骨を抱く(1)三門市 歌声が聞こえる。やわらかな響きは高く低く、風に乗って耳に届く。匡貴は縁側の掃き出し窓の縁に立ち、しゃがみ込んで草を抜く歌声の主の背中を眺めた。
築浅の中古物件を購入して二年になる。住宅街の端はすぐ裏手が山に続き、どこまでが庭だか分からない。歌声の主──妻はそれをいいことに我が家の勢力を広げ、気づけば畑が整備されている。花屋に勤めているせいか、自分でも育てたくなったのだという。この後にはホームセンターに苗やらを買いに行く予定だった。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「機密ですか」
「そんなところだ」
夫の視線が痛かったのか、振り向いた妻が笑う。彼女を目で追ってしまうのはいつものことだが、何度指摘されても気恥ずかしい。その心情を妻は分かっているのだか、彼女は深入りをやめて追及の手を止めた。
「さて、そろそろ戻りましょうかね」
それから立ち上がり、軍手を脱いだところで居間の掛け時計が鳴る。十時だ。匡貴はリビングを出て玄関を開けると、妻を迎え入れて再び閉める。妻は「ありがとう」と囁くと台所に向かい、軍手の隙間から入り込んだ土埃を丁寧に洗い流した。
ふたり連れ立って玄関横の和室に入り、仏壇の前に座る。開け放した扉は廊下を挟んで居間とつながり、ケーブルテレビの音声がわずかに届くが、アナウンサーの言葉は内容までは聞き取れない。妻は構わず線香を立てるとお鈴を鳴らし、そうして、テレビと防災無線から時間を告げるサイレンが流れる。妻は両手を合わせて目を閉じ、匡貴もそれに倣った。
この街の夏は祈りから始まる。これは十五年前の、第一次侵攻と呼ばれる戦争への追悼だった。
それから数年後、「大遠征」と呼ばれるアフトクラトルへの出征と交渉に成功したことにより、近界との関係は争いから協力へと変わりつつある。だからといって遺された者の悲しみは変わらない。アフトクラトルを含む近界の国々の大使も、いまごろは神妙に式に参列していることだろう。匡貴は未だにボーダーの職員を続けているが、妻と結婚して以来、この日だけは休みを取れるように職場が計らってくれる。
サイレンの余韻が消える頃に匡貴は目を開けたが、隣の妻をうかがうと、彼女はまだ冥福を祈っていた。この仏壇に置かれたただひとつの位牌は彼女の弟のものだ。妻は朝起きると決まって仏壇の扉を開け、香を焚いて少年の冥福を祈る。 今様の細身で垢抜けた仏壇は彼女の祈りをけして邪魔しない。匡貴は凛としたその横顔を尊敬し、少し、悲しくも感じている。
ふたりが黙祷する間、世界は静かだった。隣が空き地ということもあるが、界隈の全員が同じように祈っていたのかもしれない。十五年という時間は赤子がひとかどの青年に育つほど長いが、年若い子供たちさえこの日の、この瞬間だけは神妙に口をつぐんでいる。
少しして妻が目を開けた。いつもよりずいぶん長い祈りだった。うつむいた顔を上に向けると、これも毎朝身に着けるペンダントの先の宝石が光る。ネオンブルーにきらめくこの石が弟の亡骸であることを彼女は知らない。匡貴はひとつ頬を掻くと、ほどよく日を浴びて色の抜けた畳から立ち上がった。
「そろそろ出るか」
「そうだね、時間もいいし」
うながすと妻はうなずき、すんなりと座布団を離れた。毎朝アイロンを当ててまっすぐに伸ばし、クリップでまとめた黒髪の遅れ毛が揺れる。どういう魔法を使うのだか、放っておくと外向きに跳ね回る寝癖は影もなく、白粉の上に刷いた頬紅も橙がかった口紅も彼女によく似合っている。出会って六年、結婚して三年になるが、商材に負けないように彼女も日々研鑽している。
出会いは彼女の勤める花屋だった。ひとつ隣の街は三門よりずっと栄えていて、仕事で訪れた匡貴が通りがかりに彼女を見初めた。結婚や栄転を祝うための花は三門にはないあでやかさで、その色彩に囲まれる彼女も負けずに輝いて見えた。匡貴は名刺の裏にプライベートの電話番号を書き足し、極力なんでもないように装って店に入ると、彼女にバラといくらかの花のアレンジを作らせ、
──これは、あなたに。
と、そのまま手渡して店を後にした。当時はこれがせいいっぱいだった。「あんまり怪しいから通報しようかと思ったわよ」と、この件については未だにからかわれる。こうして交際が始まり、紆余曲折を経て現在に至っている。
