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    かたやま

    絵と小説置き場
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    かたやま

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    2024/09/01 光は強く影は濃く2【E-15a】
    既刊のサンプルです
    A5小説/表紙込み64p/2段組/600円/全年齢/淳円
    可視光線軸
    「もしも円の思惑通り、病気のことを退院まで桃吾に隠したままでいたらどうなっていたのか」を妄想した可視光線if小説です
    ・cp要素非常に薄め(ほぼなし)
    ・すれ違う寝屋川コンビ

    ※2023/11/23 光は強く影は濃く にて発行済み

    晴れぬ空、惑う蕾 一.寝屋川総合病院ロビー 雛淳吾①



    「順調だね、これならすぐ野球もできるようになるよ」
    「ありがとうございます」
    寝屋川総合病院の整形外科。
    折れた右腕の経過観察のために、二週に一回、通院している。
    正直言って面倒臭いが、これからも野球を続けるためには必要なことだ。それに病院代のお釣りがもらえるのは、小遣いの少ない淳吾にはありがたい。
    「次は一ヶ月後でいいかな、ギプスも取れると思うよ」
    「ほんまですか⁉ 良かったー!」
    中学に入学し、リトルからシニアへ上がったと思った矢先の骨折だった。
    当たり前だが、ろくに練習などできていない。
    同じくシニアに上がった友達がぐんぐん上達するのを、指をくわえて見ているしかないのは辛かった。
    それに。
    (早よ練習してもっとうまならんと、いつまでたっても円さんや兄貴に追いつかん)
    (こんなとこで骨折っとる場合とちゃうねん)
    あの二人と同じチームで練習できる期間は、たったの一年だけだ。その間にほんの少しでも、その差を縮めたかった。

    ◇◇◇

    「お大事に」
    「ありがとうございました」
    受付で次の予約をして会計を済ませ、さて帰ろうと思ったとき。
    「……トイレ、行っとくか」
    右手を自由に動かせない今、トイレは非常に億劫だ。特に外のトイレは、人が待っていると思うとプレッシャーもかかり余計もたつく。
    とはいえ家まで我慢するには遠いし、途中で限界が来て駅や公園のトイレに行くことを考えると、ここで行っておくのが得策のように思えた。
    (できるだけ人少なそうなとこ行こ)
    ゆっくり用が足せるように、入り口付近のトイレはやめて、少し奥まったところにあるトイレへと進む。外来もほぼ終わる今は、使うのは入院患者か病院関係者だけなのだろう。トイレはひっそりとしていて、中には誰もいなかった。
    よく掃除の行き届いた小便器の前で、まずは邪魔な手提げ鞄を上の棚に置く。自由になった左手を使い、さっさと済ませようとズボンのファスナーに手をかけた。
    「あーもう、やりにくいわ……」
    誰もいないのをいいことに大きな声で悪態をつく。
    いつもなら数秒もあれば終わるのに、ズボンとパンツの穴をくぐり抜けることが今は至難の業だ。
    「くそっ……こんなにちんこ出んことあるけ⁉」
    「ぶふっ」
    「え⁉」
    誰もいないと思い込んでいたトイレに、自分以外の声がする。いつの間に人が来たのだろう? もたもたしていることを謝ろうか、しかし人が苦労しているのを笑うなんて失礼だ、一言文句を言うか。
    そんな考えは、後ろに立っていた人物の顔を見た瞬間に全て吹き飛んだ。
    「……淳吾?」
    「円さん?」



    ------------------------------------------------------------


    二.寝屋川総合病院ロビー 巴円



    まさかこんなところに淳吾がいると思わず、円は固まった。よくよく見れば見知った後ろ姿に、良く知る男と同じデザインの制服を着ている。
    なぜ気付かなかったのだろう。
    腕が折れているのは知っていた。だが、まさか同じ病院だとは思わなかった。
    (いや、よう考えたらこの辺おっきい病院ここしかあらへんわ)
    (わしアホやな、詰めが甘かった)
    絶対に隠し通すつもりだったのに。
    「……なんしとん」
    「……トイレ……ですけど……」
    意味のない質問に、微妙な空気が流れる。
    普段ならここで「見たらわかるわい」と穏やかにツッコミを入れるところだが、そんな余裕は今の円にはない。とにかく何か話さなければと、視線を彷徨わせながら言葉を紡ぐ。
    「いや……そないちんこ出すのにでかい声で文句言うやつおるけー、思て」
    「すみません……」
    「何で謝んねん、悪いんこっちやろ。笑ってすまんかった」
    このまま本題に触れず、たまたま風邪でも引いていたことにならないか。どうにかして誤魔化す方法は、と、真っ白になっていた頭を再起動させて考えを巡らせ始めたが。
    「円さん、あの、それ」
    円が良い言い訳を思いつくより先に、ポケットに突っ込んだ左手につけられた入院タグを見つけられてしまった。
    「どっか体、悪いんですか……?」
    タグを見て、それからゆっくりと視線を上げ、円の顔をまっすぐに見る淳吾は、本当にあの男にそっくりだ。
    幾分幼いその表情が、U12の頃の自分たちを思い出させて胸の奥がじわりと痛んだ。
    (……放っといたら、家帰ってあいつに言いよるやろな)
    誤魔化すのが無理なら、口止めするしかない。
    「……淳吾、外来の受付んとこで待っとる。出て来たら、話しよけ」
    「……は、い」
    動揺しながら、淳吾が頷く。
    淳吾には関係なかったはずのことで、しかしもう巻き込むしかなくなってしまった。
    それが申し訳なく、何かを言ってやりたくなる。
    「……手ェ、ちゃんと洗て来いよ」
    そんなつまらないことしか言えない自分が空しかった。



