Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    torimune2_9_

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 23

    torimune2_9_

    ☆quiet follow

    歪んだ共依存炎ホからのすれ違い別れ話からのODネタと性癖を詰め込んだ話になってます。前回の進捗報告から随分と書き進めたような気がするのにまだ終わらない。

    愛の在処ver.2
    胸の奥が痛いのだと、初めてそう伝えたのはいつだったか。
    情報を敵に売ろうとしていた職員のことを伝えた時。公安がマークしていた思想犯の息子に近づき、入手した情報を報告している時。悲しいという感情も辛いという言葉もよくわからないままで、ただ、胸の奥にツキンと棘が刺さったような痛みがあった。
    どんな些細なことも報告するようにと言われていたから、ホークスは感じたままを報告した。その時の担当の表情をよく覚えている。痛みを訴えるホークスに始めは慌てふためき、求められるまま説明をしていくうちにその表情は驚愕から悔し気なものへ変わり、そして、ホークスよりもよほど苦しそうな顔をして、冷たい手が頭を撫でた。
    『すみません、ホークス……僕たちは、本当に、なんてことを』
    ホークスには、彼がどうして謝っているのか分からなかった。公安はホークスをヒーローにしたくて、ホークスはヒーローになりたい。ヒーローになるために必要なことは何でもすると、そう決めたのはホークスだ。なのにどうして彼がそんな顔をするのか、子供の自分には分からなかった。
    『いつか僕たちの愚かさに気付いた時、君は僕たちを恨むでしょうか。……そうであってほしいと、そう思うことすらおこがましいんでしょうけど』
    痛み止めだと、そう言って差し出された手が震えていたように見えたのは都合のいい記憶だろうか。
    『どうか、僕らを許さないでください』
    その薬は、酷く苦かった。
    けれどその瞬間、確かに心が軽くなったように感じた。



    「エンデヴァーさーん。入れてくださーい」
    分厚い防弾ガラス越しに、書類を眺めるエンデヴァーに向けて声を掛ける。きっとこれが敵や敵の攻撃だったら、少なくとも数秒前には立ち上がり迎撃姿勢に入るだろう。だが、ホークスに対してはそうではない。呆れたようにこちらを見て、それから仕方ないといった様子で窓を開けてくれるのだ。
    「玄関から来いと何度言ったら分かる」
    「だってこっちの方が速いんですもん。それに、そんなこと言いながらちゃんと開けてくれるじゃないですか」
    「貴様が懲りずに来るからだろう!」
    エンデヴァー事務所の窓から入る人間なんて最初から最後まできっとホークスだけだ。敵はそもそも立ち入る前にエンデヴァーが撃ち落とすだろうし、他の飛行系ヒーローは思いつきもしないだろう。そんなちょっとした、きっとホークス以外にとってはくだらないオンリーワンのために態々空から飛んできていると知ったらエンデヴァーはどんな顔をするだろうか。
    「お邪魔しまーす」
    窓枠をくぐり、羽根を折りたたむ。そのまますぐ横に降り立てば、エンデヴァーは一瞬不思議そうな顔をして首を傾げた。
    「……香水か?甘い匂いがするな」
    「あー、すみません。糖分補給で飴舐めてるんでそれですかね」
    ころりと口の中で飴玉を転がして苦笑する。いちごみるく味と言うだけあって甘ったるく、匂いも同じくらいに甘いものだ。以前事故現場で救助した子供からお礼にと貰ったもので、まだいくつかポケットの中に入っている。
    「いつもは手っ取り早くブドウ糖のタブレット持ち歩いてるんですけど、丁度立ち寄ったコンビニで売り切れてたんですよねぇ。で、ポケットに入ってたのがこれくらいで」
    エンデヴァーさんも要ります?と同じいちごみるく味の飴玉を手のひらに乗せれば、エンデヴァーはため息を吐いてそれを受け取った。ただでさえ小さな飴玉が、エンデヴァーの手に乗るとさらに小さく見える。以前なら、例えば最初に出会った頃ならまず受け取ってはもらえなかっただろう。きっとくだらんと一蹴されて終わりだった。その頃に比べれば、随分な進展だろう。
    「補給が必要なのは分かるが、飛びながらはやめろ。喉に詰まらせても知らんぞ」
    「あはは。そしたら思いっきり背中叩いてくださいね」
    けらけらと笑いながら、奥歯で飴玉を噛み砕く。挨拶はおしまいだとばかりに笑みを消せば、それを合図とするように、僅かに空気が張り詰めるのが分かった。
    「――それで……例の“切り裂きジャック”、進展はどうですか?」
    “切り裂きジャック”、というのはこの数か月都内で発生している通り魔事件のことだ。被害者は既に四名。
    凶器は不明だが、被害者は全員鋭利な刃物で切り裂かれたような傷を全身に負っている。死者こそ出ていないものの、見つかるのがあと少し遅ければ失血死の可能性すらあったという。巨悪が打倒されたとはいえ、未だ市民の心に不安が残る中での無差別事件。事態を深刻に見た公安から直々にホークスへエンデヴァー事務所の補助に入るよう要請があったのは、つい先日のことだった。
    「どうせ貴様の耳にも入っているだろう」
    「まあ、ある程度は」
    一人目は二十代のフリーター。男性。帰宅途中に襲われたのか、コンビニの袋を持ったまま倒れているところを通行人が発見。傷は多いものの所持品を奪われたような形跡はなく、この時点では被害者個人を狙った怨恨の可能性を疑われていた。
    二人目は二十代の会社員。女性。朝方自宅近くの公園で倒れているところを近所の住民が発見。一件目と同じ状況であったことから同一犯と思われたが、被害者同士に接点は見つからず捜査は難航。
    三人目は三十代の警察官。男性。先に起きた二件の事件を受けパトロールしていたところ、交代の時間になっても連絡が取れないことを不審に思った同僚が捜索し、発見。警棒や拳銃を取り出そうとした形跡がないことから、不意を突かれたか、それとも、油断するような何かがあったのか。
    そして四人目の被害者は――
    「――ついにプロヒーローが被害にあったとか」
    声を低くして言えば、エンデヴァーもまた眉間に皺を寄せて頷いた。
    「やはり知っていたか」
    「ええ。といっても知っているのはそれだけです。襲われたのはこの辺りのヒーローですか?」
    「そうだ」
    肯定の言葉とともに資料が手渡される。中身を捲れば、襲われたヒーローについての情報と捜査状況について記されていた。ともに仕事をしたことはないが、名前は知っている程度の中堅ヒーロー。個性は「衝撃波」で、恐らく近・中距離戦に向いたもの。個性もそうだが、今までの経歴を見ても、素人に後れを取るようなヒーローとは思えなかった。
    「管轄は違ったが、隣接していることもあって一連の事件についての情報も共有していた。少なくとも平時より警戒していたはずだ」
    「なのに襲われた。これまで同様、抵抗した痕跡もない……」
    例えば死柄木の「崩壊」のような、触れて即発動するような個性であれば抵抗する間もなくというのも理解できる。せめて個性が予測出来ればそこから被疑者を絞り込むこともできただろう。ただ被害者を切り裂いただけなら、風を操る個性や身体を刃物にする個性など候補も対策も浮かぶ。だが、今回の事件で切り裂かれたのは被害者の肉体のみ。身に着けていた衣服も、被害者の周辺も、肉体以外何一つ傷が残っていない。そのためこれだけ被害者が出た今も犯人の個性は未知数のままだ。
    そしてなにより、捜査を難航させている要因がもう一つ。
    「被害者、まだ誰も目を覚ましていないそうですね」
    一連の事件の被害者は全員セントラルに入院中だ。なのに未だ誰一人として目を覚まさない。最高峰の医療技術を保持するセントラルにおいて、それは明らかに異常なことだった。
    「……ああ。医者の見立てによれば、昏睡状態の原因は外傷によるものではない可能性が高いらしい。実際、一件目の被害者の治療は殆ど終わっている」
    「薬物反応も白なんですよね?それなのに目覚めないとなると……傷の他に個性を受けている、とか?複数犯による犯行であればそれも不可能ではありませんが、だとしても個性の絞り込みは難しいですね。それに、随分と派手に動いている割に手がかりが異様に少ない。本当に無差別なんでしょうか」
    目撃情報もなければ、犯行現場はどれも監視カメラのない場所。単独犯だろうと複数犯だろうと、衝動的な犯行とはとても思えない。
    エンデヴァーも同意見なのだろう。頷きながら、険しい表情で資料に視線を落とす。
    「……塚内たちもそれは疑問視しているようだ。だが、被害者たちの意識が戻らん以上それを突き止めるのは難しいだろう」
    「まぁ最近はネットの繋がりもありますからねぇ。家族や友人、同僚も把握してない人間関係なんていくらでもあるでしょうし」
    そんな中から被害者たちの接点を見つけようと、きっと塚内たちも奔走しているはずだ。ならばこちらも出来ることをやっていくしかない。
    「今までの傾向から見て、間隔はおおよそ二週間。前回から既に十日が経過している。一、二日の誤差を加味しても、これまで通りなら早くても二日後には次の犯行が行われるというのが警察の推測だ」
    「個性の発動に条件があるのか、別の理由か……。被害者の共通点も犯人の目星もついていない以上、この期間に全力で張り込むしかないってことですね。巡回ルートの共有、もう塚内さんに依頼してます?」
    「ああ。それも含めて明日事務所に顔を出すと言っていた」
    「なるほど。ま、俺はいつも通りルート外と防犯カメラのない路地を中心に羽根を飛ばすことになるでしょうけど……」
    現時点で犯人の行動範囲はそう広くない。これなら全体に飛ばしたとしても羽根は足りるはずだ。ただ警察官やヒーローまで被害にあったことを考えると捜査員にも羽根を渡しておいた方がいいだろうか。そうすれば、悲鳴一つ上げずに倒れたとしてもその音を羽根が拾う。犯人の個性が羽根からホークスへ伝播するようなものでないという保証はどこにもないが、多少のリスクを飲んででも保険はかけておくべきだろう。
    と、そこまで思案して、先ほどからエンデヴァーが黙り込んでいることに気付いた。眉間に皺をよせ、固く閉じた唇は怒りに震えているというよりも何かを言い淀んでいるように見える。
    「エンデヴァーさん、何かお悩みですか?」
    「……いや、恐らく事件に直接関係するようなものではない」
    軽い調子で聞いてみれば、どこか気まずそうに視線を逸らされる。嘘を吐いているような素振りには見えない。だが、エンデヴァーの中で何かが引っ掛かったのは確かだろう。
    「恐らく、ってことはもしかしたらくらいの可能性はあるんでしょう?教えてくださいよ」
    逸らされた視線に入るようくるりと周り込めば、エンデヴァーは一瞬眉間の皺を深くして、やがて諦めたようにため息を吐いた。口勝負では分が悪いと悟ったのだろう。手に持っていた書類を机に置き、引き出しから袋に入った何かを取り出す。まるで証拠品のように保管されたそれは、数枚の手紙のようだった。
    「先日、事務所宛てに届いたものだ」
    内容を読もうと覗き込んで息を飲む。「ヒーローを辞めろ」「相応しくない」「死ね」等々、そこには、エンデヴァーへの罵詈雑言がこれでもかと記されていた。その文字を脳が認識した途端表情が凍り付いたのが自分でも分かる。保管方法からして普通の手紙でないだろうことは予想がついていたが、反射的に羽根で裂かなかっただけ褒めてほしいくらいだ。
    「なんですか、これ。こんなの立派な誹謗中傷です。警察に相談は?」
    「塚内には話をしてある。だが、事務所宛てに届いたもので差出人もない。特定することは難しいだろう」
    こちらは声を震わせないだけで精一杯なのに。エンデヴァーの、どこか他人事のような淡々とした返答に気持ちがささくれ立つのを感じた。
    「そんなん本気で探せばどうとでもなるでしょ。警察だって、貴方のSKだって、貴方が一声上げればその程度追えるはずです。エンデヴァーさん、もしかしてこれが当然のことだと、正当性のある非難だと思ってます?」
    エンデヴァーを責めるべきではない。悪いのはこんな手紙を送りつけてきた人物だ。分かっているのに、反論もせず受け入れてしまうエンデヴァーにどうしてと叫びたくなる。悪意を向けられることが仕方ないなんて、そんなことはないのに。
    「それで?今回の犯人が貴方の管轄内で事件を繰り返してるのも貴方への当てつけだと?」
    「……証拠も何もない。ただ、そう思う者も出てくるだろうと思ったまでだ」
    恐らく、まだ犯行は続く。最初は民間人から始まり、ついにヒーローまで被害に遭った。例え個性の連続発動が困難なのだとしても、間隔をあけて捜査を惑わすこともできる。それをしないのは、どれだけ警戒しようと防がれることはないという確信があるからだ。ただ己の力を過信しているだけならいい。だがもし、犯人の狙う先にエンデヴァーがいたとしたら。
    渡された手紙を指でなぞりながら、ぎり、と唇を噛む。エンデヴァー本人を狙いに来るのか、それともエンデヴァーへの批判を煽りたいのか。ようやくバッシングも収まって来たというのに、エンデヴァーの管轄内でこれ以上好き勝手させるわけにはいかない。
    「……すまない。貴様には負担をかける」
    「えっ?」
    いつになく沈んだ声色に、思わず目を丸くする。
    「今回の件で、俺個人で出来ることは少ない。貴様の個性に随分と頼ることになる」
    先ほどの情報には驚いたし怒りもするが、だからと言って捜査に携わることを負担とは思っていない。起きた事件に対して、個性の向いたヒーローが招集されるのはよくあることだ。特にホークスの剛翼は戦闘から諜報まで幅広く活用できる分自然とこなせる役割も多くなる。
    エンデヴァーとてそんなことは百も承知だろうが、とはいえ、既に複数人の被害者が出ている事件だ。自分のせいかもしれないのに出来ることは少ないとなれば、歯がゆさを感じていてもおかしくはないだろう。
    「やだなぁ。そんなしおらしい顔しないでくださいよ。なんでも一人で背負いこもうとするの、貴方の悪い癖ですよ」
    ヒーローの、エンデヴァーの助けになるのならいくらでも好きに使ってくれて構わないのに。なんて個人的な思いは心の中に留め、険しくなっていた目尻を緩める。。
    「たとえ貴方への当てつけだとしても、悪いのは貴方じゃない。そこに怒りや憎しみがあろうと、それを無関係の人間に向ける選択をしたのは犯人です。そこを間違えないでください」
    「ホークス……」
    丸くなった、というよりは柔くなったのだろう。戦闘時には変わらない苛烈さを見せつけるが、今のように、ふとした瞬間傷ついた心が露呈する。それが決して悪いことだとは思わないが、過度な自罰は自傷行為と変わらない。
    「そうだ。今晩空いてますか?うまい焼き鳥屋を見つけたんです」
    沈んでしまった空気を壊すように明るく笑って見せる。作戦開始までまだ時間はあるのだ。折角久しぶりに会えたというのに、重い空気のままでは勿体ない。そんな意図を察したのか、エンデヴァーは驚いたように目を見開いてからふっと口元を緩めた。
    「……奢ってやる」
    「ふふふ。ごちになりまーす」
    苛烈であれとは思わない。
    占有したいとも、思わない。
    ただ平穏であれと、それだけがホークスの願いだった。



