ベニマルは確認書類や報告書を持ってリムルのいる執務室をノックする。気配で察しはついているのだろう、リムルの気の抜けた「どぞ〜」と言う返事が返ってきて、失礼しますと声をかけながら入室した。
「リムル様こちらを…おっと」
書類を渡そうとしたが、先客がいる事に気が付いてベニマルは言葉を留まらせた。そこには見慣れた青い背中、ソウエイがリムルと何やら話をしていた所だった。椅子に座ったリムルが体を傾けてベニマルへと手を振る。
「悪いなベニマル、今ソウエイに仕事を頼んでてさ」
「いや、俺の方は急ぎではないし、話が終わってからで構いませんよ」
「悪いな、んで今日は…」
リムルがソウエイに視線を戻し話を続ける。それを頷いて聞いているソウエイの纏う雰囲気に、ベニマルはほんの少しの違和感を感じた。それはごく近くにいるリムルにも、きっと誰にも気付かれないようなほんの些細なものだった。
「ってな感じで頼むわ」
「承知しました」
リムルから仕事の依頼を受け、ソウエイは部屋から退出する為に足早にベニマルの隣を通り過ぎていく。それをじっと見つめるベニマルの様子に気付き、リムルは頭に疑問符を浮かべた。
「なんだベニマル、ソウエイがどうかしかた?」
「…リムル様、ちょっとコレ持ってて貰えますか」
「え、うん」
ベニマルはソウエイから目を離さないままリムルに書類を押し付け、ソウエイの背中を追いかける。ノブを捻りドアを開けようとしていた腕を咄嗟に掴まれれば、誰だってそちらを確認するだろう。ソウエイも例に漏れず、突然腕を掴んできたベニマルを疑問に思って振り返った。
次の瞬間、ぱしんと乾いた音が執務室に響き渡る。ベニマルがソウエイの頬を平手で打った音だった。
「…な、ななななにやってんのベニマルくん!?」
受け取った書類をバサバサと取り落としてリムルが慌てて声を上げる。ソウエイも何をされたのか分からずに呆然としていたが、数秒経ってからようやく状況を把握してベニマルの胸ぐらに掴みかかった。
「貴様、何を…!」
「うん、やっぱお前ダメだ。今日は仕事は無しだな、帰るぞ」
ベニマルはソウエイに捕まれた手をいとも容易く振り解き、涼しい顔をして未だ状況が掴めず慌てているリムルに向き直った。
「申し訳ありませんが、今日のコイツは使い物にならないから連れて帰ります」
「ちょっとまって、マジで話が見えないんだけど!?」
「ふざけるなベニマル、貴様一体どう言う…」
「ふざけているのはお前だソウエイ、普段のお前なら目を瞑っててもあの程度避けれた筈だろ」
憤るソウエイを無視して、ベニマルはソウエイの首元に両手を突っ込んだ。突然の事にソウエイはびくりと身体を跳ねさせ目を白黒させた。ますます意味が分からないとリムルは2人を見上げてあわあわと右往左往する始末だ。場は混乱の極みであった。しかしベニマルはあくまで冷静に、そして呆れたように溜息をついた。
「…ほら、やっぱり熱がある。その様子だと自分の体調が悪いのにも気が付いていないな?」
「えっ、熱!?」
「熱など無い。体調も悪くない」
「阿呆、お前は昔から風邪ひいても自分では気付かなかっただろ。んで知らない内に限界がきてブっ倒れてたよな?」
「……………」
言い返す事が出来ないのか、ソウエイは目を伏せて黙り込んだ。それとは対照的に普段言い争いでは不利な事が多いベニマルはフフンと得意げだった。
リムルはほぅと感心する。実際ソウエイの不調は今こうして見ても全く分からないのだ。意識的に感知してようやく熱が高いと分かるほど、そのポーカーフェイス振りは完璧と言えるだろう。
普段から感情を表に出す事が極端に少ないソウエイの不調を見抜くなんて、流石幼馴染なんだなぁと納得した。それと同時にいつも完璧なこの男でも風邪ひいたりするんだと、リムルは何だか少し安心するのだった。
