タイトルは未定だよ それを、今でも憶えている。
少し低い体温が己の体温に馴染んでいく様。
しなやかに反る背のしっとりとした感触。
決して高くはない掠れた声が上擦る瞬間。
口内をまさぐり、舌を吸い出す。跳ねる腰を押さえ付け、またひとつ、またひとつと服を脱がしていく。
つつ、と動いた相手の指が“正義”に触れた。引っ掛けただけのそれは簡単に床に落ちる。唇越しにくふくふと笑う気配が伝わるが、気に食わなかったのでひょいと持ち上げベッドへと放り投げた。文句の一つでも言われるかと思ったが、予想に反して熱い視線を寄越されただけだった。その熱の籠った瞳に簡単に溺れてしまう己が馬鹿らしいと思えど、これは一夜限りの夢なのだと、そう言い聞かせた。
強請るように首に腕を回される。熱い吐息が耳元を擽る。盛りのついた動物のように喉が鳴った。誰も正常な思考など持っていなかった。茹だるような暑さの部屋で、絡み合うようにベッドへと倒れた。名を呼ばれる。痺れるような快感だった。
少し低い体温が己の体温に馴染んでいく様。しなやかに反る背のしっとりとした感触。決して高くはない声が上擦る瞬間。
うっとりとした表情で己を見上げている。随分と嬉しそうに、愛おしそうにしているものだから、どうしようもなくなってしまって、許されるままに己のを宛てがった。
嬉しい。大丈夫だから、お願い。やめないで。もっと、もっと、求めて。嬉しい。はやく、おまえのものにして。
暴力的だ。
くらくらする。脳に酸素が足りない。
本能のままに腰を進める。
歓喜の声を上げながら、背中に爪を立てて笑ったのは。
「…………スモーカー……」
名を、呼んだのは。
目が覚める。
見知らぬ天井が見えてスモーカーは一瞬困惑した。
のそりと体を起こして辺りを見渡す。ぐしゃぐしゃになったシーツと飲みかけの酒。半分開いたカーテンから陽が差し込み太陽光に弱い肌をジリジリと焼いている。
スモーカーはどういう状況だったかをぼんやりと思い出し、そしてガシガシと頭を掻いた。やけに暑いと思った原因が分かって、それがいいことなのか悪いことなのかも分からないが、ただ情けないことだというのは理解していた。
苛立った頭を整理する為、ベッドサイドに置いてある葉巻にライターで火を付ける。大きく吸い込み、吐き出す。それを何度か繰り返していると思考も視界もクリアになっていき、己が置かれている状況も思い出してきた。
スモーカーは吸い始めたばかりの葉巻を灰皿に押し付けると、備え付けの風呂場へと直行した。服を脱ぎ捨て先程までの甘美な夢を振り払うように頭から冷水を浴びる。下半身がよくないことになっているのを見ないようにしながら、目を閉じてどうでもいいことを考える。
暫くそうしていると上がった体温も落ち着いていき、すっかり冷え切る頃にスモーカーはようやくシャワーのバルブを捻った。
その夢を見るのは、初めてではない。
あと少し、というところでいつも目が覚める。それを心の何処かで残念だと思っている己に心底深い溜息を吐きながら、スモーカーは今日も忘れる為に生きている。
馬鹿らしい。あんなもの、二度と起きようがない一夜の夢だ。
みっともなくそれを繰り返し夢に見る程、あの一夜に執着しているのだと思いたくなかった。
スモーカーは軽く体を拭き服を着替えると、葉巻をまた咥えながら部屋を出た。お世辞にも広いとは言えない宿の狭い廊下を通り、階段を降りる。中腹辺りでその姿に気が付いた宿屋の女主人がからりと笑ってスモーカーを出迎えた。
「よかったお客さん。今起こしに行こうかと思ってたんだよ。朝食は食べるかい?」
「悪いな。まだ残ってるか?」
「海獣のマリネとマッシュポテト、あと朝取れたばかりのフルーツならあるよ。サンドイッチならすぐ作れるが、どうだい?」
「あるもので十分だ。ありがとう」
スモーカーがカウンターに座ると、女主人は灰皿を差し出しながら朝食の残りも並べてくれる。スモーカーはありがたくそれを受け取りながら周囲の様子を探った。
