(未定)「いやぁ、神代くんと天馬くんの関係について、君たちの発表を見た時は驚いたよ〜。随分と仲が良いとは思っていたんだけどねぇ。まさか恋人同士だったなんて…ということは、以前シェアハウスだと言っていたのも、同棲ということになるのか……こんなことを聞くのはあれかもだけど、男同士でも、やっぱり夜はそれなりに盛り上がるのかな?どのくらいの頻度でやってるの?…あーー…ごめんごめん、今のは冗談。そんなに気を悪くしないでよ〜」
「っ……」
頭の重くズキンとした痛みに意識が急速に浮上する。枕元にあるスマホの時計は午前2時を回っていた。ゆっくりと体を起こし、手で頭を押さえるとドクンドクンとした痛みが触れたところから全身に伝わってくるようで、症状がますます悪化したように感じられる。
隣には、布団を頭まで被り丸まりながらすうすうと気持ちよさそうな寝息をたてている愛しい恋人の姿。いつもなら、司を見るだけで、それまでどんなにカラカラだった心もあっという間に満たされ、愛おしい気持ちでいっぱいになるのに、今回はそうはいかなかった。
昨夜の懇親会。類の隣に突然腰掛けてきたプロデューサーが放ったあの言葉。思い出すだけで、カッと頭に血がのぼり、握り締めた拳がわなわなと震える。彼は面白半分の冗談のつもりだったようだが、そんなことは関係ない。相手がどういうつもりであろうと、あれは立派なハラスメントだ。絶対に許せない。許せるはずがない。
だが、彼はプロデューサーで業界に及ぼす影響力が強い。新進気鋭の演出家と謳われる類もまだまだ若手で、強くは出られなかった。あの時は何とか上手くかわすことで場を丸く収められたが…
(言われたのがまだ僕で良かったのかもしれない…ああいった時の返答やかわし方はそれなりに心得ているつもりだ。…だけど、もし司くんがそういう場面に遭遇したら…?真面目に答えてしまう司くんに気を良くした相手が、もっと酷いことを言ったら…?)
想像するだけで、全身の血が沸き立つような怒りを感じる。今後、司が道を広げ、色々な人と触れ合っていく中で、きっとそういった人々とも関わっていかなければならない。類と司の関係を面白おかしく揶揄い、嘲笑うようなそんな人々と──。
(…そもそも、僕と司くんの関係を公表したことが間違っていたのか…?周りへの牽制という意味でも司くんに安心してもらえると思っていた。…けれど…)
先日、類と司は自分達が交際し、同棲もしている関係であることを公に発表した。世間の反応はさまざまで、喜び祝福してくれる人が多い一方、心無い言葉を投げかける人も少なからずいた。だが、世の中どんなことにも批判は付き物だ。ファンからの意見は大切にしつつも、あまり気にし過ぎず、これからも自分達の舞台でたくさんの人々に笑顔を届けていこうと2人でそう約束をしている。
そして業界にも、2人の関係を快く思わない人はやはり存在し、類や司と接する際の雰囲気からなんとなくそれを感じ取っていたのだが、ここまで直接的な侮辱をしたのはあの人が初めてだ。
昨夜の飲み会、プロデューサー、関係の公表と己の判断、司のこと……
考えれば考えるほど目は冴え、頭の痛みも増していく。
公表しない方が良かった?あの時、本当はもっと言ってやりたかった。昨夜のことを司に話したい。でも心配をかけたくない。…
…僕はどうすれば良かったんだ…
結局あの後は、ほとんど眠ることができなかった。寝不足のまま悶々とした気持ちで朝を迎え、類の不調を案じるような司の視線を感じつつも、彼とはほとんど目を合わせられず、重い足取りで仕事へと向かった。
***
「15分、休憩入りま〜す!」
スタッフの一声で、現場の緊張感が一気に和らぐ。それまで張り詰めていた空気が程よく緩み、役者達は、演技で気になったところを話し合ったり、水分補給や軽いストレッチを行ったりと、それぞれ思い思いに休憩をとっている。
ここは、類が次回演出を務める舞台の稽古場だ。類の主な仕事は役者への演技指導、照明・美術への指示等である。
どの役者も類の厳しい指導に必死に食らいつき、演出に全力で応えてくれるため、類はこの舞台にとてもやりがいを感じていた。衝突することもあるが、それは舞台や演技が好きな者同士だからこそ起こるものであり、根は人想いで心優しい人達ばかりだと──昨日の懇親会へ行く前まで、類はそう思っていた。
例のプロデューサーは、今日はまだ来ていないがもうそろそろこの現場に到着し、午後からは演出諸々類と話し合いをしたいそうだ。舞台や仕事に私情は持ち込まないと決めているが、さすがに気が重い。
