだ。三井が上京するのを知っていたら、水戸は神奈川から出なかった。
    「同じ街にいるのに会わないもんだな」
    「東京は横だけじゃなくて縦にも広いから」
    「あービル高えよな。オレ、ああいうビル見るといろいろ想像しちまって駄目だわ」
    「いろいろ?」
    「このビルに何千人もいて、その一人一人に人生があるんだよなあ、地球って広ぇなあって考えちまうんだよ」
    「はは、なにそれ」
     思わず笑い声を上げて、それからハッと我に返った。何を笑っているんだろうオレは。この人のペースにすっかり巻き込まれてしまっている。駄目なのに、もう三井と話しては駄目なのに。あの頃の二人には二度と戻れないのに。
     花束のリボンを強く結ぶ。女性が喜ぶような花を中心に作り上げた花束を三井に渡した。そしてそれは三井の手から彼の大切な人へ贈られる。花束とはそういうものだ。何千回と繰り返したこのやりとりが、どうして今になって胸に沁みるんだろう。
    「サンキューな」
     三井が歯を見せて笑う。この花束が役目を果たす時にも彼ははにかむのだろう。少し照れたように、耳を赤く染めて。その笑顔を見られるのは水戸ではない。
     作ったばかりの花束を投げ捨てて踏みつけて誰の手にも渡らないようにしたいなんて、子供じみたドス黒い感情が腹の底から溢れる。この期に及んで三井は自分のだと主張する本性に呆れ返った。彼を自分の意思で手放したのは他の誰でもない、水戸自身だというのに。
     返したおつりを財布に戻しても、三井は店頭に立ったままだった。「……アンタみてえなデケェ人がいたら他の人入ってこれねえんだけど」だからとっとと帰れよと言外に告げると三井の眉が一瞬だけきゅっと寄せられた。その仕草の裏にある悲しみを見逃すほど水戸はマヌケでも鈍感でもない。ああ、オレはこの人を傷つけてばっかりだ──思わず下を向いた。視界に映る自分と三井のつま先は昔よりもずっと距離が離れている。
     昔はこうやって俯いた視界に三井の靴が現れるのが好きだった。大雑把な性格のくせに綺麗に磨かれた革靴、それか近づいてくる時は大抵彼の方からキスをしてくれたから。
    「なあ」
     否応なく思い出す昔の思い出に浸っていると、三井の靴が動いた。水戸と三井のつま先が少しだけ距離を縮める。
    「連絡先、教えろよ」
     三井の左手が水戸の手首を掴む。ひやりと冷たい指輪が薄い皮膚に触れ、水戸の心臓は凍りついた。反射的に三井の手を振り払う。パシンと、水戸が大昔に聞いていた音よりは大人しく、昼間彼女に頬を張られた時よりは鋭い音が店内に響いた。
     顔を上げた先、雄弁な三井の眉がまた歪む。
     でも今ここで彼を抱きしめてキスをして、ごめんと囁く資格は水戸にはない。
     フーッと、深く息を吐いた。脳裏に三井と最後に会った藤沢駅の光景が浮かぶ。あの時と今は同じだった。三井を遠ざけるためにわざと酷い言葉を吐きつける。そう何度も経験したいことではないのに。
    「三井さん、アンタとオレはもう何の関係もない。昔高校が同じだっただけの赤の他人だ。そんな人に連絡先は教えないし、もう二度と会うつもりもない。用は済んだだろ早く帰れ」
     『アンタには帰りを待っている大切な人がいるんだから』そのセリフだけはどうしても言えなくて唾と共に飲み込んだ。言ったら最後、自分の心の方がズタズタに引き裂かれてしまうような気がした。
    「……そーかよ」
     三井の声が地面に落ちる。
     一瞬の再会もこれで終わりだ。この先の続きはない。三井はきっと一週間もすれば水戸と再会したことなどすっかり忘れてしまうだろう。いや一週間ももたないかもしれない。この後家に帰って愛しい妻に迎え入れられた瞬間に忘れてしまうのだ。
     水戸も三井よりは引きずるかもしれないがいずれ落ち着く。実際この数年間はうまくやれていたのだから、普段通りに戻るだけ。普段通り──三井のいない世界が、今の水戸にとっては普通の世界だ。
    「じゃあ、また来っから」
    「………………ハ?」
     予想だにしない返答にポカンと口を開けてしまう。今世界で一番マヌケな顔をしている自覚あった。
     マヌケな顔の水戸に三井は白い歯を見せて笑っている。馬鹿面、なんて指差してきて18歳の少年を思い出す顔で笑う。
    「ミッチー……オレの話聞いてた?」
    「おーバッチリ聞いてたわ。昨日耳掃除したばっかだからよく聞こえるしな」
    「いやよく聞こえてないみたいだから耳掃除のやりか方見直した方がいいよ。……もう一度言う。もうアンタには会わない」
    「あっそ。けどオレは会いてえからさ、電話番号教えてくんねーならまたここに来てやる」
    「っ……ミッチー、だから、」
    「殺されたって諦めねえぜ。オレは諦めの悪い男三井寿だからな」
     暖簾に腕押しとはまさにこのことだった。数年前、藤沢駅で別れを切り出した時は何も言わず素直に頷いたのにどうして今更駄々をこねるんだ。まさか友達になりたいのだろうか?水戸は考えて、そんなのまっぴらごめんだと心の中で吐き捨てた。狂いそうになるほどの情熱を向け、体も心も剥き出しにして求めた相手とはいじゃあ仲良く友達になりましょうなんて言えるものか。
     諦めの悪い男、三井寿。それが本当のことだと水戸は身をもって知っている。どれだけ殴られても体育館にしがみついてバスケを諦められなかった男、どれだけ体力が尽きようと諦めずに美しいシュートを放つ男。そばで、ずっと見てきた。
     彼の諦めの悪さを、水戸は知ってしまっている。
     「じゃあまた今度な」とひらひら手を振りながら遠のいていく背中を水戸は目を細めてじっと見つめた。作業台にはリボンや包装紙の切れ端が散乱しているのに手をつけられない。
    「水戸くん、大丈夫?」
    「えっ……ああ、すいません……騒がしくして」
     奥の倉庫から店主が顔を覗かせている。水戸は我に返ってすぐさま頭を下げた。店先で客と店員が言い争うなんて褒められたことじゃない。これじゃあ本当に給料カットされてしまう。
    「さっきの人、あの人でしょ!? ほら最近有名な!」
     反省する水戸とは反対に、店主は黄色い声を上げた。流川親衛隊を思い出す声に水戸は目を丸くする。
    「有名って?」
    「ちょっと知り合いのくせに知らないの? この前の試合で表彰されてたイケメンバスケ選手でしょ! なんだっけ? 最高スリーポイント成功率……みたいな名前の賞よ」
    「そう……なんですか……」
     水戸は大学までの三井しか知らない。バスケで飯を食うと躍起になっていた彼が、本当に有名な選手になっているとは。三井は外見も整っているから世間様は放っておかないだろう。──それじゃあなおさら、もう三井とは会うわけにはいかない。
    「水戸くん、三井選手とどういう関係?」
     店主が肘で腹を突いてくる。水戸は「高校が同じなだけのただの知り合いです」と返しながら、作業台に散らばった花びらを握りしめた。
     『本当は元恋人で、昔オレからフったんです』とは到底言えるはずもなかった。
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