式三献 祝杯をあげようということになった。
知人の結婚の祝いである。
この時代だ、盛大なことはできないしするつもりもないよと笑う知人に、友人が
「じゃあ神であるこの僕が祝ってあげよう!」
と無謀な酒盛りを計画したのであった。もちろん取り仕切るのは神主であるお前ダッ!と、律儀に巻き込んでくれた。ありがたくて涙が出る。
祝いの席と言っても蓋を開ければ見知った面子のみの気安い宴会である。要は榎木津が酒を浴びたいだけなのだ。無論知人にはこの方がきっと喜ばしいことなのだろう。顔を真っ赤にしながら勧められるだけ酒をあけている。
「凶悪すぎる顔をしているぞお前」
宴もたけなわ、ふと背後から投げつけられた言葉にどきりとした。振り返ると、先ほどまで目の前で木場の旦那と肩を組みあっていた榎木津が鋭い目つきで自分を見ていた。
「そりゃああんな可愛い雪ちゃんが嫁にきたんだ、嫉妬もする」
「何を馬鹿なことを───」
「じゃあお前今日くらい笑顔でいてみたらいい。大体お前にそんな顔をする権利はない」
「───────知ってるよ」
手にしている湯呑の中の茶を一気に煽る。
眼前には笑顔の渦 渦 渦。
────この 世界はまるで
「なぁ中禅寺、夜の国だけに行ってしまってはいけないよ」
はっとすると手にした空のはずの湯呑の中にたっぷりと酒が注がれている。目の前の『神』が一升瓶を手に大きな鳶色の目でじっとこちらを見ていた。
「なっ……にを榎さん……今あんたと哲学の話をする気は」
ちびりと酒を舐める。久しぶりの酒に臓腑が灼けるように熱くなる。
榎木津が突然パルメニデスを持ちだしたことに面食らったが、自分を榎木津なりに慰めようとしているのだろうと思うことにした。
鳶色の目はまだこちらを見ている。
昼の目を持つ神が夜の国の僕を。
手元の酒が喉を通ると熱いのは慣れていないからだけではないだろう。全ては自分のせいなのだ。僕がこの状況を作ってしまった。
ないものはない。僕に女神の鍵はなかったのだ。
手に入れたかったものは───
「うっ……もう飲めない。地面が揺れてるようだ」
「なんだ頼りないなセキ!宴は始まったばかりだぞ」
「耳元で騒がないでくれ榎さ──ん?中禅寺、それは水か?ちょっと一口貰えないかい」
宴の輪から抜け出してきた関口はそう言うと、止める間もなく手の中にあった酒の残りをぐっと煽った。
「~~~~っ⁉さ、酒じゃないか」
「そうだよ。この僕が注いだありがたい酒だ!」
「中禅寺が酒だなんて一体何の」
むせながら精一杯抗議する関口に、榎木津は水なら勝手場で貰って来いと盛大に尻を叩く。痛いなぁと唸りながら心もとない足取りで勝手場に向かう関口を目で追いながら、榎木津はこちらをチラリとも見ずに「雪ちゃんには悪いがね」とひとりごちた。
「僕のありがたい酒をお前と関が酌み交わしたんだから、これにて契りを結んだこととするのはどうだい」
「……あんたアレを三々九度に見立てるのか」
「お前の視線が痛くて見ていられない」
悪趣味だなと言い放ち、落ち着こうと煙草に火をつけつつ隣の男を見上げると、榎木津は腕を組んで偉そうに鼻を鳴らした。
「だから悪いがと言ったろう?しきたりについて言えば僕はそういうのは気にしない神なのだ。君たちのことはぞっとしないがね、今日だけは無礼講だよ。ただし、今日、今だけだ」
そう言うといいお下知だったと満足気に榎木津は木場に絡みに消えた。
ないものはない。
しかし降ってわいた神の沙汰に少しだけ目が緩んだ。
絶対に手に入れられないものを今だけ手に入れたような錯覚を抱いたのだった。
それは本当に錯覚なのだけれど。
だけれども僕の中にはこの気持ちは確かに「ある」のだ。
「汝すべからくこの探求の道から想いを遠ざけよ────」
中禅寺秋彦はそう呟くと、周囲の喧騒を耳にしながら静かに目を閉じた。
了