午後の光が、やわらかく室内を満たしていた。
古びた木の床に差し込む陽射しが波のように揺らいでいる。開け放たれた窓から山の風がふいに吹き込み、カーテンの裾をふわりと持ち上げた。乾いた土と草のにおいが、室内にまで入り込んでくる。
日ごとに陽は高く麦の穂は膨らみ、白い花が畑の隅にぽつりぽつりと咲きはじめる頃。庭の木も薄緑の葉を重ねながら、夏の準備を静かに進めている。暮らしのなかに、季節の輪郭が少しずつ浮かび上がってくるようだった。
ゼルダはテーブルに向かい、小さく息をついた。膝の上には、冬に着ていた上着が広げられている。袖口のほころびに指を沿わせると、小さな裂け目が指先にひっかかった。寒さを越えてきた布の記憶が、そこに残っていた。
針箱の蓋は開かれたまま、隣に置かれたカップからはかすかにハーブの香りが立ちのぼる。
家の中は、驚くほど静かだった。聞こえてくるのは、遠くで遊ぶ子どもたちの声と葉擦れの音がときおり重なる風の気配だけだ。
ゼルダはそっと針に糸を通し、その指先を見つめた。柔らかく日に照らされた自分の手が、どこか見慣れないものに思える。まるで、別の人生のなかで、少しずつ編まれてきた手のように。
この手で針を持つようになったのは、ほんの数年前のことだ。
百年前――英傑たちに授ける装束を仕立てていたのは、姫巫女として課せられた務めであり儀式的な意味合いが強かった。
今になって思えば、ひと針ごとに込めていたのは祈りではなかった。形式に追われ、決められた色、定められた文様。仕立て上げた先にある運命さえも、すでに誰かによって選ばれているように思えた。
こうして生活のために針を持つとき、布と糸が指にしっくりと馴染む気がする。
綻びを見つけ、少しずつ縫いとめていく。ひと針ずつに、時間が確かに積み重なっていくのが感じられる。縫うという行為がこんなにも静かでこんなにも心に近いものだったとは、彼女はこれまで知らなかった。
ゼルダは針を持つ手をじっと見つめる。数か月前まで、彼女の手には退魔の剣があった。
世界を救うために、それが最善だと信じた。そうするしかないと思った。
けれど、その選択がリンクをどれほど傷つけたのかを、彼女はようやく想像することができるようになった。
こうしてささやかな時間の中に身を預けていると、その選択の苛烈さが鋭く立ち上ってくる。人として生きる道を享受することを、あのときのゼルダは手放した。一縷の望みを懸けて選んだのは、孤独な空だ。
取り返しのつかないその選択を、正しいものにしてくれたのはリンクだ。いつもいつも、未来を繋ぎとめてくれる。
そんなことを考えながら、針を布に落としていく。
小さな裂け目を繕うように、過去を縫い直すことができればどんなに良いだろうと思う。
窓辺の光が淡くなり、影が少しずつ伸びていく。空気がゆるやかに冷えはじめたとき、かすかな、けれど聞き慣れた音が耳に届いた。こと、こと、と響くのは吊り橋を渡る足音。一定の確かな歩調はリンクのものに違いなかった。
軋む戸口の音とともに、草の匂いをまとった風が家のなかへと滑り込む。
「おかえりなさい」
「ただいま」
リンクの腕には、いくつかの野菜が無造作に抱えられていた。朱色がまぶしいニンジン、ごつごつとしたジャガイモに、少し形の崩れたラディッシュも混じっている。初夏の陽を浴びて育った、季節のはしりだった。
見た目は素朴でも、手に取ればずしりと重く、土のにおいがかすかに残る。育てた人のまなざしや、収穫のときに交わした言葉の余韻までも、そこに宿っているようだった。
「村の人たちが持たせてくれたんですね」
ゼルダは立ち上がり、そっとそれらを受け取った。土の粒が指にこぼれ落ちる。
