宿虎 獣人パロ ある獣人の集落に奇妙な言い伝えがあった。混ざりモノが生まれたならば〝神〟に見つかる前に速やかに殺せと。
〝神〟に見つかれば、その集落には災いが降りかかると。
◇◇
世界にはヒトと獣の他にヒトと獣の中間種のような種族〝獣人〟が存在し、共に暮らしていた。
獣人には獣性と呼ばれるものがあり、その獣性の獣と同じ体毛や羽毛で全身が覆われ、獣の頭部を持つがヒトの言語で言葉を交わし、ヒトと同様に二足歩行で移動し腕を使い手で道具を使う事が出来る。
だが何よりも目を見張ったのは、その強靱な肉体と筋力・体力にあった。獣人には獣のように種族がありイヌ獣人やネコ獣人、トリ獣人などの種族の違いで生まれ持つ力に差異はあったが皆ヒトとは比べものにならない程力が強かった。
そんなヒトの知性と獣の強さを持って生まれた獣人をいつしか恐れるようになったヒトは、獣人相手に数で迫り迫害をした。
強い力は頼りになるが、強すぎる力は恐怖を抱かせた。自分達では太刀打ちできない力を持っていると悟ったヒトはそれまで共に生きてきたというのに手のひらを返し、やがて獣人を村から追い出してしまった。
一方、ヒトの村から追い出された獣人は憤慨した。それまでは共に生き、力が必要とあれば多少の危険があるような事柄でさえ獣人頼りにしていたというのに。ある日突然存在が危険だと迫害を受け、ある日突然住処を追われたのだ。憤慨したのは当然と言えるだろう。
だが、既に関わりの切れたヒトと再び相見える必要もない、と恨みはあれど自分から関わりに行くことはしなかった。
元々数の少なかった獣人だったが。存在する村と言う村でヒトからの迫害が続き、気付けば追い出された獣人達が集まった森を切り開き、やがて小さな集落となっていた。
獣としての種族は問わず。獣人の集落は暮らしが落ち着いてからはヒトの住まう村から隠れる場所に幾つも作られていった。
やがて、獣人達の中からも強すぎる力の持ち主という者が現れるようになった。
嘗ては迫害を経験した獣人達だったがそれもいつの頃からか風化してしまい、強すぎる力を持って生まれた獣人は『〝神〟として崇めるべき存在』とされ、獣人の集落から離れた広大な土地を与えられそちらに移り住むのが決まりとされた。
獣人達の間で特に力の強い者を〝神〟その中でも特出した強さを持った四人の強い獣人は〝四神〟と呼ばれ、それぞれが出会して争いが起こった場合の被害を恐れた獣人達は彼ら四人を東西南北の四つの方角守と定め、その方角を守るという名目で広大な土地に居着くよう手を尽くした。
獣人達の中から〝神〟と呼ばれる者が生まれた話が、やがて昔話へと風化していったある日。とある獣人の集落に住むあるネコ獣人の夫婦の間にひとりの仔が生まれた。
母の胎の中で大事に育てられ、集落全体が生まれる時を待ち望んでいたその仔は。この世に生まれ落ちた瞬間、疑惑の目を向けられた。
その仔の身体にはおよそ体毛と呼べるものが無く、毛があるのは頭の一部と頭部に生えたネコ獣人特有の三角耳と尻に生えた長い尾だけだった。
何かの病ではないか、と生まれた我が仔の心配をした父と母だったが、出産を手伝っていたある獣人の
「まるでヒトの子の様だ」
という発言に固まった。
母はヒトと交わったのではないかと疑いの目を向けられ、それを庇った父はヒトの血を集落に持ち込もうと企んだと決めつけられてしまった。
「誤解だ! 私達はそんなことはしていない!」
父がどれだけ説明をしようとも信じる者は集落には居らず。集落の長の決断で、夫婦は子を自らの手で殺すことで信頼を得て集落に留まるか、子を生かす代わりに集落に預け夫婦は別の地へ移り住むかの二択を迫られた。
もはや説得は困難と判断した夫婦は我が仔が生きられる道ならば、と生まれて間もない仔を集落に残し自分達は集落を後にした。
ネコ獣人の夫婦から、実の親から、たった一つの贈り物である『悠仁』の名をもらった中途半端なネコ獣人の子、悠仁は獣人の集落で生きることを許された。
「長よ。言い伝えの通り混ざりモノを殺さなくてよかったのですか?」
「何。所詮ただの言い伝え。働き手として使えるのであればしめたもの。穀潰しであれば追々始末すれば良かろう」
だが、その扱いは他の獣人と対等になることは決して無く。まるで集落全体の奴隷のように育てられることになった。
◇◇
十五になった悠仁は生まれ育った集落で、ずっと迫害を受けて育ってきた。何故なのか、それは悠仁自身が一番よく分かっていた。
頭部に生えた、赤みがかった三角耳の先をつん、と引っ張る。その尻から生えた長いネコの尾は悠仁の感情に伴ってだらんと力無く垂れ下がっている。
