古い古い夜の話 もう、夕暮れにはヒグラシが鳴く時期だ。それにも関わらず、その夜は随分蒸した。シャツの内側に張り付いた熱気が肌をじとりと湿らせる。真島は唸り声を上げて短く切り揃えられた前髪を掻き上げた。その苛立つ背中を冴島は黙して見ている。重たい夏の空気が、口を開くのも憚らせるのだ。
「暑い!」
叫ばれなくても分かっている。冴島が返事の代わりに嘆息したのが気に食わぬ様子で、真島の首がぐるりと後ろへ回った。熱帯夜が真島の気まぐれの振り子の速度を上げている。
「なんか気の利いた事言えや冴島。アイス買うて来たろか、とか」
「無茶苦茶言いおる。こない深夜にどないせえっちゅうねん」
時刻は草木も眠る丑三つ時である。真島の方は集金仕事の後で、懐具合が良いからと神室町の外へと冴島を呼び付けたのは良いものの、調子に乗って些か高い酒を飲み過ぎた結果が今だ。タクシーを呼ぶには財布が心許ない、帰り着くには歩けば歩けぬ距離でもない、とくれば、若い二人の選択肢は徒歩しか無かった。歓楽街から少し離れたそこはコンビニの一つもない。折角の値の張る酒も、もう汗ですっかり抜けてしまっている。
「あー、あかん、茹だる」
「黙って歩けんのか」
「あ」
犬を払うように片手を雑に揺らして促す冴島を他所に、真島が横を向いてマヌケな声を上げた。あまり良い予感はしない。冴島が胡乱げに視線を追いかけると、その先に「児童通学路」の看板がある。朝方と夕方に車の運転に注意を促すその黄色い看板を発見して、何故声を上げたのかが分からない。眉を低めた冴島を置いて、真島が一歩先に駆け出した。帰宅方向とは90度ずれた方角にである。
「お、おい、どこ行くんや」
「ええとこ!」
うきうきと爪先の踊る体格の良い筋者が、児童通学路を跳ねていく。それだけで桜の紋のお世話に成りそうで、冴島は苦虫を噛んでから渋々その背を追い掛けた。ほんの気休めに、足音を潜めて。
突き当りまで早足に駆けていった真島は、胸元ほどの高さの塀を何の躊躇いもなく飛び越えた。背後から上がる冴島の制止もお構いなしである。その塀のすぐ先に、今度は2mを越す金網が立っている。その更に向こうが、真島の言う「ええとこ」であった。
鼻の奥を突く塩素の匂い。薄曇りの星空の下、黒々とした水を湛えた小学校のプールである。遠慮なしに革靴でガシガシと金網を登り出す真島の膝の裏を慌てて掴んで、冴島が眉を怒らせる。
「お前、兄弟、阿呆な真似すんなや」
「ええやんか、特別授業やで」
引きずり下ろそうとする力に拮抗しながら、真島が頬を上げる。態とらしい笑顔が降ってきて尚更冴島は顔を顰めた。目が合って、ズボンを掴む指から力が抜けたのを真島は見逃さない。すかさず下方の肩を踏み台にして、一気に金網を飛び越えた。
「あっ、おい」
懸垂の両腕と同時であれば殆ど体重の乗らない蹴りではあれど、土足で肩を踏まれた冴島が幾分声を大きくしても、真島は既に大きな水たまりに夢中だ。乾いたプールサイドに革靴を乱雑に脱ぎ捨て、ボタンも外さずシャツを脱ぎ捨てるなり駆け入るようにして水面へ飛び込んだ。楽しげな掛け声の後、ドボンと大きな音を立てて高く上がる水しぶきに、金網に寄りかかる冴島の眉間がいよいよ狭まった。
「ぶはっ! うはは、冷たい」
「真島ァ、自分なぁ……!」
「何しとんねん兄弟、早う来いや」
水面を突き破った真島はプールの水で顔を洗って、上機嫌な声を上げる。金網を両手で掴んだ冴島の苛立ちは、破天荒な兄弟分の暴走への呆れのせいだけでも無かった。遠い街頭の灯りを反射してキラキラ光る水飛沫は、傍目にも冷たくて気持ちよさそうだ。冴島だって、暑いものは暑い。清々しい様子を前にして、いよいよ下着の中の尻が汗っぽいような気がしてくるから不愉快だ。鼻歌交じりに水を掻き始めた半裸刺青男を前に、仁王立ちで唸っているのも数秒だった。緑色の金網が踏まれる金属音を傍ら、真島はにんまりと目を細めた。
日本人平均よりも群を抜いて体格も良いが、冴島は鈍重なわけでもない。両腕で自分の体を支えるくらいは訳のないことで、一分も掛からず飛び越えた柵の向こう、25mプールに振り返ると、そこには誰もいなかった。夜色の水が波打って、ひたひたとプールの壁を叩いている。
「おい、兄弟」
ほんの十秒前までそこにあった音がしない。自分が立てていた金網の擦れる音も、兄弟分の笑い声も、飛沫を跳ねる水音も消えるといやに静かだ。先まで気付かずにいた鈴虫の声と、遠い電球の震える音が耳につく。
