熱帯夜の前準備[テレビを見るときは、部屋を明るくして画面から離れて見てね!]
幼い時から何度も見て聞いてきたその言葉。
テレビの画面から好きなキャラクターの声でも、大きなテロップでも、そして母の口からも。
だけど、言われれば言われるほど掟を破りたくなるのが子供の性分で。
いや、それは大人でも、そうかもしれない。
「ねぇ、今日オレんちで映画観ない?」
部屋真っ暗にして、テレビつけてさ。そう言ってちょっと意地悪そうに笑う安田を見て、宮城は浮ついた心を抑えながら頷いた。
酒が飲める年齢になった二人は高校生の時から、恋人として付き合っている。
互いに別の大学に通い、バスケと勉学で忙しい日々を送っていた。
ありがたいことに、それぞれの大学が近くにあるので途中まで一緒に帰ったり、一人暮らしのアパートへ遊びに行ったりと楽しいキャンパスライフを過ごせている。
憂鬱だった上半期のテストを終え、やっとやってきた夏休み。
陽がまだ高い夕方、もう通い慣れた帰り道で安田が宮城を家に誘った。
それって、つまり。
宮城は俯いて、安田に気づかれないように固唾を呑む。
テスト勉強のためと、二人はご無沙汰だったのだ。
「コンビニでアイスとか買って帰る? ご飯どうしよっか」
いつも通りに振る舞う安田を見て、浮かれているのは自分だけかもしれないと宮城は眉を吊り上げる。
ただ、映画を見るだけだ。でも、それだけで終わる自信が正直なところ、微塵もない。
「テスト終わった記念にラーメン食って、そんでコンビニ寄ってから行こうぜ」
平静を装って、宮城が安田の手を握ってみせた。繋がれた手を見た安田が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。そしてすぐに微笑んで、二人で細道を駆けていった。
いつも特別な日に行くラーメン屋、安田は珍しく替え玉をしなかった。
お腹いっぱいと椅子に深く腰掛ける安田の顔には、ほんの少しの物足りなさが残っている。
宮城は特に言及せず、味噌ラーメンのスープをずず、と啜った。
帰り道でコンビニに立ち寄り、アイスクリームと缶チューハイを一本ずつ買ってから、暗い夜道で二人はまた手を繋ぐ。
家に着く頃にはきっと、金曜ロードショーが始まっているだろう。
映画のDVDを借りに行こうかと宮城が提案するが、ちょうど互いに観たかったものが放送されるので真っ直ぐ家路を辿ることにした。
通り慣れた道、緩やかに繋がれたやけに熱い手の温度。
二人の歩調が、自然と早くなっていく。
年季の入った扉を開けると、狭いワンルームの部屋から安田の匂いがした。
「……オジャマシマス」
「はは! なんだよそんなに改まって」
くらくらと眩暈がしそうな愛おしい笑顔に腹の中を渦巻く感情を抑えながら、宮城はコンビニで調達したものを冷蔵庫に入れていく。
見慣れた光景のはずなのに、宮城の首筋には汗が一筋。きっと暑さのせいだと、浮かれる心の中で何度も言い聞かせた。
いつも綺麗に片付けられている安田の部屋はあまり広くないにも関わらず、手前に二人掛けのローソファとローテーブル、奥にはセミダブルのベッドがある。
二人でも、使えるように。
安田が一人暮らしを始めるときに呟いていた言葉が宮城の頭の中を反芻する。
このソファも、一人にしては広めのベッドも、二組ずつ用意されている食器たちも。
全部自分のためだと思うと、愛しさが沸々と湧き上がって来た。
ひさびさだ、というだけで宮城の身体はぎこちなく強張ったまま。
ぎこちなくソファに座っていると、安田が麦茶で満ちたいつものグラスをローテーブルの上に置いた。
「さんきゅ」
「どういたしまして」
宮城の隣に安田が座って、重みで少し傾いていたソファが平坦になる。
安物だからね、と笑いながら宮城の目の前にあるテレビのリモコンへと安田が手を伸ばした。
