ある日、午後七時の待ち人『じゃあ、駅で待ってる』
ロイドがそんなメッセージを送ったのは今日がはじめてで、きっかけは本当にただの巡り合わせとしか言いようがなかった。
たまたまロイドが冬休みに入ったばかりで、たまたま今日は少し早く帰ってくると昼に連絡が入っていて、なんとなく、彼とはしばらくまともに話す時間がなかったことを思い出したから、それだけの理由だ。
別に、何もおかしくはないだろう。──親子だし。なぜそんな言い訳じみたことを一瞬考えてしまったのかまでは分からなかったが。
ロイドが少し躊躇いつつも送信の文字を押してからというもの、それきり返事はなかった。ロイドの知る彼は……クラトスはいつも仕事で忙しそうにしているから仕方のないことだろう。ゆえに返事を待たずして勝手に行くことにした。それくらい強引でないと、きっとあれこれ理由をつけて遠慮されてしまうだろうから。
迎えに行く、だなんて、必要かそうでないかで言えば必要のないことだ。少なくとも一人で夜道を歩くのを心配するような人物ではない。──でも、別に、ダメな理由もないし。心の中でまた言い訳を付け加えてしまうのは、世間では今日が特別な日だからなのかもしれない。
年の瀬、年が明けるまであと一週間。いわゆるクリスマス、の訪れを喜ぶような年齢はとっくの昔に過ぎているが、街の雰囲気はロイドがどう思っていようと勝手に変わるものだ。
とはいえ昼間にはコレットとジーニアスと三人で集まって遊ぶついでにケーキを作るという、季節らしいことはしているのだが……、彼が早く帰ってくるらしいと聞いて、その一切れを実は取っておいてあるのだと言ったら、彼は一体どんな反応をするのだろうか。
コートのポケットに両手を突っ込んで、駅舎の大きな柱に寄りかかりながらそんなことを考えているうちに、目の前を行く人の流れが少し変わった。電子音のジングルが鳴る。
午後七時十五分。時刻通りのアナウンス。やっと今電車のドアが開くころだというのに、思わず改札口のほうへ目を向けてしまって、ロイドは内心で苦笑した。
心なしか足取り軽く見える道ゆく大人たちと自分、浮かれているのはどちらだろう?
◇
住宅街のほうへ行くにつれてまばらになっていく人の波を見つめながら、大通りの端を二人で並んで歩いていた。夜の冷たい風に直接触れている鼻がつんとする。
「おまえはもう冬休みか」
「ああ、うん、昨日から……。父さんは?」
「明後日まではまた遅くなる。すまないな」
「別に……謝ることじゃねーだろ。……そっか」
まともに話すのは、二週間ぶり、ぐらいだろうか。友人よりもうんと話す機会の少ない気がするひととの会話は思うようにはいかず、何度も不自然なくらいの間を空けながらひと言ふた言の言葉を交わすだけだ。それもロイドが話すばかりで。それでもすぐ隣を何度も通り過ぎていく車のエンジンの音の中で必死にクラトスの声を拾う。
また会話が途切れてから、車道側を歩く長身の男をそっと見上げる。駅前よりも慎ましいイルミネーションに照らされている横顔を見ていると、ますます非日常感が増す。コートこそ着ているもののマフラーはしていない首元がなんだか寒そうに思えてしまうが、たぶん、平気なんだろう。
無意識にじっと見つめてしまっていたのに気が付いたのか、その視線が、ちら、とロイドのほうへ向いた。
「暗いのだから前を見て歩いたほうがいい」
「こ、これぐらいで転ばねーよ! むしろいつもより明るいぐらいだろ」
挙句の果てに至極真面目な顔で幼い子供をたしなめるようなことを言われて、ロイドはそれ以上クラトスの表情を見ていることはできなかった。
確かに普段あまり通ることのない道ではあるが、それにしたって手を繋いでいないと転ぶような子供じゃあるまいし、と込み上げた羞恥心をマフラーの中にため息とともに吐き出した。
徒歩で十分と少しのはずの道のりは、なぜか行きよりも長く感じられた。実際に、少し時間をかけて歩いているのかもしれない。クラトスが歩調を落として合わせてくれていることには、駅を出てすぐに気が付いた。疲れているだろうに、時折目が合っても、彼は文句のひとつも言わなかった。
