夢枕に影踏み/寝しなに指切り 必要か必要でないかで生活の中のものごとを切り分けては時に切り捨てるのを、やめた。
眠るのが当たり前になってからはしばらくが経つ。ただ毎日日が昇るまで目を閉じて微睡んでいるというのも、今となっては性に合わなかった。
だからだろうか、と浮かんだ考えが言い訳にすぎないことを自覚しながら、クラトスはしばしば夜の半ばに目を開いては、夜闇の中で隣の寝台に身じろぎもせずに大人しく収まっている青年を見つめている。
まだ僅かに線の細さの残った顔を眺めている心境は、星を眺めて夜明けを待つ時のものとどこか似ている。
寧ろそれよりは意味のあることと言えるかもしれなかった。己の幸福そのものが穏やかな時を得ていることを確かめられる行為が、それによってもたらされるどうしようもない安堵が、今クラトスを生かしているものの一つだった。
今ここにある安寧はまぎれもなく真だが、その実クラトスがその形を捉えきれておらず手探りであるのもまた事実だった。
彼が──ロイドがいつから曖昧な笑みを浮かべるようになったのかをクラトスは知らない。
いつから時に諦めたような──この表現は彼には相応しくないのかもしれない、ふっと表情を消して口をつぐむようになったのかを知らない。
いつから彼が孤独に戦っていたのかを知らない。……なぜ頑なにその本意を語ろうとしないのかを、知らない。
いつかの旅を思えば比べものにならない程に穏やかな時を過ごしているわけだが、そんな中でもふとした日常の隙間に覗く違和感に、暗がりに踏み込むことができずにいるのは、ロイドが時間と空を越えてまでクラトスを求めたのに比べれば、随分と臆病なのかもしれない。
踏み込むことが、触れることが彼の傷口を暴くだけになってしまわないだろうかと気を揉んで、結局は硝子一枚隔てたように踏みとどまっては、なんでもないと言って笑う彼をすぐ傍で見ていることしかできずにいる。
だが、ロイドが関わると、どうしても理性をすり抜けて身体が勝手に動いてしまう時が度々訪れるのを、クラトスは深く自覚している。庇護欲のような、あるいは全く違う何かのような激情が瞬間的に体内を駆け巡る感覚は、不思議といざその瞬間が訪れる時までいつも思い出すことができない。
使命と約束を果たし、ロイドとの関係は同じ血が流れていること以外はまっさらになってしまった。無論それはクラトスにとっては現状なによりも大切なものに違いないが、これ以上踏み込むのならそれすら取り払って向き合わねばならない予感もする。
……彼は、ロイドは、共に生きられたらそれだけで、と言ったが、それは、
寝台に腰掛けたまま、ふ、と息をつく。掛け時計が規則正しく時を刻む音しか聞こえない、静かな夜だった。
極力音を立てないようにして立ち上がる。わずかに寝台が軋む音では青年は目を覚まさない。そのまま備え付けの机の前まで歩み寄り、ぽつりと置かれている鈍い金色を手に取った。
ロイドがずっと身につけていたというそれは、クラトスがかつて贈った、否、取った手段を考えれば押し付けたと言っても過言ではないのかもしれない、古ぼけたペンダントだ。
これまでの年月を考えれば元の形を保っているのはとてもではないが不可能に近い。ロイドがよほど大切に扱っていたらしいにしても、そのうえで何度も部品を取り替えたりしていて、もはや形だけほぼ同じものになっている、らしい。
──それでも俺にとってはずっと大切な思い出のままだよ。そう言った彼の表情は忘れようにも忘れられない。
万が一にも壊してしまわないよう、昔まだ己が持っていたころよりもよほど慎重な手つきで蓋を開いた。
そこには何も入っていない。これだけ見ればまるで持ち主がいないかのように錯覚すらする。確かに在ったはずの画は、擦り切れてしまってもそれだけは手を加える気になれなかったのだと、そんなこともロイドは言っていた。
空っぽで継ぎはぎのペンダントを、これまで歩んできた時間の分だけロイドはずっと身につけていたのだと言う。
──最近、やっと落ち着いて寝られるようになったから、宿でぐらいたまには外してもいいかもなって思ったんだ。一人じゃ考えもしなかった。
自分の手を離れて久しいこれの存在は彼の心そのものなのかもしれないと、そんなふうにすらクラトスは感じている。壊してしまうわけにはいかない。……自分が触れてよいのかすらも。
溜息をひとつ落として、今度もまた音を立てないようにペンダントをそっと元の位置へ戻す。
(こうしてまた夜を明かして、また私は見守るだけでいるのか?)
