譲介が熱を出した。
「自分が情けない……」
溜息と共に吐き出される深い悔恨。まぁ、風邪などというものはちょっと疲れていれば誰でもなるものだが、今回はどう考えてもオーバーワークが原因の発熱である。存分に自省してもらおうではないかと考えたTETSUは敢えて返事をせず、寝返りと共にずり下がった掛け布団を肩まで引き上げてやるに留めた。ついでに胸の上をポンポン叩く。「徹郎さんがやさしい……」と熱に浮かされたような呟きが漏れ聞こえる。
そもそもこの生活に無理があるのだ、とTETSUは常々思っている。異国で新米医師として経験を積みながら諸々の雑用をこなし、家に帰れば自己研鑽の勉強の側ら同居している老齢の病人の看護。気の休まる時間がなさすぎる。タスクを抱え込みすぎるな、必要ならば『余計なモノ』は切り捨てろ、と再三言い聞かせてきたものの、存外に頑固で負けず嫌いな元養い子は逆に意固地になるばかりで年長者の忠告に耳を貸そうともしない。
その結果がこのザマだ。医者の不養生とはよく言ったものだが、ウイルスがあって人間がいて、疲労により免疫力が落ちていれば職業に拘りなく感染症は牙を向く。人間の体はけして弱いばかりではないが、けれど大して強くもないのだ。罹った理由が疲労なら、治す手段は休養しかない。
TETSUは譲介の額に掌を当て、それが記憶の中の温度よりも熱いことを確認し内心で舌打ちをした。前に測った時より熱が上がっている。解熱剤を飲ませるか一瞬考え、まだ物理的に冷やす対応で良いだろうと思い直し、氷嚢を持ってくるために一旦席を立つ。
「すみません、徹郎さん……」
掠れた声での謝罪に足が止まった。
「も、大丈夫、です……うつしてしまう、ので……」
「……おめぇの風邪ごとき、そう簡単にうつされるかよ」
端的に言い返すと、返事の代わりに小さく咳き込む音がした。振り返れば気が弱っているらしい病人が物言いたげな目でこちらを見上げている。
嘘などついていない。今は投薬のタイミング上、そこまで感染に気を使う時期ではないというだけのことだ。頭に浮かんだその反論がどうにも言い訳めいて感じられたので、TETSUは溜息をつきながら再び椅子に座り直す。
「自覚症状は?」
「頭が、痛くて」
いまいち焦点の定まらない視線。熱の籠った呼吸。病人の頭を撫でながら、やはり解熱鎮痛剤にするかとTETSUは判断を改めた。滑らせるように首元を撫でれば、熱って汗ばんだ譲介の掌がそっと手の甲に添えられ、祈るように額を押し付けられる。
「吐き気も、あって。全身が、怠くて……僕、風邪を引くのが、久々で」
「まぁ、たまにだとしんどいわな」
「ちがう、違うんです。今更思い出したんです。些細な風邪でも、体調を崩すって、こんなにつらいんだって……」
続く言葉を予見したTETSUは渋面を作った。言わせないよう掌で口を塞ぐが、熱に潤んだ眼が雄弁に主張してくるためあまり意味を感じられない。仕方がないので「他人と比べるもんじゃねぇだろ」と月並みな言葉を吐く。
そんなことで哀れまれてたまるものか。痛くても苦しくても壊れかけていても、もう少し生きてやろうと思ったのはオレ自身の意思だ。
棘のある言葉が喉元まで出掛かって、結局は飲み込む。気の弱った病人に食ってかかるほど若くなかった。
代わりに「もう寝ろ」とだけ言い置いて改めて席を立つ。解熱鎮痛剤を飲ませようと決意していた。副作用で眠気が出るものなら尚丁度良い。半日もすれば熱が引いて、二日もすれば完治するだろう。ドクターTETSUの見立てに狂いはない。
風邪は拗らすと厄介だが、十中八九は治る病だ。働き盛りの若い男ならば尚更。
けれどTETSUの思考の端には、遠い昔見送った母の声が蘇っていた。兄の名を呼ぶときは会いたいと只管に嘆き、自分の名を呼ぶときはただ謝罪を繰り返した、か細くも弱々しい悲痛な声。
──ごめんね徹郎、ごめんね。こんな苦労をさせてごめんね。弱い母さんでごめんね。ごめんね、
病人に謝られるのは、疲れる。
「面倒をかけてすみませんでした」
翌朝、 見立て通りにすっかり熱の下がった譲介は恐縮した様子で頭を下げた。
「テメェは患者に謝られて嬉しいのか?」
まだ1日は安静にさせるつもりだったが、もう殊更病人として扱う必要もないだろう。そう思って言い返せば予想より険のある声が出てしまった。譲介は一瞬目を丸くして、それから少し気まずげに、はにかむような微笑みを浮かべてみせる。
「ほんとは、ちょっと嬉しかったんです。つきっきりで看てもらえて。……ありがとうございました」
途端、TETSUの胸中に言い知れない安堵が広がった。無理矢理言わせたようなものなのに現金なことだ。もちろん自分自身のことである。複雑な心境が顔に出たのか、譲介は不思議そうな顔で瞬きをしている。
無性に悔しさを感じたTETSUは無言で元患者の手を伸ばし、色合いも手触りも淡い髪の毛をわしわしと撫で回した。