2024.8.7安心してください安定のラブコメハピエンですよ
・降谷さんの結婚
・ふたりは50歳近く
・一度付き合って別れてる
など苦手でしたらお避けください
全然不穏じゃないですいつものやつです
次で終わる小話です
とある任務で赤井秀一は死にかけた。いや、生きて戻ることを諦めかけた。
思えば身勝手な人生だった。
己の熱情の赴くままに生きてきた。多くの人を泣かせたし死なせもした。それでも赤井は走るのを止めず、何処までも熱に浮かされるまま、だからこそ赤井は死ぬ気など更々なかった。どんな修羅であろうとも生き抜くつもりだった。
けれど。もう、いいだろう。
そう思ったのだ。
難しい局面だった。任務自体は達成した。仲間は逃がした。証拠は消した。満身創痍とて走る脚も撃つ腕も残っている。追手はすぐそこまで来ているが赤井ならば何とか切り抜けられるだろう。
後は赤井が生きて戻るだけ……戻る?
まだ、生きるのか?
もう、いいのではないだろうか。
赤井は出血で霞む意識の中、息を吐いた。
もう十分だ。身勝手ではあったけれどやるべきことは全てやった。やり切った。見届けた。成し遂げたことに満足したこともある。贖罪はあれど悔いなどない。
だから、もう、いいだろう。
生きることを諦めた途端に指先から命が零れていく。身を以て感じるそれを、ぼんやりと享受する。指先どころか身体の何処にも力が入らない。
赤井は壁に寄り掛かった。この壁だって今にも崩れ落ちそうで、赤井はそっと目を細めた。心は不思議なほど穏やかだった。
誰にも看取られず、生死の判別すらつかない場所で死ぬ。
ああ。最後の最期まで身勝手な己に相応しいではないか。
走馬燈というものもあながち嘘ではないようだ。赤井にとって大切な人、場所、それらが脳裏を過っていく。それらを眺めて、赤井は微笑んだ。
幻は赤井の記憶だ。
幻に赤井は見惚れた。
柔らかな陽だまりのような髪。色素の濃い肌は何処までも艶やかで、眼差しは煌めく薄色。神経質そうに見えて案外と豪胆で、衒いなく笑うその様が好きだった。
幻の降谷零が振り返る。
「……君が好きだった」
赤井は、降谷零が好きだった。
――さっさと起きろ! 赤井秀一!
「……っ!」
瞬時に赤井は覚醒した。
体感的にはほんの僅かな時間、しかし赤井が目を開けると夜の闇が広がっている。意識の混濁は一瞬、赤井は咄嗟に判断した。自身の状態と月や星の位置から、赤井が気を飛ばしていたのは半日程度。追手はまだ来ていない。
赤井の双眸には光が戻っていた。
指先は命を取り戻している。
知らず赤井は勝気な笑みを浮かべていた。
まだだ。
まだ死ぬ訳にはいかない。
◇
「……で? 死にかけたら僕の幻に叩き起こされたと」
「そうだ。君の声が聴こえた」
「へえ。まずは無事生還おめでとうございます」
「ありがとう。降谷くんのお陰だ」
「まあ僕は何もしてませんけどね」
「君の存在そのものが俺の糧になる」
「そりゃどうも」
「好きだ」
「人として?」
「全て。俺と恋人になってくれ」
赤井の言葉に降谷は深く長い溜め息を垂れ流す。
「……あのさあ」
「なんだ」
「僕、赤井に振られたよな? 六年前に」
「振ったつもりはない。互いに納得の上だった」
「僕は別れたくなかったんだから振られたも同然だろ」
「そういうものか」
「そういうものです」
「五年前じゃなかったか」
「六年です。正確には六年七ヶ月前。もうすぐ七年」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ。じゃあ赤井は六年前に別れた元恋人の僕と寄り戻したいってこと?」
「そうなるな」
「そうなるな、じゃねえよ……」
頷いた赤井の目前で降谷が頭を抱えている。その頭を抱えた降谷の手、左の指に光る銀色に赤井は瞠目した。思わず降谷の手首を掴んで引く。
「っうお、」
「まさか君、」
「赤井、急に引っ張るな、」
「……結婚、したのか」
降谷がバランスを崩すのにも構わず赤井は手首を強く引き寄せる。
左の薬指。
シルバーのリング。
降谷は顔を歪めて苦笑した。
「赤井、力強いって」
「零くん」
「いいから離せ。手首折る気か」
「、すまん」
