窓の外には厄災が輝いている。美しい夜空をぼんやり眺め、はっと我に返って賢者は慌てて足を踏み出した。もうずいぶん遅い時間だ。
賢者の書を書き進めることに集中していたせいか、それとも昼間の依頼での魔法使いたちの活躍を思い出していたせいか。すっかり夜も更けた今になっても眠気はやってきていなかった。まだまだ起きていられそうだが、これ以上は明日に差し支えそうだ。キッチンでホットミルクでも飲んで寝てしまおうと部屋を抜け出したところだった。
しんと静まり返った廊下に賢者の足音だけが響く。同じフロアの魔法使いたちは早寝が得意な方だ。起こさないように足音を殺して階段を下りた。キッチンを目指す。
「……あれ?」
こんな時間までキッチンに明かりがともっているのは珍しいことじゃないが、その明かりが届かない廊下の片隅に立つ後ろ姿はあまり見たことがなかった。いつもなら、キッチンで甘いものを強請っているか、探しているかしているのに。もしかしたら厄災の傷だろうかとそっと背後に歩み寄った。
「オーエン」
どうかしましたか、と聞こうとした声が、口から出た途端に魔法のように消え去った。驚いた拍子に飛び出た悲鳴も少しも音にならなかった。慌てて目の前のオッドアイを見つめると、不機嫌そうな顔が口の前に人差し指を立てた。黙ってて、と聞こえたような気がして頷く。
わかればいいと小さく鼻を鳴らしたオーエンが、賢者から目を反らした。見つめているのはキッチンの中だ。そこに、声を殺さなければならない事情があるらしい。オーエンの陰から中を覗き込むことは止められなかった。
キッチンの下の方の戸棚を探るツートンの髪と、その後ろ姿をぼんやり眺める赤い髪。夜食を食べに来たであろうブラッドリーと、恐らくいつものように眠れなくて魔法舎の中を彷徨っていたミスラだ。ヒースクリフとシノみたいにいつも一緒にいるわけではないが、こんな風に様子を伺わなければならないほど珍しい組み合わせじゃない。
もしかして、昼間賢者が依頼で留守にしていた時に何かあったんだろうか。そっとオーエンの顔を伺うと、少し嫌そうな顔で軽く手を振られた。たぶん、何もなかったということなんだろう。だったら、どうしてこんなことを? 思わず首を傾げる賢者の視界の中で、ミスラが暇そうにブラッドリーの名前を呼んだ。
「まだ見つからないんですか?」
「だから、てめえでやれっつってんだろ」
「ネロが昼間、肉を持っていたような気がするんですけど」
「聞けよ」
ため息を吐いたブラッドリーが、しけてんなと呟いて戸棚を締める。いくつか手に持っていた瓶を魔法で作業台の上に飛ばしていた。どうやら、今夜は彼好みの品物が見当たらないらしい。先程の会話から考えるに、ミスラもおすそ分けしてもらおうとしていたんだろう。黒く塗られた爪がつまらなそうに瓶を突き、すぐに興味を失くしたように顔を背けた。
ブラッドリーの腕が上の戸棚に伸ばされる。一緒に中を覗き込もうとしたのか、ミスラもブラッドリーに近づいていった。
——その途端に、ぱちんと何かが弾ける音がして、バランスを崩したブラッドリーの体が大きく傾いた。
危ない、と上げそうになった悲鳴を隠すように顔を押しのけられた瞬間に倒れこむような音が響く。慌てて様子を伺えば、仰向けに倒れたブラッドリーの上にミスラが覆いかぶさっていた。ブラッドリーが倒れる瞬間にミスラも巻き込まれてしまったらしい。結構派手に転んだようだが、さすがというか、見たところ二人に大きな怪我はないようでほっとする。
「あなた、結構どんくさいですよね」
「うるせえ。——おい、オーエン!」