朝食と言うには遅く、昼食と言うには早い時間帯で、宿泊客はとっくの昔に外へと繰り出しているようだった。食事のスペースと受付も兼ねている宿屋の一階にはスモーカーしか客は居ない。
「昨日は手続きを済ませたらすぐに上に行っちまっただろう。夕飯にも降りて来なかったから心配してたんだよ。随分と疲れていたんだねぇ」
「いや、悪かった。体力には自信がある方だったんだが、気が付いたら朝だった。もう昼か? とにかく、朝飯に遅れちまったな」
「いいんだよ! ここは疲れを癒す場所さ。せっかく良い時期に来たんだから、ゆっくりしておいき」
スモーカーは苦笑しながらその言葉には返事をせず「ありがたく頂くよ」と残りの朝食を口に運んだ。
スモーカーがこの島に訪れることになったのは僅か三日前のことだ。
「スモーカーさんは“願いが叶う島”をご存知ですか?」
山のような書類に囲まれながら眠気覚ましのコーヒーを啜っていたスモーカーは、部下のあまりに下らない話に一度聞こえない振りをした。
「その島で願い事をすると、その願いが叶うのだとか。大金が欲しいとか、健康な身体が欲しいとか……あとは、好きな人と結ばれたいだったり、逢いたい人に逢えるだったり」
部下はそんなスモーカーをものともせず言葉を続けた。泥水のようなコーヒーを飲み干し、大嫌いな書類整理の方がまだマシかと判子を手に取る。内容など全く見ずに判子だけを押していく作業の再開だ。どうせ内容はG5の海兵達による器物破損やら島民からの苦情やら上への報告書やら始末書やらで対して緊急性もない中身だろう。
「スモーカーさん! 聞いてますか?」
「聞いてない」
「聞いてるじゃないですか」
もう、と頬を膨らませたたしぎは、ひとつのチケットを目の前に置いた。次に判子を押す書類の上に置かれてはスモーカーも反応せざるを得ない。
「……なんだ、これは」
「“願いが叶う島”、エスペランサ島までの船のチケットです」
「………あぁ?」
「おつるさんから教えてもらったんです! あまり有名ではない島なんですが、春島で一年中気候が安定しているらしくちょっとした観光地なんだとか。さっきも話した通り、その島で願い事をするといい事が起こると言われているそうで、そういう話もあって最近若いカップルに人気だそうです。そこで永遠の愛を誓えば、一生幸せに暮らせるとか!」
随分と楽しそうに話すたしぎであったが、その話と目の前のチケット。それが己の前に差し出されてる意味が理解出来ずに眉を寄せる。いや、本当は理解出来ているからこそスモーカーはこれまでにない顰めっ面を作った。
「…………まさかとは思うが、このチケット。おれに用意したとかじゃねぇだろうな?」
「はい! 勿論スモーカーさんの為に用意しました!」
にっこりと笑ったたしぎにスモーカーのこめかみに青筋が立つ。
「ふざけるんじゃねぇ。誰が好きこのんでそんな浮かれた噂のある島に行かなきゃならねぇんだ」
「ふざけているのはスモーカーさんですよ。最後に休んだのはいつか覚えてますか」
笑顔を真剣なものに変えて、たしぎはスモーカーへと詰め寄った。スモーカーは途端に風向きが変わるのを感じる。
「………一ヶ月ぐらい前だろう」
「半年前です! スモーカーさん!!」
ダン! とたしぎが机を叩いたせいでコーヒーカップが跳ねる。中身が入ってなくて良かったと頭の片隅で現実逃避している間にもたしぎはつらつらと文句を言い始めた。
「何度でも言いますが、働き過ぎですよ! G5基地の仮眠室で眠ることは休んだとは言いません! 休暇とは! 仕事から離れ!! 心と身体を休めることを言うんです!!! 分かってますか!?」
その剣幕にスモーカーは痛む頭を押さえて深い溜息を吐いた。何でも言うことを聞く部下ではあるが、こうなると梃子でも動かないことを知っている。
「ここのトップであるスモーカーさんが率先して定期的な休みを取らなければ部下に示しがつきません!」
