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    紫@🐏

    @purplesheep0125

    腐女子↑20。
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    紫@🐏

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    オールスターキャストでお届けしたい因習村編。

    黒巌村拾遺①序章1



     大通りを一本外れただけで、空気が変わったような気がした。
     危険な感じとか、厭な雰囲気だとか云う訳ではない。静かさの割合が増した。そんな感覚を覚えたのだ。
     看板のフォントさえ古色蒼然とした幾つかの店は、おそらく四、五十年前から営業しているに違いない。それらの隙間に、レトロモダンを模した小洒落たショップを無理矢理押し込んだような、どうにもちぐはぐなレイアウトの通りだった。
     一応は『商店街』と云う看板が立っている以上、そう呼ぶべきなのだろう。昔はこちらのほうが大通りだったのだと、誰かから聞いたことがあるような気がする。
     そんな商店街の一角に、そのビルはあった。

     昔からある建物のままなのか、古い建築様式を真似て建てたものなのかは判らない。
     何と呼ぶのかも知らない、装飾めいた意匠が所々に施されている。一階にはカフェが入っているらしいが、ドアには『臨時休業』の札が下がっていた。明かりの消えた店内を窓越しに覗き込みながら、脇の共用階段へと向かう。
     足を踏み入れたエントランスは狭く、冷えた日陰の空気がじんわりと溜まっているようだった。壁際に貼られたプラスチックのパネルによれば、目的の場所は三階であるらしい。一階部分には『Cafe Luna』とあり、二階は空白になっている。
     コンクリートで固められた階段を昇り、二階の踊り場に差し掛かったところで、何となしに足が止まった。
     『探偵事務所』と呼ばれる場所に足を運ぶことになるなどとは、二十六年生きてきて一度も考えたことはない。探偵などと云う存在が果たして信頼に足るものかどうか――と云う不安は、依然として捨て去れないでいる。
     ただ。ここで引き返してしまったら、何も変わらないのだ。
     唇を噛んで顔を上げ、階段を昇り切る。
     上部に磨りガラスの嵌まったドアをノックすると、すぐに「はーい」と云う明るい声が聞こえた。内側から扉を引き開けたのは、まだ若い男だった。大学生くらいに見えるから、二、三歳年下と云ったところだろうか。きらきらとした目を囲む、濃く長い睫毛が印象的だ。そんな状況でもないのに、可愛い子だな――などと、思わず余計なことを考えてしまう。
     にっこりと笑って、どうそお入りください、と青年は言った。
    「――先生が、あちらでお待ちです」



    序章2


     一旦差し出したカップを引いて、やっぱり止まってからにしてください――とナタは言った。がたつきながら路肩に停車したシトロエンのサイドブレーキを引き、ギアを入れて、エルヴェはサングラスを外した。乱れて額に落ちかかる髪をはさりと掻き上げる。
     誰もが見惚れてしまう端麗な美貌はだが、この男のことを不本意にも熟知してしまった今となってはむしろ、腹立さしさを覚える要素のひとつにしかならなかった。
     黙って差し出された手にカップを押しつけて、ナタは、熱いコーヒーをぼんやりと啜り始めた小説家の横顔をじったりと睨み付けた。
    「先生。道、これで合ってるんですか?」
    「……地図の通り、走っているつもりだが」
    「ガタガタででこぼこだし、狭いし。この先に集落があるなんて、とても思えませんけど」
     ペットボトルの蓋を開け、一口水を飲んでから、大体――と続ける。
    「紙の地図にしか載ってない村とか、ありえます? 令和ですよ、今」
    「必要とする人間がいない――と云うことなんだろう」
    「でも、史料に残っているんですよね。民俗学だか文化人類学だかのフィールドワークで、訪れる人もいるってことじゃないですか」
    「それは、外から来る人間の都合だからな。村の住民は自分たちの伝統を守り、祭祀を行い、伝承やルールを次の世代に受け継いでいく。それが外界からどう見えるかについて考えることもないし、その必要もない」
    「それはまあ――判りますけど」
     それにしたって、とナタはため息を吐く。
    「わざわざガソリン代と労力を費やしてこんなところに来るよりも、図書館とか民族史料館とか大学とか、そう云うところで資料を探せばよかったんじゃないですか」
    「黒巌村の祭事に関しての近年の記録はない。最も新しいものでも、昭和二十二年――」
    「昭和二十二年って……百年前じゃないですか、それ」
    「七十八年前だ」
     同じですよとナタは言った。空になったカップを受け取り、魔法瓶にセットして、足元に置いたトートバッグへと戻す。
    「で――後どのくらいで着くんです」
    「一時間……弱と云うところだな」
    「僕、寝てていいですか」
     ダッシュボードに置いていたサングラスを掛け直すついで、ちらとこちらを一瞥して、エルヴェは微かに笑ったようだった。サイドブレーキを解除し、アクセルを踏む。
    「出発する時も、確かそう言っていたが」
    「――先生の運転が不安すぎて、全然眠れないんですよっ」
    『普通』の生活がなかなかにままならない男の、車の運転は決して下手ではない。カーナビがなくとも、おそらく道に迷うことはない。ただ――その隣の助手席で、安心しきったかのように熟睡してしまうことは何となく癪だし、なぜか悔しかった。その理由は判らない。
     ふいと顔を背けた窓の外で、傾き始めた太陽が空の端を赤く染めている。
     なめらかに滑り出した車体は、凹凸ばかりの道の上で、またがたりごとりと揺れ始めた。



