青の約束西の森には魔女がいる。
その魔女はとても恐ろしい存在で、何も無いところから炎を巻き起こす力を持っているらしい。その力で昔隣の国にあった街を丸ごと焼いてしまって、それからずっと隠れて暮らしている。本当だよ。西の森に入って帰ってきた人はいないからね。
魔女は人間が嫌いなんだ。もし見つかってしまったら、怒った魔女に燃やされてしまう。もしかしたら頭からぱっくり食べられてしまうかも。
だから、良い子でいないといけないよ。
悪い子は山に連れて行かれちゃうからね。
親が子に聞かせるような寝物語。この街では皆が知っている昔話。
僅かに開いた窓の隙間から漏れ聞こえるそれに、ホークスはぼんやりと耳を傾けていた。つい聞き入っていたせいか、薄らと身体に雪が積もっている。思い出したように襲ってくる寒さに身震いをして、両手で自分の身体を摩った。ぞわぞわとした感覚と同時にふぁ、と鼻が膨らむ。
「っくしゅん!」
咄嗟に口元を押さえようとしが両手は凍えて思うように動かず、盛大にくしゃみの音が響く。夜の静けさの中その音はどうしたって響いてしまう。隙間から聞こえていた声がぴたりと止み、さぁ、と血の気が引いた。
足をもつれさせながらその場から離れようとしてももう遅い。すぐ横の扉がバンッと勢いよく開いたかと思えば、鬼のような形相をした女がそこに立っていた。つり上がった瞳に寒さとは違う震えが襲う。
「……ッあ、」
「やっぱり!悪魔の子がウチに近寄らないでちょうだい!」
「ご、ごめんなさ」
「さっさと消えて!ウチの子に何かしたらただじゃおかないから!」
捲し立てられ、何度も転びそうになりながらその場を去る。窓の隙間から聞こえた声はあんなにも優しいものだったのに、ホークスに向けられる声は怨嗟と怒りで溢れていた。それでもものを投げつけられたりしなかっただけいいほうだ。
ホークスの背には、常人には無い羽根がある。それだけでも十分忌避される要因になるというのに、その色は血を彷彿とさせる赤色で、物心ついた頃両親はホークスを置いて街を出て行った。名前を付けられていたのかも分からない。少なくともホークスの記憶の中の両親は一度だって自分のことをお前やあんた以外の名称で呼ばなかった。
ホークスという名前だって、随分と前にある一羽の渡り鳥が教えてくれたものだ。桃色の差し色が美しい紫苑の羽根を持つ彼女は、この街からずっとずっと遠い場所から来たらしい。鳥たちの間にも昔話はあるようで、赤い羽根はその昔話に出てくる「ホークス」の象徴だと。だから、同じ羽根を持つ自分もホークスで間違いないのだと。そんなものなのだろうか。不思議に思うことはあったが、昔話について渡り鳥はそれ以上のことを教えてはくれなかった。借り物の名前とはいえホークスと呼ばれることは嫌ではなかったし、それ以外のことに関して街の外を知っている渡り鳥はホークスにとって先生代わりでもあった。
食べられる木の実の成る場所、保存出来る種類、怪我に効く薬草。
その知識のお陰で今日まで生きてこられたといっても過言ではない。
だが、今年の夏は日照りが続き木の実が十分に集められなかった。その上今までに無いほどの大雪で住民は家に籠もるようになり、ゴミを漁ることすらもままならない。辛うじて古びた布を手に入れることが出来たが、それを纏ったところで吹雪を前にどれほど役に立っているかは分からなかった。
(春になったら、また来るって言いよったとに……)
あの美しい渡り鳥にはもう会えないのだろう。
なんとなく分かるのだ。
自分は、この冬を越すことはできない。
蓄えていた木の実はとっくに空になったのに、まだ冬は半分も過ぎていない。
(さむい)
このまま凍えて死ぬのだろうか。
弱々しく開いた羽根で身体を覆う。暖かくはないが、今はもうそれしか出来ない。どうして羽根を持って生まれてしまったのだろう。何も持たず、何も得られず、ただ疎まれて死ぬだけの命がどうして生まれてきてしまったのだろう。
(さむい)
帰る場所はない。住処にしていた小屋はつい先日雪に押しつぶされて倒壊した。手足の感覚はとうに消え、凍ってしまったのか羽根で飛ぶことも出来ない。しんしんと降っていた雪はいつの間にか吹雪と呼べるものに変わっていた。それでもひたすらに歩き続ける。まるで何かにかき立てられるように。
――西の森には魔女がいる。
嘘か誠か、少なくともホークスはその姿を見たことはない。けれど、不気味なほど誰も西の森に立ち入らないのは本当だった。焼かれてもいい。食べられてもいい。どうなったって構わない。どうせもう数日と持たない命なら、ただ、最後に、
(さいごに……なにを、したいんだっけ?)
気付けば視界は真っ白に染まっていた。平衡感覚が狂っている。感覚の消えた足では今地面に立っているのかどうかも定かではない。
(あれ、おれ倒れ……)
段々と瞼が重くなってくる。寒かったはずなのにそれすらもどこか遠く感じて、寧ろ今までにないほど穏やかな眠気がゆるゆると脳を支配する。それに抗うだけの力はもう残されていなかった。ゆっくりと目を閉じ、掴んでいた意識を手放していく。
意識を繋ぐ糸が指先を離れる瞬間、柔らかい熱気が頬を撫でたような気がした。