結局のところはロイドも浮かれているのかもしれなかった。通りがかりにあった自販機で、普段あまり買わないコーンスープを選んでしまうくらいには。
歩きながら舌の上で温かい液体と柔らかい粒を転がす。決して行儀が良いとは言えない歩き飲みだったが、前を向いているぶんにはクラトスは咎めなかった。
コーンの粒を咀嚼しながら両手を缶に押し付けて気休め程度の暖を取っていると、ふと、唐突にクラトスが呟いた。
「……何か、欲しいものはあるか」
「え……? ……………ああ、そういう」
その内容はあまりに唐突な提案で、ロイドの口からはまず呆けた声が出てしまった。その言葉を五秒ほど頭の中で噛み砕いて、ようやく理解した。──そういえばそんな日だった。今の今まで彼とそんな浮いた話をしなかったから、すっかり忘れていたのだった。
(それ、数分前に言ってくれりゃあな)
そうすれば、自販機の前でのあの何ともつかない無言の時間はなかったかもしれないのに。そんなことを今更言っても仕方がない。
「そんなの急に言われてもな……。それにもうそんな歳でもないし。なんでまた、いきなり」
しかし実際のところ、ロイドは本当に何も思いつかなかった。困惑の表情を取り繕う余裕もなく、手慰みに手の中の缶を揺らす。
「今日、おまえからの連絡を見た時は本当に驚いたのだ。それから返事もしてやれずにいた私を寒いなか待っていただろう。それを見て、私も何かしてやるべきだと」
「まあ、言い出したの俺だし、逆に勝手に待ってたっていうか。……迷惑だったか?」
「そんなことはない。むしろ私の方が礼を言うべきかもしれぬな。こうしておまえの顔を見る機会ができた」
「大げさだって。そんなの……帰っても見れるだろ」
ずっと向けられている気がする視線が気になって仕方なくて、しばらくぶりにクラトスのほうを見上げると、彼は穏やかに笑っていた。
まなじりの緩んだ表情を見ていると、ぐっと胸が詰まって、体にじわじわと熱が伝わっていく気がする。鼻先の冷たさも、今ばかりは忘れてしまっていた。
「なあ、年末はさ、家にいるんだろ?」
「ああ。少し仕事はあるだろうが年明けまで出社はしない」
「あんた、ほんとにいつも仕事してるな……。じゃあ、欲しいもの……じゃないけど、課題手伝ってくれよ」
──もしかして、浮かれてるのは俺だけじゃなかったりして。それだけで浮き上がった単純な心を認めて、ほんの少しだけ勇気を込めて一歩踏み出す気持ちで、そんな提案をしてみた。
「それだけでいいのか?」
「それだけって、俺にとっては深刻なんだぞ! でもマジで他に思いつかないんだって。うーん、そうだなあ、今は…………腹減ったな」
「それは……。夕飯はまだだったのか」
ロイドにとっては重要な提案はどうやら了承されたらしかった。拍子抜けといった様子のクラトスをよそに、ロイドは缶の残りを一気に飲み干した。液体だけ喉の奥にさらわれていって、缶の底にはまだ粒の気配が残っていた。
油断すると今にも腹の虫が鳴ってまた恥ずかしい思いをしそうだ。もう帰り道に不思議な名残惜しさはなかった。わずかに首を傾げたクラトスの疑問に対し、缶を揺らしながら答える。
「だって、父さんが帰ってくるなら一緒に食ったらいいだろ」
「……そうか。ならゆっくり話をしている場合ではないな」
「別にそんなつもりで言ったわけじゃないからな!」
わかっている、と言いつつどこか上機嫌に小さく笑みを浮かべているクラトスを肘で軽く小突いてから、少しだけ足を速めると、クラトスもまたそれに倣った。
そんなことをしているうちに、いつの間にやらロイドにとっては慣れ親しんだ道路を歩いていた。特別な帰り道は残り短く、きっと寒さを思い出す前に家の戸を開けられることだろう。
そうして夕飯を温めようと冷蔵庫を開けた時に、すっかり忘れていたケーキの一切れのこと、それから今日の日付をようやく思い出して、今度はロイドのほうからクラトスに笑いかけることになるのだ。