獣人の証でもある獣の耳と尾はもっていた。ネコの中でも茶と赤毛の縞模様が目立つトラネコの獣人。だが悠仁には獣らしい体毛が無い。肌が剥き出しになった顔と身体に低く平たい鼻先。
「まるでヒトの子の様だ」
悠仁を見る度に集落の大人達は口々にそう言った。それを真似して仔ども達も悠仁を迫害し、意味も分からぬままにヒトの子だと馬鹿にした。
剥き出しの肌が気味が悪い、と泥や石を投げつけられたこともあった。体毛のない肌を隠そうにも悠仁の持っている衣服代わりといえば、投げ渡されたボロボロの一枚布しかなかった。それを肌がなるべく隠れるように胴に回して肩の部分で縛り、斜め掛けにして服の代わりにしていた。
それでも見えてしまう腕や脚を見ては。
「肌を見せているヒトの子は雄を誘っているらしい」
と真しやかな噂話を悠仁の耳に入る場所で必ずする者もいた。
悠仁はヒトを知らない。見たこともない。それでもその言葉が侮辱の言葉である事だけは理解していた。
だが、悠仁は何度ヒトの子と言われようと怒ったり言い返したりはしなかった。不満も不安も内に押し込め、どんな扱いを受けようと集落で生かしてもらっていることに感謝して笑顔を絶やさなかった。
悠仁は自分の親を知らない。自我が芽生えた頃には周囲には誰もおらず、悠仁は独りだった。
唯一、幼い悠仁を見た目で判断せず気に掛けてくれた年老いた獣人が「半端モノ」や「モドキ」、「アレ」や「おい」で呼びつけられていた悠仁に『悠仁』という名と、悠仁を生かすために悠仁を集落に置いて出て行かざるを得なかった両親のことを教えてくれた。
「おい半端モノ! 水汲んで来い」
「……」
「なんだその目は」
「……何でもない。分かったよ」
その日も悠仁は集落の大人から命令を受けて重労働の水汲みをさせられる。何を思っても、その顔からは笑顔を絶やさずに。
半端モノと称される悠仁だったが、その力はとても強かった。並みのネコ獣人と比べても異様な程の筋力と頑丈な身体を持っていると知った大人達はあれもこれも、と疲れるからとやりたがる者が少ない重労働を悠仁に課すようになった。
集落の中にも井戸はあるが、そこの井戸は獣人用と言われているので悠仁は使うことを許されていない。
仕方無く水を汲むために預かった大きな水瓶を片手で一つずつ持ち、集落から離れた山の中腹付近にある井戸へと向かった。
山の中腹にある井戸にはボロボロの屋根と古びて回りの悪くなった滑車、何とか水を汲める釣瓶桶が取り付けられていた。
釣瓶桶を井戸に落とし、キイキイと音を立てる滑車を壊さないように加減して使い、引き上げる。桶に並々と入った水を覗き込むと、そこには集落と同じ笑みを浮かべる悠仁の顔が映り、それがくしゃりと悲しげに歪んだ。
「俺、ヒトじゃない。ヒトじゃないよ……」
集落にいる時は決して溢さないようにしている苦しい言葉が口から零れた。じわじわと目に水分が溜まり、ひと粒の涙になって目から零れ落ちて頬を伝う。
悠仁はネコ獣人にしては強靱な身体と筋力を持って生まれたが、心はそうはいかなかった。幼い頃から自分を守ってくれる親はおらず、唯一自分に名を教えてくれた年老いた獣人も、数年前に亡くなってしまった。
土間だろうと屋根のあるところで眠れるだけで扱いが良い日。普段は手伝い以外で家屋に入ることを禁じられ、手伝いで家に上がっても「臭い」「家が穢れる」と手打ちや足蹴にされることも少なくはない。土蔵に閉じ込められた日は迫害されていることへの不安や恐怖より雨風を凌げる寝床がある安堵が勝る程、悠仁は迫害に慣れ、その心は酷くすり切れてしまっていた。
釣瓶桶を落としてすん、すん、と鼻を鳴らしながら後から後から溢れ出てくる涙を拭っていると、風に乗って嗅いだことのない者の匂いがした。
その匂いと近付いて来る気配からこれまでに感じたことのない威圧を感じ取った悠仁だが。
――…どうせ、集落のみんなと変わらんから。
集落での迫害に慣れてしまった悠仁は何か言われようとも普段と違いがある訳でもないだろう、と近付いて来る気配から逃げることはせず。その場に留まって涙を止めることに専念した。
獣道すらない木々の合間からザ、ザ、と地面を踏みしめ、時折落ちている木の枝などを踏み折る足音が聞こえ、やがてガサリと茂みを揺らして気配の主は悠仁の背後から姿を表した。
「気配に気付きながら逃げ出さんとは。随分と豪胆な小僧がいたものだなァ」
投げかけられた低く響く声が頭上からから聞こえ、悠仁は内心首を傾げた。
――…なんかコイツ、デカくねえ?
