二人じゃ泣けない※直接的な描写はありませんが、チャスカとイファに肉体関係があります
※申し訳ありませんが、女攻めの定義にこだわりのある方は読まない方がいいです…
※モブNPCがイファに想いを寄せている描写があります
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大規模な飛行試験が終わったときや花翼の集の戦士が大きな戦果を上げたとき、部族で宴を催すことがある。その日は飛行試験が終わってすぐの夜で、大した怪我人も出ずイファも珍しく宴に顔を出していた。
遠くにあるオシカ・ナタの壮大な景色が広がる崖の近くで、大勢の人々がテーブルを囲んで飲み明かしているのを眺めながら、イファはグラスに口をつけた。
「イファ先輩も来てたんですね」
声をかけられて顔をあげれば、そこにはグラスを持ったヴィネシュが立っていた。かなり頬が紅潮しており、酒が進んでいたことが見て取れる。
「ああ、おつかれ。兄貴の方はいないのか?」
「えっと、邪魔なのであっちに行ってもらってます」
「邪魔?」
ヴィネシュの言葉の意図がわからず、思わず首を傾げる。彼女はきょろきょろとあたりを見渡したあと、隣に腰を下ろした。何やら聞かれたくない話でもあるのか、顔を近づけて小さな声で話し始めたので、イファもそっと耳を寄せた。
「私の友達に、アマラチって子がいるんです。知っていますか?」
「いや、知らないな。今日の試験会場にいたか?」
「いました。青い髪で……ゆるい編み込みをしていて、うしろで一つに結っています」
「ああ、監督補佐やってた子か」
「わあ! 覚えていてくれたんですね。ならよかった!」
ヴィネシュは歓喜の声をあげ、イファに酒を勧めた。いまいち話の流れが読めていないイファの困惑をよそに、ヴィネシュは大喜びで話を続けている。
「アマラチってとってもかわいいんです。髪もつやつやでとっても羨ましい」
「へえ」
「しかもすごく気が利く子で! 男の子にはモテるし、女の子の友達も多いんですよ」
「ふうん……」
彼女とは一度も会話をしたことはないが、笑顔の柔らかい女性だったことは覚えている。医療班に用があったのか、思えば今日の試験会場で何度か目が合った。人となりは想像でしかないが、ヴィネシュの言う通り可愛らしく気の利く女性なのだろう。
一体その女性がなんだと言うのだろうか。いまだアマラチを褒め続けているヴィネシュに問いかける。
「で、その子がどうしたって?」
「……ああ、そうだった! イファ先輩に時間があったらなんですが、よければこのあと三人で……」
一瞬、ヴィネシュの言葉が途切れる。宴を盛り上げるための花火が空高くに上がったからだ。どん、どん、と地に響くような低音が何度か鳴って、深い夜の空に眩い花火が散り散りに咲いている。
すっかり疲れ切って家で寝ているカクークを思い出す。この音で驚いて起きてしまわないだろうか。火花がぱらぱらと地に落ちていくのを眺めていると、花火の音が合図になったのか誰かがギターを弾き始めた。
一人が演奏を始めたのをきっかけに、他の者もつられて楽器を弾き始めている。次第に何人かが調子外れのダンスで踊り出して、一気に場が賑やかになった。
急にたくさんの情報が視界に入ってきたからか、ヴィネシュとの話が中断されてしまった。イファが続きを促そうとした瞬間、空いていた隣にどすんと誰かが座ってくる。そのままするりと細い腕がイファの首にまわり、強い力でぐっと顔を引き寄せられる。
「なっ……」
至近距離にチャスカの空色の瞳がある。酒と花の香りがして、イファは思わず目を見開いた。驚いているイファをよそに、チャスカは口角をあげて立ち上がった。
「行くぞ」
「行くってどこに……、ああ、悪いヴィネシュ! すぐ戻る!」
随分と機嫌が良いのか、チャスカはイファの手を引いてずんずんと歩き始めた。目を丸くしているヴィネシュに謝罪をしながら、イファはチャスカに引きずられるがままついていく。
「酔ってるだろ、かなり」
