マルガレテの面影④終章
ひややかな指先に頬を撫でられる夢を見たような気がして、ナタは瞼を開いた。
焦点を取り戻す視界を、薄青の光が次第に埋めてゆく。夜明けが近いのだろう。
意識を失った人を横たえた筈の寝台の上に、その姿はない。
身体を起こして周囲を見回せば、僅かに開いた扉から微かな風が吹き込んでいるようだった。触れた敷布に残る微かな体温を確かめて、椅子から立ち上がる。
結果としてエルヴェに無理を強いたことを、伴侶である男は責めなかった。黙って詳細を聞き、眠る人へと向けたその眼差しは、愛するものへの労りに満ちてただ優しかった。
回廊を抜け、裏庭の方角へと歩を進める。
夜間は門が施錠されてしまうから、敷地の外に出ることはできない。確信があった訳ではないが、他の場所に足を向ける理由はやはり思い当たらなかった。
閂の外れた鉄扉を通り、露に濡れた下草を踏む。
緩やかな斜面を下りきる頃、枝葉を広げた樹影の下に――白い襯衣の背中と、風に靡く長い髪が見えた。
「……先生」
羽織ってきた毛織りの肩掛けを外し、立ち尽くす人の肩を覆う。
「戻りましょう。風邪を引いてしまいます」
細く長く消え入りそうな吐息をこぼして、やがて、エルヴェはこちらへと視線を向けた。
「――ナタ」
低く甘くやわらかなその響きと、湖水の色に似た双眸に宿る、澄んだ光。息を詰めて、先生、とナタは呟いた。
「お判りに、なりますか……僕が、」
深く息を吸い、吐き出して、ああ――とエルヴェは言った。
白い横顔には疲労と翳りが濃く纏わりつき、赤く腫れた目もとが痛々しい。
それでもその眼差しは目の前にある現実を真っ直ぐに、曇りなく映しているようだった。
「――心配を、掛けたな」
「そんなこと、お気になさらないでください」
「……ナタ」
穏やかで、それでいて透明な笑みが、心に沁み通るようだった。
「きみに、聞いてほしいことがある」
「何なりと」
足もとに揺れる――今は眠るように閉じたその白い花を見下ろして、ありがとう、とエルヴェは呟いた。目を伏せ、長い沈黙を経て、口を開く。
「……母――は、」
追いつかぬ意味を確かめるようにもう一度、母は――と繰り返す。
「この花が、好きだった」
吹き抜けた風に乱された髪が、鳥の翼めいてはさりと翻った。
その向こうに広がる夜空の紺碧が、裾から光明を滲ませてゆく。
「少しだけ、手が冷たかった」
訥々と継ぐ言葉は、縺れ固まった糸を解く爪先に似ていた。
「いつも――笑っていた」
喉もとを僅かに震わせ、目を閉じて、開く。
「夜、一人で泣いているのを、知っていた」
何もできなかった――と、エルヴェは呟いた。
「笑っていてほしいと、思っていた」
そこにどんな経緯が、どんな事情があったのかを知る術はない。
幼い我が子を悲しませぬよう、一人ひそやかに泣いていたのだろう女の――思い描くその横顔は白く儚く、そして、長い亜麻色の髪に縁取られていた。
「――月が、見えた」
触れることを躊躇うものに伸ばす指先のように、その声は僅かに揺れている。
「細く、尖った形をしていて――黒い木の影の、間から、」
一度言葉を切り、詰めた息を吐いて、続ける。
「……追っ手から逃れようとしていたのだと、思う」
空の端を見つめる青灰色の目は、さざなみひとつなく凪いだ湖面のようだった。
「動いてはいけないと、言われた。決して声を上げてもいけないと、だから、」
ずっと見ていたんだ、とエルヴェは言った。
「悲鳴は、聞こえなかった。怯えさせまいと、怖がらせまいと、したのかもしれない。聞いたのは、骨の砕ける音と、肉を食む音と、獣の唸る声だけだ」
色褪せた頬を静かに伝い落ちた透明な雫が、夜明けの白い光をきらりと跳ね返した。思わず差し出した手は、揺らぐことなく伸ばされた背中のどこにも触れられぬまま――温んでゆく大気をこぶしに握り締めて、ナタは立ち尽くす。
「言われた通り、その場所を動かなかった。声も出さなかった。夜が明けて、通りかかった老人に見つけられるまで、そこにいた」
