九龍城之案内人 男は金に困っていた。賭け事で負けてしまったが、まだ巻き返せるだろうと勝負を仕掛ければ、あれよあれよという間に手元にあったはずの財産は底を尽きてしまって。払う金がない、暫く待ってほしい、と言ったのだが、生憎遊ぶ場所を間違えた。金のリターンがデカいから、という理由でとある組織が運営している、法にギリギリ触れる闇カジノの扉を叩いてしまったのが間違いであった。リターンがデカいということは反対にリスクもそれなりに膨れ上がるということなのに。馬鹿な己は組織の人間たちにぼこぼこに袋叩きされた後、金を返す為の仕事をくれてやる、と言われ、目の前に一つの布袋を投げられた。中身は見るな、それをある男に届ければいい、と端的に説明され、男の居場所を口頭で伝えられる。九龍城、と聞こえたのは嘘だと願いたかったが、どうやら住所は間違っていないらしい。嘘だ、と呟くと顔面を思いっきり殴られたので。
「いいな、明日の夜までには必ず届けろ」
「…………はい」
「分かったんならさっさと行け!」
「うわっ……!? ……行くしかない、か……」
屈強な男たちに挟まれて、車に揺られること数十分。カタカタと小さく震える指先を握り締めれば、右隣に座っている男にハッと鼻で笑われる。今更後悔しても遅いぞ、と笑っているのだろう。生憎、その表情を確認する気も勇気も持ち合わせていないが。そうして、車がゆっくりとスピードを落とし、辿り着いた先は天高く聳え立つ違法建築の城砦……九龍城であった。九龍城へ住み着く人間が増えていく為増築に増築を重ね、そうして出来上がった歪な城は禍々しい雰囲気を醸し出している。ごくり、と唾を飲み込むのと同時にドンと強く背中を押された。男たちから聞かされた住所は暗記したが、明け方までに届けろだなんて、無茶すぎる。自信なさげにはい、と返事をすれば、今度は突き飛ばす勢いで背中を押され、九龍城へと嫌でも押し込まれてしまった。入口にはまだ男たちが立って、こちらを睨みつけている。逃げることも出来そうにないので、仕方なく布袋を抱え込み、男は最初の一歩を踏み出すのだった。
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「そこ退きな、邪魔だよ!」
「仕事中だ、そんなとこ突っ立ってんじゃねぇぞ!」
「あ、あの……、」
「何?! 声が小さくて聞こえん!」
「えっと、その、十二番通りの三十一番地にある浦原って人の場所に行きたいんです! どうすればいいですか、え……?」
九龍城の中はガヤガヤと騒がしかった。様々な店が通りに面して開かれており、値下げを交渉する客と一歩も譲ろうとしない店主の攻防戦がそこかしこで行われていた。小さな子供も店の手伝いをしているのか、店先で包子の具を捏ねている。もっとジメジメとした、退廃的な雰囲気だと思っていた男は溢れんばかりの活気に圧倒されて立ち尽くすことしか出来なかった。ぼーっとしていると、すれ違う人々と肩をぶつけてしまい、その度に舌打ちをされる。すみません、と謝る前に通り過ぎていく人の背中を見送るばかりの男であったが、このままでは仕事が出来ずに奴らに殺されてしまう未来しかない……!
一念発起した男は近くの店にいた女性に声を掛けようとするが、男の勇気よりも女性の勢いの方が強かった。仕事の邪魔だ、と言われ、思わずたたらを踏む。確かに、こんな狭い場所で棒立ちしているのは邪魔でしかないだろう。道の端の方に寄り、近くにいた駄菓子屋の店主に声を掛けてみても声が小さくて聞こえん、と一蹴され、とうとう男は我慢の限界を迎えた。好き勝手言いやがって。こっちだって好きでこんな場所に来た訳じゃない……! と自業自得であることを棚に上げ、大きな声で今回押し付けられた仕事の内容を口にした。十二番通り、三十一番地の"浦原喜助"という男が経営している薬堂に布袋を届けに行け、と言うのが男に課せられた仕事であった。男の言葉を聞いた途端、当たり一帯がシンと静かになる。突然訪れた静寂にぽかん、としていると周囲の人間は男のことを突き飛ばし、睨みつけた。何か地雷を踏んでしまったのだろうか。幾つもの鋭い視線が男に突き刺さり、つぅ……と男の背中を冷や汗が滑り落ちていく。
「出ていけ、そんな男のことなんざ知るもんか」
「え、いや、そういう訳には……!」
「うるせぇ! 良いか、一つだけ忠告しといてやる。浦原喜助に近付くなってのはこの九龍城じゃ誰もが知ってる事だ。あの男はな、自分の探究心から何十人の命を奪った最低の人間だ。悪ぃことは言わねぇ、さっさと帰んな、余所者」
