ピアスの話 イヴァンがトイレの出入口を潜るのと、ティルの耳に穴が開いたのはほぼ同時だった。
「なっ…にしてるの!?」
学校のトイレの鏡の前で顔を傾けているティルの横へ早足で近寄り、その顔を見ると耳たぶに小さな青い石がきらりと光っている。ティルはイヴァンをちらりと見ただけで、また鏡に向かって顔をあちこちに傾けていた。
「ピアス開けてんの。見ればわかるじゃん」
彼の手元には手のひらに充分おさまる白いプラスチックが握られていて、手洗い場のウォッシュボウルには小さなパーツも落ちている。単回使用のそれにもう用は無いと、ティルは足元に備え付けられたゴミ箱に投げ捨てる。それから、制服のポケットからまたトランプくらいの箱を取り出してビリビリとパッケージを開けた。その様子を隣であんぐりと見つめたまま動かないイヴァンには全く構わずに、今度は逆側の耳たぶへとピアッサーをあてがった。また上下左右斜めと顔をあちこち向けてはピアッサーを持った手を上げたり下げたりと忙しい。
「痛くないの」
「一瞬だけな」
羨ましい、とイヴァンは思う。ティルの白くて薄く、ふにふにとしたその耳たぶに、我が物顔で突き刺さった小さな針に嫉妬する。不躾にティルの身体を穿いて、誰よりも近くに在るその存在に。一瞬の痛みと僅かな違和感を彼に与えると共に、やがてそれが当たり前になるくらいの時間を体温を感じる距離で過ごしたい。そして時折、無意識にその指先で優しく触れられるのだ。なんて妬ましい。まるで大事に護っていた純潔を突然散らされたみたいで、ズブズブと気持ちが昏い深海へ落ちていく。足元が急に奈落になって、今どうやって自分が立っているのかわからない。気道がきゅうと狭くなって息が苦しくなる。
ふいにイヴァンを見上げたエメラルドグリーンと目が合って、思考を現実に引き戻される。
「見てんならコッチ、空けてくんない?」
「エッ…!?」
「うまく鏡じゃ見えないし、利き手側じゃないからブレそうでさ。やってよ」
「……い、いいけど」
するりとイヴァンの手を取ってその手のひらにピアッサーを握らされた。声が裏返ってしまったけれどティルはそんな事露ほども気にしていないようで恥ずかしくて、じわっと汗が滲み出る。イヴァンの手のひらに乗った白いプラスチックは世界中の何よりも憎くて何よりも憧れだったさっきまでとは違って、ちゃちくて簡単に壊れてしまいそうなほど頼りなく思えた。四角く凹んだ部分から飛び出た針先もよく見れば丸くて、こんなもので本当に人に穴が空くのか疑問に思えるほどだ。ドッドッドッと駆け足でその存在を主張し始めた心臓を覚られないように、指先だけを軽くティルの耳たぶに添える。さらりとした肌の感触と皮膚の下の薄い肉の存在を感じてごくりと喉が鳴ってしまう。
「どの辺がいいとか、よくんかんないんだけど」
「あ〜、あんまり上過ぎないくらい、針がまっすぐ入る角度」
見やすいようにと僅かに傾けられてあられもなく晒された首筋がどんな美女のものよりも美しくて艶めかしい。トイレの曇加工されたガラス窓に撹拌された光が淡く照らして白い肌がいっそう透き通って見える。長い銀糸の襟足が首筋を彩ってこと更に輝きを助長する。その上でまだ未開拓の慎ましやかな耳たぶが、食い荒らされるのを待っている。
イヴァンはティルの小さな頭に手を回し、片方だけ発達した自身の犬歯を耳たぶに突き立てた。
「いっ!??」
柔らかい皮膚と微かな弾力を持つ肉に先端が埋まっていく一瞬を、イヴァンは永遠にも感じられた。反射的に逃げようと仰け反る頭をググッと押さえつけて、歯は優しくその厚みを確かめるように甘く噛む。僅かな弾力を確かめてから、今度は上下の唇で歯列を包むようにして、舌先で耳たぶを弾くように何度も擦りあげる。
「やめ、ぅわ、…イヴァ、あ!」