    第一章




    「――もうとっくに、警察に話したけど」
     困惑した表情を見せながらも、女が立ち去る様子はなかった。
     敢えて観察しなくとも、瞬きの回数が増えていることは一目瞭然だ。
    「もちろん、承知していますが――」
     氷の色をした目をやや細めるようにして、グレイは微笑む。
    「私がお訊きしたいのは事件のことではなく、彼の行方についての手がかりです。親しいご友人の方から、ご依頼をいただきまして」
    「親しい友人って、もしかして彼女とか? 彼女いるなんて、聞いてないけど……」
     探偵の曖昧な微笑がどんな効果を与えたものか、どこか夢見るような目をして、女は言葉を切った。茫洋と彷徨わせた視線で空を探り、手がかりねえ――と首を傾げてみせる。
    「無断欠勤どころか、病欠だってしたことなかったの。真面目。すっごく」
    「旋盤工を――されていたと」
    「そう。わたしは経理だから、仕事の内容は詳しくないわよ」
     事務服のポケットから電子タバコのケースを取り出して、いい? と女は問う。
    「嫌いだったら、やめとく」
    「――構いません」
     切れの長い目がちらとこちらへ向けた視線はおそらく、風下にいないようにと云う気遣いのそれだろう。程なくして独特の匂いが仄かに漂い始める頃、ふう、と盛大に息を吐き出し、それで――と、女は言った。
    「何が知りたいの? 探偵さん」
    「こちらの工場の従業員数は、三十二名だそうですね」
    「そんなもんだっけ。多分ね」
    「その中に、彼と親しかった方はいますか」
    「それね。警察にも同じこと、訊かれたけど――」
     いなかったんじゃないかな、と女は言った。
    「コミュ障とか、そう云うんじゃないの。人当たりは悪くなかったし、探偵さん程じゃないけど、イケメンだったし」
     粘度を含んだ上目遣いを受け流す男の横顔は、あくまでも涼しげで、掴みどころがない。反応がないことにやや不満そうな表情を浮かべながら、だからねと女は肩を竦める。
    「おばちゃんたちには可愛がられてたわよ。おじさんたちに嫌われてたって話も、別に聞かないし。どっちにしても、仕事終わりに飲みに行くとか、最近の子はしないじゃない」
    「特別仲が良かった同僚もおらず、かつトラブルもなかったと」
    「だと思うわよ。でもわたし、さっきも言ったけど、経理だから。作業場の人たちとは、昼休みにしか会う機会ないし――細かいことまでは、判らない」
     作業場、と繰り返したグレイを見上げて、向こうの一階、と女は言った。傍らにあった灰皿に吸い殻を投げ入れ、道路を挟んだ建物を指す。
    「よかったら、案内してあげましょうか」
    「いえ。これ以上、お手間を取らせる訳には」
    「え――別に、いいのに」
    「……ご協力いただき、ありがとうございました」
     女の申し出をさらりと躱して、グレイは一度、肩越しに振り返った。
     視線だけで促し歩き出した背中を追い、隣に並ぶ。
    「――先生」
     少しだけ、ほんの少しだけ、詰るような響きが滲んだだろうか。ん、と――微かな応えをくれる人は、もうすっかりいつもの通りだ。何を続けるべきか見失い、モテますね、と軽い言葉で紛らわせる。
