Cafaea Avium① 鳥を象ったウィンドチャイムが、ちりん、と鳴った。
黒いベストにボウタイの店主が顔を上げ、二つほくろが並んだ口元をやわらかに綻ばせる。
こんにちは、と投げかけられる挨拶にどうも、と頭を下げて応え、定位置であるカウンターの左端に、グレイは腰を降ろした。
以前までは、『いらっしゃいませ』だった筈だ。顔見知りを特別贔屓するようなタイプではないと思ったが、今は他に客がいないからなのか――それとも、それなりの関わりを経たからだろうか。整然と片付けられた棚へとふと目を遣れば、浄めの塩スプレーの小さな容器が片隅に鎮座しているのが見えた。
「……ブレンドで」
「今日はキリマンジャロとブラジルですが」
「お願いします」
サイフォンの準備を始めた店主から視線を外して、グレイは、傍にあった新聞を取り上げた。習慣としてまず開くのは社会面――ありていに云えば、三面記事だ。
交通事故、芸能人の不祥事、パワハラ自殺訴訟。そして、若い女性の失踪。
親族の意向により公開捜査に切り替えたこと、同時期に姿を消した知人男性との関連を調べていると云うことが記されている。短い記事を二度読み返し、次の面へと目を移す。
背後でまた、チャイムが涼しげな音を立てた。
「――いらっしゃいませ」
フラスコを手に顔を上げた店主が、お好きな席にどうぞ――と声を掛ける。ありがとうございますと応えたのは、どうやらまだ若い男のようだ。
「先生、そっちにどうぞ。ええと、アイスコーヒーですか?」
「……カツカレー」
連れの、おそらくはもう少し年かさの男が、ぼそぼそと主張する。
「ほんと好きですよね、ここのカレー。確かにおいしいですけど。ええと――じゃあ、カツカレーとアイスコーヒー、ハムチーズサンドとアイスカフェラテください」
書き付けた伝票を裏返して、少々お待ちください、と店主は微笑んだ。フラスコをヒーターにセットして、背後の冷蔵庫を開ける。いわゆるワンオペなのだが、おそろしく手際はいい。
店の名前は『Luna』と云う。愛猫の名前なのだと云うことは聞いているが、それでいて店の中の装飾には鳥のモチーフが多い。特に理由を訊ねてみたことはなかったし、今後訊ねる機会があるかどうかは判らなかった。
新聞の向こう側にある店主の、白く――どこかひややかな美貌を、グレイは観察する。
事務所の階下にあるカフェは、どちらかと云えば喫茶店と呼んだほうが似合う、古く落ち着いた店構えだ。それがあるじの性分であるのか、雑然とした雰囲気は微塵もない。
無駄のない手さばきはもちろん、飲み物や料理の味からも、この生業が決して短からぬことは判る。それでいて、何かがしっくりとしない。
掴みきれない――男だった。
フラスコに差し込んだ漏斗の中でゆっくりと攪拌されてゆくコーヒーが、まろやかな香りを立ち上らせてゆく。
「……どうしました」
焦点を合わせた視線の先で、澄んだ天色をした双眸がひっそりと微笑んでいた。負けじと曖昧な微笑を返して新聞を閉じた時、三度チャイムが鳴った。
「一人なんですけど、いいですか」
遠慮がちな声を出すところを聞けば、この店は初めてなのだろう。どうぞと頷いてみせた店主に礼を述べ、カウンターのひとつ開けた隣の席に腰を降ろす。
「ブレンド、お待たせしました」
雄鶏が描かれたターコイズ色のジノリをこちらに、水とおしぼり、メニューを隣の客の前に置いて、ご注文は後程、と店主は言った。脇に用意していたパンを流れるような手つきでスライスし、ハムとチーズを挟んでゆく。一口飲み下したコーヒーはまろやかでありながら奥深い苦味もまた間違いなく感じられ、ひとことで言えば――絶妙に美味い。
ひとつ息を吐き、一度ソーサーに戻したカップをもう一度取り上げ、口に付ける。
「……カレー、グラタン……いや、カレー……かな」
隣の客は、どうやらメニューに悩んでいるらしい。
「あの」
「え――あ、はい?」
らしくない気まぐれを起こした理由は自分でも判らなかった。紫紺の目を訝しげに細めた青年は、いかにも真面目そうな会社員と云った風体をしている。やんわりと身構えるような端整な面差しを眺め、そうして、グレイは口を開いた。
「――美味いですよ。ここのカレー」