声には乗せずに心の中で独り言ちる。そうしたところで答えが得られるはずもない。時間だけは許されているのを良いことに、今目の前にある安寧に甘んじている。何に保証されているわけでもないというのに。
それを、自分は一度全てを失った──とクラトスは自認していた、時に思い知ったのではなかったのか。
手探りでいる間柄は深く、先が見えずにいる。
佇んでいるうちに頭が冷えて、かち、こち、と鳴り続ける無機質な時計の針の音に現実に引き戻される。
ふと振り返って、無意識にそこに青年が居ることを確かめていた。薄明かりの中で投げ出された腕が、肌が青白く映る。今は大きな傷痕はない腕。
昼間、めずらしく軽く負傷した彼を治療したことを思い出す。そんな時、自身が負傷した時よりもよほど魔術を扱えることに有難味を感じる。天性のそれとは違い、それを得た経緯が穏やかなものではなかったとしても、だ。
──ああ、また自分は、感情を超えた抗いがたいものに突き動かされている。ふらりと呼び寄せられるように寝台に一歩二歩歩み寄って、枕元に影を落として、彼の存在を確かめようと、その手に手を伸ばす。
決してロイドのためなどではない、ごく身勝手な理由で、今は治癒の力もなにも纏っていない手があと拳ひとつ分まで近づいて、
「…………う、」
静寂を塗り替えるわずかな声に、クラトスの手はぴたりと宙に縫い止められた。どこから声がしたのかは明らかだ。
気配で起こしてしまったのだろうか。冷静さを欠いていることを自覚するよりも先に、弾かれたように顔を上げる。
そこにあるのが不本意な目覚めであればどれほど良かったかと、己の行動を省み嘆息する間もなく息を呑む。
「……っ、……う、ぅ」
一息に冷水を浴びせられたかのように体の芯が凍りついて、それから息をすることさえ忘れていた。初めて目にする光景に呆然と立ち竦んだままの己を置いて、目の前で青年がもがき苦しんでいる。
どうにも意識が覚醒しているわけではなさそうだった。──悪夢、だろうか。それも魘されるほどの。
ゆるく開かれて投げ出されていた手が、指先が、まるで意思があるかのようにシーツに強く爪を立てる。その上にある表情はクラトスが甘んじていた平穏とは程遠い。
きつく寄せられた眉、痛みに耐えるように歯を食いしばり呻くロイドの表情は、たったの半日前に見た血の滲んでいた傷痕よりもよほど痛ましく目に映る。
彼が意識の中で何を見て、聞いて、何をしているのか、クラトスには想像することしかできない。ただその苦痛だけを我が事のように感じ取って、心臓が強く音を立てる。
「違……う、俺は……、」
本物の傷、肉体的な痛みにはわずかに顔を顰めるだけだった彼をこうまで苦しめるものは一体何なのだろうか。存在しない壁を恐れて見て見ぬふりをしていたそれを、平穏の下に隠されているものを、知らねばならない気がした。──いや。