    「……有利に働くなら、利用する」
     男の返事は簡潔で、迷いがなかった。
    「警戒心を解く。情報を引き出す。必要な――ことだ」
    「判って、ますけど」
     ひたりと、足が止まった。ぶつかりそうになった背中の寸前で慌てて立ち止まると、振り向いた氷色の目が、きらりと光を過らせた。
    「妬いてくれたのか」
     掴みどころのない微笑。けれど、さっきとは全然違って、その奥には悪戯な光が瞬いているようだった。はい、と真っ直ぐに答えれば、返ってきたのは不意に深みを増したような眼差しで――思わず息が詰まる。
    「仕事だから仕方ないですけど、でも――仕事だとしても、思うところはありますから」
    「……そうか」
     笑みを刻んだままの唇をふ、と噤んで、やがて、男は歩き出した。それは嬉しいな――と、そう言ってくれたような気がしたのは、さすがに妄想が過ぎるだろうか。色々なものを振り払い、小走りに追いついて、握り締めたままだった手帳を開く。
    「あの――先生」
    「――うん」
    「さっきの人の言っていたことですけど」
     真面目。容姿は整っているが、目立つタイプではない。
     依頼人から聞いた話と、完全に合致する。
    「警察が疑っているようなことは、やっぱりしてないんじゃないかって」
    「判断するのは、まだ早いな」
     両開きの扉を見上げる場所で、グレイは立ち止まった。巨大な鉄扉は、トラックが乗り入れるための運搬口らしい。建物の横手を覗き込めば、手摺りのあるステップが見えた。
    「こっちから入れそうですよ」
     コンクリートの三段ステップを昇り、アルミ製のドアノブを掴む。機械の稼働音が震動となって、手のひらにびりびりと伝わるようだった。施錠はされていない。ノブを回し、扉を引き開けようとした、その時――。
    「――あ、」
    「あ……っ、と」
     ちょうど内側からこちらに向かって押し開けようとしていたらしい――男が、後少しで前髪の触れそうな距離で、面食らったように目を見開くのが見えた。
    「すみません……! いらっしゃるの、気づかなくて、」
     慌てて頭を下げるナタを見下ろして、いや、と男は苦笑する。スーツ姿にアタッシュケースを提げているところを見れば、商談に訪れた営業マンだろうか。随分と背が高い。
    「よかったよ。きみの顔面にぶつけなくて」
    「本当に、すみませんでした」
     もう一度ぺこりと一礼し、顔を上げる。その時――。
     男は、不意に眉を寄せた。
    「……あれ?」
    「――え?」
     紫がかったその双眸は、頭上を飛び越して背後へと向けられている。
     その視線を辿り、振り返った先で――グレイが、端正な面差しに淡い驚きを広げてゆく。
    「……先生?」
     お知り合いですか、と口を開くより早く、あの時は――と男は言った。
     後頭部でひとつに纏めた髪は、毛先が青みがかった銀色をしている。
    「――美味いカレーを勧めていただいて、ありがとうございました」