悠仁は半端モノと言われてはいるがネコ獣人にしては体格がしっかりしている方だ。背丈も低い訳ではないが悠仁より上背がある者も当然いる。だが、それと比べてもその声のした位置は高すぎると思ったのだ。
不思議に思った悠仁が顔を上げて振り返ると、そこには白い毛の壁があった。
「――っ、ぅわ!」
それが目前まで迫っていた誰かの体毛だと分かり、驚いて飛び退いた悠仁はバランスを崩して尻餅をついた。
打ち付けた尻の痛みに瞑っていた目をゆっくりと開けて、改めて声の主を見た。
自重を支える太くガッシリとした脚には手入れをしていないのか、鋭く長い黒い爪が見える。
身に纏っている黒い袴のような物の後ろに伸びて、ゆらゆらと揺れているのは白と黒の縞模様の長い尾。
胴から胸を体毛で覆われていても凹凸が分かる程に肥大化した筋肉がついており、少なくとも悠仁が集落で見てきたどの肉食獣の獣性を持つ獣人よりも屈強な身体。
恐らく立っていても見上げるほどに高い位置にある、ヒト寄りの身体を持つ悠仁の倍以上はあるだろう太い首の上にはネコ科の肉食獣の獣性だと分かる頭。その顔の右半分は額から頬の辺りまでを覆う板があり、何故か目玉は四つ。
二対の目の下側の少し下から黒い紋様が顎の先辺りまで伸びている。板で隠されている右半分は分からないが、顎の先まで伸びている紋様は左右対称だったので、あの板の下にも紋様があるのかも知れない。
――…トラ獣人? でも集落にはいないし……どっかから来たんかな。
全身を白い体毛に覆われているが尾や腕、脇腹に見える縞模様から悠仁は相手をトラ獣人と判断した。悠仁が住まわせてもらっていた集落はある程度の大きさではあるが、獣性ごとに固まって家を建てている。少なくとも、悠仁が知る中にはトラ獣人はいなかった。
一方、四つ目トラ獣人は最初に声を掛けてからひと言も発さず、その視線からは敵意の様なものは感じられなかった。
むしろ長いヒゲがわさわさと動き悠仁の方を向いていることから興味や好感を抱かれているのだ、と相手の獣性に近しいネコ獣人の本能で理解できた。
ただ。ネコ科の獣性は獲物にも似たような反応をすることがあり、悠仁はこれまで自分にネコ科獣人のヒゲが向けられた後の出来事にいい記憶がない。
――…な、なんか見られんの落ち着かん。
侮蔑でも嫌悪でもない、静かな二対の目玉に見下ろされた悠仁は座ったまま居心地悪そうに顔を逸らし、長い尾を脚の間に隠した。
「小僧」
「――ッ な、何……?」
一歩。太い脚が前に出て、のしっと近付く。投げ掛けられた問いに驚いて耳がピンと立つ。
声を掛けられただけ。最初との違いは顔を見ているかどうかだけ。だというのにジリジリと肌が焼かれるような圧を感じ、脚の間から腹に回していた悠仁の尾がボワッと膨れた。
「お前、ネコ獣人か?」
一歩。のしっと近付いて更に問われる。それにしても何の獣人か、なんて見て分かることを態々聞いてくる相手に対して警戒しているのも馬鹿馬鹿しく感じてしまい、悠仁は少しだけ強張っていた肩を下ろした。
「……そうだけど」
再び接近したことで顔を見るために殆ど真上を見上げるような体勢になった。圧を感じなくなった訳では無いが、警戒を解いたことで膨らみが落ち着いた悠仁の尾の先がパタパタと動く。
四つ目のトラ獣人は腰を折って顔を悠仁に近付けると、フンフンとその匂いを嗅いだ。頬の横や顎下に鼻先を近付けるのでヒゲが悠仁の剥き出しの肌を掠め、擽ったさにピクン、と跳ねてしまう身体を押さえるようにぎゅっと目を瞑った。