涙を拭い、小さな息を吐いて、やがて――エルヴェは、こちらへと視線を向けた。
澄んだ湖水に似た透明の奥に深い悲痛を湛えた双眸は、傷を内包しながらそれでも精一杯のきらめきを放つ、美しい貴石に似ていた。
「……ナタ」
「はい」
「もう一度、」
迷いと怖れを振り切るように強く唇を結んだ後、エルヴェは言った。
「あの場所に、行きたいのだが――いいか」
応えることを躊躇ったのは、それが自分の領分であるかどうかを図りかねたからだ。卿をお呼びしましょうか、と問えば、僅かに躊躇い、首を振る。
「きみに、来てほしい」
「僕で――いいんですか」
「……頼る権利などないことは、知っている」
苦い自嘲を含んだ呟きが、かさりと耳朶を掠めた。咄嗟に返す言葉のないナタを見て、エルヴェは、どこか寂しげに笑った。
「――子供の泣く声を、聞いていた」
「……それは、」
「きみが泣いているのだと、思っていたんだ。本当は、そうではなかったのだろうが」
――大丈夫。
――僕が、守ってあげる。
繰り返しそう口にしながら、縋り付く手はいつも震えていた。大丈夫だと言ってほしがっていたのは、守られたいと思っていたのは、耳を、目を塞いで座り込むことしかできなかった、その日の幼い子供だったのだろう。
「帰してやりたいと、守ってやらなければと、そればかり考えていた」
「僕に対して、そう思っていただいていたことがあったから――でしょうか」
そうかもしれないな、と呟いて男は淡く笑い、やがて、静かに笑みを消した。
「……ナタ」
「はい」
「――俺を、憎んだだろう」
詰めた息を細く吐き、そうして、いいえ、とナタは言った。
「恨んで、恋い焦がれて、たくさん泣きました。でも、憎んだことはありません。一度も」
緩々と滲んでゆく青灰色の双眸を真っ直ぐに覗き込み、次の言葉を探す。
「憎むことができれば、もう少し楽だったのかもしれないと……思ったことは、あります。でも、できなかった。だから、」
砕けた欠片を拾い上げ、鋭く美しいきらめきを握り締める。
幾度もなぞり抱き締め爪を立てたその手触りを、いずれ思い出すことすらできなくなるのかもしれない。あの日手放した、白い大剣のように。それでも。
「今は、幸せでいていただきたいと、思っています」
痛みを堪えるかのように目を伏せて、きみに、とエルヴェは呟いた。
「そんなふうに思ってもらえる、資格など――俺には、」
「――先生」
躊躇った末に触れた、そのひやりと冷たい指を手の中にそっと包み込んで、今更ですよ、とナタは囁いた。
「……これは、僕がしてさしあげたいことですから」
雲間を裂いて差し込む眩い陽光が、足もとで開き始めた白い花を照らしていた。
足を止めたフォスの冠羽の向こう、夜の名残りの青をすっかりと拭い去った朝日が眩い光を放つ。手綱を引くナタの肩に手を触れて、エルヴェは鞍を降りた。
崖下に一本だけ立った木へ歩み寄り、その根元に跪く。声を掛けられぬままただ見守るナタの視線の先で、その時、長い指先が地面に触れた。乾いた下草の根を分け、砂に埋もれた石を取り除き、土を掻く。こぶしひとつ半程度の深さになった穴の底に、何かが見えた。漸くその存在を思い出したナイフを腰から抜いて差し出せば、微かに頷いて、エルヴェはそれを受け取った。柔らかな黒土の中に埋もれたものを傷けぬよう、注意深く刃を差し込んでゆく。
程なくして掘り返されたのは、朽ちた木の小箱だった。
取り上げる男の手の中でぼろぼろと割れ崩れたその中に収められていたのは、円が僅かに歪んだ白金の指輪と――ひとかけらの骨だった。
◇
長い黙祷の後、緩々と立ち上がったエルヴェの髪が、吹き抜けた風にはさりと翻った。砂塵を含んで乾いた風は土の上に横たえられた白い花の花弁を揺らし、枯れかけた茂みを掻き分けて、空へと還ってゆく。
緩々と振り返ったエルヴェの視線の先、伴侶である男は、鮮やかな緑の目を僅かに細めたようだった。同じ花を胸に抱いた娘の肩に手を触れ、小さな墓標の前で共に膝を折る。二人の背中を見つめるエルヴェの傍らへと歩み寄れば、遮るもののない空から降り注ぐ陽光が酷く眩しかった。