晴れない気持ちのまま、ペットボトルの水を飲み、類が次の演出について考えていると、後ろから「あ、あの…」と控えめな声がかけられた。振り返ると、そこにはベージュ色のパーカーを羽織った黒髪の若い男性が立っていた。彼は、今回の舞台で準主役を務めることになっている舞台俳優だ。新人だが、柔らかく甘い声質とは裏腹に力強く芯のある演技がギャップ萌えだと話題となり、今世間からも大いに注目されている。
「休憩中にすみません!演技について、少し相談したいことがありまして…今お時間ございますか?」
「ああ、森くん。お疲れ様。今なら大丈夫だよ。どのシーンの演技かな?」
「ありがとうございます!!…ええっとですね…台本の84ページの…」
彼がパラパラと台本をめくる様子を横から見ていると、どのページにも黒のボールペンでびっしりとメモが書かれており、大量に貼ってある付箋はもうすでによれよれのものもある。
台本にアドバイスや気づいたことのメモを書くことは、役者として当たり前の行為なのかもしれないが、ここまでページのひとつひとつが真っ黒になっている人は久々に見た気がする。
(こういう勉強熱心なところも、彼の魅力のひとつなのかもしれないな)
類が感心していると、後ろの扉がギィ…とゆっくり開く音がした。誰かが稽古場に入って来たのだろうが、なんとなく嫌な予感がする。
「あ!!ありました!ここのシーンなんですけど…」
「やぁ、2人とも。休憩時間にも関わらず、熱心だねえ」
予想通りの低い声が背後から聞こえていた。ゆっくりと振り返ると、やはりそこにはシンプルな白Tシャツとジーンズを身に纏い、四角い眼鏡を掛けた50代くらいの男性──例のプロデューサーがニコニコと笑いながら片手をあげていた。
「おはようございます」
「おはようございます!!」
「ああ、おはよう。ええっと…そろそろ休憩時間も終わるんだし、君はそろそろ舞台練習に戻った方が良いんじゃないかな?私はこれから、神代くんと色々相談をしなければならなくてね。だから悪いけれど、相談とやらはまた後でしてもらっても良いかい?」
許可を得る聞き方になっているが、有無を言わせない圧力だ。プロデューサーの力を直に浴び、彼もすっかり萎縮してしまっている。
「……は、はい!…すみません、神代さん、また後ほどお時間を頂くことは…」
「もちろん大丈夫だよ。また後で連絡しようか」
「はい!よろしくお願いします。...では、お二人とも、失礼します!」
彼はそう言うと、それぞれに軽くお辞儀をし、練習へと戻っていった。
話し合いは午後からと聞いていたが、今は午前10時だ。わざわざ彼を追い払ったあたり、類に何か話すことがあるのかもしれない。
人に聞かれたらまずいようなこと…思い当たる節はひとつしかなかった。
「…話し合いは午後からとお聞きしていたのですが…」
「ああ、すまんね。ちょっと2人で話しておきたいことがあって、彼を向こうへ戻すための口実に少々使わせてもらったよ。…話しておきたいことと言うのは昨日のことだ。いやぁ、昨晩は本当にすまなかったよ。君の心を深く傷付けてしまう行為だったと反省している。…ただ、このことは口外しないでほしいんだよね。君と僕の仲が険悪だとみんなが知ったら、稽古場の空気も悪くなるだろう?これは、舞台を成功させるために必要なことなんだよ。優秀な君なら分かるだろう?」
(…やっぱり)
なんとなく察しはついていたが、やはり昨夜のことに対する口止めだ。たしかに、稽古場の空気が悪くなることは避けた方が良いが、きっと一番の理由は自分の評判が落ちるのが怖いからなのだろう。
この舞台が千秋楽を迎えるまでは、誰かに言いふらそうなんて思っていなかったので、表面上の理由でこのプロデューサーが心配していることは杞憂に過ぎないが、類の中で彼に対する評価は底辺から更にガタ落ちだ。ただ、ここで言い返すのも稽古場の空気を壊す理由になりかねない。この舞台が終わるまでは、どんなことにも頷き頭を下げる、周りからすれば都合の良い人間でしかない『神代類』を演じるのだ。
「分かりました。この稽古場の空気を壊さない為に、口外しないよう気を付けますね」
「ああ、物分かりがいい子は助かるよ。それじゃあ頼んだからね。また、午後の会議で会おう」
プロデューサーは類の肩を軽く叩いてそう言い残すと、別のスタッフの元へと去っていった。
類はポケットからスマホを取り出し、画面下にある赤い録音停止ボタンを押した。口約束だけだとトラブルの元になるため、類と2人きりになったあたりからボイスレコーダーでこっそり録音をしていたのだが、この証拠はきっと今後役に立つ。