「ふふ、どうだろうな」
チャスカに連れられた先は、みんなが調子よく踊っている場所だった。テーブルで囲んだ中心で、各々自由に体を揺らしてリズムに乗っている。名高い調停者の登場に驚いたのか、何人かがすっと引いて場を空けた。
音楽に合わせてチャスカがくるりと回り、イファの体を引き寄せる。
「チャスカ……いきなりどうしたんだよ」
「こういうのは嫌いか?」
「あっ、おい!」
チャスカが再びくるりと回って大袈裟にのけ反るものだから、イファは慌ててその腰に手を回した。慌てた様子がおもしろかったのか、チャスカは大きな声で笑った。
咄嗟に支えたからよかったものの、危うく背中から地面に倒れるところだった。イファが文句を言おうと口を開く前に、彼女は身を投げ出すように体重をかけてくる。イファはそのたび、慌ててチャスカの体を支える羽目になった。
頬を紅潮させて楽しそうに笑うチャスカは、どこからどう見ても酔っ払いそのものだ。調停者の珍しい姿に、ある者は驚きある者はくすくすと笑っている。宴の端っこで泥酔して嘔吐を繰り返している青年たちよりは余程マシだが、迷惑を被っているのはついでのように目立っているイファである。
チャスカに手を引かれるままに、イファもくるりと回った。誘われない限りこういう場で目立つことはしないから、注目の的になっている現状には少しだけ気が引けた。
ダンスと言うには程遠いだろう。音楽にも合っていないし、イファはただチャスカに体を振り回されているだけだ。
チャスカはおそらく、大量のアルコールを摂取したのだろう。それなのにこんなに大胆に体を動かしては、脱水症状を引き起こしかねない。細いくせに力強い体をなんとか引きずってテーブルに戻れば、チャスカはイファの肩に寄りかかってそのまま目を瞑ってしまった。
散々振り回してくれたあげくに、帰りも送っていけと言うのだろうか。すっかり飲む気の失せたイファは、ヴィネシュに軽く頭を下げた。
「悪い、話の途中だった。それで、なんだって?」
「ああ、ええと……」
ヴィネシュの視線がうろうろと迷っている。イファの瞳、チャスカの顔、そしてごまかすようにグラスに目を向けたあと、眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「いいえ、やっぱりまた今度お話しますね」
酔いつぶれたチャスカを背負って診療所に向かいながら、イファは重く溜息をついた。あのときはチャスカの乱入により気づかなかったが、よくよく考えればヴィネシュはイファにアマラチという女性を紹介したかったのだろう。酒も入っていたし、判断力が落ちていた。イファにそのつもりは少しもないから、妙に期待させる返事をしてしまったことを後悔した。
最近、女性と関わる機会が増えた。娘を紹介させてくれという年老いた親からの紹介も増えたし、薄っぺらい用事で診療所に押しかけてくる女性もいる。大きな戦争が終わったのも理由の一つだろうが、一番の大きな原因はきっと別の部分にある。
以前はクイクと交際していると勘違いされることも多かったからだ。
クイクは父親と二人でイファの元を訪れ、よく三人で医療分野についての議論をしていた。夜遅くまで語り合うこともあったし、他の異性とはまた違う距離感の間柄だったとも言える。イファはクイクに強い友情を感じていた。気の置けない友人で、信頼できる仲間で、背中を預けることのできる同僚だった。
だからイファは、クイクと交際していると勘違いされても強く否定することはなかった。どんなに否定したって噂話は止められないという諦めもあるが、イファは女性に言い寄られることを好ましく思っていなかった。特定の交際相手がいるとあらば諦めてもらえるという打算的な事情もあり、釈明そのものを放棄していた。
ヴィネシュとは付き合いが長い。そしてヴィネシュの兄もイファの診療所の研修生だ。今まで浮いた話なんて持ってこなかったのに、今日になって突然アマラチの紹介を持ち掛けてきた。戦争が終わって、イファが独り身だと察したタイミングを見計らったのだろう。