横向きに寝かせるようにピン、と張った悠仁の耳の先にある房毛がふるふると震える。
「獣性は何だ?」
「へ? ――ッ」
予想外のことを問われた悠仁が恐る恐る目を開けると、抱え込める程大きなトラの顔が目前に迫っていたことに驚いて目を見開いた。
四つ目のトラ獣人はフスフスと鼻を鳴らすが、きょとんとしている悠仁にその意図が伝わっていないのだと察し。少し考えてから鼻先を悠仁の低い鼻にとん、とくっつけて離した。
「え? あ、あぁ!」
鼻先をくっつけるのはネコ獣人同士の挨拶だが、これまで挨拶をしてくれる相手のいなかった悠仁は一瞬何をされたのか分からず目を数回瞬いた。
そしてそれが挨拶だと理解すると、喜びで横に寝かせていた耳を上向きにピン、と立てる。四つ目のトラ獣人は背が高いので目一杯爪先立ちになって背伸びするがそれでも届かないのでピョコピョコ跳ねていると、察したらしい相手が頭を下げてくれたので、届く高さになった相手の鼻に自分からも鼻先をちょん、とくっつけた。
初めて挨拶が出来たことが余程嬉しかったのか、鼻先を離してもクスクス笑う悠仁にパチリと瞬いた二対の目を細め、四つ目のトラ獣人は悠仁の頬にグリ、と頭突きをした。
「う、わっ!」
大きな頭で頭突きをされたので頬だけではなく耳や顎までもトラ獣人の体毛に埋まり、思いの外柔らかい毛並みを堪能していた抵抗を忘れていた悠仁はそのまま仰向けに倒されてしまった。
急所である腹を晒す体勢にビクッと恐怖で強張る身体を捻って俯せで身体を守るように手足を縮めて蹲った。
その慌てぶりと過剰な守り方に違和感を感じた四つ目のトラ獣人は、悠仁のすぐ側に腰を下ろして問いかける。
「ネコの獣性かと思ったが……腹を見せるのはそんなに好かんか」
尾まで脚の間から身体の下にしまい込んでいる徹底具合にクツクツと笑うと、そろそろと顔だけを上げた悠仁と目が合った。
「ネコ獣人だからネコの獣性なのは当たり前だろ。腹は……前に寝てた時に蹴られたから、嫌なだけ」
耳を後ろにぺたんと寝かせて蹲った身体を震わせる悠仁に、何を思ったのか四つ目のトラ獣人はその脇に横になると黒く鋭い爪と肉球のある大きな手で逃げられないように悠仁の肩を掴むと、頭頂部から窄めている首までをザリ、とトゲのある大きな舌で舐めた。
「びゃっ」
腹の下に隠していた尾が飛び出してボワッと膨れた。獣と同じく獣人同士でも毛繕いを行うことはあるのだが、親しい相手のいない悠仁は当然ながらした事もされた事もない。
それが突然、舌で頭を舐められたのだ。本能がこれを毛繕いだと認識する前に、相手がトラ獣人である事を思い出して嫌な想像をしてしまい冷や汗を流した。
「あ、あのさ……トラ獣人って獣人もヒトも食べんよな?」
今ザリザリと舐められているのは何故だろうか、もしや味見ではないのか、と不安になり相手の方は見ないように顔を逸らして震える声で聞く。
当然。獣人同士で共食いなんてことは普通であれば有り得ないと知っていたが、悠仁は「まるでヒトの子のよう」と集落中の大人から言われる程、ヒトに似通っているのだ。
獣の耳と尾を除けば殆どヒトと同じ見た目の悠仁。そして相手はトラ獣人、獣のトラは肉食獣でまだ仔の獣人や場合によってはヒトを襲うこともあると聞く。
――…獣人は食べんでもヒトは食べるんだったら……俺、食べられる?
