「なあ、俺らやっぱ別れね?」
恋人からそんなことを言われたのは、想いが通じ合った翌日の朝のことだった。二人分の熱を蓄える皺のよったシーツの上、多幸感とカーテンの隙間から溢れる日の光で目覚めると、先に目が覚めていたらしい乙夜が腕組みをしていた。眉間には皺を寄せている。
俺のこと考えてたらいいのに、なんて柄にも無いことを思っていると乙夜と目が合った。彼の尖っていた唇がパッとひらく。すると俺の顔を見るなり奴は言い放った。やはり別れないか、と。もっと恋人らしいことが言えんのか、この口は。
そもそも、俺達は恋人になりたてホヤホヤ。昨晩心が通じ合ってそのまま身体まで繋げたが…まあそこは良しとしよう。120%合意セックスと断言しておく。
「かーらーす、聞いてんの」
聞き間違いの類いだと信じたい。一応もう一度聞いてみるか。
「……なんて?」
「寝ぼけてんの? ちゃんと聞けし。別れよって言ってんの」
寝言を言っているのはお前や、と言えなかった。乙夜はあくまで真剣に問うてくる。くそッ、昨晩はからす、からすとヨさそうに鳴いていたくせ…! どういう思考回路をしていたらそんな結論に至るんだコイツ。一度アタマを割って中身を確認したくなる。一応、一応な。もう一度聞いとくか…。
「——なんて?」
「ウケんだけど。そんな耳遠いことある? わ、か、れ、ば、な、し。…あんだーすたん?」
そんな恋バナでもするみたいな声音で言われてもまるで現実味がない。内心で頭を抱える。なんとか、聞かなかったことには出来ないだろうか。
「……おはようさん」
「はよ」
朝の挨拶もそこそこに顔を寄せると、手のひらで静止された。チッ、誤魔化されるつもりはないらしい。
「話の途中でちゅーしようとすんな」
「話が終わったらええんか」
「んー…話が終わったら、恋人じゃなくなるからダメじゃね?」
はい目覚めた。肝も冷えてきた。恋人じゃなくなるだ? 冗談じゃない。
「からす、なに。…なんか付いてる?」
キスの代わりに、顔のパーツをいじくり回す。くすぐったそうに身を捩るだけで、乙夜の表情から嫌悪は感じられない。むしろ、瞳はふわふわと溶け出していて目に毒なくらいだ。そんな顔で俺を見るのに、なんで、どうして。
「俺は、別れたないで」
「……まじか。想定外」
「心外なんやけど。……はいそうですか、と返ってくるとでも思っとったん」
「うん」
淀みのない肯定に目眩がする。———正直なところ。危惧していなかったと言えば嘘になる。俺が好きになったのはこういう男だ。衝動的で好奇心が強くて、目を離したら指の間からすり抜けて、違う誰かに刹那的な恋をする。
いつかの遠い未来、そういう日がきてもいいように。俺なしで息が出来ないくらい隙間なく、俺に寄り掛からせる予定だったというのに。昨日の今日でコロコロ変わるとは思わんやろ。
「理由は」
「え」
「別れたい理由や。ないとは言わせんで」
「……言わなきゃダメ?」
「ダメっちゅーか、諦めきれへんで、そんな筋の通ってない別れ話なら」
振り回されるのは承知の上で腕の中に納めたのだ。ここからは自身の腕の見せ所。今後の仲の為にもどう言い包…言い負か…説得するかが重要になってくる。
「好きやったのは俺だけか? 乙夜」
「んーん」
「好き同士が別れ話すんのは変な話やと思わんか」
「ん〜…?」
「好きなやつにそんなん言われたら凹むんやけど」
「ちょ、たんま」
「なんや」
「な……っんでそんなストレートに好き好き言うわけ。昨日は言葉攻めしかしなかったくせに」
「昨日のは…テンション上がってもうただけやん」
「てか、マジで俺のこと好きなわけ?」
「当たり前やろ。ノリで付き合うとか、そんな酔狂なことせんで俺は」
「……昨日全然好きって言わなかった」
「それがイヤやったん? だから別れる?」
首を横に振ると、乙夜の髪がパサパサと同じ方向に揺れる。
「反応良かったんは演技やった?」
「………………違う、」
「ヨかったか?」
「おう…って、何言わせようとしてんだよ」
どうやら俺との行為はお気に召してくれていたらしい。心の底から胸を撫で下ろした瞬間である。良かった、床の上限定のリップサービスじゃなくて。同世代の中でもかなり経験豊富な恋人相手に、ド緊張かましていたのも今ではいい思い出だ。
「そんなら良かった。……な、別れないとは言ってへんで。納得できたら別れたる」
