おや、というごく小さな店主の呟きが男の耳に入ったのは、偏に客が他にいないからだった。普段はそれなりに賑わっているこのバーも、今杯を傾けているのは男ただ一人。珍しくはないが貴重な時間であるのは確かだ。だから店主もこんな事を言う。遠くで聞こえるチェンバロの音色がいいアクセントだ。
「そんな所に隠れてしまわれるなんて、どうかなさったんですか?」
隠れる、という程の場所でもない。男がいるのはバーカウンターから然程離れてもいないテーブル席だ。ここを選んだ特筆すべき理由もなく、強いて言うなら向かい側に置かれている空のグラスだろうか。アルコールが抜かれたカクテルの雫が底にわずかに残っている。
男が扉をくぐってから今までの全てを見ていた店主は全てを知っている。問うまでもない。だからこそ、店主は男に問うのだ。それを男も分かっているから静かに笑みを零すだけだ。ゲームは悪くない。空のグラスを二つ、カウンターまで運ぶ。
スツールに腰を下ろした男が、磨き抜かれたウォルナットの天板を軽く指先で叩いた。
「許してくれよ。俺みてえな〝日陰者〟には、あんたみたいな〝太陽〟は眩しすぎる」
「心にもないことを言うのがお上手で」
「なあ、どうしたら許してくれる?」
「でしたら、ご注文は?」
店主が完璧な笑顔を浮かべた。男がおかしそうに喉を鳴らす。
「キールを」
「かしこまりました」
店主が指を振れば、琥珀色が静かにグラスに流れ込んでゆく。微かな音も立てずに目の前に置かれたのは、ウイスキーフロート。
「シュガーは入れてくれねえのかよ」
「貴方がお持ちではないのですか?」
「人の作品に手を加える趣味はねえからな」
「最後の仕上げをお願いしたいと言っても?」
「それじゃ意味ねえって分かってんだろ」
「それとも」と、男が指を振る。棚に収まっていたはずの白ワインと赤ワインのボトルが浮かび上がり、カシスリキュールが指輪の填められた手に握られている。
「まだ許してくれてねえのか?」男が店主の顔を覗き込んだ。ボルドーの瞳が細くなる。歌うように唱えられた呪文で、ワインとリキュールは何事も無かったかのように元通りにしまわれていった。
「勿論、とっくに」磨き上げられた指先が、美しい二層のグラスをそっとなぞる。
「でなければ、ブランデー・クラスタをお出ししていましたから」
男が心底愉快そうに笑い声を上げる。グラスを傾け、濡れた唇を拭った。
「いいな。もっと怒らせたくなっちまう」
「どうぞ、存分に」店主が男の名を囁く。
「夜はまだ、長いのですから」