恐ろしい想像をしてしまい、耳を横に寝かせて先程とは違う恐怖でふるふると震えていると。
……ケヒッ、
咳き込んだような、喉を鳴らしたような音が背後に寝そべっている四つ目のトラ獣人から聞こえた。
「嗚呼、食わんな」
「~~っ、はぁー……よかった」
毛繕いを止めてそう言えば、悠仁は分かりやすく安堵した。
膨れが収まったネコの尾をゆらゆらと揺らすと、その尾に白いトラの尾が擦り寄って来た。
最初は尾を交差させて擦り寄せるだけだったが、悠仁の尾もお返しとばかりに擦りつけると了承と受け取ったのか白いトラの尾はくるん、と悠仁の尾に絡み付いて尾全体をスリスリと擦りつけて来る。
悠仁が受け入れたのだと分かった四つ目のトラ獣人は横になったまま自分より一回り以上も小さな悠仁の身体を抱え、またザリザリと頭を舐め始めた。今度はこれが毛繕いだときちんと理解出来た悠仁は特に抵抗もせず、気持ち好さそうに目を閉じてその舌を受け入れた。
「小僧。オマエは浮浪人か?」
「ふろうにんって?」
毛繕いといっても頭と耳、尾にしか体毛がない悠仁の毛繕いは直ぐに終わってしまったらしく。毛繕いを終えた四つ目のトラ獣人は悠仁の後頭部に額を擦り付けながら訊ねた。
グリグリと押し付けられる額も、フワフワの体毛に包まれているので痛みはなく、時折首筋を掠めるヒゲの擽ったさに身悶えながら悠仁が聞き返した。
「住処を持たん者のことだ。集落住みにしては臭いが薄い」
悠仁の項に鼻先を押し当てて、確かめるようにスンスンと匂いを嗅ぐ。
「あー……」
言われたことに心当たりがあった悠仁は薄目を開いて苦笑いを浮かべた。
獣人は基本的に集落に住み、そこを拠点として暮らしている。稀に群れを作らない獣性の獣人で集落を出て暮らす者もいるが、それでも生まれた集落と完全に縁を切ることはせず、時折集落に顔を見せに来る獣人がいたのを悠仁も何度か見たことがあった。
獣人の集落は獣性を超えて作られる一つの群れである。その中では肉食も草食も雑食も、その獣性を問わず共存している。なので、本来集落で暮らしていれば日々のコミュニケーションで他の獣人の臭いが付くはずなのである。
獣人にとって体臭とは身分証明に等しい。何処の集落に住み、日頃どのような生活をしているのかが分かるもの。他の獣人の臭いがする、ということはそれだけ他の獣人とコミュニケーションが取れている、信用されている、という証になる。
だが、悠仁は集落の者から迫害を受けている。他の獣人とコミュニケーションを取ることは疎か、まともな暮らしさえさせてもらえていない悠仁に獣人として暮らしていれば身体に付く臭いはずの臭いが、全くと言っていい程付いていなかった。
「……俺、さ。集落のみんなからよく思われてないんだ」
「何故だ」
――…言ったら、もう挨拶してくんないかな。
白いトラの尾と絡み合っていた自分の尾を解き、腹の前で力なくパタ、と地面に落ちた。後を追って来た白いトラの尾が力の抜けた悠仁の尾に寄り添うように地面に落ちる。
白いトラの尾の先端が、自分の尾のすぐ側で元気づけるようにパタン、パタン、と動いているのが分かった。
その動きに勇気づけられて、お礼のつもりで尾を少しだけ持ち上げて隙間が無くなるくらいピタリとくっつけた。
「理由は……知んない。ただ、みんなは俺のことヒトの子みたいだって言うんよ」
「ふむ」
悠仁の言葉に何かを考え出したらしく、四つ目のトラ獣人は返事をすると少しの間黙った。
急に黙った相手に、これまで集落の大人から受けていた扱いを思い出して拒絶されるかもしれない、と不安になり背中を丸めた。
するとスリ、と太腿に柔らかい何かに擽られた。何事かと悠仁が自分の脚を見ると、先程まで自分の尾に寄り添っていた白いトラの尾が悠仁の太腿に擦り寄っているのが見えた。
膝の方から脚の付け根に向かってつつ、と太腿の脇を滑り、腰に到達するとそのままだらりと凭れ掛かって程よく筋肉の付いた悠仁の腹をタシ、タシ、と尾の先端が優しく叩いた。
「小僧、俺と来るか?」
