昼間は四十度近くまで気温が上がるこの町では、昼過ぎになると人の姿がいっせいに消える。
屋台も、果物の山を積んだ露店も、カフェの椅子までもが引っ込められ、通りには誰もいなくなる。
代わりに、乾いた風だけが町をゆっくりと横切っていく。細かい砂を舞い上げながら、まっすぐに、誰の声も乗せずに吹き抜けていく。
地平線に這うように並んだ低い建物と、静かな時間の流れ。ここがどこなのか、あまり詳しく知らないまま来た。
地図を見ても、線がいくつも交差しているだけで、何か決定的なものに触れる感触がない。飛行機を降りたとき、カメラマンは「ここは空がいい」と言っていた。
確かにそうかもしれない。
広くて、淡い藍色。雲はほとんどなく、陽射しが容赦なく降り注ぐ。光に焼かれた景色は、すべての輪郭が少し白んで見えた。空気の層が揺らいで、遠くの壁がわずかに歪んで見える。
最初に口にしたのは、薄焼きのパンだった。
撮影の合間、地元の子どもたちが身ぶり手ぶりで案内してくれた店。店舗と呼べるかどうか微妙な、路地の奥に置かれた素焼きの壺窯が厨房だった。
生地は壺の内側にぺたりと貼りつけて焼かれる。手際良く次々と焼きあがっていくさまは、どこか儀式めいて見えた。
焼き上がりを待つあいだ、子どもたちは俺に絡みついたり、スタッフが発した日本語を真似て声に出しては笑っていた。なにを言っているかはわからない。でも、笑う声の調子にはどの国でも変わらない親しみがあって、彼らの目の奥にある、あけすけな好奇心は好ましいと思う。
そうして焼き上がったナンは、塩と油の味がした。外は火の匂いを纏って香ばしく、中はしっとりとしてやわらかい。
地元の人たちはそれを手でちぎり、トマトの煮込みや豆のペーストと一緒に食べていた。俺もそれに倣ってみる。
口の中でスパイスの香りが広がると、知らない世界に一歩踏み出したような気がした。旅をしていて一番楽しいのは、この瞬間だと思う。陽射しで照らされた指先の油は、強い日差しで透明に光っていた。
午後二時を過ぎるころ、町は影の中に沈みはじめた。白昼のまぶしさが少しずつ薄れ、壁の陰がじわじわと伸びていく。
日陰を求めて、一匹の猫が路地を歩いていた。
低く築かれた白い壁に嵌ったアイアンの格子窓。屋根の上には色褪せた絨毯が干され、壁には剥がれかけたポスターが貼られている。
誰も乗っていない自転車が、百年前からそこに居るように佇んでいた。
旅番組だから、いろんなものを撮る。食べ物、町並み、人の笑顔。けれど、ふいに訪れる沈黙の時間のほうが、あとになって思い出すことが多い。
痕跡のように、置き去りにされた生活があちこちに残されている。俺はそんな物を見ると、まるで滅びた国に立つような寂しい気分になった。
日が傾くと、町はゆっくりと目を覚ましたように、また動き始めた。屋台がぽつぽつと開きはじめ、金属の串が炭火の上で音を立てる。羊の肉、焦げかけた玉ねぎ、薄いパンに包まれた香草の香り。香辛料が風に乗って、まるで見えない絨毯のように町中に広がっていく。
焼きたての羊肉の串を持って歩いていると、通りの角でひとりの男に話しかけられた。彼は、俺の顔を見て、何か短い言葉を発した。通訳によれば、彼は俺の顔を見て「旅人だな」と言ったらしかった。
この撮影の中で、俺には目的が与えられていない。ただ移動して、何かを見て、食べて、少し話す。風景の端をなぞるようにして、誰の記憶にも残らずに通り過ぎる。それはまさに、旅人のあり方なのかもしれないと思う。
夜になると、空が急に冷え込んだ。昼の熱が嘘みたいにすっと引いて、砂の上に冷たい風が降りてくる。屋台の光だけがぽつぽつと点り、町はまた静けさに包まれる。
どこかの家から、かすかに音楽が聴こえてきた。金属の弦をはじくような音だった。
通り沿いの家の前では地元の人たちが絨毯の上に座ってお茶を飲んでいて、俺もそこに誘われた。ミントの葉が浮かんだ甘いお茶を一杯もらった。小さな湯飲みのようなグラスの中に、透き通った琥珀色がゆれていた。
明日にはこの町を発つ。名残惜しさはそれほどないけれど、乾いた風と午後の静けさは、時間が経っても時々思い出すだろう。