「ゼルダによろしくって」
言いながら、リンクはテーブルの端に残された繕い物にふと目を留めた。ゼルダはその視線に気づき、一瞬だけ口を開きかけた。
――あなたの服も、直しておきましょうか。
けれど、その言葉は喉の奥に引き留められて声にならなかった。
彼は、何でもひとりでやってのける人だった。旅を重ね、戦をくぐり抜けるなかで、誰にも頼らずに暮らしを整えてきた。
ゼルダが帰還したとき、彼の身を包んでいたのは、英傑の服だった。それは、ゼルダが彼に贈ろうと用意していた大切な品だ。
真新しかった英傑の服には、ところどころに縫い目が重ねられ、色のわずかに違う糸が丁寧に走っていた。彼女が龍となって空を泳いでいる間、彼はその衣を繕いながら着続けていたのだ。
その姿を思い出して、ゼルダの胸には複雑な感情が滲んだ。手出ししようとすることが、かえって彼を煩わせてしまうかもしれない。
それに、どこかでまだ、彼はゼルダに仕えてきた者という立場を引きずっているように見えた。ほんのささいな瞬間の遠慮にも似た沈黙や、さりげない視線の伏せ方。
そんな場面に触れるたび、手を伸ばすことをためらってしまうのだった。
結局、彼女は黙ったまま針箱をそっと閉じてテーブルを片付けた。その背中に、リンクは何も言わなかった。
やがてふたりは、黙々と夕食の支度に取りかかった。リンクがもらってきた野菜を水で洗い、薄く皮を剥く。
ざくざくと切られたジャガイモとハイラル草を鉄鍋でじっくりと炒める。油のはじける音が、部屋の空気に少しだけ活気を与えた。マックスサーモンの燻製は骨を外し、皮ごとほぐして器に盛る。ゼルダはもう一つの鍋で、手早くニンジンのグラッセを仕立てた。鍋底にバターと蜂蜜を落として柔らかくなるまで煮含めると、甘い香りが立ちのぼった。
火を落としたあとの竈の余熱がゆっくりと失われていくころ、リンクがゆっくりと口を開いた。
「もし、時間があればでいいんだけど」
そう言って、彼は椅子の脇に置いてあった包みを手に取った。
布を解いて差し出されたのは、一枚のマントだった。色褪せた灰青色。裾が擦り切れ、ところどころ糸が浮いている。
「……これも、繕ってもらえませんか」
その一言に、ゼルダは思わず目を見開いた。リンクの声には、ほんのわずかな躊躇いがあった。それはかつて、ゼルダからあらゆるものを託されてきた彼が今ようやくその手に重ね返す、ささやかな願いだった。
「……私でいいんですか」
彼女の声は、驚きとそれを抑えようとする気持ちにわずかに揺れていた。リンクは、はっきりと頷く。
「ゼルダに、やってほしい」
言葉は短かった。けれど、その中に込められた思いは決して少なくなかった。
ふたりは並んで腰を下ろした。
マントを膝に広げると、古びた布地がわずかに温もりを含んでいた。使い込まれた毛織は手に馴染み、時間の重みがそこに確かに宿っていた。
ゼルダは静かに針箱を開き、糸を選ぶ。マントの地にいちばん近い、夜明けの岩肌のような青。
それを針に通すあいだ、リンクの言葉を思い返した。
彼ならば、このくらいの繕いなど難なくこなせただろう。むしろ、ゼルダよりもきれいに仕上げたに違いない。
それでも、いま、この布に糸を通す自分にしかできないことをしよう。
この一針が、彼の無事を繋ぐものでありますように。
この布が、これからも彼の背を守ってくれますように。
祈るように、針を刺した。
外は、すっかり夜の気配に包まれていた。部屋の片隅で灯るランプが、ふたりの影を長く伸ばす。
言葉の代わりに手が動く。布の上を細い糸が走る。小さな裂け目が、少しずつ繕われていった。