    エンデヴァーとの食事は和やかに終わった。互いの近況をぽつぽつと話し、そのうちに次世代――エンデヴァーはインターンで面倒を見ている緑谷たちの、ホークスは常闇の、それぞれの成長や今後の育成方針について語り合った。傍から見れば仕事の話に変わりはないだろうが、こんな風に気を抜いて話せる相手は多くない。それはきっとエンデヴァーも似たようなものだろう。久しぶりの会合ということもあってか、互いにアルコールは飲んでいないはずなのに、時間はあっという間に過ぎていった。
    「どうでした?俺のおすすめ」
    「悪くなかったな。好みの味付けだった」
    「でしょう?んふふ、最初に食べたときから、貴方が好きそうだなって思ってたんです」
    くるくると回りながら、鼻歌交じりに笑う。飲み屋特有の陽気な空気に当てられ火照った身体には夜の冷気が心地いい。このまま飛んでいったら爽快だろうなと思いながら、突き刺さる熱視線にくくすりと笑みが漏れた。
    「もうすぐ今日が終わっちゃうんだなぁ」
    小さく漏らした言葉が空気に溶ける。
    これは釣り針だ。もしくは呼び水。
    そうしてホークスが予想した通り、空気に晒され冷め始めていた指先が、熱い手のひらに捕まった。
    「宿は取ってあるのか」
    「……ええ。すぐそこのホテルを」
    今回の案件は日帰りで終わるようなものではない。明日の夜から厳戒態勢を敷いて、場合によっては数日間その状態が続く。今までの犯行からして夜に行われる可能性が高いとはいえ、いつ何が起こるか分からない。そんな時、文字通り飛んで行けるようにと街の中心部にあるホテルの最上階を取ったのだ。
    「……来ますか?」
    そのホテルは、ここから徒歩で数分の距離にある。そして、それをエンデヴァーも知っている。
    「お前が許してくれるのなら」
    「俺が貴方のこと拒むわけがないでしょう?」
    その言葉にエンデヴァーはホッと安堵の色を見せた。毎回毎回、エンデヴァーはホークスに選択を委ねる。火傷しそうなくらい熱の籠った目で名残惜しそうな視線を向けておきながら、こちらが釣り針を出さなければ手を伸ばすこともしない。エンデヴァーに望まれていると察してしまった時点で、ホークスの中に断るなんて選択肢は存在しないのに。
    「じゃあ、行きましょうか」
    掴まれた手をそのままに、一歩踏み出す。夜の街はネオンに着飾られ、より濃くなった影がホークスとエンデヴァーを隠すようだった。互いに会話は無く、視線も合うことはない。けれど繋いだ手から伝わる熱が、足を止めるなと告げている。
    (エンデヴァーさんの手、あっつ)
    その熱に感化されるように、身体の奥から燻ぶるように熱が生まれるのが分かった。夜の静けさなんてものからは程遠い街なのに、不思議と自分たちの周りだけが切り取られているような錯覚を起こす。周りの音が遠い。自分の鼓動と、手のひらから伝わる熱だけが世界の全てに思えてしまう。
    (余裕、なか、って顔しとう)
    大股で歩くエンデヴァーに合わせたからか、ホテルにはすぐ着いた。頭を下げるフロントスタッフに朝食は不要だと告げ、腕を引かれるままエレベーターへと乗り込む。立ち止まっても、まだエンデヴァーはこちらを見ない。だが、正面を見据えるアイスブルーで渦巻く熱が、静まるどころかその温度を増していることだけは分かった。
    エレベーターを降り、取り出したカードで扉を開く。シンプルだが豪華な内装も、カーテンを開ければ見えるだろう美しい夜景も、今は視界に入らない。ガチャリ、とオートロックの鍵が締まる音が響いて、そこで、ようやく繋がれていた手が離された。
    「……シャワー、先に使いますね」
    「ああ」