俺がそうしたいと思ったから。いつかのロイドの声が脳裏を過ぎる。
いつから、などと言い出せないほどの頃から己がただ彼の幸福を乞い願っているのを思い出せと、心臓の音が訴えている。
血縁を明かさぬまま少し剣の手ほどきをしただけの他人として生を終えるつもりだった頃などとうに通り過ぎて、今もなお己を慕う視線を、声をまっすぐに向けてくる彼の前では、もはや流れる血すら理由にならないほどに。
そう願う。そうあってほしい。そのためにきっと自分は、知りたいと思っている。この行動に理由が必要だというのなら、それで良いのではないか。
自らの手で感情の枷を外して理性と同じところまで押し上げるのは、クラトスにとってはどこか恐ろしいことですらある。今までに犯した過ちは常にクラトスの背後にある。そこに、たいせつに扱っている青年が絡めとられてしまうのが何よりも恐ろしい。
見えないものから逃れるように身を縮こまらせたロイドの口元が戦慄く。不規則な呼吸の合間に漏れる言葉の断片がクラトスの感情を追い立てる。
「……、ぅ…………、……とう、さん、……」
結局、いつになってもクラトスの理性を動かす最も単純なことばはそれなのかもしれなかった。ひゅ、と短く息を吸うあいだに全身を血がかけめぐって、臓腑が燃えたぎる錯覚をする。いつも勝手に身体を動かすものの正体。
自らの理性が引いていた一線のことなど一瞬で意識の外へ追いやられて、丸まった肩のなか、胸元を握りしめた手へ視線が吸い寄せられる。
その手に必要なものは庇護ではない。短くはない年月を経た今、自分の役割はもうそこにはないのかもしれない。だとしても、彼の心に報いたかった。
天使ではなくただの旅人であるクラトスの望み。彼の幸福を祈るのに、己の立っている場所など関係がないのだ。ずっと昔から──彼に剣を向けたときですら、同じだったのではないのか。
寝台の縁という最後の境界を意識せずとも踏み越えて、悪夢からすくい上げるために青年の手を取ろうとするのは、今度こそまぎれもなくクラトスが自覚したうえでの行為だった。
◇
『お前のせいで──、──人殺し、』
……俺の手が汚れていないとは言わない。だけど無差別にだなんて、それだけは本当は俺がやったことじゃない。……でも、そんなこと、信じてもらえるはずがない。
『お前が余計なことをするから、』
『返せ』
……もともとお前のものじゃない。誰かの命を私欲のために使うのを許すわけにはいかない。……分かり合えれば良かったのに。
いつになっても完全に無くなることはない人の悪意に何度触れただろう。何度触れたって慣れるわけがない。
誰にも聞こえないところで弱音を吐いては決まって襲いくる後ろめたさに唇を噛みしめる夜を繰り返していたころを、何度も繰り返し夢に見る。自分がやったことを忘れてはいけない。
こうしていればいつかは終わる、終わらせてみせる、……じゃあ、その後は?
