くういち小話 空却はけほっと咳を一つして目を覚ました。空気がとても乾燥している。目の前のホルダーに入れていたペットボトルを手に取り、水を一口飲んだ。あまり良くない姿勢で寝ていたようで首の後ろが少し痛む。隣のシートに座っていた名も知らぬ若い男性もすでに起きてスマホをいじっている。周りからもなんとなく人が起きている気配がした。どうやらこの夜行バスはもうすぐ目的地に到着するようだ。首を軽く左右に曲げながら、スカジャンのポケットにしまっていたスマホを取り出す。ロック画面にはメッセージアプリの通知があった。
『そういうのは前日に言うことじゃねえだろ』
それは液晶に表示されていたただの文字であったが、空却の脳内では容易に本人の声が再生された。一郎からのメッセージだった。通知バナーをタップし、メッセージアプリを開く。空却が夜行バスに乗り込む時に連絡を入れていたのだ。『明日の朝、五時半にイケブクロ西口公園に夜行バスで行く。迎えに来い』 それだけ送ると空却はさっさとバスの中で寝落ちていたが、一郎は十分後には返信をくれていたようだ。迎えにくるとは書かれていないが、さて。
バスは定刻通り西口公園に到着した。空却はバスから降り、大きく伸びをする。相変わらずこの街の空気は不味い。しかし早朝独特のどこかひんやりとした気温は、寝起きの頭をしっかりと目覚めさせてくれる。公園は先ほどバスから降りた人たちが通り過ぎていくだけで、ほとんど人がいなかった。この公園には思い出がたくさんある。笑った記憶も、自分のものとは思えない最悪な記憶も。
「空却!」
名前を呼ばれた。声の方に視線を向けると、黒い服を着た男が噴水の前に立っていた。一瞬、空却にはそれが学ランに見えたがー……パチリと一度まばたきをすれば違うことがわかった。黒のスウェットのセットアップのようだ。ひゃは、と小さく笑い声が出てしまった。空却は右手を挙げ、機嫌良く口を開いた。
「よお一郎!出迎えご苦労!」
「ご苦労、じゃねえーよ……あのあと返信もないし本当に来んのか半信半疑だったぜ」
一郎はため息を吐きながら空却のそばにやってきた。空却はフンと鼻を鳴らしながら、自分より高い位置にある一郎の顔を見上げた。よく見ると髪の毛は寝癖がついている気がする。朝起きてそのまま来たから、いつもの赤いジャンパーじゃなかったのかもしれない。
「腹減ったなあ、朝メシ食いに行こうぜ」
「うちこいよ。どうせ二郎と三郎の朝メシも作るし」
「なんだよ、随分サービスいいじゃねえか。そんじゃお邪魔するか」
空却の言葉に満足そうに頷くと一郎は歩き出した。空却もそれについて行く。ちらりと振り返ると誰もいない噴水があった。あの日この公園に置いて行った相棒を、ようやく迎えに来れた気がした。
人通りの少ない朝のイケブクロの道を2人で歩いた。お互いのチームメンバーの話なんかをする。十四がアマンダのコスチュームをイベントに合わせて変えてるらしいがよくわからない、と言う話をしたら空却は一郎に叱られた。なんかまたオタクっぽいことを色々説かれたが、頭に入ってこなかった。こういうのも随分と久しぶりのやりとりだ。横を歩いていた一郎が足を止める。目の前には萬屋ヤマダと窓ガラスにデカデカと書かれたビル。一郎はシャッターの脇にある階段を登って行く。もちろん空却も続いて登る。そういえばここに入るのは初めてかもしれない。昔はビルの前に着いたら、それは一郎との別れを意味していた。この階段を登った先には彼の帰りを待ち侘びている弟たちがいたから。当時はなんとも思ってなったが、いざ山田家に足を踏み入れるとなると感慨深い気分になった。階段を上がり、一郎が扉の前で鍵を取り出した。
「二郎と三郎、まだ寝てると思うから」
「起こしてやろうかァ」
「バカ、静かにしろっつってんだよ」
鍵を開けた一郎に促されるまま中に入る。人の家の匂い。一郎の匂いとはまた違う気がする。その一郎の匂いも、ずっと昔毎日一緒にいた頃に感じてたものだからもう正しいのかも空却はわからなかったが。とにかく初めて嗅ぐ匂いがした。一郎はまっすぐ台所に向かい、手を洗っていた。空却が遅れて近くまで寄ると、「ハンドソープこれな」と言われる。ここで手を洗って良いらしい。空却が手を洗っている間に一郎は冷蔵庫を開き野菜やら卵やら取り出している。
「今から作んのか」
「米だけ炊いてある。おかずと味噌汁作るわ。お前も手伝えよ」
「客人にやらせんのかよ」
「他にやることもねえだろ」
味噌汁の具材用にキャベツと油揚げを切るように指示される。山田家は味噌汁にキャベツ入れんのかと呟くと、え?入れねえの?と緑色の目と赤色の目が大きくまんまるになった。ちょっと面白くて空却は笑った。一郎は目玉焼きを作るようだ。