類は『この稽古場の空気を壊さない為に』口外しないと約束した。舞台が千秋楽を迎えれば、もう稽古場は関係がなくなるためいくらでも手を打つことができる。もう少しの辛抱だ。
***
「非常〜〜に助かるぞ!!寧々!えむ!今回の礼は必ずするからな!!」
「いや、別に相談聞くくらい全然気にしないで良いけど…あ、でも、類との惚気話したら、司の奢りでここのカフェの一番高いケーキ頼むから」
「全然気にしないで大丈夫だよ〜!!あたし、類くんと司くんの力になりたいから!!」
「ふっ…ふたりとも…オレは…オレは…なんて良い仲間を持ったんだ〜〜〜〜!!!」
「ちょっと…もう少し声抑えてよね…」
ここは駅から少し歩いた場所にある小さなカフェだ。類について、2人に相談したいことがあると司が連絡をし、たまたま3人とも予定が無かった今日、急遽集まることになった。
このカフェなら人も疎らでゆっくりと話すことができる。
それぞれ注文した飲み物が届き、ひと息ついたところで、「…で、相談って?」と寧々が切り出した。司は飲んでいた紅茶をテーブルに置き、ゆっくりと口を開く。
「ああ…その…最近類の様子がおかしいんだ…元気がなさそうというか…オレの前では本人は取り繕っているつもりなのかもしれんが…」
「類くん、しょぼぼぼぼ〜んってしちゃってるの?何かあったのかな…」
「そうだったんだ…元気がなさそうって具体的にはどんな?」
寧々にそう尋ねられ、司は手を顎に当て、うむむ…と考える。『なんとなく元気がなさそう』と、直感的に思っていたため、具体的にと言われるとパッとは浮かんでこなかった。
「ええっと、そうだな…具体的と言われると難しいのだが……類とのハグが減ったとかだろうか」
「…は?」
「いつもならば、類が仕事から帰ってきた時や2人でソファに座り映画を鑑賞している時など、あらゆる場面で嬉しそうに抱きついてくるというのに、最近は目すらあまり合わんくてな…」
「ええーーー!!!司くんと類くん、いつもは、いっぱいむぎゅむぎゅぎゅうううってしてるの!?とっても仲良しさんだね!!」
「いやえむ、惚気られてるから」
「!?惚気てなんていないぞ!!オレは今、至極真面目に真剣に悩んでいるのだ!!」
「そうだよ寧々ちゃん!!司くんは今すっごく、むむむ…ってなってるから、あたしと寧々ちゃんで司くんと類くんをとっても仲良しわんだほい!に戻さなくちゃ!」
「もう…えむまで…でもまあ、たしかに類がそんな様子なのはちょっと心配かもね」
寧々はそう言うと、グラスの中のグレープフルーツジュースをそっと口にする。氷が溶け、涼しげなカランとした音が耳に心地よい。
「ねえねえ司くん!類くんがしょぼぼぼぼ〜んってなっちゃってるのはいつからなの?」
「えぇっと…たしか2日程前、類が仕事から帰ってきてからだな。その日は、類が今手掛けている舞台の懇親会だったらしいから、正しくは懇親会から帰ってきてから…かもしれんが…」
「うーん…じゃあその時に何かあったのかなー?」
「誰かに何か言われたんじゃないの?」
「…ああ、それはオレも考えたのだが…あいつは、あの舞台に携わっている人達はみんな情熱があって素晴らしい人達ばかりだと言っていたから、そんな人達との舞台の懇親会で、何か嫌なことがあるとはどうも考えにくくてな…」
類が元気をなくしたタイミングから考えてみると、原因はやはり懇親会にありそうだが、一方で類の話では、現場の雰囲気はとても良さそうな為、そんな人達との懇親会で何かトラブルが起きるのかという疑問が湧いてくる。
類の様子がおかしいと気付いてからずっと、司はこの思考のループを繰り返し、考え続けたのだが、とうとう頭がパンクしそうになった為、申し訳なく思いつつも2人に相談を持ち掛けたのだった。
「…その、お前達ならどうする?」
「え?」
「…本来なら、えむと寧々に相談するより前に、オレが類に問いかけて、話をしなければならない。…だが、先程も言った通り類はオレに元気が無いことを隠したい様子だったからな。それなのにこちらから触れてしまっても良いのかと思ってしまって…だから、お前達ならどうするか、参考までに聞きたいんだ」
司が2人の目を真っ直ぐに見つめ、そう問いかけると、寧々は少し考えた様子を見せた後、小さく「…私なら」と呟いた。
「…私なら、類に何かあったのかは聞くかな。隠していても、本人が苦しいのに変わりはないだろうし…でも、それでも類が話したくないなら、私はそれ以上は追及しないよ」
「…あたしも寧々ちゃんと同じかな。類くんの力になりたいっていう気持ちはちゃんと伝えたいけど…でも!類くんに無理して話して欲しいわけじゃないから!」