「気にせずおまえらは休めばいいだろう。うちの連中なんて毎日が宴会騒ぎみたいなもんじゃねぇか。それにあいつらときたら二、三日抜けるだけで山みてぇに報告書と始末書を増やしやがる。あいつらが大人しく何の問題も起こさなきゃおれだって休むさ」
「スモーカーさん、やっぱり書類の内容にきちんと目を通してませんね?」
「あ?」
「ここ一ヶ月、うちの海兵が問題を起こした始末書は一つもなかったはずですよ」
そう言われて、スモーカーは初めて己の手元の書類を見た。確かに本部への報告書や島民達からの要望が纏められた内容ばかりで、毎日のように上がっていた部下の始末書は一つもなかった。
「スモーカーさんを休ませるんだって、頑張ってたんですよ」
スモーカーはうぐ、と言葉に詰まる。一つも始末書が上がらないのが当たり前だが、以前を考えると一ヶ月も問題を起こさなかったというのはかなりの成長だ。それが上司を安心して休ませる為だとは、その上司であるスモーカーは強く出ることが出来なくなった。部下の要望に応えてこその上司である。
しかし素直に頷くことが出来ない。嫌いな書類が溜まるのが嫌だというのも本音だ。頼りない可愛い部下達が心配だというのも本音だ。だが一番の理由は、疲れ過ぎるほど疲れなければ夢を見ずに眠れないからだということをスモーカーは分かっていた。
気を抜くとすぐにあの夢を見る。浅ましく、未練がましい、あの夢を。嬉しそうに己の名を呼ぶ、強請るように唇に噛み付いてくる、猫のようなあの男の夢を、スモーカーは今も見続けている。
疲れる理由に仕事は丁度良かった。どれだけ働いても次から次へと問題は湧き出てくる。本当は書類整理より外に出て体を動かす方が好きだったが、この際仕事ならなんでも良かった。目の下の隈が隠しきれなくなって、流石に拙いということはスモーカーも自覚していた。だがどうしてもあの夢がちらつくのだ。眠ってしまえば、またあの男の夢を見る。手に入りなどしないのに、求めること自体が間違っているのに、たった一夜の関係をずるずると引きずって。あんな女々しい夢を未だ見ている自分に嫌気がさす。
仕事でもしていなければ、どうしようもないのだ。
「………だが、おれは」
「それでも休んで頂けないであろうスモーカーさんに!」
ここまで言われて尚、首を縦に振ろうとしないスモーカーがまだ渋ろうとしたとき。それを見越していたと言わんばかりにたしぎが声を上げた。スモーカーは面食らってたしぎを見る。机の上のチケットを手に取り、悪戯っ子のような表情でにんまりと笑ったたしぎはチケットをひらひらと振ってみせた。
「このチケット、用意したの誰だと思います?」
「…………! おい、まさか…!」
「エスペランサ産のお酒に興味があるそうです。是非、飲んでみたいと」
してやられたと、純粋にスモーカーは頭を抱えた。たしぎは先程“おつるさんから聞いた”と言った。中将として階級は同じだが、中身の立場は天と地の差がある。スモーカーが逆らえない相手を選んで来たのだ。それに加え、長年の勘がそれだけではないと叫んでいた。
「…………大目付か?」
「正解ですスモーカーさん! このチケット、大目付が用意してくださったんですよ!」
「……この馬鹿野郎が…!!」
スモーカーの逃げ場はこれでなくなった。大目付自らが長期休暇の申請を通した上、土産まで頼まれている。中将といえど一介の海兵に仏のセンゴクが一体何をしているのだ。ただスモーカーを休ませる為だけにチケットまで用意して。
してやったり、という風に笑っているたしぎに大きな溜息を吐いてスモーカーは天井を見上げる。なんだか気が抜けて、一気にどうでも良くなった。もうどうにでもなれ。
「分かった分かった。もうテメェらの言う通りしてやる」
「スモーカーさん……!!」
感動したとでも言うように目を輝かせるたしぎに降参だと手を上げたスモーカーは肝心のこと聞く為、それで? と続けた。
「チケットの日付けはいつだ?」
「明日です!」
「!?」