「な……そんな……じゃあ、この袋の中身って……」
そんな男のことなど知るか、と駄菓子屋の店主に怒鳴られ、周囲にいた人々も浦原喜助とやらの存在を知っているにも関わらず口を閉ざしたままであった。誰も教える気がないことはすぐに分かったが、こちらとしてもそう簡単に引く訳にはいかない。そういう訳には、と男がめげずに浦原の居場所を聞こうとするのを遮るように、駄菓子屋の店主から浦原喜助という男の存在について説明される。あの男は危険だと。己の実験の為に何人もの人間を殺したのだという話を聞いた瞬間、男は自身の手の中にある布袋がずしりと重たくなったような気がした。まさか、この袋の中身というのは……と脳内が嫌な予感に辿り着く。
「鉄くせえな……お前か?」
「え……? あ、うわっ……!?」
「おいおい、随分なモン持ち込んでくれてんじゃねえか、ここァ九龍城だぜ? 勝手に面倒事を持ってこられちゃ困るンだがな」
「白ー、居たかー?」
「ン、」
「嗚呼、アンタか。呼んできてくれてありがとな、助かった。ほら、タオさんの店帰りな。いい子だ」
「えっと、その……貴方達は……って、あ、あの! ど、何処行くんですか……?」
「何処って……クソ下駄帽子ンとこだろ? テメェが言ったんじゃねえか」
「来いよ、困ってるんだろ? 俺らで案内するよ。だから、これ以上ここの人達の邪魔しないでやってくれ」
それと同時にスン、と耳元のすぐ傍で誰かが鼻を鳴らす音がした。男が慌てて後ろを振り返れば、そこにいたのは真っ白な髪に真っ白な肌、月のような金色の瞳を持った青年であった。するり、と蛇のように音もなく、男の肩に手を回し、随分なモン持ち込んでくれてんじゃねえか、と口端を吊り上げる。チラリと口の中から覗いた舌先が蛇のように二股になっていた気がするが、気の所為にしても良いだろうか。正直、男に仕事を与えてきた連中よりも余程恐ろしかった。青年が屈強な訳では無い。寧ろ、手を捻りあげることだって容易く出来そうな見た目をしているのに、彼には敵わない、と一瞬で悟った。青年を振り切って逃げ切るビジョンがまるで見えないのだ。隙というものが全く無い、というか、感じられない。厄介な相手に見つかってしまった、どうすれば……と脳内で男の思考がぐるぐると激しく回転する。生憎、答えは出てこないのだけれど。
驚きのあまり黙るしかない男のことなど知ったことかと言うように、勝手に面倒事を持ってこられちゃ困る、と言いながら、青年の指先がすり、と男の手の甲を引っ掻く。まるで情事のような溢れんばかりの色気に男はくらりと目眩を起こした。じっと男のことを捉えて離さない青年の視線に絡め取られ、ごくり、と唾を飲み込む。蛇に睨まれた蛙のように男が動けずにいると、先程店先で見た少女に手を引かれながら、真白な青年と全く同じ顔をした、橙の色彩を持つ青年が現れた。居たかー? という問い掛けに男の後ろにいた白い青年がン、と短く返事をする。白い青年の返事を聞いた橙の青年は少女と同じ目線になり、呼んできてくれてありがとうな、と少女の頭をくしゃりと撫でた。少女に向かって柔らかく笑うその姿はまるで聖母のようで、顔は瓜二つなのに、全く雰囲気の違う双子──恐らくそうだろう──に男は状況を把握しようとするのに必死であった。突然現れた彼等に男は貴方達は誰なんですか、と聞こうとしたが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
男の背後にいた白い青年と橙の青年が二人並んで、薄暗い路地裏へと歩いていったからだ。あまりにも怪しそうな道を歩いていく二人に何処行くんですか……? と尋ねてみると、二人はぱち、と同じタイミングで瞬きをし、くい、と親指で路地裏の奥を指さした。クソ下駄帽子というのは浦原喜助の事で合っているのだろうか。白い青年はあまり浦原喜助が好きではないのか、眉間の皺が深くなったような気がする。橙の青年に案内してやるよ! と言われたのはいいが、これ以上この人たちの邪魔しないでくれ、という言葉には少しだけ腹が立ってしまった。何度も言うが、邪魔をしたくてこんな事になった訳では無いのだ。だが、ここで反論しても意味はないだろう。こんな場所にポツンと一人置いていかれることだけは避けたいのだから。真っ暗な闇に溶け込めない鮮やかな色彩を追いかけて、男は二人の背中を追い掛けるのだった。