ふとそんなことを一度考えてしまえばなかなか頭から離れなくなってしまって、寝台の上でうずくまって、ロイドにとっての導であるひとの名前を呼ぶ夜。
(……いま、何をしているんだろう、)
『…………父さん、』
ほんのわずか発した声と、ひたり、と足音が重なって、背筋が凍る。咄嗟に飛び退いて剣の柄を掴もうとした手が空を切る。
顔だけが見えないだれかが口を開く。
『おまえさえいなければ』
経験を重ねた体は勝手に動く。距離を取ろうと寝台の上についたはずの手から、ぴしゃり、と音が鳴る。自分のものではない血の上に座り込んだ自分の姿が露わになって呆然とする。
──お前のせいで。恨みごとと同時に白い手がこちらの首元に伸びて、
でも俺は、お前たちのために死ぬことはできない。
◇
「……っ!」
ぱしり、と一度だけ鳴った音が、ロイドの耳にはやけに大きく響いた。
突然目の前に現れた現実は、沈むような赤ではなく、目の覚めるような白い色をしている。
ただもっと違うのは、右手で何かを振り払った感触だけが強く残っていることだ。一瞬だけ目で捉えたのは白い月明かり、白い寝台。青白く見えるふたりの手が宙を彷徨っていて、
「ぅ、わ」
「っロイド、」
ロイドの目の前には、屈んだまま驚きに目を見張る男がいた。
飛び退るように跳ね起きたロイドが身体を支えようとした左手は寝台を越え空を切って、視界ごと上体が後ろ側に転がり落ちていく。何が起こったのかを理解する時間はなかった。
目まぐるしく訪れた浮遊感に反射で歯を食いしばる。──が、身構えていた衝撃までは訪れなかった。
すばやい動作で身を乗り出した男の腕に、抱きとめるようにして半分落ちかけた身体を支えられていた。ふたり分の体重がかかった寝台が、呆れたようにぎしりと音を立てる。
「あ……」
「……大丈夫か?」
傾いた身体をいやに優しく戻されて、へたり込んだロイドに向かってかけられた言葉は怨嗟の声などではなくただ純粋にロイドの身を案じる声だ。耳慣れた声に一気に緊張の糸が解ける。
役目は終えたとばかりに男の、クラトスの腕が離れていくのを、ロイドは何も言えずに呆然と眺めていた。
……夢。微睡む暇もなく文字通り自分が飛び起きたことを遅れて理解する。
ここしばらくはいわゆる悪夢を見ていなかったのだが、切っ掛けなど無くともそれが訪れることは知っている。気まぐれに訪れるそれとは、実のところもう長い付き合いになる。
遅れてクラトスが小さく安堵の息をつくのが耳に入ってぎくりとする。ロイドの中の見栄のような意地のような何かがばつの悪さを感じているのは、きっとこのひとには見られたくないと思っていたからだろう。
悪夢にひどく心を揺さぶられていることなど、クラトスに余計な心配をかけるだけに決まっている。……それに、あのころと何も変わらず時に冷静で時にやさしいクラトスの姿と比べると、自分の未熟さを明らかにされているように思えてしまって嫌だった。
自然と下向いた視界に投げ出された自分の右手が映る。ふと、その手に触れたばかりの感触が鮮明によみがえって、さっと全身から血の気が引いていく思いがした。
──俺がさっき本当に振り払ったのは、悪意を持った手なんかじゃなくて。
「っ、悪い、そんなつもりじゃ」
なにか取り返しのつかないことをしてしまったような気分になって、勢いよく顔を上げた。釣られて浮かせた右手は途方に暮れている。
いまさらどうしたらいいのだろう。もう、自分を案じてくれていたであろう手は自ら拒んでしまった後なのに。
だが、ずっとロイドのほうを見ていたらしいクラトスはゆるく首を横に振るだけで、ロイドのことを少しも責めはしなかった。優しさがロイドの中に罪悪感を積もらせる。いつだってそうだ。このひとは帰ってきてからずっと傍にいてくれているというのに、自分は。
「ひどく魘されていた」
続けるべき言葉を見つけられずにいるロイドに向かって、静かに、だがはっきりとクラトスが呟く。さすがに完全に見逃してくれる気はないようだった。