    ------------------------------------------------------------


    三.寝屋川総合病院ロビー 雛淳吾②



    外来受付が終了し、待合の長椅子には会計待ちの人しかいない。その人たちも次々と支払いを済ませ、自動ドアから外へと出ていく。
    もたつきながらも何とかトイレを済ませ、言いつけ通りにきちんと手を洗って出てきた淳吾は、ずらりと並ぶ長椅子の列を見渡した。果たして円は、受付カウンターから最も離れた、一番後ろの長椅子の端に座っていた。
    こちらに気付いて、来い来いと手招きをしている。
    小走りで近寄る間、目線を流した左側に、入院手続き窓口が見えた。淳吾くらいの子どもが、親と一緒に書類を書いている。
    (円さんも、あそこであんなんしたんやろけ)
    淳吾が骨折した時は、痛い痛いと叫ぶ淳吾が先に病院に運び込まれ、手続き関係は後から来た親が勝手にやった。流れ作業のように手術、ギプス、入院、そして退院、通院と、言われるがままこなしただけだ。
    そこに覚悟も何もない。
    不安そうな子どもの頭を、母親が撫でている。
    「まさかこんなとこで会うとはのぉ」
    辿り着いた長椅子の端で円が笑う。
    その右隣に浅く腰掛けて、淳吾は白く蛍光灯を反射する床を見つめた。すごく怖いものが待っている気がして、円の方が見られなかった。手首のタグを見たときに、ちらりと見えていたそれの話を今からするのだと、わかっていたからだ。
    「円さん……その……」
    「これな」
    左手をひらひらと、風に煽られる木の葉のように振ってみせる。
    その手には、あるはずの二本の指がなかった。
    「円さん……‼」
    何と言っていいかわからなかった。
    どうして? なんで? 指どこいったんです? 何の病気で?
    そして、それから。
    (野球、できるんですか?)
    その全部が大渋滞して喉でぎゅうぎゅうに詰まる。
    息苦しさに涙が出そうだった。
    酷い顔をしていたのだろう、円が優しく微笑んで、右手でそっと肩を撫でてくれた。
    「落ち着け。もう治ったんじゃ」
    「治ったて……‼」
    その言葉で、円が選んだであろう選択肢を悟った。
    指二本を犠牲にして、命を守る。
    その選択は至極当然のように思えたし、淳吾が同じ立場でもきっとそうしただろう。それでも、目の前に欠けた肉体を突きつけられると「良かったですね」なんて口が裂けても言えない。
    全て指の揃った淳吾に言えることなど何もない。
    「今は術後の経過見とるだけや。あと一ヶ月、転移が見つからんかったら退院できるて。金煌のセレに間に合うねん」
    「セレ……」
    「淳吾、わしは金煌行くで。金煌の一軍でピッチャーやんねん」
    それは強い意志の籠ったセリフだった。
    (当たり前や、円さんが野球諦めるわけない)
    淳吾はホッとしていた。
    円が野球を諦めなかったからではない。自分の憧れが失われなかったことに安堵したのだ。
    「……それでなぁ、淳吾。頼みたいんやが」
    先ほどよりも抑えたトーンで円が言う。
    すっかり元気を取り戻した淳吾は、円のために何かできることが嬉しく、はりきって返事をした。
    「何ですか? 俺に出来ることやったら、何でも言うてください」
    「ん……すまんけど、このことは絶対、桃吾には言わんとって欲しい」
    「え……」
    それを聞くまで、兄のことなど忘れていた。
    (そういえば最近イライラしとった、円さんと連絡取れんて……)
    八つ当たりされて鬱陶しかったが、理由が理由だけに少し同情してしまう。
    「何でですか?」
    「あいつにとっても大事な時期じゃ。変に動揺させたないし……それに、あいつに言うたら毎日見舞い来そうやんけ」
    冗談めかして言われた言葉は、しかしかなり真実に近い気がした。
    「それ、冗談になりませんわ……あいつならやりかねん」
    「ハッハッハ、せやから、あいつには言うたらあかんで」
    伊達に二人の後を追いかけてきていない淳吾には、円の言葉が本心ではないことはわかっていた。
    わかっていたが、それを詮索したところで欲しい答えが返って来ないことも、またわかっていた。
    二人には二人にしか、わからないことがある。それを嫌というほど知っている。
    「……わかりました」
    「ありがとうな、淳吾。迷惑かけるけど、すぐのことやさけ」
    「いえ……そんなんええんです。ただ……」
    柔らかく笑う円は、淳吾のよく知る円の表情だ。
    シニア全国大会の後、病院帰りに出会った時と何も変わっていない。
    そのはずが。
    日に焼けて溌剌としていた肌は青白く、大きくて力強い目の下は黒いくまで塗りつぶされ、マウンドに上がれば誰もが見ずにはいられない、スポットライトを浴びて輝くその姿が、今は肩を落としてその存在感を消している。
    (こんな弱々しい円さん、見たことない)
    不安になるのだ。
    兄と円、二人がお互いに唯一無二であるからこそ、こんなに弱っている時に、一人で平気なのかと。
    淳吾には想像もつかないが、兄に言えない理由がきっとあるのだと思う。けれどもそれは、円の健康より、円の心の平穏より、優先されるものなのだろうか。
    「……ただ、何じゃ」
    淳吾の考えていることに気付いたらしい円が、射るような視線を向けてくる。口に出されなくてもわかる。
    「言うなよ」と、目が語っている。
    (どうしても、言うたらあかんて言いはるんなら)
    (俺が兄貴の代わりになる)
    兄の代わりなど本当にはできない。
    それは分かっているが、少なくとも話し相手くらいにはなれるだろう。秘密を知った以上、円のために何かがしたかった。
    「ただ、いっこ、お願い聞いてもろてええですか?」
    「何や」
    「退院まで、お見舞い来たいんです。兄貴にばれんようにしますから」
    円は少し目を丸くして、そして申し訳なさそうに笑った。
    「気ぃ遣わしてすまんな、ええねんで、そんなん」
    「ちゃうんです。こんな大事なこと知ってしもて、何もせんでおられんのです。話し相手ぐらいにはなれるんで……こんなことしかできませんが、何かさせてください。せやないと、悪いことしてる気持ちになってまいますから……」
    卑怯な言い方かもしれなかった。それでも、この状態の円を一人だけで放っておく方が怖かった。誰も、兄ですら知らないところで、一人で苦しませるようなことがあってはならない。
    それは使命感に近かった。
    「ん……せやな、おんなし家住んどる家族に隠し事さすねん……そら息苦しいわな。わしんとこで良かったら、いつでも来ぃや」
    「ありがとうございます」
    憧れの相手を、自分が支える。
    誰にも言えない秘密を、共有する。
    今この人のそばにいられるのは自分だけなのだと思うと、不謹慎だとは思いながらも、淳吾は腹の奥が満たされる感覚を無視できなかった。