「風邪ならしょうがないな、今日はもう帰っていいぞ」
「リ、リムル様、俺は大丈夫です、何の問題もありません」
「問題だらけだ。あんまり駄々こねると睡眠薬ブッかけて引き摺ってでも連れて帰るぞ」
「誰が駄々など…!」
「はいはいストップ、喧嘩しないの!ソウエイ、熱あるのは本当なんだから、今日はもう休め。んで体調を万全にしてからまた仕事頼むから」
「ですが…」
「はーいもう聞きませーん」
両耳を塞ぐようにしてリムルはソウエイから視線を外す。ぐ、と悔しそうなソウエイには悪いが、これくらいしないと休んでくれないだろう。いつも休みなく働いてくれているのだから、数日の欠員くらい何とでもしてやる、それが出来る上司の采配だ。
「悪いなベニマル、本来なら俺が気付いてやれれば良かったんだが」
「いえ、コイツに関しては色々分かりにくいですから」
「…一言多いぞ」
「なんかソウエイのツッコミにも覇気が無いような気がしてきたぞ…ほらもう帰った帰った!ベニマル、ソウエイが仕事に戻らないよう、側で監視してやってくれ」
「元よりそのつもりですよ、ありがとうございます」
リムルに礼を言ってから、相変わらず渋るソウエイの腕を引いてベニマルは部屋から出て行った。それを見送ってからリムルはふぅと息を吐いて椅子に深く腰掛ける。
仲間たちの体調管理は自己責任でお願いしているのだが、皆頑張ってくれてる手前体調が悪くても言い出さない奴が出てくるのかもしれないと危惧はしていたのだ。
「まさか自分でも気が付いていないとは…」
周りの事はよく見てるクセに自分の事となると鈍感だなんて、ソウエイも案外可愛い所あるよなとリムルはクスリと笑った。そして仕事前の検温を本格的に導入すべきかを検討するのであった。
「う…」
ゆらりと覚醒した頭は鈍く痛み、やけに熱い身体は汗をかいてしまっている事にソウエイは気が付いた。いつの間に眠ってしまったのだろうかと、布団に横になったままで寝付く前の事を思い出す。
リムルに休みを言い渡されてから、ベニマルに引き摺られるようにして自宅に帰ってきたのだったか。
「もう全部やっとくから、お前は取り敢えず寝ろ」
とあれよあれよという間に衣服を剥ぎ取られ寝巻き着に着替えさせられた。あまりの手際の良さに驚いたのだが、妹の世話をしていた過去があればああ言う事も楽にこなすのだろう。
ソウエイが言い訳をしても素知らぬ顔をして問答無用で布団に押し込まれてしまい、絶対起きるなよと念を押してからベニマルは部屋を出て行った。まさに嵐のような出来事だった。
自覚症状のないソウエイだったが、横になるとじわじわと身体の熱さを感じるようになり、それと同時に眠気に誘われた。これは次に起きた時には熱が上がっているなと感じつつ、ベニマルに言われたので仕方なく眠りについたのだった。
(寝付いてから2〜3時間くらいか?それ程時は経ってないようだが)
伝う汗は不快で、腕を上げ拭うのも億劫な程熱が上がってしまっている。悔しいがベニマルの言う通りだった。あのまま仕事を引き受けていればリムルに迷惑をかけていただろう、そう思うとゾッとする。ベニマルに無理矢理休まされたのは心底余計なお世話だとは思うが、今回ばかりは感謝するしかない。大変不本意だが。
熱の高さに勝手に息が弾む。吐き出す息にも熱がこもっていて煩わしかった。外へと通じる襖は開いていて風は通るのだが、汗で湿った髪を擽る程度で熱冷ましにもならない。
渇いた喉を潤したくて、水でも取りに行くかと重い身体を何とか起こそうとした時だった。
「あっ、こら、起きるんじゃない」
そう言って盆を片手に持ったベニマルが襖を開けて部屋に入ってきた。そして布団の側に膝をつき、身を起こそうとしていたソウエイの額をえいやと押して布団に沈める。ぼふり、背中から布団に押し付けられてつきんと頭が痛んだ。相手が病人と言うことを理解しているのだろうか。