慌てて離した降谷の手首には、くっきりと赤井が握った跡が残っていた。ずっと残ればいいのに。漠然と赤井は願った。
降谷は手首を摩って苦笑いする。こんなとき降谷は怒らない。例えば力の加減が下手な赤井が降谷に痛みを与えてしまったとき。困った奴だなあと、降谷は笑って赤井を許す。
そんなところも好きだった。
「……零」
「呼び方」
「零くん」
「あのな。名前で呼ぶなって言ったのそっちだろ」
「撤回する」
「いや僕は撤回してないからな?」
「結婚したのか」
変わらない降谷の苦笑いを(やっぱり好きだなあ)とぼんやり思った。
「これからするんだよ」
赤井と降谷は恋人という関係だった。付き合いは十年に近い。あの組織の件から赤井は日本に滞在したり米国へ戻ったりを繰り返していたが、降谷との関係は赤井が四十歳を越えた頃まで続いたのだから、随分と長い関係であった。
そんな頃、赤井から解消を切り出した。降谷からは話し合いを求められたが、赤井の頑なな態度に、降谷は別れを受け入れた。降谷が言うには六年七ヶ月前のことだ。
赤井の理由は単純で、恋人という関係性に意味を見出せなくなっていたから。俗っぽく表現するなら倦怠期というやつだ。恋や愛といった感情はいずれ惰性になる。惰性を努力で継続する者、家族やチームといった関係に変化させる者、様々であろうが、赤井が選んだのは関係のリセットだった。
赤井は降谷を一個人として好ましいと思っている。職務の面でも私生活でも、降谷零を知れば知るほど好意を抱いた。だからこそ赤井は別れを選んだ。降谷と縁を切る気は更々ない。惰性の恋愛でマイナスの感情を増やすよりも、この先友人として関係を続けるほうが有益だと判断したのだ。
一方的だった自覚はある。だが判断は正しかったと赤井は確信している。リセットは必要だった。
「聞いてない」
端的に赤井は告げた。
「言ってないからな」
これまた降谷も端的に返す。
降谷との友人関係は続いていたが、この六年間、降谷に結婚するような相手の影は見当たらなかったし噂も一切なかった。赤井が死にかけた任務に就いたこの半年間のことは分からないが、降谷はたった半年で結婚を決意するようなタイプではない。
見合いだろうか。日本には悪しき習慣がある。
「強制された結婚じゃないですよ」
赤井の思考を見越した降谷が先手を打つ。
「ならば任務か」
「違いますよ。赤井じゃあるまいし」
「……、君に限って一目惚れもないだろう」
「そ? 運命ってやつなら別でしょ」
「君は運命など信じるのか」
「殺したいほど憎んでた相手にべた惚れしちゃう運命とか?」
「、 」
「冗談です。運命なんて信じてませんよ」
「……零くん」
「だから呼び方」
じろりと降谷が睨む。こればかりはばつが悪い赤井は、降谷くん。と呼び直した。
赤井が望んだ通り別れた後も友人関係は続き、仕事でも頻繁に顔を合わせる。互いの呼び方が親し気なままではどうにもやり難いと牽制したのは赤井のほうだ。
牽制。
降谷は最後まで、赤井を愛していた。
意外と降谷は惜しみなく愛情を示す性質で、言葉でも態度でもはっきりと愛を示し続けていた。だから分かる、降谷は別れるその間際まで赤井を愛していた。一方的なリセットを押し付けた赤井に対してもだ。
だから赤井は牽制した。
降谷の愛を、赤井は拒絶した。
「お茶淹れ直しますね。赤井は?」
降谷が席を立つ。
「……ミルク」
「ジンジャーミルク?」
「ああ」
「甘くする?」
赤井は小さく頷いた。本当は割と甘味を好む赤井が素直に頷けるのは、降谷にだけだ。あの頃から今も。
オープンタイプのキッチンに視線を向ける。
記憶に根付く光景に赤井は目を細めた。
降谷がスーツの上着を脱いだだけのシャツ姿なのは、降谷の仕事帰りに声を掛けたからだ。降谷が赤井を自宅に招いたのは、赤井が死にかけたほどの困難な任務に就いていたことを知っているからだろう。
ミルクパンを戸棚から出す音。水音。包丁の音。
別れてからも降谷の家に入ったことはある。ただし複数人だ。工藤新一や宮野志保と共に、食事会と称して招かれた。けれど部屋で二人きりになったことはない。この部屋で二人きりになるのは別れ話をして以来だった。
「任務は無事に終えたんですか?」