冷房をつけたばかりでまだ蒸し暑い部屋の中、安田の首筋には汗が一筋流れている。
暑さのせいか、それとも。
「リョータ?」
テレビの電源がついた音で我に返った宮城の目の前にはまだ安田がいた。
目と目が合って、会話を交わさずに安田は穏やかに微笑んだ。
「体調悪い? 大丈夫?」
「いや、わりぃ。ちょっとぼーっとしてた」
宮城がテレビへと視線を移すと、ちょうど金曜ロードショーが始まろうとしていた。映画のフィルムが回る音、緩やかなクラシック調の音楽が流れて、今日のタイトルが映される。
安田がおもむろに立ち上がり、部屋の入り口まで歩いていく。
「電気、消すよ」
そう言った安田の声に、やけに色っぽさを感じてしまう。いつも通りのはずなのに。
ぱち
タイミングよく無音になった部屋の中、消灯するために押したボタンの音だけが大きく響いた。再び隣に感じた重みに、宮城の心臓が大きく跳ねる。
さりげなく傍に置かれた缶チューハイをしゅこ、と軽い音を立てて開けてみた。
[テレビを見るときは、部屋を明るくして画面から離れて見てください]
幼い頃見た文字より大人びたそれが、映された青空の上辺で存在を主張している。
真っ暗闇の部屋の中、やっぱり何だか悪いことをしている気分だねと安田が宮城の耳元で囁いた。
映画の内容が、あまり入ってこない。
前方からの眩しい光だけが、二人の顔を照らしている。宮城がちら、と横目で気づかれないように安田の様子を伺ってみた。
黄緑色をした四角いクッションを抱えて、缶を片手に持ったまま視線はテレビ一直線。その瞳の中に映る情熱的なラブシーンに、宮城は液晶で見るよりも心がざわついていた。
今日、この後どうしようか。
酒気と水分を帯びた唇が、テレビからの光で艶めいている。ごきゅ、と分かりやすく固唾を呑んだ宮城は平静を保つために視線をテレビに戻した。
観たかったと話していたのは、よくあるアクション映画。攫われたヒロインを主人公が助けに向かうという、鉄板ものだった。
銃声や大きな物音がするたびに、安田の身体が僅かに揺れる。
右側から感じる振動を何とかしてやりたいと、宮城がおそるおそる右腕を伸ばして、安田の肩を抱いた。
びく、と身体が揺れたあと、力が抜けて安心したように宮城の方に頭を預ける。冷房の効いた暗い部屋の中、無音のシーンで二人の呼吸だけが互いの鼓動を速くした。
テロップとの約束を破って、片手にはアルコール、そして隠しきれない下心。
全部悪いことをしている気分で、やっぱり映画どころではなかった。
端折られたエンドロールが流れて、右腕の中にいる安田の身体が動き始める。
電気を点けに行くのかと思ったが、動いた先は真逆の方向。
宮城の目の前だった。
テレビの光を遮って、視界いっぱいに安田が映る。生ぬるい唇が合わさって、舌から白桃サワーの味がほのかに伝わってきた。
後味はアルコールの、わずかな苦味。
「……お風呂、入ってきなよ」
この辺片付けておくからさ、と安田が口元に綺麗な弧を描いてから立ち上がる。並々入った麦茶はローテーブルに置いたまま、空になった二つの缶だけを攫って行った。
宮城が自分用に置いてある部屋着を手に取り風呂場へ向かう。洗濯機に服を入れて、風呂場の扉を閉める。この狭い風呂にも、もう慣れた。
このあと、抱いてもいいのだろうか。
普段なら考えないようなことを、今日に限っては頭の中でぐるぐると考え続ける。
ご無沙汰といっても、いつぶりだろう。
さっき身体が密着しただけでも、理性が泡立つ感覚がしたというのに。
水を目一杯被った宮城が、思考をかき混ぜるようにシャンプーを髪の上で泡立てた。
とりあえず、寝る時にならないとわからない。
そう思って足早に風呂から上がり、安田が用意してくれたであろうバスタオルで身体を雑に拭いた。
「ヤス、お待たせ」