「……。」
「黙ってるだけの口ならちゅーしてまうぞ」
あ、口押さえた。そんなにされたくないか、そうかそうか。この話が終わったらしこたまキスを見舞ってやろう。そう心に誓った。
「俺、あんま自分から別れ話とかしたことねーから」
「おう」
「言葉がうまくでねー…、かも」
「変にまとめんでいい。全部吐いてまえ」
浮気が原因で振られたり、他の女に現を抜かして別れたり。告白も相手からだけれど、振るのも相手から。そんな話を以前聞いたことがある。自身がフラフラしてることを悪びれもせず、仕方のないことみたいに言っていたっけ。
「……さっき。夢の中で、浮気する夢みた」
「ほ〜…? 彼氏の隣で寝とるのにいい度胸やな」
「別に見たくて見たわけじゃねーもん。…でさ、ソッコー浮気が烏にバレたわけ。夢の中って展開が急で焦るよな」
「……そんで? 夢の中の烏クンはどうしたん」
「………………めっっっちゃキレてた」
「ふ、」
「ブチギレもブチギレ、大ブチギレで。収拾つかないところで…目が覚めた」
「くく…っ、なんや、っそれ」
「あ、笑うなよ。俺、真剣な話してんだからな」
「はいはい、真剣やもんな」
笑うなとはこれまた酷なことを言う。ギャグだろ、そんなの。どうしてそこから別れる、なんて反応になるのだろうか。やはり一度アタマを掻っ捌いて中身を——、
「あれは夢だったけどさ。いざ現実で浮気したら、烏可哀想かなって」
シンと静まり返るベッドルーム。大きく深呼吸をして100個程度のぶつけたい言葉を逃す。
「…………その、浮気せんように下半身の紐を締めるつもりは?」
「烏、あんね」
「おう」
「浮気って衝動なんだぜ」
頭であれこれ考えず、身体の感じたまま、手足の動くままに。その場のボルテージに身を任せて、俺の恋人は見知らぬ誰かに衝動で恋をして、身体を預けてしまうと言う。
「ちゅーことは、」
「保証できない、浮気しないって」
「……そこは口だけでもいいからしろ」
「出来ない約束はしない主義。本当は烏だけ〜…って言ってあげたいんだけどね。俺のやるなすことが信用ならないって…俺が一番分かってるから」
「やから、別れたい?」
「そ。烏にメーワクかけたり心労強いるのは…なんかイヤだなって」
「……。」
「それにさ、恋人は別れたらお終いだけど、元の関係に戻ったらずっと一緒にいられると思わねー?」
昨日は勢いで告っちゃったけど、と聞こえてきていよいよ腹の虫が限界を迎えた。戻れる? 以前の関係に? 無理だろ。
「軽い頭でよぉ考えてくれたみたいやけど、残念ながら全部却下や」
もう知ってしまった。触れた時の感触や熱、どういう声で恋人を呼ぶのか。味だってこの舌が覚えている。今更だ、もう遅い。この肢体をベッドに縫い付けた夜は、無かったことにはならない。
「はぁ? 浮気する恋人とか嫌だろ、フツーに」
「嫌に決まっとるわアホ。浮気なんてしたらその度に他所で裸体晒せんような身体にすんで」
「………………。ん?」
「なんや」
「恋人が浮気したらブチギレてさよならじゃん…? ふつーに」
「世間一般の普通なんて知るか。お前が何遍浮気しても知ったこっちゃ無い」
「なんで…?」
「何でもクソもないわ。よぉ〜やく恋人まで漕ぎ着けた相手をおいそれとリリースする方がどうかしてるやろ」
「まって、それ知らない。ようやくって何」
「…………勝てない勝負はせえへん主義やから、俺」
恋人になるには、乙夜からじゃないとダメだった。三歩押したら五歩くらい後ずさるコイツには、自分の足で俺のところまで落ちてもらう必要があった。
直接的なアプローチなんてしたらドロンと逃げられかねない。好意をひた隠し、関係はキープ。焦らず、徐々に乙夜のテリトリーを侵食して苦節幾年目。長期戦がようやくあけて浮かれてんねやぞ、こっちは。
「——くそ、そう言えばこいつ、こーゆーヤツだったわ…!」
「今更思い出しても遅いわ。……で、もう別れ話は終わりでええな?」
「別れたくなってきた…。」
「却下」
「クーリングオフは?」
「適用外や」
ちゅ、と。隙を見て鼻のあたまに戯れるようなキスをすると、後ずさった乙夜はベッドから落ちそうになる。腕を掴んで中央まで引き寄せて、今度は遊びのない長めのキスで様子を見る。抵抗も、抗議もない。程なくして顔を離すと、酸欠で潤んだ瞳が視界に入った。