    ――これから、エンデヴァーとセックスをする。だがホークスとエンデヴァーの間に同僚以上の肩書は存在しない。

    始めて身体を重ねたのは、ヒーローとしての信頼が地に落ち、ジーニストと三人で活動している頃だった。あの頃のエンデヴァーは苛烈という言葉からは程遠く、砕けた心を無理矢理元の形に組み立て辛うじて立っているようなものだった。本来であれば、休ませてやるべきだったのだろう。けれど日々悪化する治安が、目前に迫る戦いがそれを許さない。
    身体に溜まる熱を、行き場のない怒りを、抱えきれない絶望を。ほんのひとかけらでも受け止められるなら。そう思って、ジーニストのいない夜、声を掛けた。
    『俺に全部ぶつけてください』
    眠らなければいけないのに眠れない。頭の中では絶えず後悔と怨嗟の声が響く。そんな状況で、きっとエンデヴァーは判断力が鈍っていた。それに付け込んだのはこちらだ。傷ついた心に寄り添って、快楽でひと時の夢を見させる。貴方を助けたいなんて甘い言葉で、眠れないんでしょう?と言い訳を用意して。決して許されない行為だと囁く倫理観に非常事態という言葉で蓋をした。
    あの時のエンデヴァーはまだ離婚もしておらず、夫婦仲がどうあれ書類上は妻帯者だった。並べ立てた言い訳がハリボテだとエンデヴァーも気付いていたはずだ。けれど、差し伸べた手は重ねられた。求めた通り全てをぶつけるような酷いセックス。快楽など無いに等しく、ただ痛みだけが残るような行為。それを望んだのは他でもないホークスで、穏やかな寝顔を前に後悔なぞ少しも浮かばなかった。
    それが、一回目。一度で終わらなかったのは、エンデヴァーが二度目を望んだからだった。そうなればいいと微塵も思っていなかったかと言われれば答えは否だろう。ただ、それ以外に方法が浮かばなかったのも本当だ。気軽に食事にも行けない。基地としていた部屋以外、全てがエンデヴァーに敵意を向け傷つける。そんな状況で、使えるのはこの身体だけだった。それで少しでも気が楽になるのなら、せめて明日立ち上がるための休息を得られるのなら、それでよかった。
    痛みばかりのセックスが快楽を伴うようになって、行為の最中ホークスの名前を呼ぶようになって。けれど、どこまで行こうと、それは巨悪の消失とともに終わるはずの夢だった。
    それなのに。
    (……)
    きゅ、とコックを捻りシャワーを止める。備え付けのバスローブを羽織ってベッドへと向かえば、相変わらず視線は合わないままエンデヴァーが立ち上がった。
    「次、どうぞ」
    「……ああ」
    バスルームへと消える背中を見送り、タオルドライもそこそこに先ほどまでエンデヴァーがいたベッドへと寝転がる。
    ヒーロー御用達とあってセキュリティは万全だと信じているが、念には念を、だ。飛ばした羽根でカメラや盗聴器の有無を確認し、クリアリングを終えた羽根は部屋の隅にまとめてしまう。エンデヴァーが上がるまであと数分もないだろう。ベッドの上で面白くもないバラエティー番組を見ていると、予想よりも早くキィと扉の開く音がした。音のした方を見れば、バスローブを羽織ったエンデヴァーが静かにこちらへ足を進めている。個性を使えばすぐに乾かせるだろうに、それだけの余裕もないのか、臙脂色の髪から雫が落ちた。ぺたり、と一歩踏み出す度に柔らかなカーペットが濡れ、散った雫が肌を伝う。何の演出もない、ただの照明に照らされているだけのはずなのに、思わず息を飲むほどの色香を放っていた。
    「水も滴る良い男、ですね」
    軽い物言いへの返事はない。無言のまま、大きな手がホークスの肩を押す。ベッドに押し倒されたホークスはされるがままそれを受け入れ、開けたバスローブに掛かる手をそのままに、エンデヴァーの頬をそっと撫でる。
    「エンデヴァーさん」
    名前を呼んで、ようやくアイスブルーと目が合った。普段とは違い、静かなのに苛烈で、熱を孕み、そして僅かに淀んで見える。その目はホークスだけを映していて、ヒーローではない、剥き出しの轟炎司がそこにいた。
    「ホークス」
    鼻先が掠めるほどの距離で、エンデヴァーが低く唸る。
    「いいですよ。俺の全部は貴方のものです」
    「……ホークス」
    軽く触れた唇は、熱い。さらに喰らおうと、唇の隙間から分厚い舌が捻じ込まれる。迎えるように伸ばした舌はあっさりと絡めとられ、吐き出す二酸化炭素すら逃さないとばかりに隙間を塞がれる。重力に従って注がれる唾液に溺れそうになりながら必死に鼻で呼吸をすれば、ペースを乱すように舌先を柔く噛まれた。
    「ッ、ふ……ぁ、えん、……ぇ、あ、さん」
    酸欠で頭の芯がぼうっと形を無くしていく。酸素を求めるのに精いっぱいで、閉じることを忘れた口の端からは飲み込みきれなかった唾液が伝う。それなのに、まだ足りないとばかりに肌と肌が触れ合い、さらに口づけが深くなっていく。
    「んぅ、んん、んんっ、ぅ……~~ぷはっ」
    唇が解放されたのは、視界がひっくり返る直前のことだった。
    まだキスしかしていないのに、は、はっ、と全力疾走した後のように呼吸が整わない。そんなホークスを見下ろしながら、エンデヴァーは力の入らない両足を容赦なく割り開いた。
    「っひ、ぅ」
    エンデヴァーの手で温められたローションがゆっくりと孔のふちを濡らす。最初は指先で引っ掛けるように、次に指の腹がふちを広げ、ぐちゅりとナカへ押し進んでいく。一本から二本、そして三本へ。胎の奥でばらばらに動く指先が下拵えとばかりにふちを広げ、時折悪戯に前立腺を掠めてはあと一歩というところで引いていく。行き場のない熱は高まっていくばかりで、全身の毛穴からぶわりと汗が噴き出すのが分かる。
    「っ、も、あんま、虐めんで、ッ」
    露になった後孔がエンデヴァーからどう見えているのかは分からない。だが、エンデヴァーによって雄を受け入れる場所へと作り変えられた後孔が、この先の快楽を求めてひくひくと震えているのが嫌でも分かる。息を飲む音がして、指とは比べ物にならない質量が押し当てられた。
    「力を抜け」
    「は、――――ッ、ぐ、ぅ」
    返事をするだけの間は与えられなかった。ずぶり、と。限界まで押し広げられた後孔がエンデヴァーの肉欲を飲み込んでいく。何度経験しても最初の圧迫感にはどうしたって慣れない。内臓が押し上げられ、肺に残った酸素が全て押し出される。だがその苦痛を塗りつぶすほどの歓喜と快楽があるのも確かだった。
    「え、っん、でばぁ、さ」
    「ホークス、ッ……」
    ずぶずぶと飲み込まれた肉欲が最奥へと当たり、互いの身体がこれ以上ないほどに密着する。末端まで支配する熱が内側から生まれたものなのかエンデヴァーの体温なのか判断が付かない。伸びた足先がシーツを掻けば逃がさないと腰を捕まれ、揺さぶられる度に汗が散る。広い空間には自身のあられもない嬌声が響き、背中で押しつぶされた小雨覆が藻掻くように舞っては床に落ちていく。
    「ホークス、ホー、クス……ッ」
    余裕のない低い声が何度も何度もホークスの名前を呼ぶ。熱くて、気持ちよくて、幸せで。逆上せそうなほどの温度に包まれている。今この時だけは、アイスブルーにホークスしか映らない。淀みは消え、こちらを食らい尽くそうとする熱だけが爛々と光を灯している。
    「んッ、ぁ、えん、ればぁ、さ、……、ッ、は、……」
    理性が溶かされる。
    頭を回す余裕もなく、口が勝手に動き始める。
    嬌声の隙間。開いた口が「  」の二文字を紡ごうとして――
    (――だめだ)
    封じ込めるように、咄嗟に唇を噛んだ。まるでスイッチが切り替わるように、熱に浮かされた頭の奥が凍り付くように冷えていく。
    (それを、言う資格はない)
    エンデヴァーがホークスを求めるのは決まってその心が傷ついた時だ。そして、行為の時エンデヴァーは身体を密着させたがる。自分のものではない体温に少なからず安心感があるのだろうか。確かにあの頃、行為の後は魘されず眠れているようだった。
    だが、大戦は終わったのだ。エンデヴァーは離婚したが、かといってホークスと交際しているわけでもない。人肌が落ち着くのだとしても、こうして身体を重ねる相手がホークスでなければならない理由はもうなくなった。
    (それを言ったら、終わってしまう)
    今はまだ、魔法が切れていないだけなのだ。あの非常時に刷り込まれた安心感が忘れられないだけ。それもいつか時間が経てば、こんな関係は間違いだと切り捨てられる日が来る。もう何度も自問自答して、分かり切っているのに。それでも自分から切り出すことが出来ないのは、エンデヴァーを好いているからだ。誰よりも好いているから、間違いだと分かっている関係を壊せない。
    (エンデヴァーさん、好きです)
    決して口に出来ない思いを秘めたまま、いつか来る断罪に怯えながら、それでも。
    (どうか魔法が解ける日までは――)




    溺れている自覚はあった。
    きめ細かく滑らかな首筋に唇を寄せ、跡にならない程度に柔く歯を立てる。たったそれだけの刺激で肩を震わせ、ざわざわと小雨覆が揺れる。僅かに赤らんだ頬と潤んだ瞳が酷く煽情的で、ずくりと身体の奥で熱が膨れ上がるのが分かった。
    「っ、ふ」
    無防備にさらけ出された喉に舌を這わせれば、鼻から抜けるような甘ったるい声が漏れ出る。エンデヴァーしか知らないだろう雌の声だ。抱かれたいヒーローランキングなんてものの上位にいるくせに、その鳥は、たった今エンデヴァーに組み敷かれ犯されている。ああ、はやく喰らってしまいたい。ひっきりなしに甘い声を響かせるその濡れた薄桃色の唇を塞いで、この美しい身体を犯し尽くしたい。
    「えん、でば……さ、」
    「ホークス」
    熱で蕩けた蜂蜜色がエンデヴァーを映す。
    初めてこの身体を抱いた日のことは今でも鮮烈に記憶している。自分だって傷だらけで、決して余裕のある状態とは言えなかったはずなのに。お前だって休むべきだと言わなければいけなかったのに、差し出された手を拒むことは出来なかった。
    何もかも投げ出してしまいたくなるような破壊衝動にも似た痛みの中で、見えた唯一の光。まるで懺悔するように、食らうように、目の前の身体に縋りつくしかなかった。
    『大丈夫ですよ、エンデヴァーさん』
    ホークスの目はいつだって柔らかい光を灯している。年長者としての威厳も、ナンバーワンの誇りも無いような弱りきった姿を見てもなお、その瞳は少しも陰りはしなかった。だからだろうか。その瞳に見つめられている間は不思議と心が凪いだ。その肌に触れている間は、鼓動に耳を傾けている間だけは、心の痛みを忘れることができた。束の間の静寂と安堵。夢も見ないほどの深い眠り。それは砕けた心にはあまりも甘美なひとときで、麻薬のようにエンデヴァーの記憶にこびりついた。だから、

    二人だけの夜。簡素な食事を済ませ、翌日の作戦を練り――気付けば、ホークスの手を引いていた。

    一度だけなら、気の迷いで誤魔化せたかもしれないのに。二度目を乞うた時、確かに自分の中には欲が芽生えていた。そうして二度三度とその身体を抱いて、ある時、その目に映る柔らかな光の奥に別の色を見つけてしまった。己に向けられる視線が他の誰を見る目とも違うことに気付いてしまった。憐憫でも同情でもない。この男は、エンデヴァーに恋慕していたのだ。
    こんなどうしようもない男のために、身体を差し出してしまうほどに。
    (終わりにしなければ)。
    非日常は終わった。それでもエンデヴァーが求めているうちは、ホークスは喜んでその身体を差し出すのだろう。そんな関係が正しいとは思えなかった。
    それに、ホークスはまだ若い。老いていくばかりの自分とは違いこれから先は長いのだ。エンデヴァーへ抱く恋慕だってきっと異常な状況の中で生まれたバグのようなもので、「エンデヴァー」というヒーローへの憧憬や情が混ざってそう錯覚しているに違いない。
    だから。だから、そのうちホークスの目が覚めるような、相応しい女性が現れる。
    (お前を縛りたくはない)
    幸せになってほしいのだ。家族に思うのと同じくらい、ホークスには幸せになってほしい。今までの努力が報われてほしい。けれど自分では、同じものを返してやることはできない。これ以上を求めれば、きっといつかこの手でまた大切な人を傷つける。ならそうなる前に手放してやるのが正しい判断のはずだから。
    今なら、まだ引き返すことが出来る。
    普通の同僚に。
    普通の、友人に。
    「ホークス」
    (俺は、お前を)
    零れかけた言葉を飲み込んで、必死に酸素を取り込もうとするホークスの唇に食らいつく。本当は手放したくなどない。傍に居てほしい。熱で赤らんだ頬も、潤んだ琥珀色も自分だけが知っていればいい。そして叶うことなら、曝け出した欲望のすべてを受け入れてほしい。
    (どこまでも傲慢で、強欲で……自分が嫌になる)
    いつもなら解放しているだろう地点すらも通り越し、もっと、もっと、と口内を犯す。こちらが呼吸するタイミングで最奥を突き上げ、ホークスが残り少ない酸素を吐き出したところでまた口をふさぐ。驚愕に見開かれた琥珀色から溢れた雫がシーツを濡らし、やがて搾り取るように肉壁が蠢いた。
    「ッん!?ん、ぅ、んん、んーーーー!」
    熱を吐き出した瞬間、ホークスの性器からも勢いよく白濁が溢れ出す。エンデヴァーに組み敷かれ自由を奪われた身体はがくがくと痙攣するように震え、やがてふっとシーツに四肢を沈めた。真白いシーツはいつの間にか汗や白濁で塗れており、散々な状態だ。
    「……ホークス」
    意識を飛ばしたホークスの、目元に垂れた前髪を指で払う。こうして触れるのも最後にすると、そう決めた。一方的な最後通牒にホークスは怒るだろうか。それとも笑って受け入れるだろうか。
    手放される「いつか」が恐ろしいから、ホークスが真にエンデヴァーを嫌うことはないと分かっていて手放すと決めた。手放すくせに、忘れないでと願うのだ。こんなわがままな男のことを、いっそ恨んでくれればいいのにとすら思う。
    「…………、…………ッ」
    飲み込み続けた言葉は最後の最後まで音になることはなく、エンデヴァーは一人、静かに息を吐いた。



