すろべり6話かきかけ途中半袖にはまだ早いか、カーディガンを着ようか、まだ迷っているうちに出かける時間が来た。とりあえず一枚羽織って家を出る。
一日気もそぞろに仕事をして、帰り支度を早々に済ませる。会社では人目を惹くからと、待ち合わせは駅にした。彼もそれには了承してくれた。
会話は特に会社ですることはなかったが、ラビチャで待ち合わせはどこがいいとか、先日話したところでなく、どこか食べに行きたいところがあれば教えてほしいとか、そういった連絡をまめにくれた。
そういった話は彼なりに気を遣って、外ではあまりしないようにしているらしい。
紡の家からは数駅、会社からは一駅、ICカードを通して改札口を通る。彼とは改札を出てすぐのところで待ち合わせていた。
「お疲れ様です」
彼は紡とのラビチャの画面をつけたままケータイを持った手を振っていた。会えて嬉しい、というのが純度百パーセントでその表情に表れている。しかし彼にしてはやけに小ぶりな振り方で、なんなら体は後ろを向いて二台の自動販売機の間に片足を突っ込んでいた。
「どうされたんですか、八乙女さん!」
彼の足元からバサバサと羽ばたく音が聞こえる。
「こんな格好ですみません。ハトが挟まってて、出してやらねえとって思って」
ちょっと待っててくださいね。と向き直る彼の足元では、がむしゃらに脱出しようと荒ぶる鳩がいた。羽が隙間から出たり引っ込んだりしているが、なかなか体が出てこれる様子ではない。
自動販売機の隙間を広げながら、楽は紡と連絡を取っていたらしい。
「どっかで音が聞こえるなとは思ってたんすけど、奥にエサでも見つけたんですかね」
彼は隙間に入れた足で鳩が出るように誘導するが、奥にいくばかりで一向に出てこない。自動販売機自体も特にずれるようすがなく、楽はケータイで動かせるか検索をかける。
「今調べたら、自動販売機って固定されて動かないんすね……よし」
楽はしゃがんで、鳩が手前に来たところを見計らい勢いよく手を突っ込んだかと思えば、鳩を鷲掴みにして捕らえた。どちらかといえば鳩は出られないときより今の方が危機感を覚えているようで暴れようが激しい。
「こら、入れたんだから出れるだろ。大人しくしろよ」
鳩の翼をつかえさせながら楽は自動販売機の間からようやく救出すると、羽を撒き散らして逃げられていた。
鳩は彼の足を踏み台にしたと思えば、何事もなかったように歩き去っていく。
「食い意地張ってるのもほどほどにな」
彼は鳩が去っていく姿を安堵した様子で見送る。
「八乙女さん、スーツが」
楽のスーツはもはや鳩から抜けた白黒の羽だらけであった。
「うわ、すごいっすねこれ。すぐどうにかしてきます」
その場でいくつか払うが、隙間に突っ込んでいた足や彼の死角になっているところにも羽が刺さっている。紡は後ろにまわって、ちょいちょいと何本か抜くのを手伝った。
「……今日、俺が言ってた店でよかったですか?」
彼は羽を落としながら紡に聞いた。
「ええ、楽しみにしてました。メニュー全部美味しそうで!」
楽は安堵した様子で言う。今更紡は気づいたが、彼の肩は強ばっていたらしい。
「そっか。よかったです」
近くを先ほどの鳩が人混みを避けて歩いていた。なにか思うところがあったのか、ペコペコ謝罪でもしているかのように首を前後に動かして、二人の傍を歩いている。
「鏡見てきます。来てもらってすぐにすみません」
「いえいえ、いってらっしゃいませ」
彼はそそくさとその場を離れた。鳩も楽につられて、出口はそちらかとついていくように早々と歩いていった。
小さな入道雲が浮いている夕暮れの空には、ニューオープンを知らせる風船がいくつか飛んでいた。
商店街を抜けると、そこには風情のある店が立ち並び、その間にこじんまりとしながらも、ピカピカの看板と白いレンガの壁がぱっとあらわれる。
金曜日の夜は皆同じことを思うのか、どの席もゆったりとした店内のBGMの中で賑わいに溢れていた。
店員から「何名様でしょうか?」と声を掛けられ、二人ですと二本の立てた指を添える。店員が確認したところ、店内はあいにく満席だったようで、外にあるオープンテラスを案内された。
風通りの良いそこは足元のライトアップがテーブルの装飾を引き立たせて、メニュー立てに小さく「ハッピーホリデー!」とデコレーションされた可愛らしいポップが貼られている。
隣席から料理の香りが漂い、料理への期待感を膨らませた。
「寒くないですか?」
「昼間が暑かったので、風が気持ち良いです。景色がよく見えてうれしい」
紡に言われて辺りを見渡すと、たしかに景色の見通しがとてもよかった。ゴールデンウィークは開けたものの、久しく会えていなかった友人との会話だったり、家族連れの笑い声が心地良く耳に馴染み、中央の広場や街並みがゆったりと見渡せるところだった。オレンジのフットライトが街並みを明るく彩り、クリスマスに負けないような煌びやかさがカフェを訪れる人をあっと驚かせた。テーブル一つひとつの隙間に観葉植物やオーナメントが飾られていて、オープンテラスながらも個室感を感じさせて、話が弾む人々の様子が伺えた。