「しつこい、ばか」
浮気したらこの顔、俺以外も見るのか。あ〜……、ハラワタが煮えくり返るってこういうことを言うんだろうな。
「……浮気したら、乳首にピアスあけたるからな」
「マジな目で言うなよ、色々引っ込んだわ」
「マジなのは目だけやないで。——今後も温泉入りたいんやったら気ぃつけや」
病院とかで開けられるんだろうか。近いうち調べておこう。なんて、ハナから恋人に期待してないのが丸わかりである。
「なあ、朝飯どないする」
「…コ◯ダがいい」
「外ぉ? めんどいやん、ルームサービスでええやろ」
「……二人だと、変な感じになるから…外の空気吸う」
「そう言われると外に出したなくなるなぁ」
「出る! …恋人のワガママくらいきけし」
*
「——ってことがあった」
「乙夜くん…………。」
行きつけのカフェのテラス席、日陰で飲むお決まりのメニューは店舗ロゴの入ったマグ入りのコーヒーだ。可愛い女の子の店員さんがこれまた可憐な笑顔を携えて運んできてくれた。なんでいい日なのだろう。いい日だと言うのに、向かいに座る旧友の雪宮は綺麗な顔を歪めて乙夜を非難した。
「きみ、鬼だね」
「はぁ〜? 話聞いてた? どう考えても烏の方がひでーだろ」
「付き合った次の日に別れ話でしょ…? 烏くんに同情するよ」
「それは…っ、見切り発車っていうか」
「見切り発車で別れ話されたらトラウマでしょ」
論破されたので大人しく手元のカップに口を付ける。うまー。
「……それで? 浮気はしないですみそう?」
「今んところは」
「良かった。サウナ誘う相手減るのは悲しいからね」
共通の友人である彼には何故か禊の内容まで伝わっている始末。別にいいけどさ、ユッキー相手なら。
「……あれ、どれくらいマジだと思う?」
「どのくらいとかないよ。あの感じだともう病院に目星つけてる段階」
「……クラブ行くの控えるかぁ」
「殊勝な心掛けじゃん」
「流石に惜しいから」
尊厳とか、乳首とか。往来なので皆まで口にしないが。
テラス席から見えるカフェの入り口。その付近に佇む男へと視線をやる。そう、あれは注文直後にすぐに電話で席を外した恋人。視線に気付いたのか、こちらを見ているような気がする。気まぐれに投げチューを飛ばすと、あっち向いてろと言わんばかりの手振り。嬉しがれよ。仮にも恋人だろ。
「あのジェスチャーなに?」
「お前の投げキッス、しかと受け取った…かな」
「絶対うそ。……でも、何だかんだラブラブみたいで安心した」
「そ?」
「キミらがラブラブじゃなかったら何なんだよ」
自覚は薄い。ノリ的には、交際以前とさほど変わらない気がしている。
「いや、わかんねーよ。もしかしたら烏のが浮気するかも」
「ははっ、ないない。絶対ないね」
「この信用の差は一体…?」
「日々の行い」
「さいですか…。」
烏が頼んだコーヒーから湯気が飛んでいく。それをただただ見守る。はやく飲めばいいのに、誰と話してんだろ。てか、俺たちと出かけているのだから電話なんか早く切ればいいのに。
「烏くんって、無責任な恋愛はしないタイプだろ」
「んー? 知らねー」
「ありゃ、分かってないんだ」
「知るわけないじゃん、烏の恋バナとか聞いたことないし」
「俺は聞いたことあるよ」
「ずる、聞きたい」
「口止めされてるからダーメ。…ところで乙夜くん」
「ん?」
「俺とのキスは浮気に入ると思う?」
向かいの彼が身を乗り出した思えば、やたらと顔が近い。少し動いたらチューしちゃいそうなくらいだ。すると、俺は咄嗟に両手で雪宮の顔を抑えていた。ありゃ、身体が勝手に。
「……入らないけど、しない」
「あれ、ノリ悪ーい」
悪戯っ子の顔だ。チューする気なんてさらさら無いくせに、ざーんねんなんて嘯いて席に着く。
「その調子なら浮気の心配はいらないね」
「——おい、」
「びっっくりした。脅かすなよ、烏」
「脅かしてんのはそっちやろ。アホ」
「チューしてないよ」
「当たり前や。してたらシバく」
「怒んないでよ。ほら、こうしたら烏くん早く戻ってくるでしょ」
「ユッキーさっすがぁ」
「さすがぁ、やないわ。言うとくけど、ユッキー相手でも浮気判定すんで」
「うそ。もしかして今のチクピ未遂…?」
「まぁまぁ。そもそも烏くんが乙夜くん放っておいて電話してるのが悪いよ。ねー、乙夜くん」