都会の夜空は暗い。満月と数えるほどの星が見えるだけの空を映した黒い水はまるで粘度を持っているようで、いささか不気味だ。黄色い月がとろりと水面に溶けている。
ほんの微かな焦燥感に背を撫でられて冴島がプールの縁へ膝を付く。歪んだ水の向こうに白い線の引かれた薄暗い水底と、それから、生白い男のしたり顔が見えた。
「げ」
冴島が咄嗟に腰を反るよりも、真島がプールの底を蹴る方が早かった。水を割ってぬらりと伸びきた両腕が冴島のシャツの襟首を鷲掴む。前のめりに浮いていた踵は、地面に戻ることが出来なかった。
一度目より高く、飛沫が上がる。
「ぶ、っおい! 真島ァ!」
「ヒヒ、水も滴るええ男やで!」
ひっくり返って水底まで引きずり込まれた冴島がプールの底面を殴って身体を返すと、水面では既にたちの悪い河童が笑っている。海坊主よろしく顔中に張り付く長い髪を掻き分けて、冴島は真島を睨んだ。片手で思い切り水を憎い顔へ向かって跳ね上げた後、冴島はプールサイドに上がった。
「うわ」
「ド阿呆」
「なんや、上がってまうんか」
「靴のまんま引っ張り込みおって」
ぶつぶつと文句を垂れる冴島を好きにさせながら、真島は水面に肩の裏を付けるようにして、両腕を揺らがせ水と遊んでいる。あらぬ方向に水鉄砲など撃っている子供じみた様子にきちんと怒鳴ってみせる気も失せて、冴島はプールサイドに腰掛けたまま靴を脱いだ。水差しに成り代わった革靴を引っくり返しつつ、水中の真島に向かって顎を振る。
「こない汚い格好で入ったら、チビ共が可哀想やろが」
「甘いなぁ、なんのためにセンセが塩素剤ばら撒いとんのや」
「お前の為やないわ」
冴島の低い声へ、真島が声を立てて笑う。兄弟分の不機嫌が、さして本気のものでないと分かっているからだ。昼間の陽気で温まった水は冷た過ぎず、心地良い。窓から漏れる明かりも少ない住宅街は慣れ親しんだ眠らぬ街とは大違いだ。寝息を立てる街の中で遊ぶのは、極道の道に入った自分たちが今更他愛無い悪行に身を竦めているようで妙に擽ったい。真島も一呼吸分笑った後は口を噤んで静かにしている。夜の水面に四肢を投げ出して浮かぶと、視界には曇った夜空しか映らない。寂しくなって首をひねれば、水際の兄弟分が同じように空を見上げている。冴島の爪先が小さく水を跳ねた。
「懐かしい匂いやな」
「せやな」
塩素臭い水の匂い。色の褪せたコースロープ。小さな飛び込み台の剥げかけの数字と、胡散臭いほど青い壁の色。プールの丈はもう二人には浅すぎて、大の字に横になる真島の足先は水底に付いている。
二十歳も過ぎてしまえば小学生時代のことはあまり思い出せない。真島は特にそうだ。親の居ない真島の学校生活は楽しいばかりのものではなかった。学友達の当たり前の日常を横目に、好き放題を繰り返していた。真面目な生徒ではなかった。身体が育ってからは特に喧嘩に明け暮れるようになったが、それ以前は、自分がどのような子供であったのかあやふやな記憶しか無い。自分の子供時代を思い起こさせる写真も無いし、証明してくれる人も居ない。恐らく、当時から自分があやふやなまま、兎に角ただ生きていたのだろう。背中に紋を背負うようになってからの生活の方がずっと目まぐるしくて、強烈で、記憶はとっくに上書きされてしまった。
冴島はどうだろうかと、視線だけでずぶ濡れの男を盗み見る。冴島の子供の頃の話は、妹の靖子から断片的に聞いている。少なくとも小学校までは、彼が両親を失うまでは、それなりに幸せな子供時代であったのではなかろうか。
教師になる夢を抱いていたともかじり聞いた。教師になりたいと一度でも思ったということは、少なくともその当時、学校生活が楽しいものであったからだろう。憧れを抱くような恩師がいたのかもしれないし、或いは、級友と一丸となって動く喜びに触れていたのだろう。
真島には思い出せない心持ちだ。クラスメイトは皆、乱暴者で我の強い真島のことを遠巻きにしていた。
「……なあ、冴島」
「なんや」
「お前、ちっこい頃からデカかったか?」
「なんやいきなり。……まあ、デカかったな」
「さよか」
なんとなく、想像がつく。身体が大きく強くて、仏頂面で、取り繕わず、素直で。おそらく冴島大河という男は、昔からずっと自分に正直に生きてきたのだろう。