「ここ、バームクーヘンがケーキみたいアレンジされて出てくるってありました」
楽と紡はそれぞれ上着を椅子にかけて着席する。
「あ、ちらっと写真見ましたよ。さっそく頼んじゃうつもりできました。お腹すかせてきましたよ〜!」
店員が水を運んでくると、店内のサービスを一通り案内される。店員の呼び出しや注文はすべてタブレットですませられるようになってるところは、店自体の利便性向上や会話を邪魔しないように配慮されているのだろう。店員は一礼して二人のテーブルを離れる。楽はメニューを表示させたタブレットを紡に差し出すと、紡が「これです!」と目立つように大きく表示されたバウムクーヘンの写真を指差した。
「俺、普通に飯も食べちゃうんですけど、いいですか?」
「全然! 私もハーブティー頼んじゃおうかなと思ってまして」
画面を切り替える紡がうきうきしながらサブメニューも一通り見ていく。お先に失礼しました、と彼女からタブレットを受け取って、楽もおおかた決めていたメニューを選んだ。
「小鳥遊さんとこれて良かったです。甘いものが好きって聞いたんで」
楽は夕食と、彼女と違ってハーフサイズのバウムクーヘンを選んだが、既に自分の好みについて知られた彼女の前では気張らずに良い気がした。
「ちゃんと話すの、なんだかんだ初めてですよね」
楽は注文をすませると、タブレットをテーブル横の収納にしまう。水のグラスの縁を指で擦り、手に露がついて濡れた。
「わ、そうでしたっけ。十さんからよくお話を伺ってたので、そんな気がしなくて。入ったばかりなのに頼りになるってよく仰ってますよ」
「そうなんすか! この前、龍の知ってる営業部の先輩に頼んだらいいのにっつったんすけど、新作商品のプレゼン資料の追加、俺に頼んでくれて」
「『信頼されてる〜!』って感じで羨ましいです」
「入ったばっかりの俺に挑戦する場をくれたってのもあるんでしょうけど、龍に頼られるのは嬉しいっす」
楽は手を軽く握っては開いてをときどき繰り返す。先ほどからコップに口をつけてはいるが、たいして水が減っている様子はなかった。
紡が少し首を傾けて、するすると横の後れ毛が手前に落ちてくる。楽の少しもたついた話し方を気にしていた。そしてついに言われたことは「どうかしました?」と、誘っておきながら情けない言葉をいただいたと楽自身も思っていた。
「あっ、いえ」
最初はそんなつもりはなかった。緊張で汗をかいてきた。静電気のピリピリとした小さな稲妻が飼い立てハムスターのように体を走り回っている。
キリンより首を長くしてこの時を待ったし、シーラカンスより深く海を潜れるくらい、彼女のことをずっと考えてきた。どんな仕事をしてるのか、日頃なにをしてるか、休みの日は、映画は好きか、あそこの店美味しいですよね、お酒は得意ですか、歩かせてすみません足痛くないですか、会社の倉庫埃っぽくないですか、また、総務部に行ってもいいですか。
コップの水ですべて流し込んで、楽はへらへらと笑った。
「すみません、緊張してます。せっかく来てもらったんだから、楽しんでもらわないとって、思って」
この前蓋をしたものは、あれから何回も勝手に鍵を開けてこちらを覗いていた。ちょっとだけ意識したそれは、彼女に会いたがっている。どんな簡単な会話をしようとも、最後には自分にたどり着くように仕向けて来るのだから、楽は今日、どうにも喋れなかった。あの日信号で見た横顔の綺麗な姿を、尊敬や憧れの輝きだと信じていた。楽はこんなつもりじゃなかったと鳩の羽より真っ白になった頭や泳ぐ目を誤魔化して、手の汗を結露で紛らわせて、平静を保った。
「写真でみた雰囲気より華やかなところですもんね! 会社帰りとはいえ、もうちょっとお洒落してくればよかったです」
紡はそんなことは知らず、いたって普通に楽へ話しかける。
「ああそういえば、十さんとサークルが一緒だったんですよね!」
「スポーツサークルでしたよ。今週はこれしよう来週はあれしようって、体動かしたいやつが集まってチーム組んで勝負してました。龍とか見たまんま、スポーツ強くて」
楽は友人の勇姿を余すことなく伝えようと、嬉々として話す。
「腹筋グーパンしても、こっちの拳が痛めるんじゃないかってくらい硬くて。負けた方がその日の昼飯奢るとかルール決めたりしてましたけど、龍がいると負けなしって感じだったんすよ!」
楽はふと、肩の力の抜ける感じがした。「学生さんで負け続けたら大変じゃないですか」と彼女の笑う顔が目に入ったからだ。彼女もまた気が張っていて、ようやく力が抜けたように見えた。楽はどこか彼女を女神かなにかと思っていたのかもしれない。そうか、彼女もまた人だと、楽はしばらくぶりに自分の頬が緩んだのを感じた。
「龍とはその縁で、今も通ってるジムが同じなんです。仕事終わりに寄ったら、たまに一緒になるんですよ」
「仕事終わりに行かれるんですか! 運動もできるなんて、すぐバテちゃう私にとっては羨ましいです」
ちょっとのランニングでひいひい言ってる場合じゃないですね、と彼女が恥ずかしそうに笑うものだから、楽は「そんなことないです」と言葉を添えた。