夏フェスで迷子になった僕、親切な銀髪のお兄さんに出会って事なきを得た件 メインステージではヒットチャートを賑わすミュージシャン達がステージ上で観客を沸かせている。それを囲むように配置されたサブステージでは将来有望な若手が、チャンスとばかりに全てを出し切っていた。
盛り上がっているのはステージだけじゃない。いわゆるフェス飯を販売しているキッチンカーも長蛇の列を作っていたし、照りつける夏の日差しから逃れるための休憩所も、人で溢れかえっていた。
ようやく来ることが出来た初めてのフェスで、悲しいことに僕は迷子になっている。
お目当てのバンドが出る時間は夜の遅い時間で、そういった意味では慌てることはないのだが、僕は別の意味で焦っていた。ひとつは、前述のとおり、いい歳して迷子になったこと。もうひとつは――。
「とりあえずトイレに行きたいのになぁ……」
熱中症にならないために、水分補給はしっかりと、というアナウンスに従うまでもなく、猛暑日の会場ではペットボトル一本、無きに等しい。持参した飲料水はみるみるうちに減っていった。夜を待たずに倒れてはここに来た意味がないと、しっかりと喉を潤わせたがそれはつまり、その分〝出る〟というわけだ。
残念なことに膀胱の許容量はいつもと変わらない。他の人々もそうなのだろう、うろついていた時に見かけた仮設トイレには長蛇の列が出来上がっていた。今思えば、あの時に念のために並んでおくべきだったのだ。尿意を自覚し、焦りながら会場をうろつくものの目当ての場所にたどり着くどころか、僕は道に迷ってしまった。
僕が迷い込んだ場所は道はあるものの、ひとけは無く、脇には段ボールやら備品らしきものが積み上がっている。どう考えても観客に見せる為に置かれたものではなく、もしかすると関係者以外立ち入り禁止の場所に来てしまったのではないかと、尿意に加えて不安とも戦う羽目になっている。
いっそそこらの草陰で済ましてしまおうかと、よくない考えがよぎったもののいやそれで見つかったりすればそれこそ嫌だ。まだスタッフを見つけて「トイレを探していたら道に迷いました。申し訳ありませんがとりあえずトイレを貸してください」と頼み込んだほうがマシに思える。
あてもないまま、焦りにかられて自然と早足になる。僕の焦燥を煽るかのように、遠くからギターの音色と、歓声が聞こえてきた。
「あの」
不意に声をかけられ、心臓が跳ねる。びっくりして漏らさなくてよかったと自らの膀胱の我慢強さを誇りたい気分になりながら、僕はおそるおそる、声がした方向へ振り向いた。
背の高い男がそこに立っていた。日本人の平均身長をゆうに超えた、外国人。切れ長の青い目が僕をじっと、見つめている。
首にはスタッフと書かれた名札が吊り下げられていて、それを見た僕は彼が外国人であり、このフェスのスタッフであり、許可無くここをうろついている僕を見咎めているという事実に頭をフル回転させながら
「あー、あの、アイアム、迷子。あとトイレ、行きたい、オーケー?」
と今時の中学生が聞けば鼻で笑うであろうカタコト具合で、彼に聞いたのだった。すると彼は少し驚いたように軽く目を見開いて、ああ、と相づちを打ってから
「トイレを探して迷ったのか……。スタッフ用のだけど近くにトイレがあるから案内しますよ」
と、流暢すぎる日本語で返してきた。さて何語が飛び出すのかと身構えていた僕は、うえぇ、はいぃ、と情けない声で頷くばかりである。
スタッフの人に連れられて、奥へと進んでいく。不審者と通報されても文句は言えないだろう僕に怒るわけでもなく、道を歩く彼に僕はただついていくほかない。目の前で彼の長い銀髪が揺れている。限界を訴えてくる膀胱を誤魔化すべく、僕はこの人の髪は地毛なんだろうか、何人だろう、背ぇ高いな、と考えながら脚を動かした。
ここだよ、とトイレを示されるや否や、僕は目の前の仮設トイレに駆け込んだ。
こういう時に限って、上手にベルトを外せず焦り散らかしたが、なんとか間に合った。
出すものを出した開放感にほっと一息ついてすぐに、やらかした……と真顔になる。大の大人がトイレを求めて迷子で余裕を無くすだなんて恥ずかしいことこの上無い。さっきの外国人スタッフも持ち場に戻ってから、僕のことを笑い話の種にするんじゃないかと羞恥心と猜疑心に駆られつつ、僕は手を洗い、外に出た。
外国人スタッフは律儀にも待っていた。ありがとうございます、すみませんでした……とぺこぺこしながら歩み寄れば、ううん、大丈夫だよと微笑んでくる。
「帰り道、分からないだろ? 送るよ」
トイレに案内してくれた上、送ってくれるらしい。先ほどトイレの中で過った猜疑の心を秒で撤回したくなるほどに、彼はいい人だった。
「関東から? オレも関東住まいだよ」
今はね、と付け足しながら彼が笑う。どれぐらい日本に住んでいるんですか? と好奇心から聞いてみると、まだ全然、と彼は笑った。
「一年ぐらい。留学生なんだ」
留学生と聞いて、僕は素直に驚いた。二十代半ばぐらいの年齢だと思っていたし、何より――。
「え、日本語が上手? はは、ありがとう。猛勉強したんだ」
僕の素直な賞賛にはにかみながら頬を掻く。白い肌が火照っているのは、夏の暑さからだろうか、それとも照れからだろうか。