そうして、碌に準備もさせてもらえないまま財布と葉巻だけ持って船に乗ったスモーカーは一週間もある休暇を余儀なくされた。しかもその島特有の“とある理由”により、強制的に一週間は絶対に外へ出られないという徹底ぶりだった。たしぎの口振りでは“春島で気候も安定しており謎のジンクスで観光地としても最近人気だから”がスモーカーにエスペランサ島を勧めた理由だったが、どう考えても後から聞かされた方がメインの理由だろう。一週間、嫌でも島から出られないようにするのが目的だったに違いない。
今更引き返すことも出来ず、ぼーっと船の外を眺めているうちに島へ到着してしまった。目の前をカップルがきゃあきゃあと笑い合いながら横切っていく。スモーカーは何とも言えない気持ちになって遠いところをみた。何が悲しくて、三十後半にもなった独り身の男が“愛を誓ったら永遠に幸せに暮らせる”などというジンクスが流行っている島へ若いカップルに混じって上陸しなければならないのか。幾ら文句を言ったところで誰にも届かない。観念してスモーカーは重い腰を上げ、“願いが叶う島”エスペランサ島へと足を踏み入れたのだった。
あまり有名ではない島、と聞いていたがかなり賑わっているというのがスモーカーが初めに抱いた感想だった。至るところに花の飾りが目に付く。島への観光客を歓迎しているのか、スモーカーも先程浮かれた花輪を首にかけられた。早々に外して近くに居た少女へとやってしまったが、春島らしく色とりどりの花が咲くのかもしれない。
それにしてもこの賑わい方は通常ではないのだろう。散々船の中で今、エスペランサ島では五年に一度の祭りの時期だと聞かされた。これもたしぎから一言も聞かされなかった情報だが、きっと知っていたに違いない。
この祭りの時期、というのが一週間島から出られない理由だ。五年に一度、島を囲む海流が向きを変える。外から入ることも出ることも叶わなくなるのだ。島の人々はその閉ざされた七日間に祭りを行う。それがエスペランサ島で行われる“夢祭り”だ。
一週間という休暇には丁度良い期間。春島で気候も安定しており、若者中心に人気なジンクスもある。願いが叶うなどという馬鹿げた噂は、確かにこの島が観光地として人気になるのを助長しているだろう。如何せんそれ以外に特出したものがないので、知る人ぞ知る、という状態なのだろうということもスモーカーは理解した。
休暇の申請がその“夢祭り”に被る、というより被るようにされた為、小さな島の宿泊施設はどこも満室だった。人気の宿は軒並み埋まっており、スモーカーは中心部を離れた個人が経営する小さな宿に一週間世話になることにした。それでも最後の一部屋だというのだから、祭りの人気具合が窺える。ちなみにセンゴクの名前でホテルを予約することも出来たらしいが、丁重に断った。スモーカーは己の名が売れているとは思ってはいないが、念の為偽名を使って宿にチェックインした。海軍本部中将がこんなところで休暇を楽しんでいると噂になっても面倒だった。
着いたのが夕方辺りで、それが島に上陸出来る最後の便だったようだ。明日から本格的に祭りが始まると同時に、島から出られなくなることを示していた。スモーカーは既にお祭りムードな島を碌に見ることもせず、酒を貰って与えられた部屋へと早々に引っ込んだ。急に休みを与えられても特にすることも思い付かず、徐々に暗くなる窓の外を眺めながら酒を煽る。思いの外疲れていたのか、スモーカーは夕飯も食べずにそのまま夢の世界へと旅立った。
目覚めが最悪であったことは、言うまでもないが。
「お客さん」
ハッとしてスモーカーが顔を上げれば、心配そうな女主人がそこに居た。どうやらまた思考を飛ばしていたらしく、食後の葉巻が吸われることなく灰になっている。自他ともに認めるヘビースモーカーが吸うことも忘れて物思いにふけるなど考えられない。いくら休暇中でも気を抜きすぎている気がした。
「大丈夫かい。やっぱり疲れてるんだね」
「あぁ、いや……少しな。大丈夫だ」
「気晴らしに外を歩いてみたらどうだい? 屋台も出てるし、有名な丘もあるよ。広場では出し物なんかもしてる。何か気になるものがあるかもしれない」
「………そうだな。少し出てこよう」