    ------------------------------------------------------------


    四.寝屋川総合病院 巴円の病室 雛淳吾①



    それから淳吾は週に二回、円の病室に通うようになった。
    あまり頻繁に行って家族に、特に兄に不審がられては困る。二回程度が不自然にならない限界だった。
    最初こそ円は申し訳なさそうに「すまんなあ淳吾」と眉を下げて謝っていたが、一ヶ月ほどがたつ頃には淳吾の来訪にも慣れたようで、
    「最近のぉ、お前の来るんが楽しみになってもうて」
    と笑いながら言われ、ニヤつく顔を隠すのに必死になったりもした。
    間違いなく二人の距離は縮まっていて、それが淳吾には円の役に立っているという意味で誇らしく、同時にくすぐったかった。兄の知らない円を知っているということに、優越感を感じてもいた。
    だから円から目の手術のことを言われたとき、ばちが当たったと思ったのだ。
    自分のことしか考えずに浮かれていた罰だと。
    「……もう、ほんまにちょっとで退院やったんやけどのぉ」
    「……」
    「金煌のセレは、諦めなしゃーないわ」
    「円さん……」
    「そないな顔すな、淳吾。お前は何も悪ないやろげ」
    もちろん淳吾が罪悪感を抱く理由など、円からすれば一つもない。むしろここで「俺のせいで」などと言い出すのは、思い上がりもいいところだ。
    無関係なのだ、病気のこととは。
    それでも淳吾は、ここが病院であることを忘れて、足取り軽やかに円との逢瀬を楽しんでいた自分を許せなかった。円の抱えているものを自分一人だけが知っていたのに、寄り添うこともできなかった。
    結局、一人で耐えさせた。
    「……ごめんなさい、俺……」
    「せやから、何を謝んねん」
    「俺、ここ来んのほんまに楽しゅうて……円さん、それどころやないのに」
    「淳吾……」
    「役に立とう、支えよう思てました……せやけど、自分が楽しかっただけや……」
    泣きそうになるのをすんでのところで我慢した。
    こういうとき、兄ならどうするのだろう。
    優しく微笑んではいるが、明らかに憔悴している円を前に、淳吾に出来るのは兄をトレースすることだけに思えた。
    (せやったら、俺いらんやないけ)
    (兄貴の真似しかでけんのやったら、本人おった方がええに決まっとる)
    円と連絡が取れないことで、荒れる兄を思い出す。
    『連絡……取れへんくなってもう三ヶ月や』
    『もう来月や、セレクション』
    『どないしたらええねん……!』
    何度も言おうとした。
    言ってしまいたくなった。
    乱暴でうるさくてチンピラのような兄だが、円を失って取り乱す様子は見ていて心苦しかった。
    こんな状態はきっと良くない、兄にも、円にも。
    二人を同時に救えるのは淳吾だけだ。
    「円さん、やっぱりもう……言うた方がええと思います……」
    「……」
    「俺では円さんの役に立てん……兄貴やったら、きっと」
    「あかん」
    以前の円のように快活に良く響く声ではないが、それでもきっぱりと、円は言い切った。
    「それはあかんて言うたやろ」
    「せやけど! 兄貴もずいぶんあかんようなってて……家でも暴れるし、ずっと機嫌悪いですし……」
    「それは……すまんけどや」
    「円さんも、前ん時とは状況ちゃうやないですか! 兄貴に気ぃつこうてる場合とちゃう思います!」
    手術も終わって、あとは退院を待つばかりだった先月とは、何もかもが違う。半分見えなくなっていると告げられた右目は、これから治療に入るそうだ。その結果次第では、全て見えなくなることだってあり得る。片方の目が完全に見えない状態では、野球はおろか日常生活だってままならなくなる。そんな恐怖に立ち向かうのに、どうして一人を選んでしまうのか、この人は。