「ああ」
「てか日本に居ていいのかよ」
「ああ」
「てか死にかけたならまだ安静にしてろよ」
「問題ない」
ふわりと生姜の良い匂いが漂ってくる。降谷が苦笑いした。
「無茶をする歳じゃないでしょう」
「今後無茶をする予定はない」
「シルバーブレッドもやっと後進に託す気になりました?」
「託してきた」
ダンっ。包丁が鳴った。
キッチンから降谷がこちらを見ている。丸いまなこが呆然と、それから首を振って溜め息をついた。
「……辞めたんですか、FBI」
「ああ」
「それって僕が聞いていいやつ?」
「別に構わんだろ」
「いつ?」
「先週」
「死にかけたのって先月ですよね」
「本当はすぐ辞める予定だったんだがな。入院で長引いた」
「僕が聞いていいやつ?」
「口止めはされてない」
「……米軍関係だったんじゃないの?」
降谷の口調は慎重だ。
「ホー。流石だな、知ってたのか」
「まあ、あくまでも噂程度ですけど」
「事実だ」
「いやだからそれ僕が聞いていいのかよ」
「口止めはされてない」
「……はあ……」
降谷の溜め息は特大だった。
その通り、赤井が死にかけた任務も軍関連で、既にスナイパーも辞する年齢を越えた赤井が次に身を置く予定も軍関連の施設だった。
それらを全て蹴り赤井はFBIを辞めた。
「言っておくが正攻法で辞めたぞ」
「どうだか」
「軍が絡んでは流石に無茶出来んだろう」
「ならいいけど」
「君に迷惑をかけることはない」
「そう願うよ」
降谷は然程も思っていないような口調で言った。たまに降谷はどうでもよさそうな、適当な言い方をする。それも赤井が好きなところだった。常に猜疑心を解けない赤井は、降谷の脱力加減に安堵するのだ。
漂う甘いミルクの匂いが懐かしい。夜になると降谷がよく作ってくれたジンジャーミルク。赤井も何度か自分で作ってみたが、どうしても同じ味にならなかった。
「……降谷くん」
「んー」
「いつ結婚するんだ」
「五ヶ月後」
「相手は」
キッチンから降谷が戻る。手には降谷が愛用しているマグカップと、もう一つは赤井が見たことのない余所行きのマグカップ。赤井はそれを受け取り、甘いミルクに口を付けた。
「……美味いな」
「甘過ぎない?」
「丁度良い」
ダイニングテーブルを挟んで二人、甘いミルクを味わう。恋人だった頃は二人ソファに並ぶのが当たり前だった。他者とは距離を取りたい赤井でも、降谷の気配は受け入れられた。赤井は少し高めの降谷の体温が好きだった。
ことん。降谷がマグカップをテーブルに置く。
「相手は仕事関係とだけ」
「俺も知る女か」
「見たことはあると思う。赤井が覚えてるかは微妙だけど」
「ふむ」
確かに。赤井は記憶力は抜群だが興味のないことを覚える気がない。不要と判断した人間の顔と名前を記憶しているかは、怪しいところだ。
「赤井は僕の結婚なんて興味ないだろ」
「君の結婚となれば話は別だ」
「意外」
「諦める気はないからな」
「赤井が言うと冗談に聞こえない」
「冗談だと思うか?」
「略奪愛なんて赤井の趣味じゃないだろ」
「現役を引退したんだ。趣味が増えるのは歓迎だよ」
「……赤井さあ」
頬杖をついた降谷と目が合う。もう五十も間近だというのに相変わらず若々しい、出会った頃と殆ど変わらない見目だ。
「本気で僕と寄り戻したいって言ってる?」
「ああ」
「FBI辞めたのって僕に関連してる?」
「多少」
赤井は正直に認めた。
恋人同士だった十年もの歳月で、互いの立場が互いを危うくしたことは幾度もあった。特に保守的な日本国に属する降谷は酷かっただろう。それでも降谷が一度として泣き言を言わなかったのは降谷の矜持か、もしくは赤井への愛情故か。
どちらにせよ、今度は降谷が懸念することのないよう職を辞したのは事実だ。
「それ、今なら撤回間に合うんじゃない?」
「撤回する気はない。君を諦める気もない」
「僕結婚するんだけど」
「そうらしいな」
じっと降谷が赤井を見据える。
「僕がまだ赤井に未練あると思ってた?」
「そこまで厚かましくはない」
「でも勝算はあると思ってただろ」
「押せば何とかなるとは思ってた」
「なんだそれ」
