松井に軽装がまだ無い頃の花火大会の話 松井がこの本丸にやって来て、初めての夏。松井にとって初めての花火大会当日の話。
桑名は朝早く起きて畑仕事を終わらせ、午前中からビニールシートを持って場所取りに行っていた。軽装を持っている刀は、昼食の後から続々と着替え始めていた。豊前と篭手切も軽装に着替えて、場所取りをしている桑名の援軍に行った。
本丸全体が花火の準備に浮かれている。松井のいる事務部隊は、政府から緊急差戻のあった書類の修正をしていた。
軽装に着替え終えた南泉一文字が、事務部隊長の山姥切長義を呼びに来る。
「なぁ、そろそろ着替えないと間に合わねーぞ」
長義と南泉の軽装は先日手に入ったばかりのもので、そのお披露目は今日の目玉のひとつでもあった。
苦い顔で残りのファイル数を見つめる長義に、松井が声をかける。
「行っておいでよ。皆、君の新しい軽装を楽しみにしているだろう。僕は着替えがないから大丈夫。ギリギリまで何とかするから」
「すまない松井……」
「博多も着替えがいるだろう。行っておいでよ」
「松井しゃん……」
長義と博多を笑顔で見送って、松井は作業を再開した。松井にはまだ軽装がないので、いつも着ているリボンタイのブラウスのままで行くつもりだった。
弁当の用意を終えた歌仙たちが本丸を出発しようとしている声が聞こえる。
陽が傾いてきた。そろそろ電気をつけないといけないかも。でもひとりだからいいや。
松井は暗くなってゆく静かな部屋で、カタカタとパソコンのキーボードを叩いていた。思っていたよりも修正に時間がかかっている。
着替えを終えた山姥切と南泉が事務部屋を覗き込む。
「ごめん、もうちょっとかかるけど大丈夫。あとで追いかけるから先に行ってて」
本丸から花火大会会場まで、歩いていけば三十分ほど。最初少し遅れたところでどうということはない。
修正が必要な書類はあと一つ。十五分もあれば終わるだろう。そう思っていたのだが、最後の一つで厄介な問題があり、一時間を過ぎても終わらなかった。途中で花火の音が遠くに聞こえてくる。
本丸の中に松井以外の気配はなかった。
長義はぎりぎり間に合って、今頃皆に新しい軽装を褒めてもらっているところだろう。さっき一瞬しか見れなかったけど、センスの良い着物だった。新しい軽装をまとって、さぞ楽しい花火大会となっているだろう。その助けができるなら僕は……。
気づけば花火の音が聞こえ始めてから時計の長針が一周していた。
最後のチェックもしたかったが、これ以上時間をかけると花火が全く見れなくなってしまう。今から行っても間に合うかどうか怪しい。
修正した書類のデータを保存し、政府宛てにデータを送信し終わったその時。
廊下の遠くのほうで物音がする。この本丸にはもう松井以外誰もいないはずなのに。
もしかして留守を狙った空き巣か、時間遡行軍か。
松井は脇に置いていた刀を手に取り、いつでも抜けるように構える。
足音はすぐそこまで近づき、事務部屋の障子が勢いよく開け放たれた。同時に松井は刀を鞘から抜き、相手の眼前に突き付けた。
「あっぶねーな」
「…え!?豊前!?」
そこには、肩を上下に揺らし、息を切らせる豊前がいた。軽装がびしょ濡れになりそうなくらいの汗を垂らしている。
少しの走りでは平然としている豊前がこんなふうになってるのは、激しい戦闘のときと、……。
松井は昨晩同衾していた時の豊前の姿を思い出して、追い払うように頭を横に振った。
「仕事は?」
「ちょうど今終わったところだ」
「終わってなくても連れてくけどな。行くぞ!」
豊前は松井の手首をつかんで走り出す。
門ではなく、厩のほうへ向かった。豊前の愛車は馬に並べるようにして置いてある。
豊前は松井を抱き上げバイクに乗せ、自身も軽装の裾をたくし上げて跨った。松井は豊前の腰にぎゅうと抱きついた。
豊前の汗のにおいを吸って、仕事の疲れが一瞬で飛んだ。
わざわざ迎えに来てくれたんだ。履きなれない下駄でこんな汗だくになるまで走って。
道を行く途中で、遠くに花火が上がるのが見える。
近づくにつれて花が大きくなっていく。
河川敷まで、バイクだとあっという間だった。行けるギリギリのところでバイクを留め、 本丸の皆がいるところまで人ごみをかき分けていく。はぐれないように、手をぎゅっと握った。手を繋いでいても、人ごみに揉まれて体が離れていくので、松井は腕にしがみついた。これで誰も豊前と松井の間に割り込むことはできない。
人ごみの道が開けたと思ったら、本丸の皆の姿が見えたので、松井は絡めていた腕を解く。そのままでもよかったのに、と豊前が小さく呟いた。
豊前に案内されて、江のシートにたどり着いた。
「りいだあ!急にいなくなるから心配しました」
「終わる前に間に合ってよかったねぇ」
「松井さんのためにあけていた席です」
豊前の隣に座るよう、篭手切が促す。
松井がブーツを脱いで座ろうとしたとき、ふたつ隣のシートから長義が不安げな視線を寄越しているのに気づく。
「だいじょうぶ!ちゃんと片付けてきたから!」
花火の音に負けないよう、いつもより声を張り上げて告げると、長義は安心したように笑顔で頷いた。
花火が上がる。
バイクでみた遠くの花火も綺麗だったけど、近くで見るともっと綺麗だ。
特に赤い色のがいい。
隣から視線を感じてそちらを見ると、赤い光に照らされた豊前の綺麗な顔。赤い瞳が松井を見ていた。
「豊前が迎えに来てくれなかったら、たぶん間に合わなかった」
松井を迎えに行くために本丸へ走っている間、豊前は花火を見られなかっただろう。申し訳ない気持ちでいっぱいで、それでも松井を迎えに行く選択をした豊前の気持ちをないがしろにはできず、謝罪の言葉は飲み込んだ。
「俺が松井と一緒に見たかっただけだから。気にすんな」
「ありがとう」
謝罪ではなく、感謝とともに。松井は豊前の手の甲にそっと手のひらを重ねた。