小学校では体の大きさは大概そのままヒエラルキーの強さだ。だから他人の顔色を伺うこともなく、自分が正しいと思うことを通してきたのだろう。そういう意味では、この男はえらく不器用で子供っぽい。好ましいことは好ましいし、嫌なことは嫌と隠さない。
真島も自分に嘘は吐かない質だが、冴島よりはもう少し器用に立ちまわる。少なくとも損得くらいは考えるし、人だって選ぶ。
一方の冴島は、肝っ玉と馬鹿正直さだけで、ぶつかる人間全部の目玉を覗き込んでいるように見える。己と兄弟盃など交わしているのが良い証拠だ。義理の妹のために、自分の人生を投げ打つような男だ。
「……お前がおったら」
「……なんや?」
思わず想像しかけて、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。
今、冴島は隣りにいるではないか。真島に付き合って、夜の水浴びに耽っているではないか。塩素の匂いは楽しい匂いではないが、懐かしい匂いだ。それでいい。
「いやぁ、ランドセル似合わんやろなと思って!」
ひひひ、とプールの中央で高く上がる笑い声に冴島の口角が下がる。何か言い返してやろうとした横顔を、不意に白い光が照らした。
「おい、そこで何やってる!」
「あかん!」
渡り廊下の向こうから守衛が掛けてくる。冴島が鋭く声を上げると、真島も水から飛び上がった。それぞれ靴とシャツとを鷲掴んで、裸足のまま金網を駆け上って逃げ出した。
「スンマセン! いや──」
湿った足跡を二列並べて追い掛けられながら、真島が何か叫んで、小太りの守衛が拳を振り上げて怒ったのは覚えている。
「──なんやったっけ」
すっかり髭の生えそろった真島が、バーカウンターに肘を付いて顎を撫でた。良い具合に酒精が回って、青春の思い出話に花を咲かせていたが、オチの部分で言葉に詰まってしまった。今や皺も増え、お勤め上がりで坊主の冴島は、隣で静かにスコッチのグラスを傾けている。
「何かこう、気の利いたこと言うたったと思ったんやけど。なあ、兄弟」
「そんなことあったか?」
「かー! この薄情者!」
無口なバーのマスターに向かって、管を巻く真島には、もう大分酔いが回っている。口が軽い。口数の多い男だが、昔話を嫌う男だ。普段なら三十年前の自分語りなど始めたりしない。二十五年と数年の時を経て冴島とはまた前のように顔を合わせるようにはなったが、こんな風にバーでゆっくり酒を呑むのは久しぶりのことだ。何やら思い出すこともあったのだろう。
冴島は饒舌な語り口の語尾が些か危うくなるのを聞きながら、真島の横っ面を眺めた。左目を、黒い眼帯が覆っている。元から読めない男ではあったが、今の彼は輪をかけて分かりにくくなったような気がする。正直に話している様子なのに、極端な口振りで本心の所を上手いこと煙に巻く。
二十五年は長い。二十五年間高い壁に向かって記憶を反復するしかなかった冴島を、真島もただ座って待っていたわけではない。
己よりもカウンター向こうの他人に話しかける率の方が高いのは、自分との距離感を測りかねてでもいるのだろうか。一瞬疑念を抱いて、それから馬鹿馬鹿しくなった。
今、真島は隣りにいるではないか。冴島を引き連れて、夜遊びに耽っているではないか。真島の顔に皺が増えようと、笑い声が高くなろうと、この男を自分は知っている。それでいい。
「そろそろ帰るで、兄弟」
「いややー、思い出せーん」
真島がカウンターの板面に甘えだしたのを見て、冴島が肩を揺する。真島は酒に弱くはない。態とらしく愚図ついているのは、冴島に気を許しているからだ。構われたがりなのだ、この男は。冴島も酒臭い息を零して、真島の肩を担ぎあげる。
「月が綺麗やったから、言うたんや、お前」
「あ?」
「うるさくしてすまんかった、ご馳走さん」
半分寝惚けて聞き返す真島の声を無視して、冴島はカウンターに適当に掴んだ福沢諭吉を数枚置くと、兄弟分の身体を引きずるようにして狭いバーの外へと向かう。バーのマスターからタクシーを呼ぼうかとの気遣いを受けて後ろ手に片手をひらつかせ、ドアベルを鳴らした。
肩に寄りかかる真島の身体は熱く、重たい。酒で荒い息遣いの中に笑う吐息が混じっている。何を笑っているのかと聞こうとして、冴島は自分の口角が上がっているのに気がついて黙った。すぐそこの喧騒が泡で包まれたように遠く聞こえる。
ネオンの眩しさにも負けず、空に、丸い月だけが綺麗に輝く夜だった。