獣に食い尽くされた亡骸の、唯一残った左手を埋葬してくれたのは、養い親の老人だったのだと云う。茫洋と立ち尽くす子供に声を掛けるでもなく、鳥の罠に使う木箱を棺の代わりに、黙々と土に埋めた老人の胸中に何があったのかを知る術はない。養父が村で孤立するに至った経緯を聞き終えて、エルヴェは暫し何も言わなかった。葛藤や後悔やその他の到底ひとことでは言い表せぬのだろう感情を呑み込んだ横顔が、酷く寂しげだった。
「――母の名前は、」
ふと、エルヴェは言った。
「マルガレテ。あの花と――同じ名だ」
その横顔は優しく、凜として強く、そして、美しかった。
「……ナタ」
「はい」
「随分と、面倒を掛けたな」
微かに苦い微笑を浮かべた男の美貌を見遣り、我知らず詰めていた息を吐く。
「お気になさらないでくださいと、言った筈です」
「だが――」
「俺の、大好きな先生のことですから」
殊更ににこりと笑ってやれば反駁の言葉もどうやら失った様子で、エルヴェは視線を彷徨わせた。その肩に手を置いた伴侶を見上げ、躊躇った後、口を開く。
「ヘンリ――」
「ナタくんには、俺も頭が上がらぬな」
こちらへ来た時はいつでも立ち寄ってくれ、と、男は精悍な顔を綻ばせる。
「遠慮は要らぬ。どうか、家族だと思ってもらいたい」
「あら。じゃあ、ナタさんはわたしのお兄さんと云うことね」
若草色の大きな目をぱちりと瞬く娘の美貌は、血の繋がりのない父親によく似ていた。光栄ですね、と笑ってみせるナタと視線を合わせて、やがて――滲むように、柔らかに、エルヴェは微笑んだ。
痩せてしまったその首筋で、細い鎖に通された白金の指輪が、陽光をきらりと跳ね返した。
エピローグ
踏み出す一足ごと、尖った木の枝が頬を裂き、絡む髪を引き千切る。
額を生温く生温く伝うそれが汗なのか、それとも血液であるのかさえ、もはや判らない。
漆黒の樹影が押し寄せる闇の中を無我夢中で進むうち――不意に、爪先が空を掻いた。全身を襲う衝撃に声も上げられぬまま、それでも腕の中の小さな身体を懸命に抱え込む。固い地面に叩きつけられると同時、ばきりと乾いた音を聞いた。次の瞬間、激痛が背筋を駆け上がる。目を背け続けていた恐怖と絶望に、呑み込まれる。もう駄目。もう逃げられない――。
「――かあさま……?」
そろそろと触れた小さな手の温もりが、守らねばならぬものの存在と、現実を突きつける。
「かあさま、だいじょうぶ? いたい?」
「……大丈夫よ」
笑ってみせようとした頬は震え、僅かにも思う通りにはならなかった。力の入らぬ脚を動かそうと身じろぎしただけで、身体を引き裂かれるかのような痛みが走る。
背後の闇の中で、その時――低く唸る獣の声が聞こえた。
「かあさま……こわい、」
雲が切れ、淡く蒼白い月の光が降り注ぐ。
汗で貼り付いた子供の素直な髪を掻き除け、丸い額に接吻けて、そうして、女は微笑んだ。「……怖がらないで。母様が、守ってあげる」
縋り付く温かな手を引き剥がせば、切り刻まれた心が血を迸らせるようだった。小さな身体を茂みの中へと押し遣り、背の高い草の中に完全に隠されてしまうことを確かめてから、震える手を伸ばす。
「ここにいて。どこにも行かないで。何があっても、絶対に声を出しては駄目よ。母様との約束、守れるかしら」
大きな目を潤ませて、子供はこくりと頷いた。丸くすべらかな頬を、亜麻色の髪を撫で、覗き込んだ青灰色の双眸には、泥に塗れ青ざめた顔が映っている。その額にもう一度唇を触れて、蹌踉めきながら女は立ち上がった。歯を食いしばり、足を引き摺り、突き抜ける激痛を堪えながら、一歩でもその場所を遠ざかるために。
愛しい子。わたしの光。わたしの全て。
悲しみを残してしまうくらいなら、いっそ全て忘れてしまっても構わない。
どうか、生きて。
真っ直ぐに眼前へと向けた視線の先――闇の中で、禍々しく黄色い目が、ぎらりと光った。