いい酒が手に入ったという言葉にほだされるべきじゃなかった。いや、そもそも部屋のドアを開けるべきじゃなかったのだ。いつもよりしおらしい様子であったとしても、この男がそんな思考回路を持っていないことなど分かり切っていたのに。
後悔したところでもう遅いのだということはネロが一番よく分かっている。跪けと言われてしまえば、この体は抗えない。
酔って手元が狂ったとカトラリーを拾わせたのはこの為かと奥歯を噛みしめた。荒れそうになる呼吸を飲み込んで目の前の男を睨みつける。
「っ、おい、てめえ」
「《Good》」
ブラッド、と咎めようとした声は音にならずに喉の奥に消える。背中を駆け上がったものを振り切るように咄嗟に顔を背けた。顔が熱い。頭がぼやける。腹の奥が渦巻いて、浅ましい欲求を訴えかけてくる。理性が抗えぬ程の本能は、容赦なくネロを責め立てた。
手に持ったままのフォークが灯りを反射して鈍く光っている。磨きが足りないその金属だけが今はネロを現実に引き留めてくれていた。だけど、握りしめて縋ったところでどうしようもない。
小さく、笑い声が落ちた。わずかに震えてしまった肩はきっと、上からならよく見えたことだろう。舌打ちをして悪態をつきたい気分になって、それでも体は動かなかった。《Stand up》はまだ聞こえない。
俯く視界の片隅で、組まれていた足がほどかれてフォークの上を通り過ぎていく。そのまま靴先が、エプロンの下に入り込んでネロの腿を撫でた。ネイビーの生地の下で爪先が動いている。ネロの反応を楽しむように固い靴底が腿を擦り、引こうとした体を追いかけるように腰骨を押す。ほどけかけたエプロンの紐を弄んでから、薄いシャツの上をなぞって磨き上げられた黒革が持ち上がっていく。
痛みは感じない。だからといって、大人しくしていていいわけじゃない。踏みつけられて悦ぶ性質でもないのだ、止めるべきだとわかっている。それでも、手が動かなかった。
靴先が胸ポケットを通り過ぎて、銀のチェーンにじゃれつき、顎にかかる。力を込められればなすすべもなかった。
うつくしいレッドスピネルの瞳が、楽しそうに弧を描く。
「いい顔してんじゃねえか」
なあネロ、と甘えるような声が囁く。それが作られたものであるのは知っているのに。
顎にかけられていた靴先が、先程通った道筋を確かめるように下りてゆく。胸元を通り、脇腹を掠めて腿を撫で、そうして最後にわざとらしく避けていた臍の下に辿り着いた。服の上から確実に、けれど決定的にならない強さで靴底を押し付けられる。
「どうして欲しいか言ってみな」
聞いてやるよと悪魔が笑う。
「《Say》」
言うべき言葉は分かっている。誘いに乗ったところでろくなことにならない。分かっている。それなのに。
欠けた耳が薄く染まっている。楽しそうに細くなった瞳は潤んで、期待を隠そうともしていない。吊り上がった唇は、今は閉じられているけれど。
ごくり、と唾を飲み込む。
本能に理性の目を塞がれて、かすれた声が零れ落ちた。