    円が自身の右手に視線を落として、揃った五本の指を開いたり閉じたりしている。それからゆっくりと、淳吾の方を見た。
    その目が少しだけ潤んでいる気がして、心臓が痛んだ。
    「……それでも、あかん」
    「なんで……!」
    「淳吾、心配してくれてありがとうな。せやけどわしはええねん……わしの体のことじゃ。マウンド戻るためやったら、手術もリハビリもどってことない」
    「……」
    「でも桃吾に話したら、あいつがしんどい思いするやろ。なんもできひんて、苦しませることなる。それは……嫌やねん」
    優しく諭すように話す円の声音には、兄への心遣いが詰め込み切れずに溢れていた。
    「淳吾にかって、そんな思いさせとおなかった。すまんな」
    円は淳吾たち兄弟のことをわかってくれている。兄も淳吾も円が大好きで、円が苦しければ自分も苦しい。その苦しみを見ていることしかできないのは、もっと苦しい。けれど、隠されるのは、隠されていたことを後から知るのは、きっと、もっとずっと苦しいはずだ。
    それは淳吾が兄と同じ思考回路をしているからわかることで、円には想像のつかない部分なのかもしれない。
    「……あとでわかるんは、もっとしんどいと……思います」
    「……そうかもしれんの。せやけどそん時のわしは、きっともう元のわしや。元気なとこ見したったら、しんどぉても納得するやろ」
    円が本当は、今の自分を誰にも見られたくなかったのだと、その時ようやく気付いた。淳吾に見られてしまったことも本当は後悔していて、だから通い始めの頃、会うたび申し訳なさそうに謝っていたのだ。
    「元気でない自分を見せてごめん」と。
    あれはそういう意味だった。
    誰よりも不安で苦しいはずの円が、淳吾たち兄弟を思ってこんなにも心を砕いてくれている。
    (言えん)
    どう考えても兄に言って、寄り添ってもらうのが最善に違いなかった。
    それでも、その最善を選べない。
    (言えんなら、俺がやるしかないわ)
    (兄貴の真似でも何でもええ)
    「……聞いてもろてもええですか」
    「何をや?」
    「今度こそ、円さんを支えます。兄貴を呼べんのやったら、俺が兄貴の代わりになります」
    一ヶ月前は思っていただけで実行できなかったことを、言葉にして伝える。淳吾なりの覚悟だ。
    今度こそ、自分のことにかまけず円を支える。
    兄貴のように、頼ってもらえるようになる。
    (しんどい思いして欲しないのは、俺らかって一緒なんです)
    「ハッハッハ、淳吾淳吾~、なんやかっこええのぉ」
    「人生で一番カッコつけとります、今」
    「こないなとこで人生の一番使うなや、大事にとっとけ」
    「いえ、ここが一番大事なとこなんで」
    ワッハッハと笑われるつもりで言ったが、円は笑わなかった。ほんの少し口元を震わせて、大きな垂れ目を少しだけ細めた。
    「ありがとうな、淳吾」
    普段の円からは想像もつかないようなか細い声と、消え入りそうな語尾。無性にその背中を抱き締めたくなって、両手の拳をぐっと握り締める。
    守らねばならない。
    たくさんの不安や悲しみ、苦しみを抱えているのに、それを外に出さず穏やかに微笑むこの人を。
    兄のようにはなれない、淳吾の精いっぱいで。
    たとえそれが最善の道でなくとも。



    ------------------------------------------------------------
    ------------------------------------------------------------