▽▼▽▽
右に曲がって、左に曲がって、また左に曲がって……階段を上っては下りを繰り返していると、橙の青年──名前は一護、というらしい──が此方を振り返り、とある忠告をする。
「あー、こっからちょっと道険しくなるから気を付けろよ」
「け、険しく……これが……?」
「ボサっとすんな、置いてくぞ」
「白……! 悪ィな、ちょっと口が悪いんだ」
「ちょっと……」
「ンだよ、文句があるなら言ってみろ」
「なっ、ないです……!」
道が険しくなるから、と一護に言われた男は目の前の景色を見た途端、否が応でも足を止めてしまった。目の前にあるのは高く聳え立つ"壁"なのだから。道など何処にも無いではないか、と愕然としていると、何と双子の片割れである白が何の迷いもなく、トン、と家の庇部分に足を掛ける。ひょい、と軽い身のこなしであっという間に二階程度の高さにまできた白は男の方を見下ろしながら、置いてくぞ、と言って背中を向けた。道案内をしてやる、という割にはかなりスパルタな気もしなくは無いが、後にも先にも引けないのだ。男は腕に抱えていた布袋を背中に背負い、意を決して庇へと登る。男の様子を見ながら、そのスピードに合わせて登っている一護が悪ぃな、と眉尻を下げて男へ謝罪した。ちょっと口が悪い……? と男が訝しげな表情をすれば、それを見ていたかのように文句あんのか、と鋭い言葉が上から降ってきた。男が身体全体を使って何とか登るような場所を彼等は軽々と──しかも、白に関しては両手をポケットに入れたまま移動している──登っている。幼い頃からこの場所に住んでいたのだろうか。そうでもなければ、こんな危険な場所を歩ける訳がない。男は目の前の少し高い位置にある庇に飛び移りながら、一護へ声を掛けた。
「き、君たちは、もうずっとこの場所に?」
「んー? そうだなぁ、何時からとかあんまり分かんねぇや」
「無駄口叩く前に早く登れや」
「浦原さんのとこ行くの嫌なら来なきゃ良かったじゃねぇか」
「うるせえ、アイツに頼まれた仕事の報告しなきゃなんねえんだよ」
「え? そんなのあったか?」
「白サンだけ、なんだとよ」
「…………ふぅん、」
「まァ、大した仕事じゃなかったがな。……何だよ、拗ねてんのか? ガキだな」
「なっ……!? 別に拗ねてねぇし! ほら! アンタもさっさと登れよ!」
「えっ……あ、はい……!」
もうずっと九龍城にいるのか、という男の疑問に一護はあんまり覚えてねぇ、と素直に答えてくれた。本当に覚えていないのか、覚えていたくなかったのか……その辺りを詮索する前に白から苛ついた声で早くしろ、と尻を叩かれてしまう。言外にこの話題に触れるな、と牽制されているように男は思えたが、どうやら一護は違ったらしく、白は浦原の所に行くのが嫌で機嫌が悪くなっていると受け取ったらしい。そんなに言うなら来なきゃ良かったじゃねぇか、と怪訝そうな顔を向けられた白はチッと大きく舌打ちを零し、浦原に仕事の報告をしなければならない為、行かないという選択肢はなかったと言う。一護がそんなのあったか? と首を傾げれば、どうやら浦原が白にだけ頼んだ仕事のようで、白は態とらしく浦原の物真似──似ているかどうかの判断は男には出来なかったが──で、返事をする。しかし、一護は何処か納得がいっていないのか、ふぅん……と言って唇を尖らせた。自身も仕事をしたかったのか、それとも、片割れが預かり知らぬ所で行動しているのが気に食わなかったのか。分かりやすく拗ねている一護を見て、ニヤリと口端を吊り上げた白が拗ねてんのか? と揶揄うものだから、一護はカァッと顔を真っ赤にさせていた。そんなんじゃねぇ! と大声で言いながら、二段上の庇へ飛び移った一護は男に向かって、さっさと登れよ! と言い出すものだから、こちらは飛んだとばっちりである。白が一護の中の変なスイッチを押した所為で、あっという間に小さくなってしまった一護の背中を男は追い掛ける為に必死に手足を動かすのだった。