「……へ?」
不意に、掛けられた言葉が理解出来なくて。悠仁は数秒固まった。
まるで具合を確かめているかのように白いトラの尾がタシ、タシ、と腹を叩く音がいやに大きく聞こえる。
「俺、半端モノのモドキだよ? どこの集落に行っても受け入れてもらえないって……」
不安に震える声で、訊ねる。それは悠仁が今まで集落の大人から散々言われてきたことだった。
悠仁だって集落を出る、という選択を考えたことはあった。だが、集落を出るには長の許可が必要になる。
一度集落を出ようとその集落の出身であることに変わりなく、その者が集落の外で何かしらのトラブルに巻き込まれた際は出身の集落が手を貸すこともあった。そういった際に手を貸す、貸さない、一度集落を出た者を再び迎え入れるかどうか、その決定権は長にある。
その長に、悠仁は集落を出たいと告げた時に懇々と詰められたのだ。
『ヒトと交わった可能性のある半端モノのモドキが。行く先も無ければお主なんぞ迎え入れる集落も獣人もなかろうて』
冷たく言われたその言葉は、今も悠仁の心に暗い影を落としている。
結局集落を出る許可ももらえず、悠仁はこうして今も集落の大人から言いつけられた指示を受けて働かされているのだが。
「俺は集落に属しておらんぞ」
「え……」
だから、悠仁にとって獣人と集落は切っても切れない繋がりがあるもので。
だから、悠仁は集落に属さない獣人がいるなんて考えたこともなかった。
告げられた言葉が信じられず、悠仁は目を見開いた。
「でも、集落出てるにしても関わり持たないと駄目なんじゃ……」
「知らん。そも、俺はその集落から追い出された故な」
「追い出された、って」
集落での獣人同士の力関係は集落への貢献度合いで決まる。その一族が過去にどれだけ集落に尽くしてきたかで集落内での発言力が全く違ってくるのである。
集落という群れを成す獣人にとって、その獣性が肉食か、草食か、雑食かというのは些細な事であり、あまり大きな意味を持たない。
だから。肉食であるトラの獣性を持つこの獣人が集落を追われたという話も全く有り得なくはない。
だが、悠仁には納得がいかないことがあった。
――…あんな威圧感ある獣人が追い出されるなんて、何かあったんかな。
悠仁が四つ目のトラ獣人の匂いと気配を察知した時、これまでにない威圧感を感じたのは確かだった。
威圧はその者の強さとも言える。強い者は集落の守りを固めるのに重宝されることが多く、簡単に集落から追い出されるとは思えなかった。
「そんなに強くても追い出されるなんてこと、あるん?」
「過ぎたる力を恐れるのは今も昔も変わらん」
「昔ってアンタいくつなん、にぅ……」
誤魔化すように伸ばされた大きな手が悠仁の喉を擦った。黒く鋭い爪は傷をつけないように引っ込められ、悠仁の手とは違う大きな掌と太い指についた肉球はフニフニとして気持ちが好い。
こういった触れ合いをしたことがない悠仁は左右の耳を外側に開き、その手の感触を強く感じようと目を閉じる。
ヒト寄りの身体である悠仁は猫と同じように喉を鳴らすことは出来ないが、それでも気持ちが好いことに変わりないのでクゥ、と喉を鳴らした。
「それでどうする。来るか? 少なくとも俺と来れば」
目を閉じている悠仁には見えなかったが、四つの目が井戸の側に置いたままになっている水瓶を睨み付けていた。
「斯様な扱いはせんが」
「ん、」
大事なことを聞かれているとは分かっている悠仁だったが、またザリザリと始まった毛繕いの心地好さで思考が溶かされ、あろう事か眠気に襲われて意識を手放しそうになっていた。
「……俺、ヒトじゃないんよ」
ボソ、と零れたのは問いへの答えではなく今まで誰にも言えなかった。言っても聞いてもらえなかった言葉だった。
「見れば分かるだろう。小僧のいた集落にはそんなことも分からん痴れ者しかおらんようだがな」
ケヒッ、という喉を鳴らしたような音に続いて聞こえた自分が獣人だと肯定してくれる言葉があまりにも嬉しくて。
「連れてって……おれ、あそこから出たい」