     ベンチに腰を降ろした途端、汗が吹き出した。首に掛けたタオルで顔を拭い、水筒に口を付ける。まだ冷たさを保っている水は、数時間前に立ち寄った寺で、飲用の湧き水を分けてもらったものだった。一リットルの容量いっぱいに満たした筈が、あと数口しか残っていない。晴天に恵まれたのは幸運だったが、初秋とは云え、気候はまだ夏のそれだ。
     この先どちらの方角に進んでも、コンビニの類いに行き当たるようには思えなかった。
    『矢幡町役場』と書かれた看板を見上げ、背後の建物を振り返る。二階建ての木造庁舎は一見して廃墟かと思うくらいには古びているが、一応未だ現役ではあるらしい。中に入れば自動販売機くらいは設置されているかもしれないと期待して、立ち上がる。一度降ろしたバックパックを背負い直そうとした時、裏口らしい扉が開いた。無地の白シャツに紺色のスカートを穿いた、中年の女だ。役場の職員だろうか。
     目が合ったところで頭を下げてみせると、怪訝そうな表情を浮かべながら、それでも、女は会釈を寄越した。観光地でもなく、人が訪れることなど滅多にない場所だろうから、警戒されるのは仕方がない。柄がプラスチックのほうきとちりとりを手にした女はベンチの周囲に落ちた木の葉を掃き始め、そして、口を開いた。
    「こんな田舎道で、ハイキングですか」
    「人のあまりいない場所が好きなので」
    「そろそろ日も暮れますし、町に戻られたほうがいいですよ」
    「はい。今日は、どこかに泊まろうと思ってます」
    「大学生?」
     化粧をしていないし、童顔の自覚はあるが、そこまで若く見えるだろうか。いえ、と苦笑して、社会人です――と答える。
    「大学の時は、ハイキング部だったんですけど。今は休日に、一人でやってます」
    「ああ、そうなのねえ」
     掃き集めた枯れ葉をちりとりに集めながら、女は頷いた。
    「泊まるところは、もう決めてあるの?」
    「いえ。麓に降りてから、探そうと思って」
     途中経由してきた町はすっかり寂れていたが、素泊まりの民宿程度はありそうだった。行き当たりばったりの行動を両親に諫められることもあるが、その当人たちは南米をヒッチハイクして出会ったことが馴れ初めなのだと云うから、ずっと治安のよい国内で山歩きをすることにどうこう言われたくないと思っている。
    「あ――勝手に休憩して、すみませんでした」
    「それは、別にいいのよ」
     バックパックを背負い、中に自販機ってありますかと問えば、困ったように女は首を傾げた。
    「そう云うものは、ないわねえ」
    「……そうなんですか」
    「冷たい麦茶なら作ってあるけど、飲んでいく?」
    「それは――」
     躊躇いと残りの水の量を天秤に掛けた結果、ありがとうございます、と頭を下げる。
    「あの、それと、ちょっと図々しいんですが、もし――水道のお水を少し、分けていただけるようなら」
    「駄目ではないけど、飲むつもりならやめておいたほうがいいよ」
     掲げてみせた水筒とこちらの顔を見較べ、呆れたように女は言った。
    「ご覧の通り、大昔の建物でしょう。水道管も古くて、錆だとかが混じることもあるのよ」
    「はあ……」
    「麦茶はうちで作ってきてるから大丈夫なんだけどね。分けてあげられればいいが、そんなにたくさんある訳じゃないから」
     となると、ここで一杯の麦茶をもらって以降は、残っている数口の水で耐えなければいけないと云うことだ。行き当たりばったりで見通しが甘いのはいつものことだが、天気予報ではこれ程気温が上がるとは言っていなかったから、そこは完全に想定外だった。
    「――ねえ」
     考え込んでしまったがための沈黙をどう捉えたものか、女は気遣わしげな顔になった。
    「ちょっと、思ったんだけど――いえ、厭だったら、断ってくれていいんだけど」
    「……はい?」
    「今日は、うちで泊まって行くっていうのは、どう」
     些か唐突な申し出を聞いてさすがに躊躇えば、わたしにも娘がいるんだけどね、と言い訳のように女は付け加えた。
    「あなたと同じくらいの年格好だから、何だかほうっておけなくなっちゃって。泊まるところが決まっていないって言っていたし、飲み物もないでは、町に降りるまで大変でしょう」
     それは、その通りだった。迷いながら傾き始めているところを更に押すように、人のよさげな顔で女は笑う。
    「春から娘が就職で出てっちゃったものだから、このところ寂しくって。自分の分だけの夕飯を作るのも味気ないし、若い人に食べてもらえると嬉しいんだけどねえ」
     四十代の半ばだろうか、きちんと化粧をして、少し茶色がかった髪は項で一つに束ねてある。態度にも物言いにも、特におかしな様子はない。無理をして町に辿り着いたとしても、おそらくはあまり清潔ではない民宿の狭い部屋で、コンビニのおにぎりを食べることになるのだ。今まで何度もしてきたことだし、特別厭だと思った記憶はないが、手作りの温かい夕食と較べてどちらが好ましいかと云えば――考えるまでもない。
    「……初対面なのに、図々しいって思われるかもしれませんけど」
     ご迷惑じゃなかったら、と頭を下げれば、迷惑だったらこんなこと言わないよ、と女は苦笑した。
    「五時になったら終わるから、あとちょっと待っていてもらわないといけないけど。麦茶でも飲んで、ゆっくりしていて」
    「ご自宅は、この近くなんですか?」
    「いや、もっと上がったところ。車で三十分か、四十分くらい」
     ところどころが黄色や橙色に変わった山の上方を指して、あの辺だよと女は言った。
    「黒巌村って云う――まあ、田舎の集落なんだけどね」





