「好きや」
3ヶ月前の告白の返事をようやく口にしたのは、ある夏の日のことだった。
もっと喜ぶと思っていたのに、告白してきた相手である桃吾はえ?と困惑の声を上げた。
「え?て何や」
少し笑って返すと、合わせるようにぎこちなく笑った桃吾は、申し訳なさそうに眉を下げる。
まさかこうなるとは思っていなかった。
ずっと好きだった、高校で離れてから自分の気持ちに気づいた、プロに入って1年何とかやり切った節目に、付き合ってほしいと言ったのは桃吾の方だ。
その時はびっくりしたのとまだ気持ちの整理がつかなかったので保留にしたが、何のことはない、気づかなかっただけで円も同じ気持ちだった。
お互い忙しい身だがどうしても会って言いたくて、こんなに遅くなってしまった。
待たせすぎただろうか、いや、子どもの頃からの思いがこんな3ヶ月ぽっちで消えるとも思えない。
それに、そんなに簡単に消せてしまう気持ちなら、桃吾は口に出したりしなかっただろう。
「……もう、好きやない?」
「いや!そうやない……」
「ほんなら何で……」
珍しく歯切れの悪い桃吾の言葉に、問い詰めるような声音になったことを後悔した。
(長いこと待たしたんはわしじゃ。今桃吾の言葉をゆっくり待つぐらい、したらんかい)
二人で会う時によく使う喫茶店は、いつもあまり客がいなくて静かだ。
円が持ち上げたコーヒーカップがソーサーに当たる軽い音も、白い壁に跳ね返って響く。
なのに桃吾の声はそれよりも遥かに小さかった。
「俺……今、綾瀬川と付き合うとる」
は?と開けた口のまま、空気だけが出入りして言葉は声にならなかった。
何でそこで綾瀬川が出てくる?
しかし円には心当たりがあった。
「……もしかして、大和の」
「…………そうや」
円の2年下の後輩である園大和が、急死した。
綾瀬川と彼の関係を詳しくは知らない。
だが、プロ入りしてからも頻繁に交流があるのだと、母校訪問の際に大和が話していた。
あまり特定の相手を作らない綾瀬川にしては珍しい、と思ったのを覚えている。
葬式には円も行った。綾瀬川には会わなかったが、彼も行ったのだろうか。
「せやけど何で付き合うとかそんな話になんねん」
「……綾瀬川な、普段は割と平気な顔しとんねん……せやけど、たまーに落ち込む日があって……」
「お前が……慰め役やっとるいうことけ」
「……そういうことやな」
高校を卒業して即プロ入りした円たちは、プロ2年目の今年揃って20歳になる。
もういい大人なので、この場合の慰めるの意味が、よしよしと頭を撫でてやることではないのはわかっていた。
「でもな、俺は別に綾瀬川のことが好きな訳やないねん」
「はぁ……」
「俺が好きなんは、円、ずっとお前一人や」
「せやったら何で……!」
語尾が強くなってしまってまた円は後悔した。
どうもコントロールが効かない。
桃吾を責めても意味がないのに。
「綾瀬川を、放っとくわけにいかん……最悪死んだりしよったら、目も当てられん」
「何で桃吾が……」
「もう俺しかおらんのや、アイツの側には」
高校3年間を共に過ごして、桃吾曰く「情が湧いた」関係だと聞いていた。
それがどれほどに深い関係なのかは、当時はそこまで気にならなかった。
自信があった。
円と桃吾の関係に、綾瀬川が割り込む余地はないと思っていた。
桃吾の言う「情が湧いた」は、軽口の言い返しなんだと思っていた。
(他におらんて……アイツ友達全然おらんのけ……)
「せやから、綾瀬川が落ち着いてきて一人でもやってけるようになったら、俺はお払い箱や。そん時改めて付き合いたい」
「…………わしが待っとる思うんけ」
「……待ってくれとは……よう言わんけど」
円は思っていた。
そもそも桃吾が綾瀬川と同じ高校へ進学して、チームメイトとして親交を深めることになったのは、円のせいだ。
告白の返事が3ヶ月遅れてしまったのも、円のせい。
その間に大和が亡くなって、綾瀬川は不安定になり、円が桃吾と付き合えたら何をしようかなんて呑気に考えている間に、桃吾は綾瀬川を抱いている。
(逆かもしれんけど)
(いや今はそれどうでもええやろ)
全て自分の招いたことだ。
責めるべきは己なのだ。
「待つわ、桃吾」
「……ごめんな」
「ええねん、全部自分の蒔いた種やしの」
「そんなことあらへんやろ……」
「ハァー、ほしたらなんや、わし振られたいうことかぁ」
「…………」
努めて明るく、いつもの調子を必死で思い出しながら声を出す。
変わらず静かな店内に、円の声だけが巡っている。
「辛気臭い顔すなや桃吾!両思いやいうのだけわかっとればええ……別にずっと綾瀬川の側におらなあかんわけやないやろ?」
「そらそうや」
「ほしたら、わしとも今まで通り遊んでくれや、な?」
「もちろんや!……ただ、アイツに呼び出されたら、お前を置いて行かなあかん」
「……そらぁ……しゃあないな……」
付き合うとるんやもんな、とは言いたくなくて、喉の奥に飲み込んだ。
「大事なんはお前や……せやけど、綾瀬川に死んで欲しない」
桃吾のはっきりとした強い目が好きだ。
その目が、こっちを射抜くように見ている。
(ああ、もう覚悟決めとんのやな)
(わしのために東京行く言うてくれたあの日と、おんなじ目しとる)
(綾瀬川が立ち直るまで、お前を捧げる覚悟したんけ)
そうならもう、円に言えることなんか何もなかった。
「……今日は帰るわ」
「飯は?」
「桃吾桃吾ぉ〜、お前デリカシーちゅうもんがないのぉー、わし振られとんのやで?一人でしっぽりしたい気分じゃー」
「……せやな」
「気にすな、桃吾。わしらもうずっと一緒におるやんけ。ほんの数ヶ月、数年のことやろ」
「…………うん」
なぜ振られた円の方が、桃吾を慰めないといけないのだろう。
この直情的ですぐ暴言を吐き、腹が立てば手も足も出るやんちゃな親友は、本当はすごく思いやりが深くて、相手のために自分を投げ出す勇気のある男だ。
だからこそ、好きになったし、だからこそ、綾瀬川を放っておけない。
だからもう、八方塞がりなのだ。
「じゃあの」
「おう、またな」
桃吾の背中が見えなくなるまで待って、駅への道を歩き出す。
どうして、なんで、と思わないわけがなかった。
自分のせいとわかっていても、悔しくて羨ましくて辛くて心臓が痛い。
取られた。その事実が酷く重くて、足を前に出すのも億劫だ。
取られた。取られた。取られた。
わしの桃吾を取られた。
それでも綾瀬川を恨めない。彼は彼で、大切な唯一無二の存在を失ったのだから。
桃吾を責められない。円の好きな桃吾だからこそ、綾瀬川を支えてやりたいのだから。
誰も悪くないのに、胸が痛くてしょうがない。
(野球、あって良かった)
野球さえあれば立ち直れる。
指を失って片目が半分見えなくなっても、野球があったから折れなかった。
円にはまだ野球がある。
その野球も、綾瀬川には死んでも敵わないのだろうけれど。
そのことを考えるとまた胸が苦しくなってしまうので、円はもう考えるのをやめた。