暫く世間話をしながら歩いていけば、賑わった通りが見えた。僕はようやくほっとして、彼に何度目か分からないお礼を言った。いいよ、気にしないでと相変わらず彼は機嫌のよさを隠さないでいて、そしてふと、あ、と声をあげた。
「ねえ、五時頃は暇? 見るものはあるかい?」
そう聞かれて首を振る。目当てのバンドは八時頃だ。僕の答えにぱっと表情を明るくさせて、彼はそれなら、と頷いた。
「もし気が向いたら五時のリーフステージにおいで。きっと楽しめるよ」
にっこりと微笑まれる。大人っぽさと少年っぽさが混じったような彼の笑みに、僕は思わず見とれてしまった。彼はその時に出るバンドのスタッフなのだろう、それだけで、行ってみようかという気持ちになる。
それじゃあ、フェス楽しんでね。そう言い残して彼は来た道を戻っていった。スタッフ以外立ち入り禁止区域と、賑わう会場の狭間で僕はしばらく立ち尽くしていた。
「いよいよだね、I❥Bのステージ!」
十六時五十五分のリーフステージに足を運んでみると、若い女の子がほとんどだった。僕がいてもいいのだろうかと戸惑ったが、せっかくあの親切な外国人スタッフが教えてくれたのだ。行くあてもないし、と後方のステージが見える場所に陣取る。夕方とはいえまだ日が落ちるには早く、夕方特有の湿度の高い空気に周囲は包まれていた。
わぁっと黄色い声があがる。ステージ上に現れたのは見たことのないバンドグループだ。それぞれ楽器を手に、観客へ向けて手を振りながら現れた。金髪の、王子様のような雰囲気を纏ったギター、続けてやってきたもう一人のギターはオレンジ色の髪の毛を跳ねさせながら愛嬌を振りまいている。その後ろで仏頂面のベースが準備を始めていて、それからピンクの髪の毛を結った小柄なキーボードと……。
僕は危うく、飲んでいた飲料水を落としそうになった。
銀髪の長い髪を揺らして、ピンク髪のキーボード担当の背中をぽん、と叩いて励ましているメンバー。
瞬きをしてもう一度見ても間違いない、それは確かにあの時、迷子になった僕に声をかけてきた外国人スタッフだった。
ドラムスツールに腰掛けて、スティックを指で回している。あの仏頂面のベース担当と一言二言、声を交わして笑っていた。
ぽかん、と呆気にとられている間に、照明が彼らを照らす。そしてそれを合図に、彼は腕を上げた。
カウント、そして鳴り響く音。観客の歓声。
「ドラム担当のラビだ! 皆、盛り上がってるかな?」
一曲目が終わって、自己紹介が始まった。軽く息をあげながら投げかけられた言葉に、黄色い声に混じって野太い声が飛ぶ。どうやら他のメンバーより、男性ファンの比率が多いらしい。返ってきた歓声にスパシーバ! と彼――ラビ君が叫ぶ。それを聞いた金髪の王子様――リーダーのノア君が頷いた。
「もっともっと、盛り上げるよ! ラビ!」
「お前ら、オレ達の音についてこい!」
バスドラの重低音が会場に響く。再び歓声が沸き起こった。
――それが、一ヶ月前の出来事だ。
某ライブハウスで若い女の子達に混じって僕は列に並んでいた。
「今日の物販担当って誰だっけ」
「リュカ君とラビ君だよ! リズム隊!」
「あはは、なんか圧すごそうだよね、あの二人だと」
「分かる~、どっちも背が高いもんね」
前に立つ女の子達の会話をイヤフォン越しに聞きながら、僕はオンスタの画面を眺めていた。そこにはラビ君がリュカ君を誘って撮ったらしい自撮りが表示されていて、きょとんとしたリュカ君の肩を組んでラビ君が悪戯っぽく笑っている。
――今日はオレ達リズム隊が物販担当だよ! よろしくね! ――
親しみがこもった投稿に、僕は【いいよ】を押した。どうしてこのボタンは一回しか押せないのか。
「まもなく開場しまーす! 列が動いたらゆっくり進んでください! 物販は入って左です!」
スタッフの声が響く。ブロマ何枚買おー? という女の子の声と共に、列が動いた。のろのろと何メートルか進んで、ようやく入り口だ。立っているスタッフにチケットをもぎられ、入場する。すぐに左の物販列へと進むと、その先にはあの日、僕の心をかっ攫っていった彼――ラビ君がいた。
「ライブ、楽しんでね」
グッズを買うファン一人一人に声をかけているラビくんに一歩ずつ近づくごとに、緊張した僕の心臓は早鐘を打っている。そうこうしているうちに前の女の子の会計が終わって、スタッフがどうぞー、と促してきた。
にこにことラビ君が笑って僕を出迎えている。何を買うか決めた? と首を傾げるラビ君にやや震える声で僕は欲しいグッズを伝えた。
「緊張してる? オレ達のライブは初めて?」
「アッ、アッ、あの、な、夏のフェスで……」
あの時はお世話になりましたという言葉が出かかって、それを喉に押し込む。ラビ君は軽く目を見開いてから、ああ! とにっこりと笑った。
「フェスで見て来てくれたんだ! 嬉しいな……!」
はいぃ……とあの時の情けなさに勝るとも劣らない声が僕の喉から出る。目の前のラビ君は本当に嬉しそうな顔で、グッズの入った袋を渡してきた。
「今日のライブも楽しんでね!」
それを受け取りながら、僕は上擦った声でハイ! と頷いたのだった。