    目を覚まして、まず感じたのは全身の倦怠感だった。
    (腰、痛って……何時だ今……)
    羽根でスマホを取り画面を開けば、ホテルに着いてから三時間ほど経っている。エンデヴァーの姿が見えないが、荷物がそのまま置いてあるということはコンビニにでも行っているのかもしれない。いつもは水分補給用にと水を買っていたが、そういえば今日は買っていなかった。
    「こほ、ッ……あー……声ひど」
    通りで喉が渇くわけだと喉元を抑えつつ、もぞもぞと起き上がり、首を回す。あらゆる液体で汚れていた身体はさっぱりと綺麗になっており、シーツも真新しいものへ帰られている。行為の後に意識を飛ばすことはこれまでも数回あった。そういう時は大抵エンデヴァーがギリギリを保っている時で、今回はそれほどストレスをため込んでいるようには見えなかったのに。
    (……いつもと違ったな)
    妙に落ち着かない。
    ざわざわと胸の奥が重たいような、息苦しさにも似た感覚に襲われる。何もせずにはいられず、動かない身体を無理矢理起こそうと両手に力を込めたところで、がちゃりと扉の開く音がした。はっとして顔を上げれば、帰ってきたらしいエンデヴァーと目が合う。その手には、予想通りコンビニの袋が握られていた。
    「起きていたのか」
    「おかえりなさい、エンデヴァーさん。あ、水買ってきてくれたんですね」
    「……ああ」
    どこか声が固い。それに気付かないふりをして、ホークスは力の入らない手を伸ばした。ペットボトルを受け取り、失った水分を補うように流し込む。冷たい水が胃に流れ落ちる感覚が心地よく、あっという間に半分ほど無くなってしまった。ふう、と一息ついたホークスを見て、どこか険しい顔をしたエンデヴァーがベッドに腰かける。
    「……すまない」
    気絶するまで及んだことへの謝罪かとも思ったが、すぐに違うと分かった。分かってしまった。その瞳に固い決意の色が見えて、よく回る頭はこの先に発せられるだろう言葉を理解してしまった。
    (待って、言わんで。まだ、まだ)
    「エンデヴァーさ、」

    「もう、辞めにしよう」

    ひゅ、と喉の奥で嫌な音が鳴る。震える手を布団で隠し、無理矢理口角を上げて見せる。
    「……どうしてですか?気になる人でもできました?」
    「違う。……お前には何度も助けられた。だが、このまま続けていてもお前の献身に報いる術がない」
    「そんなもん要らんですよ。俺は貴方を支えたい、ただそれだけです」
    もしエンデヴァーが家族とやり直すというのなら、笑顔で背中を押すつもりだった。新しい恋をするというのなら、それだって本気で応援するつもりだった。けれど、報いることができないと、それが理由なら話は別だ。見返りなんて最初から求めていない。支えられればいいと、ずっとそう言ってきたのに。けれど、エンデヴァーは表情を変えなかった。
    「なぜそこまでする」
    何故、なんて。
    そんなの。
    そんなのは、
    「ッ貴方が好きだからですよ!貴方が、好きだから。だから――ッ」
    セックスの後にそんな話をするなんて最低だ。体温が、匂いが、熱視線の温度すら残るうちにそんな話をするから、枷が緩んでしまった。
    は、は、と肩で息をして項垂れる。軽蔑されるだろうか。嫌われるだろうか。断罪を待つような心地で頭を掻いたホークスに、エンデヴァーはゆっくりと言葉を紡ぐ。
    「……知っていた」
    その返答に、今度こそ息が止まった。
    「…………は」
    「お前の視線には、気付いていた。気付いていて、手放しがたいと思っていたのも事実だ。だが……お前のソレには答えてやれん。こんな関係は、間違っている」
    「…………」
    間違い。そうだ、間違っている。何度も自分に言い聞かせてきた言葉が、エンデヴァーの口から放たれたというだけでまるでナイフのように心に刺さる。答えてほしいなんて思っていなかった。ずっと、ずっと、自分ひとりで大切にしていたのに。墓場まで持っていくつもりだったのに。こんなにもあっけなく、最高に無様な形で露呈した挙句振られるなんて。
    「は、はは、ひどいひと。知ってて、振るためにわざわざ俺の口から言わせたんですか?」
    「お前はまだ若い。いつまでも俺に縛られるな」
    「ッそんなの、」
    何も知らないくせに、と叫びたかった。
    でも、エンデヴァーが望むホークスは、きっとここで笑うのだ。しょうがないなぁと笑って、新しい恋見つけるんで責任取って応援してくださいね、だとか。からっとした態度でこれからも食事には一緒に行ってくれますよね?と強請ってみたりだとか。脳内では幾らでも作り上げた「ホークス」の行動指針が浮かぶのに、張り付けた笑みを動かすことすらできないでいる。
    「……あなたに、おれは不要ですか」
    「…………ヒーローとして、これからも隣にいてほしい」
    それが、エンデヴァーの答えだった。
    ひどいひと、ともう一度声に出さず呟く。仕方のないことだ。だって、もう魔法は解けてしまった。
    「貴方の言葉に従いましょう」
    ホークスの返事に、僅かに肩を撫で下ろすのが見えた。最適解は出せなかったけれど、及第点は取れただろうか。最後まで、エンデヴァーの思うようなホークスでいられただろうか。
    「……ゆっくり休め」
    「ええ」
    伸ばされた手はホークスに届くことなく、数秒の躊躇いの後ポケットの中に仕舞われる。それが正しい距離感だとでもいうように、エンデヴァーは無言のまま背を向ける。もう、そのアイスブルーはホークスを見てはくれなかった。
    「さよなら、エンデヴァーさん」




    扉の閉まる音がして、エンデヴァーの背中が消えた直後。ぷつん、とスイッチが切れるのが分かった。ペットボトルを持っていた手が震え、落ちたそれがベッドの下に転がる。咄嗟に拾おうとするが、重心がうまく取れないままバランスを崩し、そのまま床にべしゃりと倒れこんでしまった。
    「――……は、ッ」
    せり上がってくる吐き気に口元を抑える。指先が白むほど力が籠り、喉が収集を繰り返す。どうにか飲み込もうとするも次第に呼吸もままならなくなり、やがて全身が大きく跳ねた。
    「…………ッ、お、ぇ」
    指の隙間から胃液が漏れ、床を汚す。直前に水分を取っていたからか幾らか薄まっているが、胃液の饐えた臭いと喉が焼ける感覚に思わず眉を顰める。
    「は、ッは、ぅ、ぐ……ッは、ぁ」
    荷物が視界の端に見えるのに、一歩だって動ける気がしない。視界が歪み、羽根の制御もままならない。喘鳴のような呼吸を繰り返しながらなんとか床を這い、カバンから取り出したのは、白い錠剤の入った包装紙だった。公安がホークスのために用意した精神安定剤。それをひとつふたつと取り出し、奥歯で噛み砕く。口の中で広がる粉っぽさと苦みにも慣れたもので、重たい身体を引きずりながらどうにかベッドまで這い上がる。
    (ああ、くそ、急にキたな……)
    思考が回らない。身体の芯が急激に温度をなくしていく。手足もろくに動かないのに、叫び出してしまいたいような、胸を掻きむしってしまいたいような衝動に駆られる。痛い。痛い。胸の奥が痛くてたまらない。薬が効くまでまだ時間がかかると分かっていても、一刻も早くこの痛みから解放されたいという衝動が勝っていく。
    「えんでば、さん」
    カバンの中に仕舞いこんでいたぬいぐるみを手に取り、頬に摺り寄せるように抱きしめる。少し古びたフェルト生地は本来のものよりもごわごわとしているし、かつて鳴った音も今は鳴らない。それでも、耳を押し当てれば炎の音が聞こえるのだ。
    「えんでば、おれの」
    耳を澄ませているうちに、渦巻いていた悔恨が、絶望が、ゆっくりと鎮められていく。刺すような痛みが和らぎ、遠のいていく。自分の存在すら空気に溶けしまうような浮遊感は万能感にも似ていて、今ならどこへでも飛んでいけそうな気がした。
    「だいじょうぶ」
    嫌われたわけじゃない。あの人は優しいから、真っ当にホークスの将来を心配してくれただけだ。エンデヴァーは何も悪くないのに、酷いだなんて責める言葉を吐いてしまった。こんなものを抱いてしまった自分が悪いのに。もっと純粋に、憧れだけを抱いていられたらよかったのに。
    好意を悟られてしまった自分が悪い。もう少しだけと欲を出した自分が全部悪い。いつか終わりが来ると覚悟していたはずだ。ヒーローとして「ホークス」が求められているだけでこの身に過ぎるほど幸福なことなのに、どうして涙が止まらないのだろう。
    「だいじょうぶ」
    これまで通り振る舞えばいい。今までが「間違い」だった。エンデヴァーに、ずっと間違ったことをさせてしまった。それが元に戻るだけ。正しい形に収まるだけ。
    「だいじょうぶ」
    苦しくなんてない。痛くなんてない。
    そんなものは不要で、感じる必要のないものだ。
    「……だいじょうぶ」
    心を殺せばいい。だって、ずっとそうやって生きていた。より高く、より早く飛ぶために「鷹見啓悟」を殺して生きてきた。これまでも、これからも、ずっとそうして生きていくと決めたのは他でもない自分自身だ。例えそれが、そうあれと他者に望まれた結果だとしても。
    「………………だいじょうぶ、だから」
    ――ヒーローでいなくちゃ。
    その呟きは誰にも聞かれることなく、がり、と口の中で錠剤が砕けた。



    寝覚めは最悪の気分だった。
    「……最悪」
    最悪で、胸糞悪い、懐かしい夢を見た。始めて任務で人を殺した日の夢。初めて、この手が血に染まった日の記憶。あんなのはもう随分と昔の話だというのに、大方ぐずぐずになった精神に引きずられたせいだろう。
    「からだ、おも……」
    睡眠自体は取ったはずが、妙に身体が重い。筋肉痛とは違う、鉛を飲み込んだような倦怠感。夢見が悪かったせいか?と起き上がって、気付く。かさりと音を立てたのは空の薬包紙で、しかも一つや二つではない。まさか無意識のうちに服薬していたのだろうか。周囲を見渡せば隅に纏めていたはずの羽根は散乱し、薬を入れていたはずの袋もひっくり返っている。
    「……まじかぁ」
    寝ぼけてODだなんて全く笑える状況ではないが、昨夜のことは自分が思っていた以上に精神にキていたらしい。これが市販薬ではなくホークスの身体に合わせて作られた特注品であったことは不幸中の幸いというべきか。依存性はないはずだが、一度にこの量の服薬は流石に悪影響がありそうだ。一応吐き出せるものは吐き出したほうがいいかもしれない。そう思って立ち上がろうとするが、それだけでくらりと立ち眩みがした。痛むこめかみを抑えながらよろよろと洗面台に向かい、喉奥に手をねじ込む。
    「お、ぇっ、げほ、げほっ……ッふ、ぅ……」
    今度は耐えることなく、嘔気のまま吐き出した。胃液とともに吐き出せたのはほんの数粒だったが、恐らくそれ以上に服薬していたはずだ。とはいえこの様子では殆ど溶けてしまっただろうし、繰り返したところで喉を傷めるだけだろう。不快感を消し去るように口の中を濯ぎ、顔を洗う。夢見のせいか薬のせいか、鏡に映る自分の顔色は死人のように青白かった。
    (気分は最悪、コンディションも最悪。けど自業自得だろう。切り替えろ、ホークス)
    ベッドの下に転がっていたペットボトルを拾い、残っていた中身を一気に煽る。時刻は朝の七時。事務所に顔を出す約束をしていたのは確か九時だったか。せめて顔色だけでもどうにかしなければ、折角ヒーローとして求められているのに中途半端は許されない。
    「大丈夫」
    両手の人差し指で口角を上げ、笑みを作る。ずっと昔、こうして笑顔の練習をしたように。
    「大丈夫。お前はヒーローだろ」
    そうでなければ、この身体に価値などないのだから。