体を拗らせて抵抗するから、抱え込むように腕を回し、上から腰を押し付けるようにして体重を乗せ、無理やり足を開かせる。ティルの体を腰高の手洗い場と挟み込むようにすると、さっきまでぐいぐいと肘鉄をしていたかわいらしい抵抗もただぶるぶると震えるものに変わった。ぢゅっと吸い付くようにして耳たぶを離して、耳介をなぞるようにねっとりと舐め回す。ティルの整髪剤の香料に混じって微かにティルの匂いがする。静謐で真っ直ぐなのに激情家で粗野、冷たく無反応なくせに何も言わずに傍にいることを許してくれる、どこか懐かしいのに新鮮で、良薬のように体を蝕んでいく匂い。その匂いが感覚器を通ってイヴァンを酩酊させた。くらくらして下腹部がじんわりと重くなる。おかしくなるのはティルのせいだ。
軟骨の溝を辿るようにゆっくりと舐ってから舌先を穴に捩じ込む。頭を押さえた手をそのままスライドさせて耳を塞いだ。指先にツンと当たるピアスの硬さに、一層焦がされる。口内にジュワッと湧き出た唾液をわざとぴちゃぴちゃと音を立てるようにして注いで、穴を隈なく舌先でなぞっていく。腕の中でティルが小さく震えて、か細い声でヒンと鳴くのが堪らなかった。犬歯を軟骨に引っ掛けながら耳を丸ごと甘噛みを繰り返す。手負いの獣みたいにふぅふぅと上がった自分の息がティルの耳にダイレクトに吹きかかって、この興奮を知られてしまっていると思うと恥ずかしくって益々息が上がった。このまま皮膚を突き破って、傷口から彼の体内に潜り込んで、内側からゆっくりとひとつになりたい。自分の形がだんだんと溶けてなくなって、ティルの一部になれたなら。出来ることなら、それを彼に望まれてほしい。ティルが、ティルの声と言葉で自分を求めてほしいと、そんな有り得ないことばかりを希っている。
じゅぱっと下品な音をたてて唇を離す、と同時に一瞬緩んだ拘束から逃れたティルが右腕を振り上げた。
「…っ受け止めてんじゃねー!クソ死ね!」
繰り出された乱雑なパンチをバチンと手のひらで悠々と受け止めると、ティルは真っ赤な顔で泣いていた、と言うとティルは泣いてねぇ!と怒るだろう。つり目をさらに釣り上げて睨み上げてくるけれど、きらきら潤んだ瞳では逆効果もいいとこだ。イヴァンの唾液でびちょびちょに濡れた耳を肩でゴシゴシと拭いている姿も、ハムスターが顔を洗っているみたいだった。
「あはは!びっくりした?」
「気持ちわりぃことしやがって…もういい!」
イヴァンが口先だけで笑うと勝手に口角が上がって、ティルが嫌いな貼り付けた笑顔が自然と作られる。それを見てティルの眉毛は上がったり下がったり忙しなく、コマフィルムみたいにひとつひとつを切り取りたかった。未だにイヴァンに握られたピアッサーを掴もうと手を伸ばしたが、虚しく空を切る。イヴァンがピアッサーを高々と頭上に掲げ、いつの間にか開いた身長差は背伸びした所で縮まる訳もなく、ティルは怒りに任せてイヴァンの胸板を叩いた。それもなんの効果もなかったようだが。
「返せよ」
「悪かったよ、次はちゃんとやるからさ」
「信じられるか」
「信じてよ」
信じられる要素なんてこれっぽっちもあると思えないのに、ティルは怪訝そうにイヴァンの顔とピアッサーを交互に見た。信じて、ともう一度だけティルの潤んだエメラルドを真っ直ぐに見つめる。まだ下まつげに残った涙の露をそっと親指の腹で拭うのを、ティルは黙って視線で追っていた。再び目が合うと、諦めたように片方の眉だけを器用に上げて息を吐きだした。
「今度は、ふざけないでちゃんと開けろよ」
言って鏡に向き直ったティルの耳たぶに、再びピアッサーを当てがう。ティルの言うように位置を微調整して、いち、に、さん、でピアッサーを親指で押し込んだ。カシャンとホチキスを押したような音がして、ティルの耳たぶにピアスが開いていた。小さな黒い石がトイレの蛍光灯の下できらりと光っていて、何も開いてないはずのイヴァンの胸がつきりと傷んだ。
信じてほしいけど疑ってほしかった。突き放してもらっても構わないはずなのに、許されてしまってどうしていいかわからない自分だけがここにいる。
「ありがとな、イヴァン」
ティルはもう、さっきまでのことを忘れたみたいに上機嫌で左右の耳を比べて鏡に夢中になっている。何もかも忘れて。なかったことにして。