でもきっと、夢の内容を忘れてしまった、だとかそんなふうに言ってしまえば、クラトスは追及せずにいてくれるんだろう。何も言わずに眠ったふりで夜を明かして、朝にはまた今まで通りに戻る。
それこそ本当に取り返しがつかないことをしているのではないか、クラトスのことを裏切っているのではないかと、そんなことが頭をよぎる。それだけは駄目だ。……それだけは嫌だ。
「……たまにあるんだ。ごめん」
だから、彼に分かっていて心配を飲み込ませるぐらいなら、素直に認めてしまうことにした。
「いつからだ」
いつから起きていたのかは分からないがクラトスは眠る気がないのか、問いを続けながらこちら側の寝台に腰掛けた。自分が今これ以上眠る気がないのも見透かされているのかもしれない。
──そりゃそうか。魘されて飛び起きるくらいの悪夢なんて、よっぽど何かなければ見ない。
父の背を斜め後ろから眺めながら、ロイドは先ほど自分が見せてしまった情けない姿のことを思い出して溜息をつきそうになった。
「それは……もう覚えてないんだ」
腰を上げかけたはいいもののなんとなく隣に並ぶ気にはなれなくて、いつもより寝乱れたシーツの上に転がった。ぼふりと音を立てて後頭部を枕に沈めながら天井を見上げる。
決して嘘はついていないが、この返事ではまるではぐらかしているかのようだ。でも、本当に、もう覚えていないくらいずっと昔の話になってしまった。
右手を持ち上げて手のひらを見つめる。血は滴り落ちてはいないが、月明かりに浮いた手はなんだか頼りなく見える。
俺はまだ、未熟だ。本当なら、怒りも嘆きも、それが自分の行いの結果であれば受け止めて然るべきだ。かろうじて逃げ出さずにはいられるが、本当に受け止められているかどうかは怪しいところだ。
やるべきことを成し遂げられたのだと胸を張っていたかった。かつて鏡に映したように同時に歩き出したはずなのに、父の背はまだ遠いように感じる。すぐそこにいるはずなのに。
変わらない手を眺めるのにも飽きて、額に腕を乗せるようにして脱力する。すこし間を置いてから、そうか、と相槌がうたれてからは、時計の針の音だけが部屋の中を満たしていた。
規則正しい音が数十回を過ぎたころ、ふたたびクラトスが背中越しに語り出す。
「おまえさえ良ければ、だが…………何を見ていたのか、聞かせてはくれないだろうか」
思い出したくないのならそれでいい。そう付け加えてまた口を閉ざした。
正直なところ、ロイドにとってはまったく予想外にも近い言葉だった。ロイドから見た再会してからのクラトスは、その直後のごたごたを除いて付かず離れずの距離があるのを感じていたものだから、彼のほうから何かを望まれたことがほとんどなかったのだ。それでも彼が旅を共にしてくれるのに、甘えていた、のだと思う。
だから、困ってしまう。クラトスのことだから、きっと全く見当がついていないわけではないんだろう。それなのに何故。
身じろぎのひとつもせずにロイドの返答を待っている男の見えない表情を斜め下から盗み見ながら、口の中で言葉にならない言葉を転がしていると、ふいに何か、じり、と焦げるような感覚が首筋から背中へと伝っていった。
頭の片隅にあった記憶が唐突に引っかかり浮かび上がる。昔々、ごく限られた時間の中で、父の過去のことを知りたいと強請った夜のこと。彼も覚えていない部分が多いと言って断片的にしか聞くことはできなかったが、それでも何か欠けた部分が埋められたような気がしたこと。
知ったところで今更自分の手が届かないことなのにそれでも知りたかったのは、きっと特別だからだった。
たとえば仲間、友達、知り合い、のように一言で言い表してしまうのは難しいような。クラトスに限って言えばいくらでも言い表しようがあるが、そうではなく、もっと、気持ちの問題、だろうか。だからこそもしもそれと似たようなものなのだとしたら、それは本当に珍しく見えて。
誰が言ったか、いつ耳にしたか、愛の反対は無関心なのだという。じゃあ反対は?……なんて、そんな単純な話でもない。少なくともロイド自身がクラトスのことをどう思っているのかなど、とてもではないが関係性よりももっと一言では言い表せない。