    いつからか、青空を見ると赤い羽根を探すようになった。


    もう辞めにしようと、そう告げた時のホークスの表情が頭から離れない。笑おうとしているのに泣きそうなちぐはぐな表情。あれは、福岡で最初に共闘した時病室で見せたものとよく似ていた。精一杯取り繕おうとしたのだろう。けれど、できなかった。できないほどに動揺していた。
    (あんな顔は見たくないと、そう思っていたはずなのにな)
    重苦しいため息を吐いて、皺の酔った眉間を指で押す。机の上に広げた書類こそ淡々と処理しているものの、気を抜けばホークスのことを考えてしまう。
    手放してやらねばと思っていたのは本心だ。ホークスを傷つけることになっても、早いうちに終わりにしてやらねばならなかった。だが、冷静に考えれば何もこんな時に言うべきではなかったとも思う。こっぴどく自分を振った相手とこれから数日チームアップを組まなければならないなんて、ホークスからすれば酷い嫌がらせだろう。仕事にプライベートを持ち込むなとはよく言うが、今回ばかりはエンデヴァーが言えたことではない。
    (必要ならフォローを……いや、それは侮辱か)
    切り替えられていないのは自分の方だ。進まない書類を前に、はあ、と再度ため息を吐く。ままならない。大切にしたいのに、大切にしたい人ほど傷つけてしまう。
    (……どうすればよかったのだろうな)
    ――コンコン
    沈みかけていた思考を引き戻すかのように、扉を叩く音がした。
    「所長、塚内警部がいらっしゃいました」
    「……通せ」
    いつの間にか約束の時間を迎えていたらしい。一言告げれば、音を立てて扉が開く。現れた塚内はいつもより疲労感が滲み出ていて、捜査の難航具合が伺えた。
    「朝から時間を取らせてしまってすまないね」
    「構わん。俺の管轄内で起きた事件だ。何か進展は、と聞きたいところだが……その様子では芳しくないようだな」
    目の下の隈を指して言えば、塚内ははは、と力なく笑う。
    「残念ながらね。力不足としか言い様がないよ」
    これだけ事件が続いているのだ。本来であれば、未然に防ぐべく動かねばならない。それができない歯痒さからか、塚内はぐしゃりと乱暴に頭を掻いた。
    「……そういえば、ホークスは?」
    「む……」
    塚内の口から出た名前にぴくりと眉間が動く。普段のホークスであれば約束の時間に遅れるなんてことはまずない。スマホを確認すれば、今朝方送った『大丈夫か』というメッセージは既読にすらなっていなかった。
    「…………」
    「エンデヴァー?」
    心配のメッセージすら、もう送る資格はないのかもしれない。それでも何か一言をと入力しようとして、塚内が不思議そうに首を傾げるのが見えた。
    「君、ホークスと何かあったのかい?」
    ぴくり、と肩が跳ねる。
    「……何故だ」
    「普段の君なら、知らんの一言でも言うだろうと思ってね。なんていうんだろう。どっちかっていうと後ろめたいのは君の方かな?」
    「…………」
    長年の付き合い故か、的外れでないところが恐ろしい。妙に確信を帯びた物言いに、隠しても無駄だろうと喉の奥で詰まっていた息を吐く。そうだな、と小さく漏れた肯定の言葉に、塚内は意外だとばかりに目を丸くした。
    「珍しい。やけに素直じゃないか」
    「……悪いのは俺だ。心配せずとも仕事に影響は出さん」
    「そこは別に疑ってないさ。君のことも、ホークスのこともね」
    重い空気を払うように、どこか軽い調子で肩をすくめる。あらゆる場面で板挟みになってきただけあってか、塚内という男はホークスとはまた違う方向性で話が上手い。なにせオールマイトが友と呼ぶ程だ。もし自分もそうであれば、もっと他にやりようがあったのだろうか――と、そんなことを考えかけて、やめる。
    (そんなもの、今更だ)
    そうであれば、そもそも間違えることはなかっただろう。
    だから、これからが大切なのだと。過去は消えないけれど、これからどうするかは今のエンデヴァーが決めることだと。そう言ったのはホークスだった。
    「どうする?連絡してみるかい?」
    時刻は九時を十分ほど過ぎている。メッセージを送ったのは私用のスマホからだったが、仕事用のスマホから送れば流石に反応があるだろう。そう思って手を伸ばしたその時、バンッと音を立てて勢いよく扉が開いた。
    「すみません遅れました!?道中自動車事故に遭遇して救助活動諸々対応してたら時間過ぎちゃって……」
    見慣れたヒーロースーツだが、羽根が雨覆程度しか残っていない。事故は大丈夫だったのか、明日からの作戦に支障はないのか。聞きたいことは浮かぶのにうまく言葉が紡げないでいると、隣にいた塚内が資料を机に置きながらホークスを見やった。
    「それはいいけど、羽根は大丈夫なのかい?」
    「あ、明日のことならモーマンタイです。事故もよくある玉突きで重傷者はゼロですし。ただ突っ込まれたトラックがよりにもよって業務用の炭を運んでたみたいで、救助に使った羽根が真っ黒になっちゃったんですよ。で、今は玄関に置かせてもらってるんです」
    ぺらぺらと話しながら、事務員から受け取った茶をぐいっと一気に飲む。目の下に隈があるようにも、顔色が悪いようにも見えない。災難でしたよと笑うホークスは本当にいつも通りに見えて、そのことにどこか安堵している自分がいた。
    「それじゃあ早速、明日からの作戦についてだけど……」
    塚内が机の上に地図を広げ、ホークスとエンデヴァーそれぞれに資料を手渡す。自然と空気が張り詰め、全員の表情が真剣なものへと変わった。
    「今現在分かっている情報については、正直二人が知っている以上のものはないよ。事前に伝えた通り、犯行周期が一定であることだけが頼りという状況だ」
    地図には警察の人員配置が記されており、そこに警察が把握している限りの監視カメラの位置情報、エンデヴァー含めたSKの情報を追加していき、それら全てを加味した上で羽根をどこに飛ばすかホークスが書き込んでいく。可能な限り抜け穴を無くし、確実に犯人を逮捕するために。
    「ここは羽根でカバーするので、こっちにもう少し人員を動かしてもいいですか?」
    「問題ないよ。ただ戦力的に手薄になるね」
    「ならばここにSKを置こう。炎を推進力に変える機動タイプが一人いる。まだ若いが、ある程度範囲が広くても十分カバー出来るはずだ」
    「万が一欠員が出るようなら俺に連絡してください。多少の羽根は残しておきます」
    「こちらも緊急事態に対応できるよう調整はしているけど……それでも足りない時は頼むよ」
    互いのキャパシティを知り尽くしているからこそスムーズに打ち合わせは進み、机上に広げた地図はあっという間に書き込みで埋まっていった。
    「あー……結構修正入っちゃいましたね。すみません」
    「いや、君のお陰で随分まとまったよ。それに、少しでも抜け道は潰しておかないと。二人とも、明日から長期戦になるかもしれない。今日は可能な限り羽根を休めてくれ」
    そう言いながら、塚内はそそくさと広げていた資料をカバンの中に仕舞っていく。警察署に戻ってまた会議を開くのだろう。必要なこととはいえ、警察とヒーローの間で板挟みになる塚内の苦労は相当なもののはずだ。ホークスもそれを知っているからか、申し訳なさそうに眉を下げた。
    「塚内さんこそ隈酷いですよ?本部の要なんですから、休める時に休んでくださいね」
    「あはは。それこそこの件が片付いたら休暇を取ることにするよ」
    会話もそこそこに、それじゃあと早足で塚内が部屋を出る。
    自然と執務室にはホークスと二人きりになった。秒針を刻む音がやけに大きく聞こえる。何を話せばいいのか分からない。ホークスと二人きりという状況で、今まで居心地の悪さなど感じたことはなかったというのに。
    「…………、ホ」
    名前を呼ぼうとして、くるりとホークスがこちらを見た。
    「エンデヴァーさんも、少し隈が出来てますよ。大丈夫ですか?」
    「……ああ」
    嘘だ。昨日はあまり眠れなかった。目を閉じればホークスの姿が浮かんでしまうからだ。どこからか羽ばたく音が聞こえるような気がして、いつまでたっても落ち着かなかった。
    「……ホークス」
    呼び慣れているはずなのに、発した音はまるで覚えたての言葉のようにぎこちない。その一言でエンデヴァーの言いたいことを察したのだろう。にこりと向けられた笑みは見慣れたものだ。テレビや雑誌でよく見る、計算し尽された完璧な笑顔のまま、ホークスはそれ以上近付こうとはしなかった。
    「俺は大丈夫ですよ。エンデヴァーさん」
    目に見えない壁がある。
    ただの同僚では踏み込めない壁が。
    「作戦、成功させましょうね」
    「……ああ」
    それだけ言うと、ホークスは来た時と同じように扉から出て行った。軽快で騒がしい別れの言葉もなく、羽ばたく音もない。ただ扉の閉まる音が響き、しんと執務室が静まり返る。
    (…………)
    やけにあっさりとした別れに、小骨を飲んだような痛みが走るのを感じた。普段ならば。いや、これまでのホークスならと考えてしまう。ホークスに普通の距離感を求めたのはエンデヴァーだ。それなのに、今更手放した「特別」が惜しくなるなど、あまりにも身勝手な言い分だろう。
    (……それでも)
    「さみしいものだな」
    ぽつりと漏れた言葉は、静かに空気に溶けて行った。




