隣の市からおよそ10分 鳩には満腹中枢がない。際限なくあげれば際限なく食べてしまう。餌を放るそぶりを見せれば習慣で寄ってくる。だから餌をやる方が気をつけていなければいけない。
神社の入り口で小銭を缶に入れ、豆の袋を取り出した。寄ってくる鳩に撒こうと思ったが、先に観光客が豆を放り出したのを見て、そんなことを思い出した。顔を上げれば濡れ羽色した小さな城。少し考え、脚を向ける。
あちらの鳩の方が、さらに沢山餌づけされている気もするけれど。
地元に戻って一か月ほど。雪祈はリハビリも兼ねてここ何日か街の散策をしていた。最初のうちは山の方へ行っていたのだが、どこまでも行ってしまうので、今は駅側へ向かうようにしている。
神社と城の間は大通りで繋がっている。寒い時期とはいえ、標高が高い分晴れの日は、なかなかしんどい目に合う。そのため帽子は必須だ。キャップを被り直し、道の中ほどに沸いている湧き水をペットボトルに汲んだ。
地元を離れ、日常が非日常だったと気づいたもののひとつがこれ。練習中は水も普通に買っていたが、地元でそれをやると、とても無駄使いをしている気分になる。そういえば、味つきの炭酸を餌に、よく強請っていたことも思い出した。「自分で買えばいいのに……」と眉を顰めながら渡された水は、少しだけ甘い気がして何とか飲み込めた。今思い出しても、なかなかに気が遠くなる思考回路をしている。
あいつらは、どうだったのだろう。仙台と東京というあまりに違う土地に、戸惑うことはなかったのだろうか。
(なさそうだな)
何となくどこでも素早く、ごく自然に順応する気がする。特に大は。だから、多分、知らない土地でも大丈夫だ。
絶対に。
内堀を横目に砂利道を歩く。今日も観光客で賑わう名所は、己の記憶よりなんだか灰色寄りに見えた。日差しが強いせいだろうか。目の中に残像が残ってキツイ。鍔を深く下げ、影を作った。
先ほど買った豆を取り出す。あたりを見回し、少し考え内堀の際まで歩み寄った。覗き込むとゆらり、水面が揺れる。じっと見ていれば墨色をした大きな鯉が何匹も集まっていた。悠々と身をくねらせ、口をパクパクと開閉する。
(どっちにするかな……)
ぼんやり考え込んでいる視界に、すいと白いモノが横切った。無意識に視線が追いかける。
そこに居たのは、美しい羽根を持ちながらも空を飛べない鳥。
保護するために、風切り羽を切られた白鳥。
誰から聞いた話だったのだろう。忘れてしまった。水面をするりと移動する様は酷く優雅で、だからこそどこかもの哀しく映る。
――まるで、いつかの自分のようで。
つきりと右手が痛んだ。
あの日。
枯れるほどに涙を流した日。
ぼんやりと光の落ちたスマートフォンの画面を眺め続けているうちに、いつの間にか日が落ちていた日。
鈍く軋む頭を持ち上げ、ピアノの鍵盤を見た。白、黒、白、黒、白、白。無意識に持ち上がった左手が、ス、と鍵盤のひとつへ落ちる。
ポーン。
色が柔らかくはじけ、霧散した。もうひとつ。先ほどより冷たい色が飛び上がる。二回続けて押すと、芽吹きと木枯らしの色が跳ねあがった。
動くのか、と薄く細く思う。壊れた蛇口よりなお酷い量の水を垂れ流したというのに、まだ動くのか。そうか。
なるほど、オレはまだ動くんだな。
なら、動かないといけない。不意に思った。
動けるなら、止まるわけにはいかない。左指が動いた。左腕が動いた。足だって頭だって動いている。動かないのは右手、右腕だけだ。たったそれだけ。何より重いけれど、きっといつまでも重いけれど、それだけだ。
それだけのことなんだ。
顔を上げる。沈黙したスマートフォンを睨みつける。
「……だよな、大」
零れた音は、今日一番透明な色をしていた。
豆は結局、砂利と堀の中へ等分に撒いた。一瞬だけ動物学者になった気分を味わえるから、どうしても豆は撒きたくなってしまう。どうか食べ過ぎてひっくり返りませんように、と祈りながら豆をまく己の、何と罪深いことか。
軽くズボンを払いながら立ち上がった。ぐるりと一周してもいいが、なんとなく川沿いを歩きたい気分だ。あの辺りなら美味しいコーヒーを出してくれる店も揃っている。BGMもジャスから始まってクラシック、無音と選びたい放題だ。
ゆっくり踵を返した。雪祈の横を中程度のケースを抱えた学生が楽しそうに歩いていく。あれはバイオリンだろうか。ギプスに固められた右手を見下ろす。感覚は未だ、ない。
足を踏み出せば、砂利の擦れる音がした。なんとなくその音を拾っているうちに、脳内に五線譜が浮かび始める。いつの間にか頭の中にサックスの音が鳴っていた。ついこの間まで身近にあった音は、今も色褪せることなく雪祈の中に在る。
名前を呼ぶとき、少しだけキの音が濁って面白かった。感情が素直に音に出るのが嫌いではなかった。喧嘩ばかりして、それが楽しかった。
大の音が、大という男が好きだった。
懐かしいというにはまだ生々しくて、でもいつか想い出へと変わっていくのだろう。それとも、そうなる前に交わることもあるのだろうか。そのときには右腕も少しはマシになっているのだろうか。
ただひとつ、分かることがあるとすれば。
(アイツはそのときまでに、めちゃくちゃ吹いてるんだろうな)
不意にスマートフォンが揺れた。何だと思い片手でタップすると意外な名前。メッセージを読み、思わず「は?」と声が出た。
「今塩尻、もうすぐ松本って……玉田?!」
慌てて踵を返す。隣の市からここまでそんなに時間はかからない。というより何をしにきてるんだアイツは。来なくていいと言ったのに。
「ったくどいつもこいつもオレの話はスルーですかってんだ……!」
怒りに任せて踏み出しつつ、どうしても口角が上がってしまう。久しぶりの仲間の奇襲攻撃に、さてどんな罵声で迎えてやろうか。
堀から離れる手前、先ほどの白鳥が目に入った。すう、と優雅に動いている。ふと水面を見た。
「……そっか、おまえも頑張ってんのな」
水の中に隠れた脚が、激しく動いているのが見える。いっそ滑稽なほど、必死に動いている。ふふ、と空気が揺れた。ひらり、左手を翻す。
「また来るわ」
小さく告げて、今度こそ駅目指して歩き始めた。