こんな薄暗いところにいたのに気づいていたのかと驚いて、そういえばさっきの弾ける音の正体はもしかして、とオーエンの顔を見上げた。二色の瞳が楽しそうに細くなる。正解、とは賢者とブラッドリー、どちらに言った台詞だろうか。
キッチンの中に足を踏み入れたオーエンの後を追う。射殺しそうなほど鋭かったブラッドリーの視線が、賢者の姿を捕らえて少しだけ柔らかくなる。
「てめえもいんのかよ。何か食いに来たのか?」
「ええと、こんばんはブラッドリー。眠れないのでホットミルクでも作ろうかと……」
「へえ。だったら、俺様にもなんか作れよ」
「ねえ、聞いた? ブラッドリーは、ミスラよりも賢者様の方が役に立つって」
オーエンの言葉に、ミスラが少しだけ顔を顰めたのが見えた。賢者様の方がいいんですかとブラッドリーに尋ねて、そりゃそうだろと返されてますます機嫌が悪そうにしている。今のはそういう話じゃない気がするのだが、変に口を出すとややこしくなりそうで話すのをためらってしまう。
「俺の方が役に立ちますけど。強いので」
「飯作るのに強いも弱いもあるかよ」
「ふふ。ミスラじゃだめなんだって。かわいそう」
「はあ? あなた、俺の方がいいって言ってたでしょう」
「おい、いつの話だよ」
段々と、キッチンの中の空気がぴりぴりしてくるような気がする。さすがにこんな夜中に北の魔法使いたちに喧嘩をされるのは困ってしまう。意を決して一歩前に出た。あの、と少し声を張ると言い合いがぴたりと止まる。
「材料によりますけど、それなりにリクエストは聞けると思います。だから、皆さんの食べたいものを……」
「だめだよ、賢者様。おねだりなら、ブラッドリーにやってもらわなくちゃ」
ねえミスラ、と優し気な声が歌うように囁いた。ちらりと賢者を見た緑の瞳が、覆いかぶさったままのブラッドリーに向けられる。
「いいですよ。俺は出来る男なので」
強請ってみてください、と言ったミスラに、ブラッドリーが嫌そうな顔をする。するわけねえだろという返答にかぶせるように、楽しそうなオーエンの笑い声が響いた。
「恥ずかしがらなくてもいいのに。それとも、ミスラの部屋じゃなきゃいけないの?」
この前みたいにとオーエンが口に出したのと、盛大に顔を顰めたブラッドリーが舌打ちをするのと、納得したように頷いたミスラが空間の扉を開いたのは同時だった。扉の向こうには見覚えのある部屋が広がっている。
体を起こしたミスラがブラッドリーの腕を掴んで立ち上がらせ、驚いたように目を丸くするのに構わず空間の扉をくぐっていった。賢者が何かを言う前に、あっという間に扉が消える。
後に残ったのは、機嫌が良さそうに笑うオーエンと、困惑に固まる賢者だけだ。
「あの、大丈夫でしょうか……」
「知らない。何かあったらフィガロがどうにかするんじゃない」
確かに、ミスラの部屋とフィガロの部屋は同じフロアだが。それでも、気にしないというほうが難しい。少し様子を見に行こうかとそわそわする賢者にオーエンが呆れたようにため息を吐いた。
「おまえが行って、何ができるわけ? 二人で話してたらどうするの?」
「それは……」
言われてみれば、そうだった。喧嘩するんじゃないかと決めつけてしまっていた。ブラッドリーとミスラがする話し合いがどんなものかは想像ができないが、勝手な決めつけで魔法使いたちのやり方を邪魔してしまうことはしたくない。
わかりましたと頷くと、オーエンが肩を竦めて、作業台の前に置かれた椅子に腰かけた。頬杖をついて戸棚を指さす。
「だったら、早くして。何でも作るんでしょう」
乾いた血液みたいな色のやつ、と急かされて、戸棚に手を伸ばした。