チャスカを支えながらなんとか診療所の鍵を開ける。患者用のベッドに運ぶことも考えたが、明日の診察のためにも清潔に保っておきたい。しばらく思案したが、結局休憩室にある仮眠用ベッドにチャスカを寝かせた。
すっかり寝入ってるようで、チャスカは穏やかな寝息を立てている。水を持ってきてその体を起こし、軽く肩を叩いた。
「水くらい飲んでから寝てくれよ。なあ、きょうだい」
長いまつ毛がゆっくりと持ち上がるのを見て、つい場違いにも「重そうだな」という感想を抱く。水の入ったコップを差し出したが、どうしてだかチャスカはそれを受け取らずに首を振った。
同じくベッドに座ったイファの肩にこつんと頭を預け、眠そうな瞳で見上げてくる。
「飲めない」
「だめだ。これだけは飲んでもらう」
チャスカは品定めするような目つきでイファを見た。その瞳はひどく虚ろで、チャスカのいつもの理性が失われている気がした。一体どれだけのアルコールを摂取したのだろうと眉を顰める。彼女は強い酒が嫌いだったはずだった。
どんな方法で水を飲ませようかと考えていると、チャスカはイファのシャツの襟口を乱暴に掴んで強く引き寄せた。唇にふにりと押し付けられた柔らかな体温に驚いて、イファは思わず目を見開いた。チャスカの顔がすっと離れて、至近距離でしばし見つめ合う。
「飲ませろ」
「冗談はやめろ」
「冗談だと思うか?」
チャスカが口角を上げる姿を見て、イファは深くため息をついた。
「酔いすぎだ。禁酒をすすめよう」
「そうだな。今後は、水は飲めるくらいに止めておく」
空気が良くなかった。イファはそう思った。
イファも少し飲んでいる。チャスカだって正気じゃない。夜を染める深い紺色は小さく光る星々を美しく描画していたし、時折空に打ち上げられる花火だって薄暗い部屋をぱちぱちと輝かせた。電気をつけていなかったのも悪い。宴の喧騒がほんのりと聞こえてくるのも、静けさをごまかすのにちょうど良かった。少しくらい乗せられたって悪くないと、そう思えるような夜だった。
カクークがいればよかった。イファはただそう思った。
自棄になったようにコップを煽れば、チャスカはらしくもない笑い声をあげた。まるで、無邪気に笑うクイクのような笑い声だった。押し倒すようにしてその薄い唇に触れ、無理矢理に水を流し込んだ。
水が冷たいせいか、チャスカの舌がやけに熱く思える。水を飲み込めているか確認したくてその細い喉に指を当てると、そこは蠢くようにこくこくと震えていた。
仔竜と同じだ。まだ水が上手に飲めず、親から飲み方を教わっている。ただそれだけだ。
二人の口の端からつうっと水が零れ落ちて、仮眠用のベッドシーツを冷たく濡らした。気づけばイファの両手はチャスカの喉と手首を抑えている。何度か給水を繰り返したあと、イファは唇を離した。
チャスカじゃなければよかった。そうしたらこの駆け引きにも負けなかった。
イファはわざとらしく肩をすくめてベッドから起き上がった。
「着替えは置いておく。悪いが、俺の服で我慢してくれ。不快ならそのまま寝てくれて構わない」
「どこに行く」
「俺はソファで寝る」
「ここは寒いと思わないか?」
「バカ」
イファはそう言い捨てて、足早に部屋から出て行った。シャワーを浴びてから眠りたかったが、もうそんな気力は残っていない。苛ついたように乱暴な仕草でソファに寝転んで目を瞑った。朝になれば酔いも覚めるし疲れも取れる。つまり疲労で鈍った思考が鮮明になるということだ。今は何も考えてはいけない。鈍った思考回路に答えはないし、なんの意味もないからだ。
瞳を閉じて、ただただナタの美しい空を思い浮かべた。星だって花火だって浮かんでいない、ただの暗い夜空だ。
夜が明けたばかりの早朝の出来事だ。
目が覚めるとチャスカが馬乗りになっていた。
思わず飛び起きようとしたが、体重をかけて肩を抑えつけられてソファに舞い戻ってしまう。力負けすることはないだろうが、勢いよく起き上がればチャスカがひっくり返ってしまうだろう。