────でもやっぱり、もっと話をしてみるべきなのかもしれない。ずっと言葉にしてこなかったことも。
無機質な音を数えるのもやめるくらいたっぷりと時間をかけてもなお、クラトスが話を切り上げることはなかった。仮に立場が逆だったとしたら自分ならとっくに焦れて行動を起こしていることだろう。そんなところにも差を感じる。
悩んで、躊躇って、ようやく今言える言葉に辿り着く。
「今まであったことをばらばらにして、混ぜて、いくつか繋ぎ合わせたような夢。いつも違うんだ」
なんとなく暗闇に身を任せてしまいたくなくて、目を閉じることなくクラトスのほうへ首を傾ける。視線の先の肩がわずかに動く。
「それが、悪夢、か」
「忘れるなって言われてるのかもしれない。俺がこんな……、わがままを通して、浮かれてるから」
今まであったこと、がクラトスの知りようのない時のことだと伝えてしまったも同然だった。唯一重なっている“世界再生”の記憶は、辛いこともあれどロイドにとっては大切なものが数えきれないほどに増えた、色褪せはしない思い出だ。ばらばらになればすぐに夢だと気付いてしまう。
悪夢というのは厄介だ。いつも目が覚める直前まで、現実のように感じられるのだから。
「感情に資格など必要ないと、おまえは言った。ならばそれは誰にも責められることではない」
「うん」
「だが、理屈ではないのだろうな」
「……うん」
たしかに、再会したばかりの時にそんなような意味合いのことを言った記憶はある。
諭すような声にはどうにも抗いがたくて、寝相を変えて体ごとクラトスのほうを向く。二人用ではない寝台の上ではその後姿に膝が触れてしまいそうになる。
これまでのことを頭の中で羅列しようとしても、うまく纏まりそうになかった。どこから?どうやって?そうやって悩んでいるうちにクラトスが身を引いてしまうのではないかという焦りもある。
途方に暮れて、でもこれだけは、と縋るように口にする。
「ちょっとだけ……時間をくれないか。いつか絶対話すから」
「かまわない。無理にとは言わない。……それと」
ロイドは約束ごとが嫌いではなかった。きっと前に進むための手助けをしてくれるだろうから。
座ったままのクラトスが少し体を捻るようにしてこちらを向いた。投げ出していた右手にあたたかい手のひらがそっと覆いかぶさってきて、はっとする。ついさっき振り払ってしまった手。
こうやって待ち焦がれていたものが今目の前にあることを思い知らされるたびに胸が締め付けられる思いがして、ふっと一瞬頭が真っ白になってしまう。もういい歳のはずなのにな、と思う反面、このひとにとっては子どもであることには違いない、という思いもあり、この優しさを享受している。
「次にまたおまえが魘されていることがあれば、私は放ってはおけないだろう。そのときはまた、起こさせてはくれないだろうか」
そしてクラトスが続けた言葉は、なんだか妙だった。魘されているから起こすなんて、普通はわざわざ許可をとるようなことではない。が、寝起き際に夢と混同していたとはいえ一度拒んでしまった自分に非があると自覚しているロイドには反論することができなかった。
「…………いつ見るかなんて分からないけど、父さんがしたいなら、していいよ、なんでも」
もとより今のクラトスの無償にも近い優しさのようなものに対してロイドが返せるものなんて、このくらいしか残っていない。
「……わかった。必ず」
はたと目が合う。想像よりも真剣な表情から目が離せなくなる。
時間がかかってもいつかすべてを話すことができたら、クラトスに聞きたいことがひとつある。旅をともにしてくれる理由、その贖罪以外の意味を。それだって、ただ俺が知りたいだけだ。
……どこまで近くに立つのを許してくれるのだろうか。昔線引きに使われていた理由は、もう、ほとんど意味がなくなってしまったから。
「でもそれじゃあ父さんが寝れないだろ」
