愛及屋烏 大学から近く、最寄り駅まで徒歩5分、コンビニまで徒歩三十秒。好条件好立地、烏の借りているアパートに居座るようになって半年くらいになる。
乙夜を遅刻させない変わりに烏へ朝晩の飯の提供をする。そんな利害の一致から発展した関係も、いつからか形骸化していた。一緒にいるための建前、理由づけ。有り体に言えば、両片想いのような関係。
ぬるま湯のような居心地の良さを失う可能性が1ミリでもあるのなら惜しいと思う。これ以上を望んでいいのか分からない。だから、一応ポーズだけは取っている現状にお互い見て見ぬふりを続けているのだ。
なんで好きになったんだろ、男なのに。背も俺よりでかい。小言も多いし、色々細かいし。…あ、寝癖ついてる。大学へ向かう頃にはワックスによって撫でつけられてるであろうひと房の愛おしい毛束を目で追う。…お、こっち向いた。目が合うと、きしょいと一蹴されてしまった。そんなきしょいのを家に置いてるのはお前なんだよな、とは言わないでおく。
ワンルームの部屋にはシングルベッドと畳まれた布団が一組。乙夜が寝ている布団を仕舞わないと立てかけたテーブルが降ろせない。朝型人間の烏が起床して真っ先に行うのは、寝こけた乙夜を叩き起こす作業だ。
乙夜が起きて直ぐにすることは朝食作り。夜は多少凝ったものを作ることもあるが、朝は大抵夕飯の残り物か下準備済のおかず。そして米。米は毎日炊く。一人なら絶対しないけれど、何せ俺の好きな人米派らしいから。
洋食よりも和食。カレーは中辛寄り。肉じゃがに使う肉は牛肉。餃子は餡に大葉を刻んで入れる。
何を食べても美味いと言う男から食の好みを割り出すのに大変な苦労を強いられた。素直に「これ作って」だとか「これが好き」とか言ってもいいのに。…烏は出された食べものに対し文句のひとつも言わず、ペロッと平らげる。
テーブルにつくと決まって彼は「いただきます」をする。多分、俺が居なくても言ってるんだろうな。何気ない仕草ひとつでも育ちが伺える。
「おい、それ」
「?」
「うわ、ふっつーに食いよった」
己の口内の、シャキシャキという歯ごたえに違和感を感じる。不思議に思いテーブルに並ぶラインナップに視線を落とす。実家から支給される米、魚屋でおまけして貰った鮭の焼いたやつ、隣の小鉢には漬物が…あれ、俺、漬物なんて用意したっけ。
「おいひい」
「いや食べれるんかい。お前が漬物きら〜い言うから小さく分けとんのに」
「……なんで?」
「知るか。ちゃっちゃと食って準備せえ。俺が一限やからもう出るで」
今度から遠慮せず食卓にデカデカと置いてくれるらしい。別に好んでは食べないけど。烏が嬉しそうにしていたからどうでも良くなった。
無意識に、手が伸びていた。彼が好んで食べるそれに。
「ん〜〜〜。愛及屋烏ってやつ?」
「なんそれ。あいきゅー?」
「あいきゅうおくう、ね。四字熟語だよ」
バイト先の同僚に何気なく話すと難しい言葉が返ってきた。彼は文系のガッコーに通っていて、モデルなんかもやってる。四字熟語ですって。さぞかし情緒が育っているのだろう。知らないけど。
「どーゆー意味」
「スマホで調べて」
「え?教えてくんない感じなんだ」
「今から休憩でしょ? そのついでにさ」
「え〜〜〜。気が向いたらね」
「そうして。…まかない何にする? 俺作るよ〜」
「…簡単なのでいーよ」
静まり返ったバックルーム。まかないで胃を満たしつつ、溜まっている連絡を消化していく。これは返すやつ、これはスタンプでいいや。……これは無視でOK。
「あ、烏からだ」
ピンを刺しているため常に最上にあるアイコンを開く。いつもの帰宅時間を尋ねる定型文。遡ればいくらでも同じ文言の羅列があるのに、自然と口の端が釣り上がるのが分かる。こんな単純だっけ俺。
「二十三時くらい……っと」
打ち込んで送信。ふと、思い出した『あいきゅうおくう』の四文字。音だけではどういう漢字で書くのか検討がつかない。試しに烏のトーク画面に打ち込んでみると、予測変換に現れた『愛及屋烏』の文字。へえ、こう書くんだ。…烏の文字入ってるじゃん。
「やべ」
ポン、と軽快な音をたてて表示される。誤って送信してしまった。取り消しを試みようとするも、こういう時に限って既読の2文字が画面に刻まれる。するとすかさず着信を知らせるメロディがバックルームに響いた。そんなやばい意味だった?これ。
「アホ!そういうんは業務連絡と一緒にすんなボケ!」
顔見て言え!!!と切られた。取り急ぎ検索窓に『愛及屋烏』と打ち込んでみる。すると溺愛の例えに用いられる…の文言が視界に入った。あとはすきなひとがどうとか。
──こんなの、愛の告白以外の何でもないじゃないか!!
ふざけるな、あと一年はこの関係でいようと思っていたのに。突然真水を被ったような、外に放り出されたような感覚が身体を駆け巡る。
誤送信と言ったら嘘になる。だって好きだし。そこに偽りはない。烏が『愛及屋烏』の意味を知らない可能性…はないな。だからあの電話が掛かってきたわけだし。
言い訳を考え、キーボードに打ち込むよりも先に身体が動いていた。制服を解きながら厨房に顔を出す。お前が変なこと言わなければこんな焦燥を覚えることもなかったのに。
「ユッキー、俺早上がりすんね」
「いいんじゃない? 今晩お客の入り悪いらしいし」
「店長によろしく言っといて」
「任してよ」
「ユッキー」
「なに?」
「振られたらぜっったいに許さないし呪うから」
「え、俺何かした?」
「し! た!」