もちろん、これは正確な記述ではない。これ以前のできごとを妻は知らない。
妻の名は未来。旧姓を鳩原という。
○
二宮家の自家用車はよくある五人乗りのセダンだが、後部座席の足元は緑に埋もれてしまった。新緑の季節にホームセンターに行くものではない。匡貴が止めるのも構わず妻はあらゆる種苗を物色し、園芸コーナーを三周してしまった。今年の庭は極彩色になりそうだ。
匡貴は見知った我が家を少し通り過ぎると、車をバックさせて駐車場の定位置に収める。未来が独身時代から使っている軽自動車の隣で、玄関から遠い方が匡貴の取り分だ。話し合ったわけでもないがだいたいそのように決まっている。
運転席を降りると隣家の空き地が目に留まる。匡貴は春に息を吹き返した雑草たちがのびのびと腕を差し上げる光景が嫌いではなかったが、見納めかもしれない、と直感したのは、道路に車を止めて空き地を熱心に眺める客人を認めたからだ。そして、背の高いその男には見覚えがあった。彼もこちらの視線に気づいたのか、見比べていた手元の紙を閉じた。
「神田」
「二宮さん。お久しぶりです」
彼は脇に挟んだバインダーを取り、紙をしまってこちらに歩み寄る。穏やかで人好きのする顔立ちはよく覚えている。神田忠臣は匡貴が界境防衛機関ボーダーで防衛隊員をしていた頃、同時期に所属していた弓場隊の隊員で、ランク戦ではその視野の広さと取り回しのうまさに苦しめられたものだった。
「表札を見た時から、ひょっとしたら、とは思ってたんですけど。本当に二宮さんだったんですね」
「ああ、二年前に越してきたんだ。神田は、確か九州で就職したんじゃなかったか」
指摘すると、神田は「ええ」とうなずいた。彼は高校三年生の十二月という時期にボーダーを辞し、父の遺志を継いで県外に進学した。その後見事に建築家となり活躍していると、元部下の犬飼からは聞いていた。彼は神田と同期の同僚で、同じ高校に通う同級生でもあった。神田は続ける。
「ありがたいことに仕事もうまく回るようになってきまして、このたび、独立して事務所を立ち上げたんですよ。三門はいま復興ラッシュですからね。で、こちらのお宅が最初のお客さま、というわけです」
「なるほど」
だから気合を入れて単身下見にまで来てしまったのかと、匡貴は納得してうなずいた。かつての先輩に転身を見咎められて恥ずかしかったのか、神田は後ろ頭を掻く。
「匡貴さん」
そこに妻が来る。二宮が誰かと話し始めたのを見て、買った苗を先に片づけていたのだ。
「お友達? よかったら中でお茶でも」
「あれ、鳩原さん? どうして二宮さんと」
「神田」
鋭い声は警告で、とっさに出たものだった。常には見せない表情に妻は目をしばたかせ、神田は口をつぐんだ。この場で話し込んだのは失敗だった。
十年前の五月、匡貴の部下であった鳩原未来が近界へ密航した。当時、それはけして許されない罪であり、後追いが出ないよう緘口令が敷かれた結果、未来の出奔は「隊務規定違反による懲戒解雇」として処理された。同じ年の年末に神田はボーダーを辞したから、彼はこの件の真相を知らない。事情を伝えてから対話を始めるべきだった。
しかし、やはり神田は見通しの広い男だった。彼は柔和な目をいっそう細めると、「ああ、急にごめんなさい」と苦笑を浮かべてみせる。だいたいの事情は察してくれたようだった。
「王子一彰って覚えてます? 俺、昔、ボーダーであいつと同じチームに所属してて、一高の写真とか見せてもらったんですよ。それで、あなたもそこに写ってて」
「そうなんですか、王子くんとね」
ボーダーに所属する人間は関係が密であると、未来は夫を通して知っている。そういうこともあるだろうと納得したようだった。
「じゃあ、俺もそろそろ戻らないといけないので。お茶は今度呼ばれます」
「ああ、また下見に来る時にでも知らせてくれ」
挨拶を装い、さりげなく距離を取る。神田は「そうだ」と呟くと、ふと思い出したとばかりに作業服の内ポケットを探った。
「これ、うちのショップカードです。リフォームもやってるのでぜひ」
「覚えておく」
差し出されたカードにはメールアドレスが書いてあった。つくづく目端の利く男だ。匡貴は興味があるように紙面を一瞥し、上着の内ポケットにしまった。
「じゃ、ご用命は神田設計事務所まで」