「うわ、思ったより熱出てるな。やっぱり休んどいて正解だったろ?」
「…そうなのだろうが、お前に言われると腹が立つな」
ソウエイの額に触れた時にその熱を感じたのだろう、ベニマルは少し顔を顰めながらも軽口を叩く。ソウエイもそれに応えはするが、やはり声にいつもの覇気はない様に感じられた。
「もうすぐ昼だから飯作ってきたんだ。薬も飲まないといけないから食って欲しいんだけど」
「ああ、熱があって怠いだけで、食欲はある…が、お前飯なんか作れたのか」
「病人食くらい作れる」
ベニマルの持ってきた盆には粥と水、そして薬が乗っていた。ベニマルの事だ、米を水だけで煮た味気ないものを出されたらどうしようかと思っていたのだが、意外にもそれはちゃんとした卵粥だった。出汁も入れてあるのか良い香りがして、刻んだ葱も添えられている。正直予想外の出来にソウエイは少なからず驚いた。
「なんだその顔、俺が粥作れたら悪いのかよ」
「いや、意外だと思っただけだ」
「なんか腑に落ちねぇな…まぁいいか、ほれ」
「………自分で食える」
ベニマルは粥を匙で掬ってソウエイの口元へと移動させる。いわゆる“あーん”というやつだ。手で払って拒否するが、ベニマルも負けじとしつこく匙を差し出してくる。
「強がるなよ、腕上げるのもしんどいくせに。あともし俺が熱出て寝込んだら、お前も面白がって同じ事するだろ?」
「そんな事…いや、多分するな…」
「そう言う事。病人は大人しく世話されてろ。それでも拒否るなら開口器で口開けて無理矢理喉に押し込むからな」
ベニマルなら本当にやりかねない。ソウエイが仕方なく口を開けると、ベニマルは上機嫌で匙を差し込んだ。粥を口に含むと思いの外腹が減っていたらしく、優しい味がより食欲をそそった。
「…美味いな」
「お、そうか?そりゃ良かった」
少し照れつつも得意げな顔をして、ベニマルはソウエイがもういいと言うまで匙を往復させた。
ソウエイが体調を崩すなんて何年振りだろうか。リムルの執務室で違和感を感じて試しに引っ叩いてみたのだが、案の定風邪をひいていたようで驚いた。いつもは澄ました顔でポーカーフェイスを気取っているこの男が、体調を崩した時だけ見せる弱った表情が好きだった。
不謹慎なのだが、子供の頃に今と同じように熱を出した時、はふはふと苦しそうにするソウエイを見て「俺が看病してやらないと」と息巻いたのを覚えている。庇護欲が掻き立てられたのか、力になってやりたかったのか。ただその時は周りの大人がソウエイの看病をして、ベニマルはただ見ているしかなかったのだ。
それが今はどうだ、目の前には熱で倒れ弱った青鬼がいる。長年の『ソウエイを看病する』という夢を叶える為にベニマルはものすごく張り切っていた。だから慣れない粥作りも頑張った。普段なら粥など米を水で煮てちょっと塩を入れる程度で済ませただろうが、ちゃんと出汁で味を整えたし葱も添えた。ベニマル的にめちゃくちゃ工夫したのだ。その成果があってソウエイには好評だったらしく、思わず顔がニヤけるのを止められない。
「…何笑ってるんだ、気色悪いな」
「言うに事欠いて気色悪いってなんだよ、失礼だな」
看病をもの凄く張り切ってますと言うのをソウエイには知られたくなくて、ベニマルは緩む顔をキリッと引き締める。
「飯食ったんなら薬飲めよ」
「ああ…流石に薬は自分で飲めるぞ」
「なんだ、飲ませてやろうと思ったのに」
食事に会話を交わす事で少し楽になったのか、ソウエイは自ら身体を起こしてベニマルから受け取った水と薬を煽る。咽せもせずさらりと飲んでしまったソウエイに、あの薬凄く苦いのに平気な顔して飲むんだなと妙な所に感心した。
「あ、汗かいてたよな、替えあるから着替えるか?身体も拭いてやるよ」
「…やけにお前、至れり尽せりじゃないか?