何よりきまりが悪いのは、渡したシャツと下着のみを身に着けていることだ。
「下も渡しただろ」
「邪魔だった」
チャスカの長い髪がだらりと垂れて、イファの顔をくすぐった。影のかかった瞳は、まるで獲物を視界に入れたような鋭さでイファを睨んでいる。チャスカの指がするりとイファの脚の間を撫でたので、咄嗟にその手首を掴む。
「おい」
澄んだ空色の瞳がイファを見つめた。
「処理をしてやると言ったら?」
「必要ない! あのな、昨日からどうしておかしくなってるのか知らないが、いい加減に……」
イファは勢いのまま大きな声を出したが、チャスカの眉がすっと下がったので思わず言葉に詰まってしまう。続きの台詞に言い淀んでいると、不意に休憩室の扉ががちゃりと開いた。
「叫び声が聞こえたが、大丈夫か?」
休憩室に入ってきたのはオロルンだった。大量の野菜が入った袋を抱えており、いつものように診療所に立ち寄ったのだろう。診療所の合鍵は緊急時のためにムトタ族長とオロルンに渡しており、オロルンは緊急時だと判断したのか合鍵を使用して入ってきたのだと思われた。
オロルンは乱れた着衣のチャスカの顔をじっと見つめたあと、ゆっくりとイファと目を合わせた。どういう状況なのか尋ねるためにアイコンタクトを送ってきたのだろうが、残念ながら今のイファには詳細を説明する術を持っていない。
「なるほど、わかった」
おそらく何もわかっていないだろうオロルンがそう言って、大袈裟に深く頷いた。
「経緯を説明しよう。診療所の前でコーティミが困っていた。彼は、イファ兄ちゃんと約束があるのに待ち合わせ場所に来ない、と言っていた」
イファとチャスカは黙ってオロルンを見つめている。
「僕は心配して、診療所の様子を確認した。すると、イファの叫び声が聞こえてきた。きみが声を荒げることはほとんどないから、何か困っているのかと思って合鍵を使って中に入った」
オロルンは非常に耳が良い。診療所の外にいても、イファの叫び声が聞こえたのだろう。そういえば、傷に良く効く薬草が生えている場所をコーティミに教える約束をしていた気がする。イファの額に冷や汗が流れた。
「つまり、意図してきみたちの、それを……邪魔するつもりはなかった。イファ、悪く思うなよ。野菜はここに置いておく。コーティミには僕が伝えておくから。だから、存分に続けてくれ。以上だ。では」
オロルンは全てを言い切ったあと、申し訳なさそうな顔でサムズアップをし、ばたんと扉を閉めた。
イファはチャスカを押しのけて思いきり飛び起きた。オロルンは非常に大きな勘違いをしていると思われる。余計なことをコーティミに話してしまう可能性にいても立ってもいられず、イファは慌てて休憩室の扉に飛びついた。
「違っ……オロルン! おい、待てったら!」
オロルンとイファは付き合いが長い。少しの悪気もなくオロルンがシトラリあたりに的外れなことを吹き込んでしまう未来も容易に想像できた。イファは大慌てでオロルンの後を追った。背後でチャスカがどんな表情をしていたのか、イファは確認すらしなかった。
☆
最近、チャスカの様子が変だ。前よりも妙に明るくなった。イファの前でよく笑うし、口数が多くなったし、試すような台詞が多くなった。そして、よくふらりとどこかへ消えていく機会も増えた。
イファの前でよく笑って、口数が多くて。
思えば最近のチャスカはどこかクイクに似ている。
イファがちょうど診療所を閉める時間になると、チャスカは当てもなくやってくるようになった。治療に忙しくて夕食を抜くことも多かったから、チャスカが持ってくる豪快な肉の盛り合わせはとても魅力的に思えた。鼻をくすぐる強い香料は空腹をくすぐり、疲れ切ったイファの胃袋を十二分に満たしてくれた。
空腹には抗えない。疲労した成人男性にとって分厚い肉塊は最高のおもてなしだ。そうして対価はそれだとでも言うように、チャスカは腹を満たしたイファを遊ぶようにして弄ぶことが多かった。