    七.寝屋川ファイターズ練習グラウンド 雛桃吾



    桃吾はいらついていた。
    セレクションも終わり、新学期も始まって、野球のシーズンは少しずつ終わりに近づいている。もちろん練習はあるが、ファイターズでの活動は残り日数を数える方が早くなっていた。既に進学先の決まった連中が、ぺちゃくちゃと高校野球の話をしている。
    円がいなくなってからもう半年以上が経っていた。
    最初はどうしたのだろうと心配していたメンバーも、今では円など始めからいなかったかのように振る舞い、話題にも出さない。桃吾だけが、暇さえあれば家を訪問し、監督に土下座し、円の行方を追っていた。生きていて、連絡が取れる状態であることはわかっている。それなのにこんなに長い間接触してこないことが、桃吾には信じられなかった。
    (俺はお前の何やねん、円)
    一番近くにいる、他とは違う特別な関係だと思っている。それならば、事情説明の一つや二つ、あっても良さそうだと思うのだが。
    「集合!」
    監督の大声が響き、思い思いに過ごしていたメンバーが集まる。いつもならこのミーティングでその日のメニューが発表され、それぞれに場所を移動して練習を開始する。
    が、今日は違っていた。
    「みんなに話がある。おい、円」
    「はい」
    その場にいた全員が、一斉に声のした方を見た。
    果たしてそこに、春からその姿を捜して捜して捜し続けた、巴円がいた。
    (生きとった)
    (生きとったんかい、円)
    監督はああ言っていたが、心の片隅にもしかしてもう円はこの世にいないのでは? という疑念を持っていた。それが真実でなくてよかったと、心底安心した。
    「本人の希望でみんなには言わんかったが、円はずっと入院しとった。手術して、左手の指二本と、あと右目やったか?」
    「はい」
    「右目が半分見えへんそうや。病気自体はもう治っとる。今日からまた練習に参加するさけ、必要な時はフォローしたってくれ」
    「はい!」
    (え、なに?)
    (指ないん? 病気で? なんで?)
    みんなに合わせて反射的に返事をしたが、桃吾の頭の中はごちゃごちゃだった。
    そもそも病気をしていたなんて知らなかったし、それが指や視力を失うほどのものだったことも、桃吾には衝撃だった。中学三年生の桃吾にとって、自分の肉体が失われるなどという事態は漫画やアニメの中のもので、まるで現実感のないファンタジーだ。そんな状態に円が置かれているなんて、想像が追い付かない。
    ただ一つだけわかることは、桃吾がその他大勢と同じく、その事実を隠されていたということだった。
    (なんなん?)
    相棒だと思っていた。
    円のことを一番理解し、円の良さを一番知っていて、それを一番近くにいて一番伝えられるのが自分だと思っていた。でも、円にとって桃吾は、他のメンバーと同列に扱っても良い存在だったらしい。
    その日の練習は一日中上の空だった。サードゴロをトンネルして怒鳴られ、セカンド送球をミスして怒鳴られた。それでも桃吾の頭の中は円のことでいっぱいで、ぶち切れた監督の説教も右から左だった。
    円はグラウンドの隅で筋トレと素振り、軽いキャッチボールをしていて、ブルペンには入らなかった。
    練習後、当たり前のように円の腕を持って引きずって、水飲み場の裏に連れ込んだ。
    怒りとも焦燥感ともつかない感情が沸き上がり、聞きたいことは山ほどあるのに言葉が喉でつかえて出てこない。
    円は冷静に、ゆっくりとした動作で桃吾を見つめて、呟いた。
    「すまん」
    桃吾は頭の中が焼き切れる感覚で、目の前が一瞬真っ赤に染まった気がした。
    あんまりではないかと思う。
    生きているか死んでいるかすらはっきりせず、これだけ長い間心配させて、何度も何度も家に行っては誰もいないと落胆し、監督に頼み込んでも断られ、挙句の果てに何をかもわからずいきなり「すまん」とは。
    思わず出そうになった手を、ズボンの裾を力いっぱい掴むことで何とかやり過ごす。
    からからの喉を無理やりこじ開けて、言葉をひねり出した。
    「なに、を、謝んねん……」
    「黙っとって、すまんかった」
    「なんで……なんで俺に言わんかってん」
    「言うたらお前、毎日病院来るやろ、わしに会いに♡」
    円が笑顔で軽口を叩く。
    普段なら「チョケんなハゲ!」と言い返せた。だが今は、そんな言葉が出てくる心境ではない。
    「なにが……アメリカやねん、ボケ……」
    「桃吾……」
    桃吾の様子を見て、円がふざけるのをやめる。
    この事実を他のみんなよりももっと早く、それこそまだ入院している間に、何らかの手段で桃吾に打ち明けてくれていれば。それならばもう少し明るく、そして優しく、受け止めてやれていただろう。
    円が病気と闘っている、その真っ最中ならば。
    全てが終わり、何もかも蚊帳の外で、その間円は一人で誰にも頼らずいたのかと思うと、どうしても「なんで言ってくれなかった」という思いが消せない。
    今にして思えば、円と最後に会った綾瀬川との試合の日、あの日の円は様子が変だった。そのことに桃吾が気付いてさえいれば、全く違った結果がここにあったのかもしれない。
    (結局俺け)
    (俺が様子がおかしいことにも気付かん、頼りがいのない奴やから、こうなるんけ)
    見限られたのか、あの瞬間に。
    野球を楽しいと思うのは、円の後ろを守る時だけ。
    野球を好きになったのも、マウンドに円がいたからだ。
    桃吾の野球は円を軸に成り立っている。
    それを伝えたその日に。
    「桃吾……?」
    下を向いて黙ってしまった桃吾に、円が声をかける。
    円はいつだって優しく、強く、正しい。だから頼るに値しないと見限られたのは、全て桃吾が悪いのだ。