    「……はぁ」
    半ば逃げるように事務所を後にしたホークスは、公安本部に設置された休憩用のソファでうつ伏せに寝転んでいた。身体が重い。絶え間ないノイズに頭が痛む。なんとか化粧で顔色と隈は隠せているが、気を抜くと息苦しさに襲われる。ただの睡眠不足ではない。精神的なぐらつきもそうだが、昨晩のODも原因の一つだろう。
    目を閉じればエンデヴァーの顔が浮かぶ。
    あんな顔で見ないでほしい。
    あんな声で呼ばないでほしい。
    必要とされている気になってしまう。やり直してくれるんじゃないかと、そんな都合のいい夢を見てしまう。隣にいると、あの熱に触れたくなってしまう。もうそれは叶わないことなのに。
    (はーー情けなか。エンデヴァーさんに要らん心配かけて)
    湧き上がる苛立ちをぶつけるように爪を噛む。そっちが言ったくせにと思わないでもないが、今までが近すぎた分困惑するのも仕方のないことだろう。近付きすぎず踏み込ませすぎない一般的な同僚のライン。今日の自分は、エンデヴァーが求めた通りに振る舞えていただろうか。
    「…………ふ、っ」
    震える指先でポケットを探り、薬を取り出す。昨晩でほとんど消費してしまったためこれが最後の一錠だ。連続での使用は控えてくださいね、と遠い昔に言われた忠告が頭の片隅で浮かんでは消える。よくない状況であることは明らかだが、事件が片付くまではどんな手を使っても倒れるわけにはいかなかった。
    「…………」
    目を閉じ、感知を切り、ただ静かに蹲る。五分か、十分か。耳鳴りのようなノイズが僅かに薄れた頃、キィと音を立ててすぐ横の扉が開いた。垂れた前髪の隙間から見える草臥れたスーツに、待ちくたびれたと重たい頭を持ち上げる。
    「遅いですよ目良さん」
    「君が急に呼び出すからでしょう。やっと仮眠が取れそうだったのに」
    ぼさぼさの髪に濃い隈を携えた男、公安職員である目良はこちらを見るなり苦々しい表情を浮かべた。
    「要件はメールしましたよね。薬無くなっちゃったんで追加分ください」
    「……君、この間追加を貰ったばかりじゃありませんでした?」
    「いやぁついうっかり?突発的に飲みすぎちゃいまして。福岡に戻ればまだストックはあるんですけど、ほら、切り裂きジャックの件でしばらく戻れないんですよ」
    ――嘘だ。もしストックがあるなら飛んで福岡まで戻っている。昨晩あるだけ飲んでしまったからこそ、ホークスは焦っていた。ただでさえ今はエンデヴァーといるだけで辛いのに、今回の任務はホークスの探知が頼りだ。余計な感情は削ぎ落さなければならない。例えそれが正しくない方法だとしても。
    「上手く隠しているようですけど、君、酷い顔ですよ。ほんとに調子が悪いんじゃないですか?それなら暫く服薬は止めて様子を見た方が」
    「この件が解決したらまとまった休暇を取りますよ。SKたちにも有給取るようせっつかれてますし。けど今俺が不安定になるわけにはいかないんです」
    分かるでしょう?と発した語尾に力が籠る。焦燥感と苛立ちが混ざって、取り繕った仮面が崩れかけているのだ。早く渡してくれればいいのに。白い部分の減った爪をさらに噛もうとして、咎めるように手首を掴まれる。
    「……エンデヴァーですか」
    確信を持った声に、視線が揺れた。
    「君をそこまで揺さぶるのはエンデヴァーくらいでしょう」
    「分かってるなら」
    「薬で抑え込んでどうになるんですか?」
    「…………」
    「彼だって君のこと無碍にしたりはしないでしょう。一度よく話し合って」
    まるで聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような「普通の大人」の態度に、ぷつん、と何かが切れたような音が聞こえた。それが自分の頭の中で生じた音だと気付いた時には、勢いよく目良の手を振りほどいていた。
    「しつこいですよ、目良さん」
    目良が驚いたように目を見開くが、それすらも煩わしい。
    「ッ僕は君を」
    「心配してるって?ハッ。中坊にすらなってない子供薬漬けにしておいて今更そんなこと言いますか?」
    「――!」
    息を飲む音に、思わず嘲笑が漏れる。薬自体に依存性はない。だが、幼い頃から薬でコントロールすることを教えられたホークスの精神は、傷ついた心は、もう薬なしでは癒えないよう作り変えられている。当然外の世界を知って、この異常な環境に気付かないはずがない。だが、自身の歪みを自覚したときにはもう遅かった。薬を手放すための時間など用意されるはずもなく、立ち止まらないためには薬に頼るしかなかった。最初からそうなるように計画されていたのだ。
    どれもこれも、全てはホークスという道具の手綱を握るために。
    「もういいです。確かに目良さんの言う通り、きりがない。だったら最初から俺の感情なんて消してしまえばよかったんですよ。どうせ今でも上は機会を伺ってるんでしょう?」
    書類で見ただけの情報だが、ホークスの手綱を握ろうと公安はいくつものプランを立てていたらしい。そのどれもが非人道的なものであったのは言うまでもないが、その中で真っ先に挙がったのが精神感応系個性による感情の消去だった。
    前任の離反で得た教訓だろうか。今は従順でもこの先どう心変わりするか分からない。心があるから罪悪感に苛まれる。心があるから義憤に駆られる。ならば、そもそもそんなものを感じないようにしてしまえばいいと。清々しいまでに醜悪で、とても平和を冠する組織の立てた計画とは思えない。だが一度「処置」をすれば不可逆となるそれは、ヒーローとしても人間としても成長途中のホークスに使用するにはリスクがあった。だからこそ次点として、薬物によるメンタルコントロールが行われることになったのだ。
    「まぁ確かに、貴方たちにとって必要なのは便利に使える「ホークス」で、力をつけた今鷹見啓悟の残滓は邪魔でしかないんでしょうけど」
    「ホークス」
    「俺が公安のお抱えってことが明るみになっちゃいましたからね。噛みつかれるのが怖いのか、ここまで育て上げた駒をむざむざ捨てるのが嫌なのか。会長は不確定要素が多いって言って反対してたみたいですけど、あの人ももういない。どうせ近いうちに強行してくるんでしょ?やるだけやってみて運よく思惑通り進めば御の字、駄目になったら処分すればいいってところですか?」
    「ホークス!」
    そんな大声出せたんですね、と。どこか他人事のように嗤う。そんな苦しそうな顔で名前を呼ばれたって、もう何も響かないのだ。誰にも必要とされていない鷹見啓悟という子供を生かしておくだけの価値が見当たらない。一番大好きな人に要らないと言われたものを、好きでいられるはずがない。
    だからもう、全部殺してしまいたいのに。
    「今更」
    求められているのはヒーローとしての自分でしかない。
    秩序を守る機構として動けない自分に価値はない。
    そう在れと望まれた。そう在れと名付けられた。全て虚構で出来ているのだと、誰よりも知っているはずなのに。

    「今更、人間扱いなんてしないでくださいよ」

    「…………ッ!」
    立ち尽くす目良の懐から律儀に用意してくれていたのだろう薬を羽根で奪い、そのまま窓枠に足をかける。
    「それじゃ、早めに連絡してくださいね」
    羽根を広げ、空へと飛び出す。
    ホークスと呼ぶ声を羽根が拾ったが、振り返ることはなかった。




    作戦開始から二日。
    未だ犯人に動きはない。いつどこで、どんな人物がどう事件を起こすのか。過度な緊張感はかえって視野を狭くするうえ、何もわからないまま全方位に警戒心を向け続けるという行為は精神的な負荷も大きい。張り詰めた空気を察知してか、日頃街中で勃発している小競り合いの類がぐんと減っていることだけが幸いだった。
    事件は本当に起こるのか。
    もしかしたら今回だけは、周期通りに犯行を起こさないのかもしれない。

    誰もが心の片隅でそんな疑念を抱える中、二件目の被害者が目を覚ましたと塚内から連絡が入ったのは、丁度日が落ちた頃だった。

    「本当に目を覚ましたのか」
    病院の廊下を歩きながら、前を行く塚内へと問いかける。向かう先は二件目の被害者、海野葵のいる病室だ。
    「ああ。ついさっき連絡があってね。最初は混乱が見られたみたいだけど、今は応答もはっきりしていて僕らの聴取にも応じてくれるらしい」
    「医者の見解は?」
    「性別、個性、血液型、何が要因となって彼女だけ目覚めたのか、現時点では断定できるものがないそうだ。ほかの三人は相変わらず眠ったままだしね。ただ、これで何もわからない状況からは一歩抜け出せるはずだ。……本当はホークスにも同席してもらえたらよかったんだけど」
    そこまで言うと、塚内はため息を吐く。その発言はもっともだろう。ホークスは人の懐に入り込むのが上手い。少なくともエンデヴァーよりはよほど被害者に寄り添うことが出来る上、現時点で最も情報を必要としているのはホークスだ。ただ、今のホークスは常時剛翼を飛ばし感知機能の限界まで情報を収集しており、とてもじゃないがそれ以外の仕事を頼めるような状態ではない――というのが、ホークスの補佐として傍に就かせたSKからの言葉だった。
    「想定内ではあるが、やはりアレへの負担が大きすぎる」
    「負担を減らすためにも、少しでも情報を集めないとね」
    そう言いながら、塚内の足が一つの扉の前で止まる。
    ノックをして扉を開ければ、一人の女性がゆっくりとこちらを見た。最初は全身にあったであろう裂傷も、聞いていた通りその殆どが治癒したようで包帯などは巻かれていない。ただ短くない時間眠り続けていた影響もあってか、少しばかりやつれているように見えた。
    「……警察の方、ですか?」
    「初めまして。僕は塚内、彼は……」
    「エンデヴァーだ。目を覚ましたばかりで落ち着かないところもあるだろうが、捜査に協力していただきたい」
    病院スタッフから事前に話は聞いていたはずだが、それでも目の前に現れると驚きもするのだろう。彼女はおずおずとした様子で頷くと、傍にあるリモコンを操作してベッドを起こす。どうぞと案内されるままパイプ椅子に腰かれば、静かな病室に金属の軋む嫌な音が響いた。
    「まず当時の、君が襲われるまでに何があったのか、覚えていることを教えてほしい」
    急く気持ちもあるだろうが、努めて冷静に塚内が問いかける。彼女は不安そうに視線を彷徨わせながらも、やがて意を決したようにゆっくりと口を開いた。
    「その日は病院からの帰りでした。……途中で少し気分が悪くなって、休んでいたら帰りが遅くなってしまったんです。多分、夕方の六時くらいだったかな。いつも通り家に帰る道を歩いていたら、街頭の下で誰かが蹲っているのが見えて。それでびっくしりして、慌てて大丈夫ですかって声をかけました」
    「声をかける以外には何かした?」
    「……あっ、反応がなかったので、とんとんって軽く肩を叩いたんです。そうしたらその人、いきなり顔を上げて……そう、私の手を握ったんです。……それで気づいたら、自分が地面に倒れていました。身体中が痛くて、多分その後すぐ意識を失って……何が起こったのか今でもよくわかりません」
    自身の両手を見て、彼女は困惑したように眉を下げる。本当に何が起きたのか分からないのだろう。当初の推測通り接触によって発動する個性なのだろうが、それだけでは犯人を絞るのに不十分だ。
    「犯人の顔は見た?」
    「影になっていて、はっきりとは……」
    「それじゃあ、彼らに見覚えはあるかい?」
    そう言いながら、塚内が他三件の被害者の写真を並べる。被害者同士の関係性についてはこれまでも調査し、結果として何も出なかった。だからエンデヴァーは、恐らく塚内も、彼女が首を横に振ると思っていた。あくまで可能性を潰すための典型的な質問。だが彼女は、そんなエンデヴァーの予想に反し、写真を見るなりあっと声を上げた。
    「知ってるのかい?」
    思わず前のめりになる塚内に、この情報が重要なことであると彼女も察したのだろう。写真を指さしながら、記憶を辿るように言葉を紡ぐ。
    「知り合いってわけではないんですけど……でも、ヒーローの方と、こちらは警察の方ですよね」
    「ああ、その通りだ。彼らとはどこで?」
    「……その、避難所が、一緒だったんです。刑事さんは怪我をして動けなくなっていた私を避難所まで連れて行ってくださって。こっちのヒーローの方は、道を塞いでいた瓦礫を撤去してくださったのを覚えています」
    「「!」」
    その言葉に思わず息を飲む。四人のうち三人が同じ避難所にいた。それは果たして偶然だろうか。経歴に残るような情報でも、聞き込みで見つかるような共通点でもない。警察やヒーローの動員はある程度管理されていたが、民間人に関しては到底管理が追いつくような状況はなかった。まさかそれがここにきてこんな弊害をもたらすとは。
    「……あの、」
    黙り込んでしまった二人に、彼女は不安そうな表情を浮かべる。
    「あ、ああ、すまないね、最後に、君は自分の目が覚めた理由に心当たりはあるかい?眠っている間に何か夢を見ていた、とか」
    精神感応系の個性は個性を受けた者の潜在意識に夢や幻覚といった形で干渉するものが多い。もし何か夢を見ていたのなら、その内容が個性の解明に繋がる可能性は高いだろう。塚内の問いかけに彼女は僅かに目を見開き、は、と短く息を吐いた。
    「……夢、」
    繰り返しながら彼女の表情は暗いものへと変わっていく。布団を握りしめる手は僅かに震え、ただでさえ白い肌からさらに色が抜けたように感じた。明らかな異変に塚内がナースコールへと手を伸ばすが、それを制したのは他でもない彼女だった。
    「……ずっと悪夢を見ているようでした」
    震える唇で彼女は語る。
    「暗い闇の中にいるような感覚があって……私、あの大戦で夫を亡くしているんです。何故かその時のことを思い出して、夫の死に顔ばかりが浮かんで……辛くて、苦しくて、正直目覚めたいというよりはもう眠ってしまいたい気持ちの方が強かったんです」
    聞けば、彼女のかつての住居はギガントマキアによって圧し潰されたらしい。命辛々避難所へ向かったものの、辿り着く前に夫は飛散した瓦礫によって致命傷を負った。その光景が何度も何度も繰り返されるのは、確かに地獄のような悪夢だっただろう。
    でも、と彼女は続ける。
    「聞こえたんです、子供の声が」
    震える手で、彼女は自身の腹部を優しく撫でる。今更になって、エンデヴァーはそこが丸く膨らんでいることに気付いた。
    「あの人と私の宝物。どれだけ現実が辛いものでもこの子を道連れにはできないって、そう思って。そうしたら、いつの間にか目を覚ましていました。この子が私の希望だったんです」
    そう言って、彼女はエンデヴァーたちの前で初めて笑みを見せた。誰に似ている、という訳ではない。それなのに、まだ見ぬ我が子へと向ける視線が、その表情が、記憶に刻まれた過去を想起させる。
    『――あなた、見て。大きくなってきたわ』
    かつて、まだ形だけでも夫婦だった頃の冷も同じ顔をしていた。それが愛というものだと今のエンデヴァーは知っている。当たり前に存在するものではない、得難いものだと知っている。そして、愛には様々な形があることも。
    『エンデヴァーさん』
    だからだろうか。
    『エンデヴァーさん、飯どうですか?いい店見つけたんです』
    愛という言葉で、あの青年を思い出してしまうのは。
    『エンデヴァーさんの傍って温かいですねぇ』
    『助力しましょうか?ほらほら遠慮なく言ってくださいよ』
    『あ、エンデヴァーさんも飛べるなら、一緒に観光飛行しません?暇になったら、ですけどね』
    『――あなたに、俺は不要ですか』
    あの時、エンデヴァーはホークスの愛を拒んだ。得難いものだと分かっていたのに。生半可な気持ちではないと知っていたのに。