仮眠室に置いてあるソファにイファを押し倒したかと思えば、チャスカはするりとボトムスのジッパーに触れた。じいっと開いたそれを見て、イファは唇を噛んで深いため息をついた。
「今日も調停者としての仕事おつかれさま、きょうだい。ちなみに俺はかなり疲れているんだが」
「ああ、おつかれ。私は疲れてない」
チャスカの手が下着の中に入ってくる。中指でするりと陰茎の裏筋を撫でられ、イファの肩がびくりと揺れた。
「ッ、……おい、チャスカ」
小さな快感が背筋をすうっと抜けていく。少しもやめる気などないくせに、チャスカは涼しい顔をしてイファの顔色を伺うフリをしている。不埒な動きを続けるその指を振り払おうとするが、思い直して手を止めた。
「止めないのか?」
「本気でいやならとっくに追い出してる」
ただ、先にシャワーくらい浴びたいと思っただけだ。諦めたようにイファがそう言えば、チャスカはあっさりと体を離した。
シャワーから戻ると、チャスカは仮眠用ベッドに座り窓の外を見ていた。がしがしとタオルで髪を乱暴に拭きながら、その隣に腰を下ろす。
「父さんの様子は」
チャスカがこちらを見もしないで問いかけてくる。
「最近また来るようになった。少し元気になったみたいだな」
クイクが亡くなってから、表には出さないもののクスコはかなり落ち込んでいる様子だった。以前はクイクと一緒にイファの診療所にやってきては語り合ったものだが、しばらくはその機会もなかった。あれから少しばかりの時間が経ち、最近になってようやく再び顔を出すようになった。
「そうか」
「なに不満そうな顔してんだ?」
「別に」
大体、クスコのことならチャスカの方が詳しいはずだ。わざわざ聞いてくるということは、また家族から逃げ回っているのだろう。
「健康診断を受けてくれないってぼやいてたぞ」
「健康だから行ってないだけだ」
チャスカは疲れたように息を吐いた。この話は終わりだとでも言うようにイファの腕を引き、そのままベッドに押し倒す。
「クスコに知られたら、殺されるな……」
そうぼやいたイファにチャスカは返事をしなかった。黙ったままイファに手を伸ばし、ただ細い指でイファに触れる。シャツの上からするりと胸筋を撫で、胸の形を確かめるようにつうっとなぞられる。
「……ッ」
皮膚を滑る指先の感覚にぞくりとする。しかしその手は唐突にぴたりと止まって、チャスカは迷うように口を開いた。
「なあ、イファ」
「ん?」
「クイクのことで……」
チャスカはイファから視線を外した。しばらく無言を続けたあと、チャスカは静かに首を振った。
「いや、なんでもない」
迷子みたいな目だな、とイファは思った。不安そうな子どもが見せるような、そんな瞳の色をしている。言葉の続きが気になって促そうとするも、遮るように唇が押し付けられて言葉を奪われた。
拒絶しなければいけないのはイファだってわかっていた。
交際もしていないのに肉体関係を結ぶなど少々モラルに欠けている。他人はどうであれ、イファ自身の倫理観はセックスフレンドという概念を許していない。それなのにどうしてもその手を振り払えないのは、時折チャスカが迷子の子どものような表情を見せるからだ。孤独と不安を感じさせるさびしげな瞳が、イファの拒絶する意思を削いでしまう。
チャスカの苦悩を癒す術をイファは知らない。彼女が何も言わないからだ。何に苦しんでいるのか、どうして苦しいのか、わからなければ解決のしようがない。
溺れるような夜を過ごしながら、イファはただチャスカの髪を撫でていた。
☆
マーヴィカの指示で定期的に各部族の族長や六英雄を集めた報告会が行われることがある。イファも時折ムトタ族長に連れられて顔を出していた。
報告会が終わったあとは談義室からザカンの屋台に移動して、食事会を開催するのが恒例だ。ムアラニたちと談笑しているオロルンの隣に腰を下ろしたところで、背後からチャスカに声をかけられる。
「あとで行く」
「……はあ。夜にしてくれ」
「わかった」
「食っていかないのか?」
「ああ。用があるから帰る」