    だとしても。
    「……ッなんで!」
    「え」
    「頼ってくれんかった……心配さしてもくれんかった……ッッ‼ 俺はそない……そないに頼りないけ⁉ お前のことひとっつも支えられんで、こんな……全部終わってからすまんやて⁉ バカにすんな‼」
    「桃吾、ちゃうて」
    「何がちゃうねん! 俺んこと見限ったんやろ⁉ 頼ってもしゃあないて、一人で入院しとった方がマシやて‼ そういうことちゃうんけ‼」
    「ちゃう‼ わしがお前んこと見限るやなんてありえへんやろげ!」
    「俺かてそう思とったわ! お前が大変な時は、絶対俺を頼ってくれるもんやと思とった‼ せやのに……!」
    「……」
    わかっていた。これは八つ当たりだ。
    「……でも、言わせてやれんかった俺が悪いんや……」
    小さく小さく言った言葉は、円の耳に届かず地面に落ちたようだった。
    「何やて? 桃吾、もう一回……」
    落とした言葉は拾わず、続きのセリフを選んで言う。
    「……俺はお前のこと信じとる……こんなもんでマウンド諦めるとはちっとも思うとらん。俺はもうセレで金煌決めてきたさけ、お前は死ぬ気で勉強して一般で金煌来い!」
    「お、おぉ……せやの、お前は先に金煌の一軍でわしのこと待っとってくれや」
    お前がおる場所やったら、わしも迷わんと行ける、と円が言う。先で待つ者のために惑わず努力できると、そう言いたいのだろうか。
    けれどそれが桃吾である必要がどこにある?
    「……約束」
    「ん?」
    「二人で、倒すんやろ……綾瀬川」
    桃吾が何の疑いもなく、自分が円の一番であると信じていられた最後の日に、二人で語ったリベンジ。今揺らぐ足元を固めるには、これしかないと思った。
    (この約束は、俺らだけのもんや)
    (円が言うたんや。一緒に金煌行って、甲子園で綾瀬川倒すて)
    (また二人で頑張っていけるやんな?)
    交わした約束に縋る自分は情けなかった。それでも、円の方から言ったこの言葉が、桃吾の気持ちが一方通行ではないことを証明してくれる。お互いが一番の相棒だと、もう一度信じられる。
    そのはずだった。
    「綾瀬川の約束は、やめにせんか」
    「……は?」
    「……」
    「……なんで? 一般で金煌来るんやろ? 金煌で一軍目指すんやろ?」
    「おん」
    「ほやのに綾瀬川諦める意味わからん!」
    「お前と約束した時とは状況がちゃう。今のわしと綾瀬川とじゃ、比較対象にもなれへん。……おんなじ土俵にすら立ってへん」
    斜め下を見ながら淡々と話す円が、本当は泣き出したいほど悔しがっているのが伝わる。
    「ずっとそうや円! リトルん時から今でもずっと、ずっとお前の方がええピッチャーじゃ!」
    円の悔しさも、頑張りも、一番知っているのは桃吾のはずだ。今だってどんな思いでいるか、こんなにもわかってしまう。
    だからそんな簡単に、約束を反故にしないでほしい。桃吾をその他大勢にしないでほしい。
    これがなかったら本当にもう、自分は円の一番近くにいると、信じられるものがなくなってしまうのに。
    「……わしにはもう、綾瀬川の背中すら見えへん……」
    「……」
    「綾瀬川に辿り着く方法も、今はもう……わからん」
    息を吸い込まず、漏れ出るように発されたセリフが、冷たい雨のように足元から桃吾を冷やす。
    「……もう行くわ」
    こちらを見ないで、目も合わせないで、円は去って行った。
    追う元気も、勇気もなかった。
    約束はなかったことになり、桃吾が感じてきた確かな、手で触って確認できそうなくらいはっきりとしていた二人の絆は、霧のように曖昧になった。下手に触って散らしてしまうのが怖くて、追えなかった。
    (不安なんは、わかった)
    何も言ってくれないよりは、こうやって気持ちを口にしてくれる方が、何倍もマシではあった。そういう意味で、見限ったわけではないという円の言葉は、本心なのだろう。桃吾がこれまで向けられていると思ってきた信頼に比べて、それは酷く薄っぺらく思われたが。
    (自分のことで精いっぱいなんも、ようわかる)
    元のように投げられるのか、指のない左手で捕球はできるのか、バットは握れるのか、半分見えない目で、満足に野球ができるのか。
    暗闇を手探りで進むような不安が、今円を襲っているとわかる。
    (アホやな、何も心配いらん。俺はお前を信じとる)
    (真っ直ぐ、目指したいもん目指したらええねや)
    桃吾がどれだけ必要ないと言っても聞き入れず、何年もその背中を追い続けているくせに。
    (今更諦められるわけないやろ、お前しつこいねんから)
    それでも、その背中が見えないと苦しむなら。
    叶えたい夢に挑戦することすらできずに、ここで膝を折るくらいなら。
    (俺が、お前の足元照らしてやりたい)
    桃吾が円の光になりたかった。
    不安がる円を安心させてやりたかった。
    けれど。
    (俺がお前を信じとるだけじゃ……意味あれへん)
    円の方が、桃吾を信じてくれていないのでは。
    ざくざくと砂を踏む音がして、桃吾は振り返った。
    「兄貴、もうみんな行ってもうたで」
    水飲み場の方から、淳吾の声がする。
    「おん、すぐ行く」
    ふと、そこに何かが残っている気がして、先ほどまで円がいた空間を見つめた。
    (大丈夫や、俺はお前を信じとる)
    (お前の一番が俺やなくても、俺の一番はずっとお前や)
    「兄貴」
    「行くて言うとるやろイラチけボケ!」
    「いきなりキレんなや」
    曇り始めた空に、夕焼けは見えなかった。