    果たしてあれは、本当に正しい選択だったのだろうか。




    「彼女がいた避難所については公安に情報の開示を依頼する必要がありそうだね。警備に穴は開けたくないけど、そのあたりのことも含めて一度ホークスと合流しよう」

    病院を後にしたエンデヴァーは、塚内の運転する車に乗り公安本部へと向かっていた。捜査状況の報告も目的の一つであるが、主な目的はホークスとの情報共有である。今回の作戦で、ホークスは基本的に拠点から動かないことになっていた。理由は単純なもので、各所に散らした羽根から情報を拾い続けるためにそれ以外の余分をすべて切り捨てる必要があるからだ。
    特に今回の作戦では自衛に羽根を残す余裕もなく、ホークス本体に対する危機察知能力及び防御力はゼロになる。そのため護衛兼補助役としてエンデヴァーからはSKを、公安は場所を提供した。それが公安本部というのは何か狙いがあったのか、本当にホークスの身の安全を確保するためだけなのか。そう深読みしてしまうのも仕方のないことだろう。
    「……はぁ」
    溜め息を吐き、眉間の皺を解す。少しでも気を抜くとホークスの事を考えてしまう。どこか気がそぞろなエンデヴァーに気付いているのかいないのか、塚内は正面を見据えたままエンデヴァーの名を呼んだ。
    「流石の君も疲れが溜まってきたのかな」
    「そう、だな。すまん」
    「移動中くらい構わないさ。君も歳ってことかなぁ」
    しみじみと言う塚内にそうかもな、と頷く。随分と感傷的になった自覚はある。かつての、オールマイト以外なにも見えていなかった自分が見れば出来の悪い偽物だとでも思うだろう。それだけ変わったという自覚がある。それでもなお好いた相手を傷付けない方法が浮かばない自分の、なんと不甲斐ないことか。
    「……これで捜査が進めばいいんだがな」
    「もしこれで一件目の被害者も同じ避難所を利用していたのなら犯人も同じ避難所を利用していた可能性が高いだろうからね。まあ、こればっかりはぬか喜びにならないことを祈るばかりだけど」
    塚内はそこで一度言葉を切り、赤信号でブレーキを踏んだ。エンデヴァー、ともう一度塚内が名前を呼ぶ。
    「犯人の個性についてどう思った?」
    正面を見ていたはずの黒い瞳は、ミラー越しにこちらを見ていた。
    「話を聞く限り、精神感応型の強個性……恐らくはトラウマを再起させる類のものだろう。それが肉体に影響を及ぼし、傷つけられた精神は目覚めることを拒絶する。彼女は夫との子供という希望が残っていたからこそ、目覚めることが出来た。……一人の証言から断定することは出来ないが、それほど違和感のある仮説ではないはずだ」
    「そうだね。僕もそう思う。あの大戦で多くの人が多くのものを失った。もし犯人が同じ避難所にいたのなら、個性を使うのに効果的な相手を探すのもそう難しいことじゃなかっただろうし」
    言い終えた直後、再び車が動き出す。エンジン音だけが空気を震わせ、少しの沈黙の後塚内がゆっくりと口を開いた。
    「エンデヴァー。正直なところ僕は今回の事件、君は裏に控えていたほうがいいと思ってる」
    「…………」
    その言葉に、それほどの衝撃はなかった。もし予想通りの個性であれば塚内がそう言うのも無理はない。家族に支えられ立ち上がったとはいえ、燈矢との交戦で一度はぽっきりと心が折れていた。ヒーローとしてもう立ち上がれないとすら思っていた。もしその瞬間の絶望がフラッシュバックしたとして、一瞬でも動揺しないかと問われればそれはノーだろう。万が一にもその個性を受けた時どうなるか。胸に灯したヒーローとしての使命が消えることはないと断言できる。けれど、きっと無傷ではいられない。
    その上、塚内には例の手紙についても話をしている。エンデヴァーが目的である可能性が少しでもある以上、前に出るべきではないと進言するのは当然のことだろう。
    「……無力だな、俺は」
    己の足を掴むのはいつだって過去の過ちだ。力なく呟けば、塚内は明るい声で肩をすくめた。
    「ヒーローだって人間さ。相性はある。それに僕らにはまだやるべきことが山積みだろう?」
    ほら、と促されるまま窓の外を見れば、建て直したばかりの公安本部が遠くに見えた。多くのものが新しいものへと変わり、世間は日常を取り戻しつつある。皆が、新しい一歩を踏み出している。
    「僕らはホークスのサポートに徹しよう。順当に犯人が絞れれば、彼の負担も少しは減らせるはずだ」
    「……ああ」
    ホークスも、いつか前を向くのだろうか。
    エンデヴァーのことなど忘れて、新しい恋をして、あの笑顔を他の誰かに向けるのだろうか。