必要事項だけを手短に話したと思ったら、チャスカはすぐに背を向けてさっさとザカンの屋台から去って行ってしまった。困ったやつだとその背中を見送っていると、同じテーブルにいたムアラニとシロネンからの視線を感じて正面に向き直る。
「どうした」
二人は気まずそうに顔を見合わせている。少しの沈黙のあと、シロネンがまるで顔色を伺うように問いかけてくる。
「最近のチャスカってなーんか変わったなっていうか……」
「ああ。なんか悩んでるみたいだな」
チャスカの様子がおかしいということに気づいているのは、やはり自分だけではなかったらしい。イファが考え込むように頬杖をつくと、ムアラニが驚いたようにぶんぶんと顔を振った。
「ええ!? いやいや、悩んでるどころか、イファと付き合い始めたんじゃないかって思ってたところだよ!」
「あっバカ!」
「……あぁっ! 言っちゃった!」
シロネンが慌ててムアラニを静止すると、彼女はしまったという顔をして口を閉じる。イファはムアラニの言葉に眉を顰めた。
「どうしてそういう話になるんだ」
「どうしてって、冗談でしょ? あれだけイファのところに堂々と入り浸ってたら、噂くらい立つっしょ。あんたら有名人なんだから」
「別に、付き合っているとかでは」
「じゃあ二人っきりで何してんの? 毎晩仲良く七聖召喚でもしてるわけ?」
「……毎晩ではない」
かなり邪なことをしている自覚があるため、イファは歯切れ悪く答えた。肉体関係にあるということは、周囲にはとっくに露見しているということだ。ごまかしの効く状況ではないため困り果てているイファの様子を見て、オロルンが首を傾げる。
「付き合ってないのか? だってきみたち、この間ふたりで……ングゥ」
「オロルン、俺の分のタタコスも食べていいぞ」
イファは皿からひっつかんだタタコスをオロルンの口に強引に突っ込んだ。
「あいつは……悩んでんだよ。たぶんクイクが亡くなってから。だから会ってるだけだ」
嘘ではない。話を終わらせたくてチーズとキノコの串焼きに手を伸ばし、食欲のない胃の中に無理矢理詰め込んだ。
「クイクってさ、チャスカの妹さんだよね。お医者さんの」
「ああ」
「あのさ……」
ムアラニは言葉を続けようか迷っているようだった。
「ほんとに付き合ってないんだよね?」
「だから、そうだって」
「じゃあ、言うけど」
ムアラニは一度、シロネンの方を見た。シロネンは小さく唸ったあと、「もう言っちゃった方がいいのかもね」と呟いた。その言葉を聞いたムアラニが、意を決したように口を開いた。
「前に花翼の集の高台から落ちて怪我したことがあって、クイクに手当してもらったことがあったんだよね」
「あんたが急に一番高いところに登った人が勝ち! とかって大はしゃぎを始めたときね」
「そ、そうだけどぉ……。それでさ、そのあとイファが様子を見に来て」
「そのときのクイクが、嬉しそうな顔してたっていうか、なんか……恋してるなーって」
イファは串焼きを頬張る手を止めて、じっとムアラニを見た。全くの予想外の言葉ではあったが、どうしてだか驚く気にはなれない。ムアラニはイファの反応を伺いながら、慎重に言葉を続けた。
「だからチャスカが悩んでるならそれだと思うよ。黙ってるつもりだったけど、放っておいたら拗れそうだったから」
ムアラニが口を閉じたのと同時に沈黙が流れたが、シロネンが追加注文をする声で話題はがらりと方向を変えた。必要な情報は伝えたいが、話を続けるつもりも毛頭ないのだろう。
イファもそれ以上話を続けるつもりはなかったが、いまだタタコスを貪っているオロルンが呑気に声をかけてくる。
「きみはあの姉妹にやたらと縁があるな」
「ほっとけよ」
クイクがまだ生きていたころだ。その日の夜空は深い漆黒の色をしていて、ぼんやり見上げているだけでも不安になるような夜だった。いつも通りの一日が終わるはずだったが、その平穏はアビスの襲撃という形で脅かされた。
小規模な襲撃ではあったが、昼にもアビスの襲撃があった。その後始末で人員が割かれており、襲撃への対処が遅れ、結果的に被害が大きくなった。