「君が俺に向ける感情は全てが全身全霊だった。それが憎悪でも愛情でもな。そんな君が俺を切るなら、君は俺をけして振り返らないだろう。だがこの六年の間、君は俺と良好な友人関係を続けてきた。君が俺を完全には切る気がないということだ。そこに賭ける価値はある」
降谷はどうでも良さそうに息を吐く。
「値踏みされてるなあ」
「情に篤い。君の美徳だ」
「そりゃどうも」
じっと降谷が赤井を見据える。
感情は読み取れない。けれど無関心ではない。降谷の情に付け込むのは卑怯だと自覚しているが、赤井は手段を選ばない性質だ。
「俺は君が好きだ」
「で? また惰性で付き合って、赤井が飽きたらまたリセット?」
「しない」
「一度こっぴどく振られた僕が信じると思う?」
「振ってない。話し合いの結果だ」
「僕は別れたくなかったんだから振られたのと同じなの」
「最終的に君は納得した」
「赤井が別れるの一点張りだから納得せざるを得なかったんだよ」
「あの頃はそれが最善だった」
「赤井にはそうだったんだろうな」
「君は違うのか」
「僕は赤井の意思を尊重しただけ」
「別れた当時はそうだったかもしれんが、今は違うだろう」
降谷とて現状をベストだと感じている筈だ。でなければこんな風に心地良い友人関係を築けていない。
と、傍観的だった降谷の面手に感情が浮かんだ。
けれどそれは喜怒哀楽のどれに当て嵌まるのか、赤井には判別し兼ねる類のものだった。
「……七年」
「え」
「七年かけて、やっと俺の中から赤井秀一を追い出せそうなんだよ」
視線を落とした降谷が苦く笑う。笑っているのに正反対の感情みたいな、奇妙な違和感。
初めて見る降谷の表情に赤井は急激な焦燥感に駆られた。
「降谷くん……?」
「そうだな。俺はいつも全身全霊だった。じゃなきゃ赤井秀一には到底届かないからな。もし駄目になったらきっぱり諦める。赤井秀一に見限られたそのときは、二度と振り返らない。そのつもりだったんだけどなあ」
「君を見限ったつもりはない」
「人として?」
「ああ」
「でも俺の恋愛感情は赤井には不要だっただろ?」
「恋人という関係だけが全てではない」
「それでも俺は秀一くんを愛したかったし、秀一くんに愛されたかった。秀一くんには惰性でも、時間が経って愛の形が変わったとしても、俺は恋人として、秀一と並んで生きたかった」
「……零くん」
「はは。別れたときと同じ会話だ」
くしゃりと降谷の指が自身の髪を混ぜた。
左手。忌々しい銀の指輪が嵌っている指だ。
「情に篤いんじゃなくて、無駄と知ってて縋ってたんだよ。赤井秀一は不要なものをリセットできた。俺は無駄だって分かってるのに縋ってた。我ながら往生際が悪いよな」
「言っただろう。君の美徳だ」
「赤井秀一にとって価値のある美徳なら良かったんだけどね」
「……それは、」
「あ。別れたこと自体は恨んでないからな。俺には最善じゃなかったけど、赤井の価値観を尊重したかったのも本当。赤井を引き留められなかったのは単に俺の力不足。そこは納得してる」
「恨んでくれても構わんよ」
「やだよ。もう赤井秀一を恨むのは御免だ」
「、 」
降谷の笑みに何故だかぞっとした。
降谷が遠く離れてしまうような感覚。焦燥感が募る。
「自分で自分の往生際の悪さに辟易してた。でもやっと、俺の中から赤井秀一を追い出せそうなとこなんだよ」
「……だから結婚するのか」
「そ。晴れて未練を断ち切った記念に」
「俺に未練があったのか」
「実際のとこ、いつ頃まで忘れられなかったのか、もう分かんないけどね。赤井秀一に関しては愛憎ごちゃ混ぜだったからさ、俺」
「……」
降谷が何かを諦めるとき、こんな風に乾いた笑いをするんだな、と初めて知った。降谷は諦めない人だ。綺麗なだけではない、窮地で泥にまみれても不敵に笑う、その不屈の精神が赤井は好きだった。
けれど今、目の前の男も確かに降谷零だ。
知らなかったんじゃない。赤井が見なかっただけだ。降谷はずっと、別れた後も赤井の友人として側に居た。なのに知らなかったということは降谷が見せなかったか、赤井が視界に入れなかったからだ。要因は両方だろう。
赤井は今まで何を、誰を見ていたのだろう。
最終的に赤井を尊重した降谷は、どんな顔をしていただろう?