何か企んでないか?」
「この状況で何を企むってんだよ…ほら脱げ、早く脱げ」
企んではいないが、下心はある。稀にしか訪れない絶好の機会、ベニマルだって付きっきりで看病してやりたいのだ。それに弱ったソウエイを見れる機会などそうあるのもではないので、この際だから楽しもうという気持ちは少なからず持ち合わせてはいた。助けになりたいと言う善意からなので全く問題無いはずだ。
汗で濡れたソウエイの背中を丁寧に拭う。こういう看病がやりたかった筈なのに、裸の上半身を見ているとなんだか少し照れてしまう。一緒に風呂に入る時もあるし初めて見る訳でもないだろうに、と頭を振って照れを払った。
普段のソウエイならベニマルのこんな心情の変化にやたらと敏感で「照れているのか?」などと言って揶揄ってくる筈なのだが、熱で観察眼が鈍っているらしい。気付かれる前に手早く身体を拭ってやって、目に毒だった素肌を新しい寝巻き着で隠す。ほぅ、と安心からのため息が思わず溢れた。
「ベニマル?」
「えっ!なに、どうした!?」
「いや此方がどうしたなんだが」
「あっ、いや何でも無い!ほら、スッキリしたのならもう寝ろ!」
ぼふり、またソウエイを勢いのままに布団に押し付けた。う゛っ、と小さく悲鳴を上げたソウエイには申し訳ないが、赤くなっているであろう顔を見られたくなかったのだ。
ベニマルは誤魔化すように、熱を確かめるフリをしてソウエイの額に視界ごと遮るように触れる。やはりまだ体温が高い。薬には解熱作用もあるので暫くしたら楽になるだろうが、それまでは高熱で辛い状況が続くだろう。
「何か欲しい物はあるか?今なら優しい優しいベニマルさんが何でも聞いてやるぞ」
「病人を布団に叩き付けといてよく優しいなんて言えるな…」
力が入っていない手で額のベニマルの手を払い除けたソウエイは、少し考えてからやっぱり何もいらないと身体の力を抜き瞳を閉じた。どうやら眠るつもりらしい。ソウエイとしても早く職場復帰したいのだろう、食べて薬を飲んで休む。それ以上の事はしようがないが、それが1番早い完治への道だ。
もっと看病してやりたいが、ソウエイが不要と言えば不要なのだろう、ベニマルは大人しく引き下がる。
「あ、そうだ」
「…ん?」
食器やソウエイの脱いだ服を持って部屋を出ようと立ち上がりかけたベニマルだったが、はたと思い出した事がありソウエイに向き直った。
何だと訝しむのを無視して、ソウエイの熱い額にちゅ、と可愛らしいリップ音を立ててキスをしてやった。少し驚いたように瞳を丸くするソウエイと視線が合い、悪戯っぽく笑ってやる。
「おやすみソウエイ、次目が覚めたらきっと良くなってる」
指の背でするりとソウエイの頬を撫でて、そのままついでに頭も撫でてやる。妹が熱を出した時によくこうしておまじないみたいに言っていたのだ。大丈夫、すぐ良くなると、愚図る妹を安心させる様に優しく撫でてやっていたのが遠い昔のように感じられた。それをソウエイにするのは少し気恥ずかしいのだが、早く良くなって欲しいと思う心は本当だ。もう少し弱っている彼を見ていたいと言う欲があるのは許して欲しいなと思うのだけど。
「ベニマルお前…いや、何でもない」
「?そうか、水はここに置いておくし、隣の部屋にいるから何かあったらすぐ呼べよ」
「分かった」
何か言いたげなソウエイだったが、それ以上は何も言うつもりはないと瞳を閉じてしまった。それならば自分ももう何も言うまいと、ベニマルは眠りの妨げにならない様に静かに部屋を出て行った。
1人になり静かになった部屋で、ソウエイは額に腕を乗せて重くため息を吐く。
「妹と同じ扱い、か…」
鈍感なあの男がこの想いに気付くのはまだまだ先になりそうだ。これからの長い道のりを考えて気怠い気分になるのは熱のせいだけではないのだろうと、ソウエイはくつくつと笑うのだった。