クイクがかなり疲れている様子だったから、イファは一度彼女を診療所に連れていって休ませることにした。姉と同じで無茶をする性格だということを知っていたからだ。
ソファでもベッドでもなんでも使って構わないと言ったが、クイクは窓の近くに立っていたイファの肩に頭を預けてきたので、そのままにしておくことにした。
重傷者はおらず、みな軽傷で済んだ。だが目の前で四人死んだ。もっと早く駆けつけていれば、助けられたかもしれなかった命だった。
「はやく朝になればいいのに」
「そうだな」
ぽつりと呟いたクイクの真意はわからなかったが、星の浮かばない夜はイファもあまり好きではない。窓の外を眺めながら、静かに頷く。
「夜って、いろんなことを考えちゃうのね」
誰かに頼りたい夜もあるだろう。クイクがイファを頼るということは、チャスカが不在のときだ。
「ちゃんと寝た方がいい」
「もう少しだけ。話していたいの」
クイクは、帰り道がわからなくなった子どものようだった。まるでお化けでも現れるかのように、黒い空を見て怯えている。今にもアビスたちが再び襲ってきて、大事な人たちを全員連れ去ってしまうかのようだ。だからイファは、くだらない思い出話を一つすることにした。
「どうでもいい話をしよう」
「うん。お願い」
クイクが体重をかけてくる。イファもその頭に頬を寄せた。
「小さいとき、夜中にオロルンとウィッツトリの丘に探検しに行ったことがある。あそこって崖は少ないけど地面の高低差があって、意外と迷いやすいんだよな」
「どうして夜中に?」
「落ち着かなかったのかもな。案の定、見事に迷子になった。オロルンの奴が不安そうな顔するから、なんとかしなきゃって俺も焦っちまって」
「あら……」
「暗くて、先が見えなくて、あんなにも夜が怖いと思ったのは初めてだった。大人に見つけてもらったときはほっとして、涙が出るかと思ったよ。そんでオロルンの方見たら、あいつ大人に抱っこされた途端に速攻寝始めやがって……」
「ふふ」
「俺がどれだけ気負ってたかなんて気づきもしないんだ。大人たちも説教する気満々だったのに、抱っこされて秒で爆睡してるオロルンを見て気が削がれたのか、笑い始めて。まあ、説教がなくなったのはよかったんだけど」
くすくすとクイクが笑う声を聞いて、イファはほっとして息をついた。不安を解決できるのは、結局のところ自分次第だ。イファにはどうすることもできない。こうやってほんの少し、気を紛らわしてやれるくらいだ。
その日、クイクの父親が迎えに来るまで、二人はずっと窓の外を見ていた。
クイクとの記憶はいくらでもある。でもあの日の夜が、二人の距離がいちばん近い夜だった。クイクはどんな気持ちでイファの肩に寄り添ったのか、そしてそれを拒絶しなかったイファに何を思ったのか、今になってそれが気になりだして仕方がない。
クイクと交際していると勘違いされることも多かったが、イファとしては他の女性からの交際を断る余計な手間が省けるからちょうど良いと思って強く否定しなかった。クイクはどうだっただろうか。そういうイファを見て何を思ったのだろうか。何も気づきもしないイファに、虚しくなったのではないだろうか。チャスカはきっと、そんなクイクの様子に気づいていたのだろう。
あの日肩に寄りかかってきたクイクの顔を、イファはずっと思い出せないでいる。
☆
「クイクの墓参りに行ってたのか?」
夜になると、宣言通りチャスカはイファの診療所にやってきた。チャスカはイファの問いに返事をしなかったが、すでにそれが答えなのだろう。
いつも通りベッドへと誘導しようとしてきたので、イファはチャスカの体を抱きしめて引き留める。チャスカは驚いた様子で、びくりと体を揺らした。
イファはすっと息を吸って、覚悟を決めた。
「ずっと悲しんでるんだな」
クイクとチャスカは血こそ繋がっていないが、強い絆で繋がっている姉妹だった。お互いを愛して、大切に想っていた。