スモーカーは祭りに興味がなかったので女主人には悪いが心動かされるものは何もなかった。しかしこのまま宿に引きこもっている訳にもいかないので、散歩がてらスモーカーは出歩くことにした。
スモーカーの言葉を聞いて嬉しそうに女主人は島の地図を取り出した。恰幅が良く豪快に笑う人だが、心配りはとても丁寧だとスモーカーは思った。
エスペランサ島には固有種であるユメの木という木があるらしく、その木にしか咲かないユメミソウという花がある。その花を酒に漬けたのが特産品のユメミ酒だそうだ。
西の海岸沿いへと向かうと小高い丘があり、そこで永遠の愛を誓えば一生幸せに暮らせるというジンクスがあるらしい。エスペランサ島では最近一番の人気観光スポットだそうだ。
スモーカーの為に女主人は島のことを色々教えてくれた。話半分で聞くのは失礼かと最後まで相槌を打ってやる。新たに付けた葉巻が最後の一吸いになる頃、ようやく女主人は話を切り上げた。
「アタシったら長々と話しちまったね。つまらない話を聞かせたかい」
「いいや、興味深かった。とりあえずそのユメミ酒ってやつを買ってこよう。上司に美味い酒を土産に強請られている」
「気に入ってくれたら嬉しいよ。丘の方にも良ければ行っておくれ。相手が居なくても永遠の愛に釣られて観光をしに来てる女が沢山いるよ。アンタみたいな良い男が独り身なんて勿体ない。何人か引っ掛けてきてもアタシは目を瞑ってやるさ」
「おれなんか誰も相手にしねぇよ」
「まさか。アタシがあと二十は若けりゃ絶対に誘ってたね」
「……あれは旦那か?」
その冗談を聞いて、スモーカーは女主人の後ろに飾ってある男の写真を見た。彼女は笑って「良い男だろ」とその写真を手に取る。
「もう何十年も前さ。結婚してすぐに事故で逝っちまった。二人でこの宿を経営しようって他所の島からここまで嫁がせた癖に、さっさと独りにしやがった女泣かせの男だ。だからアタシはいつでもフリーだよ」
ウインクまでしてみせた女主人にスモーカーも笑う。見知らぬ土地に残されても、何十年と二人で約束した宿を一人で経営しているのが答えだろう。
「それは、ますますおれでは相手にならないな。部下にも同期にも、女の扱いがなっていないと怒られる」
「はっはっは! そりゃ難儀だね」
スモーカーは少し多めの硬貨を置きながらカウンター席を立った。そろそろ昼頃になってしまう。いつまでもここに居る訳にはいかない。
「ちょいと! 多すぎだよお客さん」
「朝食に遅れた詫びと島の話を聞かせて貰った礼だ」
片手を上げてスモーカーは気にするなと言った。女主人は困ったようにしながらも、スモーカーを立てる為に笑って受け取る。良い女だと思った。
「お客さん」
宿を出ようとするスモーカーを彼女は呼び止た。振り返るスモーカーをどこか慈愛に満ちた表情で見つめている。
「この島ではね、強く強く願うと、逢いたい人に逢えるんだ」
「……………」
「それがどんな人だって、逢えると信じられている」
逢いたい人がいるなら願ってみるといい。
それだけをスモーカーに伝えて、彼女はまた仕事に戻ってしまった。
スモーカーは今度こそ宿を出た。中心部から離れているのに通りには人が沢山居て、楽しそうに笑い合っている。浮かない顔はきっとスモーカーだけだ。それを隠すようにサングラスをして、行き先も決めずに歩き出した。
スモーカーは現実主義者だ。願えば叶うだとか、信じていれば救われるだとか、馬鹿らしいと思う。それが許される世界なら、こんなことにはなっていないのだ。
海賊も、海兵も、居ない世ならどれだけ良かったか。
正義など掲げずとも済む世界なら。
逢いたい人に、逢えたのだろうか。
「白猟屋?」
雑踏の中で、やけにクリアに聴こえた声にスモーカーは振り返る。
「………やっぱり白猟屋だ」
どこかほっとした表情の男が居た。
スモーカーは、その呼び方をする人物を数える程しか知らない。
ここは“願いが叶う島”エスペランサ島。
スモーカーの休暇は、まだ始まったばかりだ。