    それを望んでいるはずなのに、どうしてかその未来を想像したいとは思えなかった。




    胸が痛い。
    薬を飲んでいるのに、もうずっと痛いままだ。



    念のためと病院を発つ前に目良に連絡を入れていたが結局折り返しは来ないまま、エンデヴァーは塚内とともに公安へと足を踏み入れていた。目良はホークスの傍にいるはずだが、それほどまでに手が離せない状況なのだろうか。直接の連絡は諦め適当に誰かに声を掛けようと視線を巡らせたところで、背後からこちらに駆け寄る足音が聞こえてくる。振り返れば、三十代半ばくらいだろう男の姿が見えた。
    「エンデヴァー!それに貴方は確か警察の……何か御用ですか?」
    「目良に用があって来たんだが、連絡が取れなくてな。そちらから繋いでもらうことは出来るか」
    見覚えはないが、公安の職員なのだろう。任務内容には触れず端的に用件を伝えれば、男は納得したとばかりに頷いて少しお待ちくださいと頭を下げる。受付に向かった男は担当らしき女性と数口言葉を交わすと、すぐこちらへ戻ってきた。
    「五階北側の訓練室にいるそうです。ご案内しましょうか?」
    「いや、いい。時間を取らせたな」
    にこやかにほほ笑む男に礼を言い、エンデヴァーは手近なエレベーターへと乗り込む。この場所の空気は苦手だ。息が詰まる感覚と言えばいいのか。大戦を経て随分と上の人員が入れ替わったとは聞いているが、それでも組織の体質というものはそう簡単には変わらない。何より、公安は未だにホークスを便利な手駒と思っている節がある。今回の任務もそうだ。ホークスの個性が適任であることは間違いないが、どれだけ多忙だろうと公安が頼めばホークスは断らない。今回の任務に参加するために無理をして福岡での仕事を片付けたとも聞いている。
    なぜそこまで公安に義理立てするのか、エンデヴァーには分からない。拠点についても、本来であれば事務所を提供したかったのだがそれを断ったのはホークス本人だった。曰く、完全集中索敵モードの自分の対応は公安職員が慣れているから、と。情報をまとめる作業ですらそんなとをエンデヴァーのSKにさせられないと渋っていたのを半ばごねるように押し通したのだ。間接的でもいい。ただ、目の届く場所にいてほしかった。
    (……無茶をするな、と……言うくらいは許されるだろうか)
    言われた部屋の前に着けば、タイミングを見計らったかのように扉が横に開いた。目の前に現れた目良は驚いた様子もなくエンデヴァーを見上げる。前回会ったのは二日前の作戦開始直前のことだったが、僅か二日で随分と隈が濃くなったように見えた。
    「ああ、貴方ですか。受付の彼女から聞きましたよ。ナンバーワンがアポなしで訪問なんてさぞ驚いたでしょうに」
    「電話はしたぞ」
    「……おや、そうでしたか?見ての通り慌ただしかったもので」
    そう言って目良がちらりと部屋の奥に視線を向ける。釣られて奥を見れば、広い空間の中央にホークスは座り込み、広げた地図を見下ろして独り言のように言葉を吐き出し続けていた。
    「……通りで強盗を計画、人数は三人。既に拳銃を所持しているようなので優先度Cとして家を出たら取り押さえてください。次、北方面の廃工場で連合の残党が集会中。下っ端も下っ端です。優先度Eで対応を。――ビル手前の交差点で事故発生。運転手は剛翼で救助済み。一名負傷者がいます。救急車と警察の手配をお願いします。ああくそ、こんな時に個性事故はやめてほしか。さっき言った現場で民間人同士のトラブルが発生。羽根で一時的に物理的距離を取らせるので現場に向かう警察には伝えておいてください」
    どこで息を飲んでいるのかも分からない言葉の波を記録しているのか、ある職員はひたすらにペンを動かし、ある職員は記録と地図を交互に見やりながら電話を掛けている。補助として派遣していたSKたちも同様に忙しなくパソコンを操作しており、慌ただしいという言葉では収まらないような惨状となっていた。
    「……アレは」
    「聞こえた以上無視はできないと、トラブルのタネになりそうなものから要請が必要なものまで片っ端から報告してるんです。拾った傍から口に出してるので、こちらは情報の聞き取りと整理、状況確認だけでてんやわんやですよ。なにせ今の彼は垂れ流しのラジオみたいなものですから。こちらの問いかけに反応するだけの余裕はありません」
    それはつまり、休みなく常時脳をフル活用しているということではないだろうか。瞬間的または短時間で現場の状況を把握したり、片手間程度に情報収集している様子は度々見かける。だが本人も剛翼の探知は精度を上げるほどカロリーを使うと言っていた。それをこうも長時間続けていればどれほどの負担がかかるのか。
    「……大丈夫なのか」
    「正直なところあまり大丈夫とは言えませんね。」
    エンデヴァーの不安を他所に、目良はあっさりと告げる。
    「本人は問題ないと言って聞きませんが、無理をしているのは明らかです。ほんの数時間前にも鼻血を出してひっくり返ったばかりですから」
    「止めるべきではないのか」
    「僕が言ったって聞きやしませんよ。それが自分の役割だからって言ってね」
    怒りを滲ませた物言いに思わず目を見開く。この男がこうも感情を声に出すのも珍しい。常に飄々として掴みどころのない、胡散臭いイメージがあっただけにエンデヴァーは正直驚いていた。それに向こうも気付いたのか、目尻を抑えて小さく頭を下げる。
    「……すみません。少し八つ当たりをしました」
    「……構わん。それよりも、被害者の一人が目を覚ましたことは報告が行っているはずだ。それについてホークスと話がしたい」
    「分かりました。少々お待ちください」
    ホークス、とその手が肩に触れる。事前に合図を決めていたのだろうか。あれほど外界から隔絶されたような空気を纏っていたホークスその瞬間がふっとその雰囲気を和らげる。声が止まり、ゆっくりと視線が上を向いた。
    「……あ、れ。もう時間ですか?」
    「それより少し早いですがね。少し進捗報告が」
    そう言って目良が背後に立つエンデヴァーを指さす。ホークスはどこかぼんやりとした様子のままその指先を視線で追い、エンデヴァーを捉えた途端大きく見開かれた。
    「え、ンデヴァー、さん?なんでここに……っ」
    慌てて立ち上がろうとしたホークスの身体がぐらりと揺れる。長時間座り込んでいたのだから、いきなり立てば貧血を起こして当然だ。おい、とその身体を支えようと伸ばしたエンデヴァーの手は、しかしその肩に触れた瞬間勢いよく弾かれた。パシンッと乾いた音が静かな室内で嫌に響く。弾かれたエンデヴァーよりもホークスの方が呆然とした表情を浮かべていて、みるみるうちに青褪めていくのが分かった。
    「すみっ、すみません……今ちょっと、気が張ってて」
    「……いや、俺こそ無遠慮だったな」
    「…………えっと」
    「…………」
    大丈夫なのか、も。無理をするな、も。どれも責めるような言葉になりそうで、結局口を出たのはありふれた言葉だった。琥珀色は俯いてしまって視線が合わない。二人の間で沈黙が流れる。いつもならこんな時ホークスが会話を回してくれたのに、自分から話し出そうとするとこうもうまくいかないとは。中途半端な位置で止まってしまった手の行き場も分からず言葉を続けられないでいると、氷嚢を用意したらしい目良がそれをホークスの頭に置いた。
    「僕がまず話を聞きますから、ついでに君はインターバルです。ほら、物理的に頭を冷やしなさい」
    「でも、」
    「頭が回っていないんでしょう。それと、簡単でいいからエネルギーを補給すること。みっともない姿を見せたくないなら猶更です」
    持ってきたのは氷嚢だけではなかったようで、見慣れたゼリー飲料やエネルギーバーの入った袋をホークスの膝へと下ろす。食事もまともにとっていなかったのか、そんなものでいいのか。言いたいことはいくらでも浮かぶが、今のホークスには時間を掛けて食事を取るという行為自体ストレスになりかねないのだろう。身を粉にしてという言葉もあるが、今のホークスはまさにそれだ。
    (……ホークス)
    剛翼に殆ど頼りきりの今、休んでいろと言えない自分がもどかしい。思わず唇を噛んだエンデヴァーに、ホークスはほんの少し眉を下げながら袋の中のゼリー飲料を手に取った。
    「……十分だけですから」
    「はいはい十五分ね。僕らは外に出るので、その間だけでもきちんと感知は切っておくんですよ」
    こくりと頷いたことを確認し、目良に指示されるまま部屋を出る。音を拾わせないためだろう。他の職員も休憩とばかりに部屋を出ていくなか、エンデヴァーと塚内が案内されたのは訓練室から少し離れた会議室だった。
    「すみませんね。あの子、先ほども言った通り少々張り切りすぎているようで。……何やら収穫があったようですが、話は休憩の後でも大丈夫でしたか?」
    「それは勿論。こちらとしてもホークスと話をする前にそちらに依頼したいことが」
    「……というと?」
    表情を変える目良に、塚内が病院で聞いた話を伝える。被害にあった経緯、受けた個性についての推測、そして犯人を絞るために必要な避難所の情報について。公安になら情報があるはずだと問えば、一通り話を聞いた目良は持っていたパソコンを開いてがりがりと頭を掻いた。
    「……まあ、あるにはありますね。流石にあの状況だったので完璧なリストとは言えませんし、ある程度の時点までのものになりますが……僕の権限で見られるものでよかったですよ。承認がどうだと走り回る体力は正直ありませんでしたから…………ああ、これですね」
    それほど時間はかからず、目良がパソコンの画面をこちらへ向ける。そこにはいくつかの人名が並んでおり、監視カメラの映像から引っ張ってきたのだろう。画質も角度もバラバラではあるが、それぞれの顔写真が添付されていた。ヒーローや警察は避難ではなく配備という形だったためかリストに載っていないが、病院で話を聞いた海野葵と、そして一件目の被害者の名前が確かに記載されている。これで被害者たちの共通点は明らかになった。となれば犯人もこのリストの中にいる可能性が高いのだろう。正しく個性が登録されていれば、この中から更に候補が絞れるはずだ。と、そこまで思案したところで塚内があっと声を上げた。
    「彼から話を聞けないかい?」
    そう言って塚内が指さした先には、一人の男の顔写真がある。それは、つい先ほどロビーでエンデヴァーに声をかけてきた公安職員だった。
    「……なぜ、彼を?」
    「何故って……ここの職員だろう?さっきもロビーで君を呼んでくれた。ああいや、電話をしたのは受付にいた女性だったが、彼女に話を付けてくれたのは彼だよ」
    「――――は?」
    塚内の言葉に、目良の表情が固まった。確認するかのようにこちらを向いた視線に頷いて肯定すれば、その顔色は次第に青褪めていく。
    「……彼は大戦後精神疾患を患って退職しています」
    「なんだと……?」
    「僕はかつて同じ部署にいたので知っていましたが、正直大戦後は人員の入れ替わりも激しかったので、直接の知り合いでもなければ建物内にいても気付かないでしょう」
    退職したはずの人間が、なぜ素知らぬ顔であの場にいたのか。リスクを負った身でわざわざエンデヴァーに声をかけた理由は?それに、このリストに彼の名前があるのは単なる偶然なのか。全ては繋がっているのではないだろうか。過る嫌な予感に自然と空気が張り詰める。
    「……大戦の最中、最前線にいたヒーロー以外にも、自己防衛からか個性が強化……覚醒した例がいくつかあるという話を聞きました。もし彼もその一人だったとしたら……」
    小さく呟いた目良は、ハッとした様子で目を見開くと慌てたようにエンデヴァーの名を呼んだ。
    「ッエンデヴァー、ホークスのもとに行ってください!彼の狙いはホークスかもしれません!」
    その名前を耳にした瞬間、反射的にエンデヴァーは扉を破壊する勢いで外に飛び出していた。




    「どこまでもヒーローだね、ホークス」
    声が聞こえる。
    随分と昔に聞いたことのあるような声だ。確か、まだ年齢が十にも満たなかった頃に何度か会ったカウンセラーがこんな声をしていたような気がする。そんな彼がどうしてここにいるのだろう。
    「君はいつだって皆のために自分をすり減らす」
    目の奥が痛い。
    まだ頭が回らない。
    クールタイムと言われてからどれだけの時間が経ったのか。一度切ってしまった電源は中々思うように入らなくて、指先一つ動かすことも、瞼を持ち上げることすら億劫になってしまう。
    「君だって人間なのに。誰も君の傷に目を向けない。そのくせ当然のように君の献身を享受する」
    ふと、誰かに手を握られた。
    「だからね、ホークス」
    ゆっくりと瞼を持ち上げる。
    彼は記憶にある姿よりもいくらか歳を重ねたように見えて、その瞳は、恐ろしいまでに爛々と光を宿していた。
    「そんな君を、ずっと壊してあげたかった」




    同じフロア内にいたことは不幸中の幸いというべきか。そうでなければ、恐らくエンデヴァーは床も天井も関係なく突き破っていただろう。本来であればセキュリティ認証が必要であるはずの扉を熱と握力で扉をこじ開ければ、耳を塞ぎたくなるような破壊音が響き渡る。
    「ちょ、所長!?何して――」
    破壊音を聞いて駆けつけてきたのだろう。ぎょっとした表情で声を上げるSKたちも、今は目に入らなかった。
    「ホークスッ!!!」
    ホークスは変わらず座っていた。その前に、男がしゃがみこんでいる。エンデヴァーたちを案内した男だ。その男の手が、ホークスの手を握っている。海野葵から聞いた話が脳裏を過り、一瞬、時が止まったように感じた。
    エンデヴァーの声に反応するようにホークスが顔を上げる、その動作すらもやけにスローモーションに見える。鼓動が嫌に煩い。早く、早く引き離さなければ。足元で火花が散るが、それでも遅い。炎による加速を以てしてもなお、伸ばした手は未だホークスには届かない。
    「…………?」
    エンデヴァーと、恐らくそう呼ぼうとしていたのだろう。それを覆うように、ぴし、と硝子の割れるような音が響いた。それが肌の裂ける音だったのか、心がひび割れる音だったのかは分からない。ただ、不思議そうにこちらを見る琥珀色に、音を紡ごうと開かれた薄桃色の唇に、瞬く間に赤い亀裂が走る。
    「ホークスッッッ!」
    「――――ぁ」
    そしてエンデヴァーの前の前で、ホークスの身体から鮮血が散った。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏❤💖💖💖💖😭🙏💖👏😭🙏🙏🙏💖💖😭😭💖👏👏💕💕😭👍
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    torimune2_9_

    DOODLE非常事態の中で共依存じみた関係を築いていた炎ホが全て終わった後すれ違って後悔してまたくっつく話……にしたい。ホ視点だと炎が割と酷いかも。一応この後事件を絡めつつなんやかんや起こる予定。相変わらずホが可哀想な目にあう
    愛の在処「エンデヴァーさーん。入れてくださーい」
    分厚い防弾ガラス越しに、書類を眺めるエンデヴァーに向けて声を掛ける。きっとこれが敵や敵の攻撃だったら、少なくとも数秒前には立ち上がり迎撃姿勢に入るだろう。だが、ホークスに対してはそうではない。呆れたようにこちらを見て、それから仕方ないといった様子で窓を開けてくれるのだ。
    「玄関から来いと何度言ったら分かる」
    「だってこっちの方が速いんですもん。それに、そんなこと言いながらちゃんと開けてくれるじゃないですか」
    「貴様が懲りずに来るからだろう!」
    エンデヴァー事務所の窓から入る人間なんて最初から最後まできっとホークスだけだ。敵はそもそも立ち入る前にエンデヴァーが撃ち落とすだろうし、他の飛行系ヒーローは思いつきもしないだろう。そんなちょっとした、きっとホークス以外にとってはくだらないオンリーワンのために態々空から飛んできていると知ったらエンデヴァーはどんな顔をするだろうか。
    14998

    recommended works