Raining(雨が降ってる。)
眠りの浅瀬へ浮上して、まずはじめに一成が気がついたのはそれだった。
まだ目もきちんと開かぬまま、しばらく雨の音を聴いていた。しとしと、といった擬音がしっくりくる降り方だ。
夢を見ていた気がするが、忘れてしまった。ようやく上下のまぶたが離れ、一成の黒い瞳は視界をとらえ始める。枕元の時計は午前6時を少し過ぎていた。
(お腹すいた。)
布団を出ると、10月の早朝は肌寒い。椅子にかけてあったパーカーを羽織り、台所へ向かう。
一成はひとり暮らしだ。横浜にある大学へ通っている。今日は授業は休み。所属しているバスケットボール部の練習も休みだ。ゆっくり寝ていてもよかったが、願望とは裏腹に、しみついた習慣は崩せないものだった。
食パンをトースターにかけている間に、トイレを済ませ、コーヒーを淹れる。
朝食のあとはいつもランニングに出かけるが、今朝はあいにくの天気だ。本でも読もうか、二度寝してしまおうか、それとも課題を終わらせようか。
不意に電話が鳴る。思考を中断され、コーヒーのマグを持ったまま、受話器を取った。
「はい、もしもし」
『あ、深津?俺、かわた。おはよ。』
一瞬、まだ夢の中にいるのではないかと思うほど、予想外で、恋しい男の声だった。
「河田。おはよう、ピョン。」
『まだ寝てたか?起こしちまったかな?』
「いや、大丈夫。朝ごはん作ってたピョン」
『そか、よかった。』
河田。河田雅史。彼はいまプロバスケットボール選手で、アメリカにいる。
河田のふわっと軽い笑い声は昔と少しも変わらない。離れている距離も時間も、いつもその声が埋めてくれる。
「元気ピョン?」
『おう、元気元気。これからシーズン入るからハードだけどな。深津は?』
元気だ、と言おうとするが、一成の口からは震える息しか出てこなかった。受話器を握る手が熱くなり、もう片方の手の中で、コーヒーが冷めてゆく。
一成は河田が好きだった。高校の時からずっと。気持ちを告げたことはない。彼との親友関係を壊すのがこわかった。そばにいて、一緒にバスケができればそれでよかった。
河田がアメリカに渡ったのちも、寂しさに何度も枕を静かに濡らしながら、時折こうしてかかってくる電話や、手紙の返事を待っていた。
たったの3年。しかし、ひとりの相手をずっとずっと想い続けている男には、長い年月だった。
会いたい。今すぐ会いたいと、言ってしまえたらどんなに楽だろう。
うつむいた一成の目からこぼれた滴が、コーヒーの中へ消えていった。泣いていることを河田に悟られまいと、あわてて涙入りのコーヒーをひとくち飲む。冷めかけのそれは、なんだかひどく苦いような気がした。
『なした?なんか飲んでんのか?』
「ん。コーヒー、飲んでたピョン。」
『モーニングコーヒーか、いいな。』
「うん、おいしい、ピョン。」
まだ声が少し震えている。もうひとくち。
『なあ、深津。』
「ん?」
電話の向こうで、河田は大きく呼吸をした。緊張しているときの河田の顔を、一成は知っている。
『情けねえんだけど…俺さ…お前に会いたくなって、電話したんだ。』
嬉しさで、どうにかなりそうだった。
愛しい男が自分に会いたいと言う。何を差し置いても会いたいと思っている男が、自分と同じ気持ちでいる。
なんと返せばよいかわからない。一成はうまく声が出ず、「うん」のような「ふぅん」のような、おかしな返事をしてしまった。
『来年、シーズン終わったら…会いに行くから。また、電話するし。あと…試合、見れたら見て欲しい。』
「ん…絶対、見る。」
『深津。…泣いてる?』
もう隠せない。ぜんぶ言ってしまいたい。6年もひたすらに河田を想った一成の心は、河田が好きだと叫んでいた。
「河田、会いたい。」
『うん…俺も。』
「かわた…」
『泣くなよ。』
やさしい声。一成が大好きな声だ。河田の大きな手で、背中をさすられているような気分になった。
