《雪のナポレオン商店街》 34×52 cm 2024年 目を、奪われた。
ザラザラとした質感の白色の壁、どんよりとした曇り空。
小さな美術館の奥にひっそりと飾られたその絵に魅入った自分は、気が付いたら走り出していた。冬の寒い空気が肺を刺すことも厭わずに。描きたい、ただその衝動を抱え、ハウスへの道を急いだ。
「オバケくん、また部屋から出てないみたいだね」
「えぇ、大丈夫でしょうか。天彦少し心配です」
テラさんと天彦さんが、夕飯のシチューをスプーンで掬いながら、そう心配そうにぽつんと一つだけ空いた空席を見やった。
大瀬さんが部屋から出なくなって1週間が経った。前も何度か大瀬さんが部屋に引きこもる事はあったけど、こんなに長いのは珍しい。しかも、最近は引きこもる日も減ってハウスの皆と交流することも増えていたから尚更みんな心配していた。
「僕、ご飯持ってく時に少し様子見てきますね」
もしかしたら体調を崩してるかもしれない。大瀬さんはすぐそういうことを隠したがるから。本当に困った人。普段奉仕出来ない分沢山奉仕出来るかも。部屋も綺麗にして洗濯物も溜まってるだろうからこの隙に……
「おい、いお。何ニヤケてんだよ。メシ、おかわり!」
「あっ、なんでもないっ!かしこまりっ!お肉多めに盛っておくね」
「ん」
猿ちゃんのお皿におかわりのシチューを盛るのと同時に、大瀬さんの分をよそうと鍋は綺麗に空っぽになった。
大瀬さんはシチューの時ご飯派だから……と思い出しながら平皿に薄くご飯を盛る。今日はパンの気分かもしれないから一応ディナーロールも1つお皿に載せ僕は大瀬さんの部屋へ向かった。
「……さ〜ん、奴隷で〜す!ご飯持ってきましたよ〜!」
扉を軽くノックする音で目が覚める。頭ががんがんする。痛い。きもちわるい。首を吊ろうとした所までは覚えてるけどその後の記憶が無い。どうやらまた失敗したみたいだ。クソ。早く死ねばいいのに。
「大瀬さん大丈夫?」
今は、だめ。入らないで。汚い、見ないで。そんな願いは虚しく、ノックの主はいつもみたく無遠慮に部屋に侵入してきた。
「うわっ、酒臭っ……」
気持ち悪くて声も出せない。入らないで、だめ、って言いたいのに。
「大瀬さん、大丈夫」
いおくんは僕に駆け寄って抱き起こしてくれた。近付かないで、いおくんの手が腐る。あとそんな揺さぶらないで、ほんとに今気持ち悪いから。
「大丈夫?起きれる?」
「う……おぇ……」
頭がぐわんぐわんして胃液が込み上げる感覚を覚える。本当に吐きそう。
「酔っ払ってます?気持ち悪い?立てますか?」
「いおく……んっ……ごめ……吐きそ……」
だめ。どうにかしてごみ袋を探さなきゃ。アルコール漬けの不明瞭な脳みそを働かして最悪の事態を防ぎたい。
「え、吐く?トイレまで歩ける?」
いおくんは僕の肩に手を回し、立ち上がらせた。口内にヨダレが満ちるのを必死に手で抑える。胃がひっくり返る感覚が自分を襲う。口元を抑えるも喉から何かが込み上げてくる。足の感覚は薄く汗がじわじわと身体中を這う。
「うっ……ぐ……」
「もう少しだから、もうちょっと耐えてね〜」
いおくんの細い肩がいつもよりすごくしっかりして見えた。あぁ、ごめんなさい。申し訳なく思っているとまた吐き気が込み上げてきた。
2人でフラフラになりながらようやくトイレにたどり着いた。
「ぇっ………」
頑張って吐こうとするも、体が震えて吐けない。出るのは唾だけで、気持ち悪いのは収まらない。なんで……
「大丈夫?吐いた方が楽だよ……」
「ごめ、なさ…い……っ……げぇっ……」
優しく背中をさすさすと撫でられるが、体が震えるだけだった。