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久しぶりの地面を踏み締めれば、じゃり、と砂の音がする。庇や屋根、誰の家かも分からない屋上を渡り歩いた果てに店のようなものは見えなかった。浦原喜助が営んでいる薬堂とやらは何処にあるのか、と男がキョロキョロと辺りを見渡すと、不意に腹に衝撃が加わった。回し蹴りをされたのだ、と理解する前に痛みで地面に膝をつく。恐る恐る頭上を見上げれば、そこには面倒臭そうに煙草を咥えた白の姿があって。どうして、さっきまで普通に会話──会話、と言っていいのかは分からないが──していたはずなのに。一護だって白の行動を咎めようともしていない。鳩尾に上手く入ったからか、身動き一つ取れないまま、男の背中にあった布袋を奪われる。まさか……裏切り……? この人たちは悪い人ではないのかもしれない、と思い始めていたところだったのに。嗚呼、やっぱりこんな世界、人間を信じた方が馬鹿なんだ。男が絶望していると、一護がゆっくりと口を開く。
「それ、発信機付いてるぜ」
「え……? 発信機……?」
「どーせ、表で待ってる連中が付けたもんだろ。浦原の所在でも知りたいんだろうが、匂いで気付かれることは想定してなかったんだな。馬鹿な野郎だぜ」
「そんな……い、何時から……!?」
「最初から言ってたろうが、鉄くせえ、ってな」
「…………た、確かに……で、でもじゃあなんで俺蹴られて……」
「気分だ」
「気分」
布袋をどさり、と地面に叩きつけた白は容赦なく布袋を踏んだ。ぐしゃ……! と勢いよく形の崩れた布袋の中から血が飛び出てこなかったことに安堵したが、発信機付けられてるぞ、という一護の言葉にゾッとした。大方、浦原の居場所を突き止める為なのだろう、と予想した彼等はパキ、と小さく黒い端末を踏み潰す。ジー……ザザザ……という砂嵐の音が薄暗い路地裏で鳴り響き、数十秒後には沈黙がやってきた。中身が何かなど知る由もなかった男はそもそもどうして彼等が発信機がついていると気付いたのかということの方が疑問であった。何時から……!? と声を震わせて男が尋ねれば、白はふん、と鼻を鳴らし、最初から言ってたろうが、と得意気に腕を組む。確かに言われてみれば、白は鉄くせえ、と言っていたような記憶がある。しかし、最初から気付いていたのなら、態々険しい道のりを男に通らせたり、腹を蹴ったりしなくても良かったのではないだろうか。ならば、どうして己はこんな目に……と男が疑問を口にすれば、白は気分だ、と男の言葉をスパッと切り捨てる。男は拍子抜けして白の言葉を繰り返すことしか出来なかった。気分……気分だけで己はこんなにも大変な目にあったというのか。怒りを通り越して呆れてしまった男は、はぁ……と大きな溜息を吐き、項垂れる。
「浦原さんのとこにはどうせ行かなくちゃなんねぇんだけど、その前に掃除だけしとかねぇとな」
「掃除」
「そ。これ、表で待ってるアイツらに返してきてやるよ。アンタはその間に逃げな」
「え、あ……そ、そんな……、うわっ……!?」
「さっさと行け。もう二度とこんな場所に来んじゃねぇぞ」
「次は負けないように頑張れよ〜」
そんな男の隣を通り過ぎた一護は浦原さんのとこに行く前に掃除だけしとかねぇとな、と言ってパキ、と首を鳴らした。掃除、掃除……どういう意味なのだろうか。こんな薄汚れた路地裏を綺麗にする事など出来ないというのに。意味が分からず、ぽかんと口を開けている男の表情がおかしかったのか、一護が楽しげにくつり、と喉を鳴らす。少しだけ子供っぽいように見えた──年相応に見えた──というのは言わない方がいいだろうか。これ、返してきてやるよ、と男が持っていた布袋を拾い上げた一護はゆっくりと右側にある路地裏の方へと歩いていく。白も煙草の火を足で消し、ポケットに手を突っ込みながら、一護の後に続いていた。彼等の後を追うべきなのだろうか、と男が立ち上がるのと同時に一護が左側の路地裏を指さす。アンタは逃げな、と言い放ったその声の柔らかさに、彼の優しさが滲み出ているような気がして。そこで漸く男は掃除の意味を正しく理解する。路地裏の掃除なんかじゃない、彼等は男の為に表で待っている連中達と戦ってくる、と言っているのだ。九龍城に迷い込んできた、金も何も無い、ただの男の為に、だ。利益も何もないのに何故、と尋ねたかったが、白に首根っこを掴まれ、ぽい、と彼等とは反対の路地裏へ投げ飛ばされる。もう二度とこんな場所に来んじゃねえぞ、と白は眉間に皺を寄せ、舌打ちを零して闇の中へと消えていく。次は負けんなよ〜とひらり、と手を振る一護の言葉に男はハッとする。どうして、そのことを……! と思った瞬間にガシャン、と重厚な扉を閉められ、男は九龍城の裏側から追い出されたのだった。
それから、男はあの眩い橙と美しい白、二つの色彩を目にすることは二度となかったのだった──……。