    ------------------------------------------------------------


    八.寝屋川ファイターズ練習グラウンド 雛淳吾



    水飲み場の裏で話す二人を、遠くから見ていた。
    兄は怒ると思ったのだ。もし激高した兄が円を殴るようなことがあれば、止めに入ろうと思っていた。実際兄は怒っていたように見えたし、円に詰め寄って何事かを叫んでいるように見えた。
    内容までは、聞こえなかったが。
    そのあと二人は下を向いてぽつり、ぽつりと何かを話し、ややあってから円だけがふいとその場を立ち去った。
    慌てて後を追う。
    何を話したのか聞く気はない。
    ただ淳吾は、円がどんな思いで兄にこのことを隠していたのか、それを伝えてやりたかった。兄が怒ったということは、十中八九、円は話していないと思われた。
    「円さん!」
    兄のいる水飲み場の裏から十分に距離を取ったところで、円に声をかける。
    「淳吾……」
    円は落ち込んだ声をしていたが、淳吾の顔を見て少し笑った。それだけで、体の奥に花が咲いたような、柔らかい気持ちになる。
    「やっぱり、言わんかったんですか」
    「何をや」
    「何で兄貴に隠しとったんかって」
    淳吾の言葉に、円は目を細めて答える。
    「……言わんやろ」
    「何でですか? 兄貴怒っとったでしょ? 絶対誤解しとるあいつ、円さんが兄貴のことないがしろにした思てます。全然ちゃうのに」
    「見限ったんけ、言われたわ」
    笑いながら言う円に、淳吾は焦った。
    「ほらやっぱり! ちゃんと説明せな! しんどい思いさせんようにて、弱っとるとこ見せたないて、気ぃつこうたんやて!」
    「そんなん……言わんよ」
    「円さんが言いづらいんやったら、俺が言うてきます」
    円に背を向けて、水飲み場の方へと向かう。二人がすれ違ってしまうのを、黙って見ている気はなかった。
    円は兄を気遣い、兄は円を心配していた。
    お互いがお互いを心から思い合っていると、それを知っているのは淳吾だけだ。
    隠していた責任もある。
    二人には何としても、元の通りに戻ってもらいたかった。
    「やめえ、淳吾」
    しかし円がそれを止める。
    「なんで……⁉ 放っといたら兄貴、円さんのこと誤解したままになってまいますよ⁉」
    「お前が言うたら、何で黙っとったて怒りよるやろ、あいつは」
    「そ……れ、は、そうやろけど」
    「わしのせいでお前が怒られることないやろげ」
    どうしてこうまで、自分で全て背負ってしまおうとするのだろう。淳吾も、兄だってきっと淳吾以上に、円の持つものを一緒に持ってやりたいと願っているのに。
    振り返って、円の方へ向き直った。
    「俺のことは……どうでもええやないですか」
    「そういうわけにはいかん。お前に黙っとけ言うたんはわしじゃ」
    「俺は俺の意思で黙っとくて決めたんです! 円さんの気持ちちゃんと聞いて、自分で考えて決めたことです。せやけど兄貴は……あいつは何も知らんのや……」
    握った拳が震える。
    うるさくて鬱陶しくて絡み方が面倒臭い、口の悪い兄だ。すぐに殴ってくるところが嫌いだ。お小遣いを勝手に持って行こうとするところも嫌いだ。円のような優しい人が兄だったらと、何度思ったか知れない。
    けれど、兄がどれだけ円を思っているか知っている。
    どれだけ円を心配していたか知っている。
    この半年、兄が円を気に掛けなかった日が一日たりともないのを、淳吾は良く知っている。
    だから。
    「お願いします。あいつに教えたってください。円さんが考えてたこと、兄貴に気ぃつこて言えへんかったこと、全部教えたってください」
    深々と頭を下げる淳吾を見て、円が息を飲む気配がする。目線の下に自分のスパイクが映った。まだ履いて間もない。
    母は始め兄のお下がりを履けと言った。当然淳吾は嫌がったが、兄はそれを見てこともなげに言った。
    『心配せんでも、履けんわ』
    後日兄がスパイクを買い替えたいと言ったとき、その意味を知った。
    兄のスパイクは、ぼろぼろに履き潰されていた。
    『これ、どうしたん』
    『潰れた』
    『それは見たらわかんねん! 買うたん先月ちゃうの?』
    『練習かなり増やしたからな』
    『なんで?』
    兄は笑いながら言った。
    『円はもっとやっとるで。負けてられんやろ』
    今の淳吾に、スパイクを一ヶ月で履き潰すほどの練習ができるか。それが円の隣に立つためだと、笑顔で言えるか。
    (いっちゃんええのはずっと変わらん)
    (兄貴に支えてもらうんが、絶対いっちゃんええんや)
    切れかけた二人を再び繋ぐ。今ここで。
    円がため息を吐き、そして空気を吸い込む。
    頭の上から声が降る。
    「それはできん」
    勢いよく顔を上げて見た円は、薄く微笑んでいた。
    通い詰めた病室で円が謝りながら作っていた表情と、同じだった。
    「……ッなんで!」
    「あいつに言わんかったんはわしのわがままじゃ。それを桃吾のためとか、今更恩着せがましいことは言えん」
    「兄貴そんなん気にしませんわ! ほんまのこと言うてもらいたいと思てるはずです!」
    思わず声が大きくなって、水飲み場の裏にまだいるであろう兄に聞こえていないか振り返って確認した。
    円がゆっくり、穏やかに話しだす。