「え!?波羅夷空却!?」
料理が一通り完成して、食卓に食器を並べているとわざわざフルネームで名前を呼ばれた。空却が振り返ると山田家末弟ー……三郎が階段を降りているところだった。もちろん一郎も気づいたようで、フライパンから最後の目玉焼きを皿の上に移しながら弟に笑いかけた。
「おう、三郎おはよう」
「あ、お、おはようございます一兄。なぜこいつがうちに……?」
「こいつって」
本当に生意気な中坊である。空却は思わずツッコミを入れたが、顔は笑っていた。こういうやつは嫌いではない。三郎の疑問に一郎が答える前にまたドタドタとやかましい足音がする。
「兄貴、おはよう!三郎も……って、ハア!?波羅夷じゃん!!」
「うるさいし気づくのが遅いんだよ低脳。今僕がちょうど一兄に状況を聞いてるところだから、部屋に戻って大人しくしてろ」
「なんで今起きてきたのに部屋に戻らないといけねえんだよ!!!」
なるほどこれが山田家か。空却は食卓の適当な椅子に腰掛け、やんややんやと騒ぎ始めた二人を眺める。
「お前のケンカっ早いとこに似たのかもな」
「はあ?何言ってんだよ……オラ、二郎!三郎!朝から言い争ってんじゃねえ!早く座って飯食え!」
兄貴の声が届いたらしく元気な弟二人はお互いに一睨みした後、フン!と顔を逸らし椅子に座った。一郎はその様子を見守ると空却の肩にポンッと手を置く。服越しにも伝わるくらい一郎の体温は高い。
「今日は決勝チームのリーダーが、テレビ局の打ち合わせに呼ばれてるって話したろ?」
「ああはい、それはもちろん。一兄のスケジュールはしっかり頭に入っていますが……なぜ当然のようにこの男はうちで朝食を食べようとしているのでしょう」
「そりゃ一郎が食いにこいっつったからだわ」
だからそういうことじゃなくて……と三郎は不機嫌そうな顔で呟く。二郎は早く朝メシを食べたいのか、テーブルの上のグラスに麦茶を注ぐ。何も言わずとも全員分のグラスに注ぐ姿にこの家の温かさを感じる。ああよかったな一郎と思う。
「いつもこっち来る時は獄の車で来んだけどよお、今日は拙僧一人だったからな。夜行バスできた」
「そうだったのか」
「いや兄貴も知らなかったのかよ!」
「ま、まさかそれで一兄に迎えに来させたのか……?こんな朝早くに!?」
さすがの空却も面倒になる空気を察知し、そこで会話を切り手を合わせる。まだ話は終わってないぞ!と三郎はきゃんきゃん吠えていたが、だから早く朝メシ食え!と一郎に怒鳴られてしまった。みんなで『いただきます』をする。
「キャベツの味噌汁も悪くねえな」
「なに、お前ん家って味噌汁にキャベツ入れねえの?」
空却の言葉に二郎が反応する。黄色い目と緑色の目がまんまるになって、空却を見つめた。あまり顔つきは似ていないと思っていたが、その様子は先ほど見た一郎とそっくりで空却は大きく口を開けて笑ってしまった。
「急に笑いすぎだろ!人ん家の味噌汁バカにしてんのか?」
「ちげえ、ちげえ……」
笑いを堪えながらなんとか否定をしたが、二郎はあまり納得してなさそうだった。ふと、一郎を見ると穏やかな顔でこちらを見ていた。どうやら空却と二郎のやり取りを黙って見ていたらしい。
「一兄、機嫌いいな……」
三郎が本当に小さな声で言った。おそらく誰にも聞かせる気はなかったんだろうが、空却にはかろうじて聞こえた。
「おめえらがいるからだろ」
空却はいつも通りの声音で答えた。答えたと言っても、もちろん三郎は独り言に返事が来たので驚いた様子をしている。そして前後の会話がわからない一郎と二郎は空却の言葉にきょとんとしていた。
一郎のあの顔は何度も見ていたからよく知っている。大切なものについて考えてる時の顔だ。左馬刻に「弟にでも食わせろ」とお土産を持たされた時なんか、この顔をしていた。二郎と三郎きっと喜びますありがとうございます。弟のことになると一郎はすぐ笑顔を見せるのだ。当たり前だ、一郎にとって何よりも大事なものなんだから。
「自覚ないならそのままでいいよ。教えたくもないし」
ぼんやりと昔のことを思い出していると、一郎曰くすっかり頼れるようになった三男の声が聞こえた。どうやら空却に向けた言葉のようだったが、さっぱり意味がわからない。二郎はもうこの会話がどうでも良くなったらしく目玉焼きをつつきはじめた。三郎も空却の明らかに戸惑っている様子を気にした様子もなく味噌汁を啜っている。
何が起きたのか分からず視線をきょろきょろと彷徨わせていた空却の挙動が面白かったのか、一郎がハハッと笑い声を上げた。一郎、と名前を呼びながら空却が睨みつける。一郎はまたあの穏やかな表情で、空却を見つめ返した。