そうして神田は最後に冗談めかし、車に乗り込むと、ためらいなく去っていった。
「面白い人だったね。ずいぶんもの覚えもいいし」
排気ガスがまぎれて消えても、妻はまだ記憶にない知り合いを引きずっていたらしい。なにせ職場で男に捕まった経験があるからこの手のやり取りを警戒しているのかもしれない。
「十二月から受験勉強を始めて、現役で合格する男だからな。昔から頭がよかった」
怪しい状況をフォローすると、妻は納得したのだか「へえ」とうなずいて、それきりだった。
「さて、あたしは苗の植えつけをやっちゃうね。今日はカフェラテが飲みたいな。お砂糖のいっぱい入った、甘いやつ」
「分かった、用意しておく」
ごまかすというわけでもないが、匡貴はあからさまな甘えを受け入れた。休日くらいはこんなことをしてもいい。なにせ普段仕事が忙しく、家庭をないがしろにしている自覚はあるので。
なにより、匡貴には妻の目を逃れる必要があった。匡貴は彼女を残して自宅に戻るとまず仕事部屋に向かい、パソコンのスリープを──いつ連絡が入ってもいいように、休日も電源を入れるようにしている──解き、メーラーを立ち上げる。そうして手早く入力したのは、神田に渡されたカードのアドレスだった。
アフトクラトルへの大遠征以降、近界への渡航は機密ではなくなった。今日では旅客船の運航も試験的に始まっており、あれは密航であった、と伝えても構わない状況になった。現に未来の同窓であった職員はもう知っていることであり、今後の整合性のためにも、ある程度真実を伝えた方がよい。匡貴はそう腹を決め、開示してよい箇所と伏せるべき情報を頭の中で整理しながらぱちぱちとキーボードを叩いた。
アフトクラトルとの激戦を終えたボーダー遠征部隊は、その帰り際立ち寄った国で鳩原ら密航者たちを捕縛した。密航後の近界で未来は弟と再会できたが、それは悲しい形のものだった。その国の名は「永遠」といい、近しい人の遺骸を宝石に変えて身に着ける習慣があった。
──全部、終わっちゃいました。
せめてもの情けで(地元の人)がくれた布袋を、その中の弟であったものを握りしめ、彼女はそう呟いた。すべてをなげうってしまいそうな、儚い声だった。そうして鳩原未来は、第一次侵攻のあの日に弟をさらわれ、彼を求めてボーダーに入隊し、しかし叶わず罪を犯したという記憶を封印された。これはボーダーのルールと機密のための措置であったが、彼女の心を守るために必要なことであったと匡貴は考えている。そうして未来の記憶からボーダー隊員であった事実は消えた。
神田に伝えたいのはこの先からだ。三年という長期に渡る記憶を封印した結果、未来の認識はいくらか現実との齟齬を起こしている。彼女の中では、弟は第一侵攻の際に(亡くなり・傍点)、以前からの志望校であった三門第一高校に進学したはよいが、警戒区域そばという立地や級友に防衛隊員がいるという特殊な環境がストレスとなり、健忘が起きた。卒業後、治癒を兼ねて(家族ごと・傍点)隣町に疎開した彼女は花屋で働き始め、匡貴と出会った。これらは事実とは異なるし、年代も少しずれる。なにより未来の自意識の中では、彼女はなんの取り得もない、ごく平凡な女であった。
匡貴は、いわば幻想ですらある妻の認識を守りたいと考えている。人を殺したくないと強く願い、誤射すれば吐いて寝込むほど自分を責めて追い込んだあの頃には戻らせたくない。なんでもないこの日々は彼女がやっと手に入れた平穏なのだ。それを壊す真似は、誰にでもしてほしくなかった。
このような経緯を神田に送信し、匡貴はひとつ息をついた。匡貴自身は神田と親しいわけでもないが、彼の誠実さはこれまでの言動で分かる。実際、神田は除隊の時も記憶を封印されなかった。
匡貴は返信を待たず、たったいま送りつけたメールを破棄する。万が一、この文面を妻に見られるとすべてが破綻するからだ。
「……さて」
そうして誰にともなく呟き、書斎を後にする。次は妻のわがままを叶えてやる番だ。深煎りの豆はどのキャニスターだったかと、遠い台所に思いを馳せる。通りすがったリビングの掃き出し窓から庭仕事にいそしむ妻の背中が見える。その姿をとてもいとおしく思う。
今日はせっかくの休みだから、あの体を抱くのもよいと、そんな下心もよぎった。
***このあとえっちなシーンになります(`・ω・´) おたのしみに***