今度こそクラトスの手を振り払ってしまわないようにじっとしていると、ひとの体温の温かさが際立つ。父の手が好きだった。記憶がおぼろげな、うんと幼かったころから。
──もしかして、俺が寝るまで見てるつもりじゃないだろうな。そんな本当に子供みたいな……。
ふとそんな考えが頭に浮かび、少し話題を変えてみることにした。口にした内容自体はれっきとしたロイドの本心だ。
必要かどうかではなく、夜は眠り、朝には起きる。道理から外れているからこそ当たり前の生活をして生きていたいという願い。ただでさえ眠りが浅い男の休息を妨げたくはない、のだが。
「いつも十分すぎるほどには休息をとれている」
ロイドにはロイドの思惑があるように、クラトスにはクラトスの思惑がある。対等だと自負しているのなら大人しく引き下がるべき時もあるのだろう。昔なら、もう少し食い下がっていたのかもしれない。
「……わかったよ」
ただ特別気に掛けられていると自分で認めてしまうのはさすがに気恥ずかしい。それだけだ。
それきり会話が途切れて、静かな夜が戻ってくる。クラトスには悪いが少なくとも今日はふたたび意識を手放してしまう気にはなれなかった。どうしたものかとロイドが悩んでいると、ふっと手の上の熱が離れて、おもむろにクラトスが立ち上がった。
それを黙って見守っていると、クラトスは近くにあった机から椅子を引いて、寝台の傍、すぐそこに窓が見える位置に陣取った。まさか本当にやるのか、と驚きが口から出かけたとき、ふいとその視線が窓の外へ向いた。
──そういえば直接ちゃんと見たことはあんまりないけど、クラトスが夜半に窓の外を眺めているのはよくあることだ。でもこれは……。
「……なあ、いつもこうじゃないよな?」
代わりに新たに浮かんだ疑問がロイドの口から出てしまった。対するクラトスは、
「いつもではないな」
肩をすくめて、そう一言答えるだけだ。
今日のクラトスにはほんの少しだけ違和感のようなものを覚える。しかしその正体は結局のところよく分からず、まあ、嫌な感じはしないし良いか、と呑気なことをロイドは思っていた。
「いつの間にか起きていられるようになってたけど、昔は真似しようとしてもできなかったよ」
「たまに朝になるまでが早く感じる日が来ると、いつもそうだったらいいのにって思ったりした」
床にぼんやりと映ったクラトスの影を見つめながら、ただ頭に浮かんだ些細なことをつぶやくたびに、そうか、だとか、そうだな、だとか、人によっては素っ気ないと感じるのかもしれない短い相槌が返される。
ひとりごとのようだけど一人ではない、相槌が返ってくること自体に覚える感情は、安心、だろうか。その元にはずっと待っていたひとが本当にいることに、ロイドはまだ驚いてしまう。慣れたいとは思っているが、ひょっとしたら一生このままなんじゃないかとすら感じている。周囲の環境が大きく変わったはずのクラトスの落ち着きようとは正反対のようだ。
──やっぱり今でも憧れていて。今ここにある感情を胸のうちで指折り数える。言葉にまとめられるようになるのは、おそらく今の生活にもっと慣れてからだろう。
やがて無計画な話題はいずれ尽きて、ふたたび沈黙が訪れる。夜は休むべきだと主張するのなら、本当は言い出しっぺのほうが大人しく目を閉じるべきなのかもしれない。クラトスの視線はロイドのほうを向いているわけではないが、そんな気分になった。
ようやく瞼を下ろす気になり、暗闇の中に身を浸す。今はもう恐ろしくはなかった。本当ならちゃんと眠ったほうが朝は体が軽いのだが、今日だけは、と言い訳をしながら意識を捕まえたままでいる。それを知っているからなのか、クラトスのほうから話しかけてくることはない。
今度の約束は、叶えるまでにどれくらいかかるだろうか。そんなことを考えながら過ごす夜は案外長くは感じないということを、ロイドは新しく知ることになった。
「おまえならば、悪夢など見なくとも大切なことは忘れないだろう」
暗闇の中で、自分の都合の良い夢ではないかと疑ってしまうほどに小さく落とされた気がする声は、ずっとロイドの耳に残っている。