水の上で愛を知る「フリーナ殿」
当たり前のようにそこにあった“人”を見かけ、躊躇うよりも先に名前を呼んでいた。
月明かりが反射し穏やかに輝く水面を眺める横顔が、ヌヴィレットの声に反応する。
どこか寂しげだった表情は笑顔に変わり、見知った顔だと何故か安堵した。
「やあ、ヌヴィレット!こんな場所で奇遇だね!」
「このような夜更けにいったい何を」
「ただの散歩さ。いけないかい?」
「君を縛るものはもう何もない。君が時折抜け出しては夜のフォンテーヌを散策していたのは知っているし、そもそも問題は無いはずだ」
そう、問題は無い。彼女が今、何処で何しようともフォンテーヌの民にもヌヴィレットにも問題は無いのだ。
「なら良いだろう、何が不満なんだい?」
「ふむ。フリーナ殿、君は女性だろう。いくら神の目があるからとはいえ女性1人で出歩くには褒められた時間ではない」
フォンテーヌ邸の近場の水辺だからといって、女性が歩くにはあまりにも夜は深まっている。たとえ男性であったとしても、勧めたいとは思わない。
ぽかりと口を開けしばしヌヴィレットを見つめていたフリーナは、自身の性別を今思い出したかのように笑い出す。
「あはは!そうだね、そうだった。以後気を付けるとしよう。ところで君、まさかとは思うがこんな時間まで仕事をしていたなんて言わないよね?」
「……」
「こらこら目を逸らさない。うーん、少しばかり人間みが出て来たかい?」
就業時間などとうの昔に過ぎているし、もちろん仕事終わりにここに来たわけでもない。彼女の自宅に気配が感じられなくて思わず出て来たなどと口が裂けても言えるわけがなかった。
世間に疎いと度々言われるヌヴィレットとはいえ、自身がしていることが普通ではないというのは理解しているし、一歩間違えれば水の下にお世話になる事柄だということも。
「私も君と同じだ」
「本当かい?」
「私が嘘偽りを述べたことがあっただろうか。ましてやフリーナ殿に」
「そっか、うん。君にだってそういう日はあるよね。そうだヌヴィレット。良ければこのまま一緒にどう?」
屈託のない笑顔がヌヴィレットを見据えた。
そういう日というのは、どういう日なのだろうか。フリーナに声をかける前の寂しげな横顔が、“そういう日”ということだろうか。
たとえこの疑問の答えを求めたとしても、彼女は正しい答えを教えることはないだろうから自分で導き出すしかないのだ。
「喜んで」
そして勿論、断る理由など無かった。
了承の証として言葉と手を差し出すが、困惑とでも言うのかそんな笑みを向けて首を振るフリーナ。
エスコートはいらない世話であったか、と何故か痛んだ胸を押さえ、彼女の隣を誰にもとられまいと同じ速さで歩き出した。
口の達者な彼女からは想像が出来ないくらいの静かさで、フリーナはヌヴィレットの隣を歩いている。時折踏まれる水の音が心地良い。
フリーナは突如として走り出し、大きく飛躍したかと思うと水の上へと着地した。まるで、幼子が突然として始める突拍子のない行為にさすがのヌヴィレットも目を丸くした。
年端もいかぬ少女のようにくるりと回り、慣れた足捌きで水面に弧を描いていく。
フリーナだけに許された閑やかに瞬く舞台で、月光を浴びながら彼女はたった1人の観客に視線を向ける。
今までにない胸の高鳴りが、ヌヴィレットを襲った。
思わず出かけた名が、彼女であったか彼女であったか音にならなかったそれはもう分からない。
そこにあるフリーナの舞台を、向けられた色の違う両の瞳を見つめ続ける。
彼女は人であるが、過ごした時は、恐怖を痛みを耐え抜いた精神は、神をもさえ超えるだろう。嘘偽りで塗り固められた虚勢だらけの人間だったとしても、フリーナは紛れもなくその凌駕せし神だった。
この胸の内を言葉にできないもどかしさが恨めしい。敬意と憧憬と庇護欲と親しみと、数ある感情の名を巡らせてもどれも正しくどれも違うのだ。
深々とフリーナが頭を下げる。舞台が終わったのだろう。もう少し眺めていたかったというのは我儘だろうか。
「ヌヴィレット」
フリーナの手が差し出される。同じ舞台に上がれと言っているのか、彼女はただ笑ってヌヴィレットにその小さな手を向けている。
「フリーナ、私は」
彼女の新たな舞台に立っていい者ではない。彼女の舞台に上がってしまったが最後、自分はフリーナの尊厳をフォカロルスの願いを、尊重できる自信がない。
「歩けるだろう、水龍?」
「……泳ぐ方が得意なのだが」
「それはまたの機会にお願いしようかな」
再びフリーナと2人きりで夜の水辺を歩き、ひとり舞う彼女を独占できるというのか。
「フリーナ」
その手を引き彼女の身体を抱いていた。
抱き締めたはいいもの、その身体の小ささと温かさに思わず怯みこの後は何を言って何をすべきかと思考が回らない。
「ヌヴィレット、良いことを教えてあげる。こういう時は、何も言わずに口付けを贈れば良いんだよ」
「フリーナ……」
それは、想い合った者同士がする行為だと認識している。ヌヴィレットには抵抗はなくとも、フリーナにはする必要があるとは思えない。
ふと、何故自分には抵抗がないどころかその教えをすぐさま実行に移したいと思ったのか疑問が浮かんだ。
その疑問が解決することなどやはりなく、早る胸の音だけがこたえるばかりだ。
考えるよりも実行に移した方が良い時もあると、いつだったか学んだことがあった。感情に身を任せ、後のことなど未来の自分に任せてしまえばいいのだと。
身体を離すのが惜しいと思いつつも、し辛さというものはある。抱きかかえれば問題は無いが、フリーナに怒られてしまいそうだ。顎に手を添え少しばかり持ち上げると、大きな瞳は閉じられ衣服を掴んでいる手が震えていた。
唇と唇がただ触れるというだけなのに、何故こうも感情が揺さぶられるのだろう。
薄く開かれた唇と桃色に染まる頬が愛おしく、眺めていたいという思いもあったが、早く触れたいという感情もあり心というものは難儀だとつくづく思う。
フリーナの唇は柔らかかった。鼻腔を掠める甘い香りと、唇に残る温もりのが心地良く、ヌヴィレットを襲っていた激情は穏やかでありながらも身を焦がしている。
「君、身体は冷たくて気持ちが良いのに唇は火傷しそうなくらいに熱いんだね」
「すまない」
「何故謝るんだい。欲しいと言ったのは僕なのに」
「すまない、フリーナ殿」
「ヌヴィ、んっ」
この胸の高鳴りに、この身を焦がす熱に、心を激しく揺さぶる感情に、名が付いたのだ。
この数百年、今の今になって知った想いと触れ合うことの喜びに、今はただ身を任せていたかった。
私は、君を愛しているんだ。