「大瀬さん、ちょっとごめんね」
「!?、お、げぇっ……っ……ごぇっ……」
次の瞬間、いおくんは僕の口に手を突っ込んだ。細い指が喉奥を撫でる。生理的な涙があふれる。反射的に気持ち悪いのがどんどん込み上げる。
だめ、汚しちゃう。ごめんなさい。
ごぷ。
「っ……ぉっ……」
「良かった……大丈夫?まだ出そう?」
ようやく僕は吐き出すことが出来た。いおくんの指は事務的に僕の喉奥を押す。絶えず自分の口からは汚いモノが溢れ出していた。
反対の手で優しく背中を撫でられると、辛さも一緒に吐き出すように、自然と目から涙が零れて悲しい気持ちが溢れ出した。
「うっ……ぐすっ……はーっ……はーっ……」
やってしまった。
酸っぱい臭い匂いが個室を満たす。いおくんの綺麗な手はすっかり自分のゲロに塗れて汚くなっていた。申し訳が無さすぎる。本当にゴミ。カス。死ね。
「大瀬さん大丈夫?何か辛かった?」
「ぐすっ……すみません……クソ吉のゲロ処理なんて……本当に申し訳ない……死にます」
「死のうとしないで!大瀬さんのなら別に汚くないし!それよりどうしたの?こんなにお酒飲んで、引きこもって……」
「展覧会で、雪の降る情景を描いた絵を見たんです。凄く素敵な白色で。自分も描きたい、描かなきゃって思って……でも、描けなくて……」
いつもなら、いおくんのことを突っぱねてたのに、今日はなんだか話してもいいかな、なんて思ってぽつりぽつりと話し始めた。
次第に涙が目に溜まって声が震える。ダメだ。これ。泣いたらまた迷惑を掛けちゃうのに。
「前にも1度、描けなくなった時があって、思い出したら怖くって……!」
耐えきれなくて鼻をすする。飲み込んだ涙は熱くてしょっぱかった。
「それで、こんなにお酒を飲んじゃったの?」
「はい……本当バカですよね……お酒でどうにかなるものじゃないし」
「そんなに悩むなら今は描かなきゃ良いんじゃない?」
「へ……?」
予想外の返答に間抜けな声が出た。
「だってそんなに苦しんでまで描く必要無くない?期限がある訳でも無いんでしょ?」
まるで1+1が2であることを言うみたいにいおくんは簡単にそう言った。
「僕は大瀬さんみたく何か作ろうとか描こうとか思うことはないから分からないけどさ……大瀬さんが苦しそうにしてるのは嫌だよ」
「……いおくんってやっぱ変」
僕は話を終わらせるみたくレバーを押して水を流した。
「変って何!? 大瀬さんの方が変でしょ!?」
「早く、手、洗った方が良いですよ。腐りますよ」
「言われなくても洗うよ!もう!」
いつもの言い合いになりながら僕達はトイレを後にした。
「ん、何これ」
大瀬さんが引きこもりを辞めて2週間が経ったある日、扉を開けると外に何か立てかけてあったみたいで僕はそれを倒してしまった。
拾い上げたそれはなかなかの大きさのものだった。
「大瀬さんがくれたのかな……商店街?これ僕?」
「いお、どうした?」
隣の部屋から猿ちゃんがちょうど顔を出した。
「猿ちゃん……これ、大瀬さんがくれたのかな?貰っていいってこと?」
「お前の部屋の前に置いてあったんならお前のもんじゃねえの?貰っとけば?」
「ふふ……うん。後で大瀬さんの好きなスノーボールクッキー焼いてあげよ」
《雪のナポレオン商店街》
34×52 cm
2024年 2月
湊大瀬美術館蔵
シェアハウス期の大瀬の代表作の1つ。
この時期の大瀬が好んでいた、白色を多用した作品である。
右下に塗りつぶされたサインから、ルームメイトであった、友人、本橋依央利へ贈ったものであると読み取れる。
当時の写真から、遠景に描かれた緑色のパンツを履いた人物が本橋依央利なのではないかと言われている。