「いいだろう。俺は宿儺だ。好きに呼べ」
「すくな……うん、おれゆうじ」
頭のすぐ後ろでフスフスと鼻を鳴らす音を聞きながら。悠仁は眠気に負けて意識を手放した。
◇
その日、水汲みに出させた悠仁が日が傾いても戻らないことで集落はちょっとした騒ぎになっていた。
「あの半端モノはまだ戻らんのか」
「もしや逃げたのでは」
「アレに逃げるなんて頭があるものか」
「谷にでも落ちたか」
「ようやくあの汚らわしいモドキが消えたか」
ざわざわ、ヒソヒソ。聞こえる噂話はあっちを向いてもこっちを向いても悠仁が戻らない事を心配するものはなく、むしろもう戻ってこないことを期待するものばかりだった。
――…ゾワッ
不意に、寒気を覚える程に悍ましい圧が突風のように集落全体に向けられた。
嬉々として噂話に興じていた者も、そんな噂話に参加せずとも耳を傾けていた者、我関せずと普段通りの生活を送っていた者。
集落にいた獣人が一斉にその圧を感じ、恐怖に慄き怯えの色を浮かべた。
仔や力の弱い者は腰を抜かして動けなくなり、親や身内が慌てて家の中へと押し込んだ。
集落でも比較的力があると思われていた者達も明確な恐怖から身体が震える者、毛を逆立てる者、耳を立たせる者、反対に耳を寝かせる者、尾を張らせる者。反応はその獣性により様々だったが、その誰も彼もが恐怖と恐れに支配されていた。
やがてその圧の持ち主は気配を隠しもせず、ゆっくりと集落へやって来た。
獣人はその獣性にもよるが、ヒトと比べれば体格が良い。だがやって来た圧の持ち主は獣人にしても大きかった。
顔立ちや揺れる尾、晒されている背中から腹に掛けて見られる縞模様からトラ獣人である事は確かだが、大型の肉食獣の獣人でもここまで身体が大きくなることは先ず無い。
何より、そのトラ獣人には何故が目が二対あった。四つ目のトラ獣人、最早異形としか言えない存在の腕の中で何故か意識を失っているらしい、噂話に上がっていた半端モノの姿。
動ける集落の獣人達が長の元へ行くと、圧と気配を察知したのか住居から出て来ていた長は四つ目のトラ獣人を目にするとガタガタと震えていた。
「――何故、四神が」
〝四神〟。その言葉を耳にした周囲の獣人達は相手の正体が分かった安堵より、その正体が齎すであろう今後への恐怖に震え上がった。その呼び名は遙か昔に存在したという伝承に過ぎない存在だ。
だが、彼らが今身に受けている圧がその存在が確かにあったのだと、真しやかな昔話ではなかったのだと知らしめてくる。
その強さのあまり〝神〟として崇める、という名目で土地を与え嘗ての集落から追い出された、獣人の枠さえ超えてしまう程の存在。
だからこそ分からなかった。何故、そんな存在があの半端モノを連れてやって来たのか?
「おい」
誰と取ることは出来ないが、恐らくは集落そのものへ向けられているだろう。その言葉は地を這うように低く威圧的な声だった。
「この小僧は貰い受ける。良いな」
それだけを告げると、長が〝四神〟と呼んだ四つ目のトラ獣人はもう用は無いとばかりに背を向けて集落から立ち去っていた。
「……長よ、奴は一体」
「言うな。あれはトラ獣人。恐らくは四神の中でもっとも凶悪とされている〝白虎〟様。混ざりモノの命一つで我らの身の安全が保証されたというに、下手に刺激する訳にもいくまいて」
「なるほど。であればアレも本望でしょう」
「ああ、この集落のために死ねるのだからな」
長を中心とした集落の大人達はそういうと、まるで化け物でも見るかのような視線を四つ目のトラ獣人が立ち去って行った方角を見た。
◇
ザリ、ザリとトゲのある柔らかくて生暖かい何かが何度も胸を撫でる擽ったさに、悠仁は意識を浮上させた。
見覚えのない、薄暗い空間にいるらしく。目を開くと随分と高いところに木の天井が見えた。
ザリ、ザリと胸を擽るモノが何なのか、確かめようと下を向くと巨大な白と黒の縞模様の毛の塊が悠仁にのし掛かり、胸から下はその縞模様の毛の塊にすっぽり覆われていた。