なるべく平坦な声でそう言えば、ソファで雑誌を見ている安田が顔を上げた。
「おかえり。オレ入ってくるけど、眠たかったら先に寝ててもいいから」
淡々と雑誌を元あった場所へと戻して、宮城の横を通り過ぎていく。すれ違いざまに触れ合った肩がやけに熱く感じた。
寝れるわけ、ないだろ。
宮城は安田が座っていたソファに腰掛け、テレビの電源を点けた。明るい部屋の中で見るそれは、さっき見た時よりも暗く感じる。
頭の中にじんわりと残っているアルコールを感じながら、宮城はただ液晶を眺めていた。
淡々と流れているニュースの内容も入ってこない。氷の溶け切った麦茶を煽って、隣に置いてあるクッションを抱え込む。
さりげなく鼻を擦り合わせてみると、嗅ぎ慣れた安田の匂いがした。
愛おしくて、落ち着く匂い。
しばらくすると、入り口側から物音が聞こえてきた。宮城は慌ててクッションを元の位置に戻し、体勢を整える。
ぺた、ぺた、と素足でフローリングを歩く足音が聞こえてきた。
「お待たせ、起きてたんだ」
風呂から上がってきた安田が、髪を拭きながら宮城の頭を優しく撫でた。
その笑顔に宮城も立ち上がり、狭い洗面台に二人並んで歯磨きを済ませる。
そしてなんとなく、ベッドの縁に腰掛けた。
宮城は眉間に皺を寄せて考える。
そもそも、いつもはベッドに腰掛けることすらしない。いつもなら、もっと自然と布団の中に入って、ヤスが入ってきたら、さりげなくキスをして、それから……。
あれ、どうしてたっけ。
「電気、消すよ」
「あ、おう」
ーーーーぱち
再び訪れた真っ暗闇の中、今度はテレビの灯りも助けてはくれない。足音が近づいてきて、ぎぃ、とベッドのスプリングが音を立てた。
「布団、入らないの?」
宮城の右側から声が聞こえてきた。
重なり合う手、触れ合う肩、耳元にかかる吐息がなんだか熱っぽい。
声のした方へ顔を向けると、安田の澄んだ目が水分を含んで揺らめいていた。
少し上気した頬に、緩やかに下がった眉。どれも見慣れているはずなのに、暗い部屋の中というだけでなんだか恥ずかしくなる。
近づいてくる顔に鼻先が触れ合って、宮城の身体が跳ね上がった。目を丸くした安田が手を口元に持っていき、笑いを堪えている。
どうせ隠せやしないと、宮城が素直に白状した。
「わりぃ、なんか緊張して」
「どうしたんだよほんと……今日は、そんな気分じゃない?」
逃げる手を捕まえて、安田が問いかけた。するり、と指を絡めて、もう離れないようにと強く握る。
そんな気分って、どんな。
宮城が再び安田の方へと目を向ければ、照れくさそうに目を逸らされた。
そういえば、ヤス……。今日、風呂から上がってくるの、やけに遅かったな。
ふと、今日の安田の行動を振り返ってみて宮城が目を見開く。
気づいてしまった。
替え玉をしなかった醤油ラーメン、一本だけで済まされた缶チューハイ、そしてやけに長かった風呂の時間。
気づいた時には、脳より先に身体が動いていた。
安田をベッドの真ん中に座らせて、宮城がその上に跨るような体勢になる。まだ少し濡れている髪を撫でながら、安田の顔に自身の顔を近づけた。
多分、ずっと考えていたのは自分だけじゃない。
そう信じて、言葉にしてみる。
「ヤス、あのさ。オレ……」
「いいよ」
宮城の言葉を人差し指で遮ってから、安田が緩やかに微笑んだ。
ーー多分オレも、同じことを望んでる。
それ以上、言葉にするのは野暮だろうと、宮城は安田の唇を貪った。重心を傾けて、安田の後頭部を掌で覆いながら後ろに倒してやる。
柔い枕に頭を沈ませてから、唇を離して首筋から喉仏へと噛み付くようなキスをした。
小さく声を上げる安田の上に覆い被さり、薄いTシャツの下に手を忍ばせる。
絡み合う視線に感じたのは、OKの合図だった。
抱え続けていた葛藤が、シーツに沈んでいく。
熱帯夜はまだ、始まったばかり。