「……降谷くん、」
ふつふつと焦燥感が募る。それは思ってもいない恐怖、不安、衝撃だった。
降谷は笑っている。まるで温度のない笑い方だ。
「もしかして……君は結婚したら、俺とは二度と会わないつもりだったのか」
「そのつもりだった」
「全て切るつもりだったのか」
「やっと踏ん切りがついた」
「……無理をして友人関係を続けていたのか」
「俺の意思だよ。俺の未練だった」
「友人にも戻れないのか」
「俺の全身全霊舐めんなよ」
それほどまでに降谷は降谷の全てで赤井を愛していた。
だからこそ、駄目なら二度と振り返らない。
降谷零とはそういう人だと知っていた筈ではないか。
「……俺は君が好きだ」
「ありがと。でも応えられない」
降谷は左手をひらひらと揺らした。シルバーリングごと指を切り落としてしまいたい。
「……いやだ」
無意識に、ぽつりと。
赤井の口から零れた。
「俺は……そんなに君を傷付けていたのか」
「その辺は僕が悪い。結局友達の関係になり切れなかった。そのくせ意地張って赤井の前で泣けなかった」
「泣いた、のか」
「めちゃくちゃ泣いた」
「っ、いつ、」
「忘れちゃった」
うそだ。泣いたなんて。
赤井は愕然とした。
知らなかった。思わず呟いても、そんなもの役には立たない。過去は戻らないし現状も好転しない。転がっているのは事実だけだ。
温度のある笑みで降谷が肩を竦めた。
「僕も歳取ったんだろうなあ。今は別に恥ずかしくないんだけどね。あの頃は赤井の前で泣くの恥ずかしかったんだよ。赤井には格好悪いとこ見られたくなかったんだろうな」
「……零くん、」
「謝るなよ」
「、 」
「別れ話なんてお互い様だろ。僕が勝手に消化出来なかっただけ。そりゃ赤井は多少強引だったけど、どっちが悪いとかって話じゃない。変に責任感じるな。次から次へと背負うもん増やしてどーすんの」
「……」
だから赤井の前で泣かなかったのだ。
格好悪いところを見られたくないなんて言って、降谷は、すぐに何でも背負い込もうとする赤井を慮って涙を見せなかっただけだった。
愛されていたことを知る度に、赤井の胸は酷く痛む。
赤井が浸るための感傷ではない。あの頃、愛されたかったのに愛されなかった降谷零を想って。
自ら拒絶した癖に。痛む資格などない、けれど。
「俺は諦めない」
謝罪の代わりに赤井は宣言した。
降谷には迷惑だろう。しかし赤井は何処までも自分勝手なのだ。
「だから赤井が言うと冗談に聞こえないんだって」
「本気だ」
「散々赤井秀一を追い回してた頃にその情熱が返って来てたら両想いだったのになあ」
「今からでも遅くない」
「だから結婚するっつってるだろ」
「会わなくなるなど許さない」
「現実問題、どうせ既婚の友達なんて会う機会減るだろ」
「何処にも逃がさない」
「ホラーかよ。赤井が言うと怖いんだって」
降谷は笑った。
「さてと。どうします? 今晩だけなら泊ってってもいいですよ」
「いや。帰る」
「そう」
頷いた降谷は、友人だった頃の降谷となんら変わらない様子だった。
「また連絡する」
降谷の返事を待たずに赤井は部屋を後にした。