ぎょっとして身体を起こそうとしたが起き上がる事は出来ず、ならば払い除けてやろうと手を伸ばすと、丁度顔を上げた縞模様と目が合った。
四つある目がパチパチと瞬き、悠仁が起きていると認識したのか顔を近付けてフスフスと鼻を鳴らした。
「すくな」
意識が完全に落ちる前に聞いた四つ目のトラ獣人の名前を呼んで、悠仁は近付いた大きな鼻に自分の鼻をくっつけた。
「起きたか」
宿儺は大きな口元を悠仁の顔に擦り付ける。硬いヒゲが顔や首筋を掠めて擽ったくなった悠仁が反射的に宿儺の大きなマズルにかぷ、と噛み付いたが。特に痛みはないのか苛立った様子も無く、ただ鼻を鳴らしただけだった。
「うん。あのさ、ここどこなん?」
「俺の住処だ」
「へぇー――…んん?」
宿儺が上から退いたことで自由になった悠仁が身体を起こすと、妙に身体がスースーする。
不思議に思って自分の身体を見下ろすと、その格好にぎょっとした。
「フルチンじゃん」
「ふる? ――嗚呼、あの襤褸なら捨てたぞ」
「いやなんで」
唯一身に纏っていた一枚布を剥がれたらしく、全裸で横になり宿儺に毛繕いをされていたと知った悠仁は羞恥で真っ赤になった顔で吠えた。
「必要ないだろう。俺しかおらん」
「恥ずいからいるの! 俺帰れないじゃん!」
「何処にだ」
ゾッとする程の低く唸るよう声が響いて悠仁の尾がボワッと膨れた。
「集落には話を付けた。オマエの住処はここだというに、何処に帰るつもりだ?」
座って話しているだけだというのに、威圧感を増したその姿は先程より遙かに大きく、恐ろしく見えた。
完全に圧に呑まれてしまった悠仁の尾は情けなくも脚の間に収まり、耳もすっかり寝てしまった。
「お、俺……帰らなくていいん?」
「ここから出て行きたいのか?」
「――っ」
ブンブンと音がしそうな程勢いよく首を振ると、宿儺の威圧感が少しだけマシになった。
無意識に詰めていた息を吐いてへたり込む悠仁を尻目に、宿儺は機嫌を損ねたままなのか悠仁に背を向けて胡座を組んだ。
獣人同士のコミュニケーションを知らない悠仁は仲直りの仕方も知らない。
ただ、離れてしまった縞模様に物悲しさを覚えてその背に近寄り、どうしたらいいのかも分からず大きな背中の肩甲骨辺りに舌を這わせた。
毛繕いのやり方なんて知らない、宿儺に毛繕いをされたのが初めての、それもヒト寄りの舌を持つ悠仁が行うそれは毛繕いとは言えないものだったが。
懸命に小さな舌でペロペロと自分の背中を舐める姿が気に入ったらしい宿儺はまた、フスフスと鼻を鳴らした。
「……まだ臭うな」
「んぇ?」
鼻を鳴らした際に匂いを嗅いだのか、鼻の頭に皺を寄せて宿儺が言った。
「集落の臭いだ。薄いがな」
「臭う?」
悠仁も自分の腕を持ち上げて臭いを嗅いだが、特に臭いとは思わなかった。
「えっと、分かんないんだけど」
「臭う。飯の前に湯浴みだな」
「ゆあみ?」
「何だ、風呂を知らんのか」
集落で迫害を受けていたからか、悠仁は風呂に入ったことがない。身綺麗にしていないと手打ちにされるので、嫌々ながらも水浴びをしていた程である。
「こっちだ」
宿儺が立ち上がって案内しようとするが、悠仁はその場で脚を抱え込んで立とうとしなかった。
「どうした」
「……恥ずい」
裸を見られるのが恥ずかしい、と背中を丸めてしまった悠仁を見てため息を吐いた宿儺は丸まっている腹に手を入れると有無を言わせず脇に抱えて歩き出した。
「おわっ へっ? なに」
「喧しい。このまま風呂だ」
どうにか手足をバタつかせて暴れるが、縞模様の体毛に覆われた太く逞しい腕は離してくれる訳もなく。悠仁はそのまま宿儺の湯殿へと連れて行かれた。
◇◇
ある獣人の集落に奇妙な言い伝えがあった。混ざりモノが生まれたならば〝神〟に見つかる前に速やかに殺せと。
〝神〟に見つかれば、その集落には災いが降りかかると。
悠仁を迫害していた集落だが、ある日集落を出て暮らしていた獣人が帰郷したはずが慌てて住処に戻り、何も語らずただその身を縮こまらせて震え上がっていたそうな。