    「――その後、『Luna』へは?」

     冷えた缶コーヒーをひと口飲んで、まだなんです、とロイドは答える。
    「友人と一緒に行こうと思っているんですが、なかなかタイミングが合わなくて」
    「そうですか」
    「時々他の店でカツカレーを食べてみたりするんですけど、やっぱり『Luna』が一番美味しいな、って」
    「それは、ぜひマスターに伝えてあげてください」
     きっと喜びますから、とグレイは微笑む。
     初めて顔を合わせたのは『Luna』であったらしい。メニューに迷っていたロイドにカツカレーを勧め、二言三言言葉を交わしたのだと云う。距離を大きく開けているようで、時折不意に踏み込んでみせることがある人だから、そのこと自体は特別不思議には思わない。ただ、それが誰に対しても発動する訳ではないことも理解している。つまり、この真面目で善良そうな男に対して、ある程度の好感を抱いているのだろう。
    「それにしてもまさか、あのカレーの……」
     口にしかけた言葉をふつりと切って、どこか取り繕うようにロイドは苦笑した。
    「ああ、いや――ええと、あなたにこんなところでお会いするなんて、思いませんでした」
    「お仕事ですか」
    「取引先なんです。鋼材や部品をよくお願いしていて。いつも納期をしっかり守っていただけて助かります」
     あなたは――と問い返されて、グレイは一瞬思案したようだった。あまり使うことのない名刺入れを取り出し、名前と事務所の住所が印刷された紙片を一枚抜き取る。差し出されたそれをいかにも会社員らしい丁寧な仕草で受け取って、そうして、ロイドは訝しげな表情を浮かべた。
    「……探偵さん、ですか」
    「人捜しのご依頼を受けまして」
    「人捜し――」
    「こちらの工員のお一人が、行方不明になっていることは――お聞き及びですか」
     逡巡の後に、はい、とロイドは頷いた。
    「顔を知っていると云う程度で、直接話したことはないのですが」
    「作業場での印象など、思い出せることがあれば」
    「印象、ですか」
     含んだコーヒーを飲み下しつつ、ロイドは眉を寄せる。
    「真面目な方だったと思います。素直で見所があると云うような話を、工場長から一度だけ聞いたことがあるような記憶もありますが――でも、詳しいことは判りません」
     慌ててメモ帳を開いたものの、新たに記すことができるような情報はなさそうだった。工場長さんにお話を伺いましょう、と提案すれば、そうだなと頷いたグレイとこちらの顔を見較べた後、ロイドは困惑に似た表情を浮かべた。
    「工場長――なのですが」
    「はい」
    「昔ながらの職人と云うか、なかなか頑固な人でして。初対面の方に、快く話してくれるタイプではないかもしれません」
     そうですか、とやや首を傾げたグレイを見、それでですね、とロイドは続ける。
    「私から探偵さんをご紹介すると云う形で――取り次ぐことも、できますが」
    「それは――」
     願ってもないことですが、とグレイは目を細めた。
    「あなたに、ご迷惑がかかるようでなければ」
    「信頼をいただくまでには、私もかなり足繁く通ったものでして。友人だと云うことにすれば、門前払いはされないでしょう。それに――」
     背後の建物を振り返って、ロイドは言った。
    「内心では、心配しているんだと思います。警察が聞き込みに来た時は、けんもほろろに追い返したそうですし」
    「彼が事件に関わっているのではないかと、警察は考えているようですからね」
    「探偵さんは、そうではないと?」
     それはまだ判りません、とグレイは微笑んだ。
    「――ご協力、感謝します」
     頭を下げた探偵に倣ってぺこりとお辞儀をすれば、正面から視線の合った紫色の目が、ふとどこか腑に落ちなさげな、不可思議な表情を過らせた――ように見えた。
    「……とんでもない。そんなふうに、堅苦しく考えないでください」
     立ち上がり、空になった缶を自販機脇のリサイクルボックスに捨てて、書類鞄を取り上げる。そうして、美味いカレーをご紹介いただいた礼だと思っていただければ、とロイドは言った。
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