昼休憩中の出来事であった。
「はい、降旗先生もどうぞ」
一人の看護師が降旗のデスクの上に小花模様の可愛らしいラッピングが施されたお菓子のようなものを置いた。
「これは……?」
降旗は包みをつまみ上げると小首を傾げる。
「嫌だなぁ先生、今日はバレンタインじゃないですか。日頃の感謝の気持ちです」
「バレンタイン……今日は二月十四日ですか?」
「はい、そうですよ」
「失念していました。ありがとうございます」
常日頃から忙しく働く降旗は、毎朝日付を確認するものの、その日が何の日かまでは考える余裕が無い。
「いいえ、ホワイトデー期待してますね」
看護師の女は、声を弾ませて言った。
「考えておきます……」
降旗はぶっきらぼうに言った。
「降旗先生、恋人居ましたよね?忘れていたってことは今日は何も約束してないんですか?」
また別の看護師が興味津々に訊いた。えーっ彼女さん可哀想ー!とまた別の看護師が言う。
「私のプライベートの話は良いでしょう。もう午後の診察が始まりますよ」
さあ早く早く、と降旗は集まっていた看護師達が仕事に戻るよう促した。
*
白丘は牧師をする傍ら、大学で教鞭を取っている。
今日、二月十四日は一年の中で学生たちが色めき立つ日のうちの一つで、朝からキャンパスではチョコを貰った、どこの誰にあげるつもりだ、などそんな話で持ち切りである。
昼食を終えた白丘は珈琲を淹れ、学生たちから貰ったチョコレートを眺めた。
手作りのものや、少し高そうな箱に入ったもの、チロルチョコなど様々だ。
そのうちの一つを手に取ろうとした時、研究室の扉が開いた。
「あ、白丘先生いた!これどうぞ。ハッピーバレンタイン」
そう言って白丘にチョコを渡したのは、教えている学生の一人だ。
「ありがとう」
受け取ると笑顔で言った。
「あーっ先生、こんなにチョコ貰ってる!彼女さん、焼きもち妬かないんですか?」
「どうかなあ、義理でもらったものだし、あまりそういったことを気にしない人だとは思うけれど――」
向こうも貰っているだろうし、と心の中で付け足した。
「そういえば、今日はなんだか華やかだね」
「今日は彼氏とディナーなんです」
嬉しそうにスカートの裾を摘まむとくるりと回って見せた。
「先生は彼女さんに何かプレゼントするんですか?」
「バレンタインは女性から男性にチョコを贈る日じゃないのかい?」
「えーっ先生考え方古いですよ。男性がプレゼントしたって良いじゃないですか。彼女さんだって喜ぶと思いますよ」
「そうか……恋人をディナーにでも誘ってみるかな」
「喜んでくれると良いですね」
「ああ――」
白丘は、微笑を浮かべた。
*
降旗は診察を終え、カルテを棚にしまった。
既に日は傾いている。
綺麗な夕焼けが窓から見えた。
降旗は、今日も無事に一日が終わったことに安堵し、スマートフォンを手に取る。
"今から帰ります"
そう打って、送信ボタンを押そうとした瞬間、手の中のスマートフォンが震えた。
「はい」
「降旗君、もう仕事は終わったのかな」
電話をかけてきたのは白丘だった。
「ええ、今ちょうどメールを送るところでした」
「そうか、それは良かった」
「――」
「どうしたんですか?何かスーパーで買い忘れでもしました?」
「いや――」
「はい」
「ええと、降旗君、その……食事にでも行かないか。レストランは予約してある」
たまには良いかと思ってね、と白丘は付け足した。
「――ええ、たまには良いですね」
二人は待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切った。
*
暗い夜道、白丘と降旗は帰路についていた。
ぽつり、ぽつり、と淡いオレンジの街灯が二人が行く道を照らしている。
「美味しかったなあ」
「鴨のローストの焼き加減が絶妙でした。ソースも付け合わせの野菜も美味しかったですね。ペアリングのワインも料理にとても合っていたし……それにレストランの雰囲気もとても良くて――」
降旗は上機嫌のようである。酒が入っているせいもあってかよく喋る。
白丘はにっこりと微笑んで、楽しそうに食事の話をする降旗を眺めている。
降旗は、その視線に気付いて、話すのを止めた。
「何ですか」
「今日、誘って良かったよ。僕も楽しかった」
「私は一言も楽しかったとは――」
「うん、言ってないね。でも降旗君を見たら分かるよ。違ったかな」
「いえ……今日はありがとうございました」
「降旗君が喜んでくれて、僕も嬉しいよ」
降旗は鞄から小さい箱を取り出し、差し出した。
「これは?」
「待ち合わせるまでに少し時間があったので、亮さんに買ったんです――」
顔を伏せ、気恥ずかしそうに、降旗は言った。
「今日はバレンタインでしょう」
白丘は、屈むとそっと口付けた。
「こんな所で誰かに見られたらどうするんです!」
降旗は頬を紅くした。
「すまない、でも降旗君があまりに可愛くて――」
宝物を触るように優しい手付きで降旗の頬に触れる。
「駄目です……」
降旗の瞳が、潤んでいる。
「お楽しみは家に帰ってから――だね」
白丘が、降旗の頬を撫でた。
降旗は、こくり、とうなずくと白丘の手にそっと触れた。