    「元気なとこ見したったら、しばらく会わんでも、なんや大したことなかったんやな、てなるかと思とった」
    「……」
    「安心さしたりたかったんや。大丈夫や、また頑張ろなて、言うてやりたかった。せやけど……」
    「円さん……?」
    円の顔から笑みが消え、俯いた額にかかる少し長い前髪で表情が隠れる。
    淳吾は急に不安になった。円に言わせていい話なのか、判断がつかなかった。
    「……わしのぉ、桃吾と約束しとったんじゃ……大事な大事な約束じゃ。それをな、さっき……やめにしてきた」
    「え……」
    「わしが言うたこと……あいつは大事にしてくれとった。わしが……わしの方が、あかんかった……」
    「円さん、あかんやなんてないですよ。すぐ取り戻せます。金煌の一軍もすぐ入れます。兄貴と一緒に」
    心がざわつく。
    精いっぱいの慰めを口にするが、淳吾には結果がわかっているような気がした。
    「これ以上、桃吾におんぶにだっこはできん」
    「……ッ!」
    円が顔を上げ、真剣な顔で淳吾を見つめる。射るような視線は、入院のことを絶対に言うなと釘を刺してきた時の円だ。淳吾はまたしても、兄に一つも、告げることを許されない。
    「でもっ……!」
    「あいつがわしんこと大丈夫かて心配せんように、一人で頑張らなあかん。隠しとった理由言うたところで、余計不安にさすだけや。わしを支えなあかんて、あいつが負担に思うだけじゃ」
    「そんなん負担に思わへん! 俺も兄貴も、円さんを支えたいんや!」
    「桃吾な、野球楽しい思うんは、わしの後ろ守っとる時だけやて言いよんねん。ほたらわしがせなあかんのは言い訳とちゃう。あいつが安心して野球楽しいと思えるために、一日でも早うマウンド戻る。それだけや」
    涙がこみ上げて、もう我慢できなかった。
    「なんでっ……! なん……っ、れ、あ、あにきもっ……円さん、もっ……! そんな……そんなんやねん‼」
    円が驚いて淳吾の肩をさする。
    温かい左手には、やはり二本の指がない。
    「淳吾、お前が泣くことないやろげ」
    気丈で健気なこの人が、どうしてこんなにも奪われなければならないのだろう。
    「うぅああ……っっ‼」
    円が自信を無くして不安がっていること。
    そんな自分が悔しくて、でも何とか一人で立ち上がろうとしていること。
    心配をかけて、傷付けた兄に、これ以上負担をかけたくないと思っていること。
    ずっと兄を安心させてやりたいと、それだけを願っていること。
    全部がここにあるのに。
    その全てが淳吾の中にだけ渦巻いて、外に出すことが叶わない。
    「……れにっ……! ぉれにいうてもっ……!」
    「……せやの、すまん」
    「そうやなくて‼ 俺じゃ……何にも……」
    「淳吾淳吾~、わしを支えてくれるんちゃうんけ」
    軽口を言いながら、右手で背中を撫でてくれる。
    円のタオルを差し出されて、自分のがあると断った。
    これ以上この人からもらってはいけない。
    (支えるて言うた)
    (ありがとうて言うてくれた)
    (せやけどこの人に支えてもらおうていう気がないんやったら、意味あれへん)
    きっと兄も今同じ気持ちなのだろう。そして行き着くところもきっと同じだ。
    (俺が頼りないから……)
    兄の気持ちが、人生の今までのどの瞬間よりも鮮明にわかる。どうしようもないやるせなさに、体が締め付けられた。
    「平気じゃ淳吾。そない心配せんでも、わしらすぐ元に戻るて。おんなし野球部入るねんで? 一緒に甲子園目指すんや」
    円の言葉は、果たして真実なのだろう。
    きっと三年後、兄も円も甲子園の大観衆の中、マウンドとサードでお互いに激を飛ばしあいながら、輝くような笑顔を見せているはずだ。その絵が簡単に思い描けるのに、淳吾のイメージの円には、指が五本ある。
    淳吾は自分を最低だと思った。最低だと思ったが、それ以上どうすることもできなかった。
    「……すみませんでした」
    「泣き止んだか? そろそろ桃吾も戻って来よるやろ。みんな帰ってしもたんちゃうけ」
    「そうみたいです。もう声も聞こえませんし」
    淳吾たちのいる位置から、練習グラウンドの奥の控室へ向かう扉が見える。中に人がいれば話し声がするものだが、今は何の音もしない。そもそも誰かいれば淳吾の泣き声に気付いて出てくるだろう。
    「わし、先に行くで。桃吾迎えに行ったれ」
    「円さん……」
    「ありがとうな、淳吾。お前に話して、気持ち決めれたわ。絶対、金煌の一軍でエースなったる。桃吾にまた楽しい野球さしたんねん」
    「……」
    その決意はとても円らしく朗らかで、気持ちの良い笑顔とともに周囲に光を散らす。
    明るく振る舞う円はみんなを元気にしてくれる。
    以前の淳吾なら、何の疑問も抱かなかっただろう。
    (誰が受け取れるんや)
    (なけなしの明るさ振り絞って、必死で自分を励ましてはるのに)
    (俺に分ける元気あったら自分に使てください)
    そして兄はそんな円を望んでいるだろうか。
    側にいるのに、一人で頑張ると決めてしまう円を、許せるだろうか。
    「じゃあの」
    「はい、また」
    荷物を取りに控室へと消えていく円を見送って、淳吾は兄がまだいるであろう水飲み場へ向かった。


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