チャスカは無表情で顔をあげてイファを見つめた。瞳には何も映っていないが、どこか疲れたような色をしている。
「どうして、急にクイクの話を?」
「さあ。色々と話を聞いたからかな」
「そうだろうな。お前は鋭いくせに、あの子のことになると突然鈍くなる」
「……悪かったよ」
チャスカの言葉に鋭い棘を感じて、イファは大人しく謝罪をした。クイクを支えてやっているつもりだったが、同時にずっと傷つけていたことは事実だからだ。
チャスカは強い戦士だ。それなのに、どうして頼りなく見えるのだろう。
「クイクのことをどう思っていた?」
「わからない。今はもう」
イファは正直に答えた。その問いの答えをずっと探していたが、結局見つけることができなかったからだ。恋はしていなかった。でも確かな愛は存在していた。もしクイクの気持ちを知っていたら、この関係の形が変わっていたかもしれない可能性は否めない。
ただひとつ言えるのは、クイクとは距離が近くなりすぎた。体に触れられたって、彼女の力になるならと自然に受け入れてしまっていた。勇気を振り絞っただろうその指先にあった、小さな恋心に気づくことができなかった。
「どうしてお前を好きになったんだろう、クイクは」
「……さあ」
「お前が他の女と楽しそうにしていると、悲しそうな顔をするんだ。そんな顔、してほしくないのに。この男のどこがいいんだと、ずっと思っていた」
「ひどい言われようだな」
イファは苦笑した。
「だけど、お前には誰のものにもなってほしくない。あの子が……悲しむ」
突然イファに近寄ってきたのも、他の女性がイファに近づくことを許せなかったのだろう。
あまりにも長い時間、ずっとチャスカは悲しんでいた。同じ悲しみを共有していた父親も立ち直りつつある。周囲だってどんどん平和に慣れていった。チャスカだけが、いまだあの戦争の中にいる。
チャスカの両腕がイファのシャツを掴んだ。その手が震えていたから、イファは引き離そうとしなかった。
「どうしてみんな……クイクを忘れてしまうんだ」
まるで泣いているようだった。クイクもチャスカも迷子だった。クイクだけがゴールにたどり着いて、チャスカは取り残されてしまったのだろう。
イファは首を振った。
「違う。みんな受け入れて、前に進んでいるだけだ」
そんなことチャスカもわかっているだろうが、イファはあえて言葉にした。頼りないその肩を掴むと、チャスカはイファの腕の中からすっと抜け出した。
「私は、冷静じゃないな」
チャスカはイファの台詞に小さく笑った。そのまま帰ろうと背を向けたので、イファはもう一度その腕を引いた。
「チャスカ、大丈夫だ」
逃げられるかと思ったが、うしろから抱きしめてもチャスカは抵抗しなかった。
「大丈夫?」
「毎日墓参りに行くのはやめろ。いいから今日はゆっくり寝るんだ。お前に足りないのは休息だ、いろいろ考えすぎちまってさ」
帰りを引き留めたのは、薄暗い夜の闇に消えていくチャスカの背中を見たくないだけだった。これはイファの我儘だ。でもきっと、クイクもチャスカも同じくらい我儘でよかったはずだ。苦しいなら苦しいと言えばいいし、どうしてほしいのかはっきり口にしてくれてよかった。
この姉妹のためにできることなら、イファはなんだってしてやれた。
チャスカの手がイファの腕に触れる。
「じゃあ、少し話をしてくれないか。眠るまで」
「ああ、そうしよう」
何も望むことはない。ただチャスカが安心して眠れたらいいと、ただそれだけを思っている。
あの日クイクに話したことと同じ話をしてやろうと思ったが、いつか再び巡り合ったときこの姉妹に話題のない男だと笑われるのはごめんだった。ごねる子供を寝かしつけるようにチャスカをベッドに寝かせて、イファは枕元に腰を下ろした。
「チャスカ、大丈夫だ……大丈夫だから」
どんな話をしてやろうかと考えながら、イファはチャスカの美しい長髪を撫でてやった。
おわり
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