その声を、その手を、温度、笑顔、彼の全てを、誰かにとられるなんて耐えられない。一成は子供のように泣きじゃくった。情けなくて、恋しくて、止めようがない。
「お前とバスケしたいよ、深津。」
雅史は今すぐに深津を抱きしめたかった。でも、できないから、そう言った。
深津のことを愛おしいと思っている自分に気がついたのはいつだったろう。高校を卒業して、たまにしか会えなくなってからかもしれない。
会うたびに深津は嬉しそうな顔をする。他人にはわからないかもしれない。ほんのわずかな違いしか、深津の顔には出ないからだ。
そして、その表情の中にあるまっすぐな気持ちに、いつも胸を貫かれるような、不思議な感じがしていた。それが何か本当は分かっていたが、答えを出さないまま、雅史はアメリカへ旅立った。
言葉も人種も文化も違う国。そこに深津はいない。張り合う相手はいくらでもいた。勝たなければならなかった。厳しい世界だ。でも、心の中にはいつも深津がいた。
初めて「絶対に勝てない」と思った相手は深津だった。同じポジションではこいつと戦えもしない。悔しい気持ちよりも、彼と同じコートに立って、彼のパスで自分がシュートをきめたいと純粋に思った。その願いはすぐに叶い、雅史は誰よりも確実に深津のパスを点数につなげた。優勝トロフィーを掲げる深津が誇らしかった。
深津は雅史にとって唯一無二だった。あの気持ち、あの感覚は、ほかの誰にも味わわせてもらえない。独占欲が芽生えなかったと言えば、それは完全な嘘だ。
深津のことを一番理解してるのは俺だ。
深津のパスを一番生かせるのは俺だ。
深津の隣に立てるのは俺しかいないんだ。
お前に深津の何がわかるんだ?
醜い感情が心を喰い荒らそうとするたび、雅史は必死で首を横に振り、両頬を痛いほど叩いた。
深津とふたりきりになれたときは、そんな感情が嘘のように穏やかだった。
いつの間にか自分より背の低くなった坊主頭を、少し上から眺めては、この中に詰まっているであろう複雑なことのすべてを取り去って、楽にしてやりたいと思った。
眉尻の下がった、ぱちりとした目に見つめられるたびに、どこかへさらってしまいたいような気分になった。
長くはないがくっきりと密度のあるまつ毛、厚い唇、きれいなかたちの耳、うなじにあるほくろ、特徴のあるかすれ声、意外にも細めの手首、めずらしく笑った時にできる顔のしわ…
遠く離れて、初めて気がついた。深津のことなら何でもはっきり思い出せるほど、彼を見ていたと。
後回しにしていた答えが出た。深津が好きだ。そして深津も…。
直接会って言いたかった。だからいま、この電話口で伝えるのは、会いたい気持ちと、深津とバスケがしたい、それだけだ。
『おれも…かわたと、バスケしたい。』
「うん。そっち帰ったら、絶対しような。」
伝わっているだろうか。この愛おしい気持ちが。
受け入れようと決めた深津の想いは、嗚咽とともに痛いほど届いていた。
「深津。」
好きだ。会いたい。同じ気持ちだと思えば、なにもかも越えられる。
「元気でいろよ。」
あの日と同じ言葉で、今日の別れを告げる。
『うん…河田も。』
「ん。じゃあ、また電話する。手紙も書くから。」
『うん。』
「…切るぞ。」
『…うん。』
電話を切るまで、ずいぶん長くかかったように思えた。
さっきまですぐ近くで話していた気がするのに、終わってしまえば、部屋には誰もいない。
しつこくあふれてくる涙を乱暴にぬぐって、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す。
河田に会えるまで、ほんの半年。今までのことを考えれば、あっという間だ。
雨はいつの間にか止んでいた。時計は7時前。朝食を平らげ、ランニングシューズのひもを引きしめて、一成は濡れたアスファルトに足を踏み出した。