「…なるほど…やはりそうだよな。オレも一度それとなく聞いてみて、それでも類が話したくないのならそれ以上は…」
司がそう言いかけた時、寧々が「待って」とストップをかける。突然の制止に司が思わず彼女の方を見ると、寧々は少しむっとしたような、でもそれ以上に優しい目をしていた。
「さっきのはあくまで、わたしの場合。わたしにとって、類は大切な幼なじみで仲間だよ。でも、それ以上でもそれ以下でも無いから。類の力になりたい気持ちは本物だけど、だからって本人が話したくないことを無理に聞き出すことはできない。身内ってわけじゃないからね。……でも、司はもう類の大切な家族のようなものでしょ」
「…!」
「わたしだったら踏み込めない類の心の深い部分も、司なら全部拾い上げてくれるって信じてるよ」
「あたしも寧々ちゃんと同じ気持ちだよ!!司くんならぜ〜〜〜〜ったい類くんのしょぼぼぼぼ〜んとした気持ちを吹き飛ばせちゃうから!!」
「…寧々、えむ…」
2人の言葉にハッとさせられる。それと同時に、彼女達の温かい気持ちが司の心をじんわりと優しく包んでくれ、優しく背中を押してくれているようだった。
「…ありがとう。おかげでオレ自身も気持ちの整理をすることができた。類にも一度きちんと話を聞いてみようと思う」
「…うん、いいんじゃない」
「えっへへ〜〜!!司くんと類くんの力になれて嬉しいな〜!!2人がとっても仲良しわんだほい!に戻れるようにあたしにできることがあったら言ってね!!」
「…わたしも…遠慮しないでよね。仲間なんだから」
「もう今日だけで十分過ぎるくらい助けてもらった気がするが……だが、ありがとう」
2人の心優しい想いを大切に受け取って、類のことも笑顔にしてみせると、司は心の中でそっと誓った。
***
「…よし、皿は洗い終わったな。類もあと少しで帰ってきそうだから、コーヒーの準備をしておくか」
キッチンで湯を沸かしながら、司がチラリと壁の時計を見ると、時刻はもうすぐ午後8時になろうとしていた。リビングのテレビは付いておらず、しんとした部屋には外の雨の音だけがポツポツと響いていた。
類は今晩、プロデューサーと演出等の擦り合せも兼ねて一緒に食事をすることになっており、今日の夕飯は大丈夫だと、昼頃連絡をもらっている。
司ひとりで夜ご飯を食べるのは本当に久しぶりで、若干寂しさを感じつつも、黙々と食べていると、先程類から『もうすぐ家に着くよ』という連絡がきたため、テキパキと食べ終わった食器を片付け、今は類のコーヒーと、自分用の紅茶を準備しているところだ。
棚から2人分のコップを取り出しながら、司は今日、寧々とえむからもらったアドバイスを頭の中で何度か繰り返し、類に上手くかわされそうになっても何とか粘ろうと小さく拳を掲げて意気込む。
それから数分後、玄関の方からガチャリという音がしたため、どうやら類が帰ってきたようだ。司は完成した飲み物をリビングのローテーブルに運び、玄関へと類を出迎えに行った。
扉の前で傘を畳んでいた類の顔は、やはりいつもより元気が無く、目元には化粧で誤魔化しているようだが、うっすらと隈がある。そんな類を心配する気持ちはもちろんあるが、だからこそ、せめて家では力を抜いてほしいと、司はいつもより一層明るい声で類を出迎えた。
「類!!お疲れ様だ!コーヒーを用意してあるから、手洗いうがいが終わったら一緒に飲まないか?」
「…司くん、ただいま。コーヒー、ぜひ頂くよ。ありがとう」
荷物を自室に置き、洗面所へと向かった類を見送って、司は一足先にリビングへと戻る。これから類と話すことに珍しく緊張しているのか、自身の胸に手を軽く当てると、心臓がバクバクと脈を打っているのが分かった。
懇親会があった翌日、仕事から帰ってきた時の類は依然として元気がなさそうだったとはいえ、前日に比べると少しすっきりしたような表情をしていた。だが先程玄関で見た類は、あの懇親会から帰ってきた時と同じくらい、疲れたような顔をしていたように思う。たしかにプロデューサーという、自分よりいくつも立場が上の人と食事をしてきたのだから、気を遣って疲れてしまうのは当たり前かもしれないが、懇親会の日のことも併せて考えると、類の悩みの原因はプロデューサーにあるのではないかと思ってしまう。
少しして洗面所から帰ってきた類をソファに座らせ、司もその隣へと腰掛ける。コーヒーの入ったコップを類に手渡し、バクバクと鼓動する心臓を落ち着かせる為、自分も紅茶を少し口にした。いきなり「何か悩んでいることはないか?」などと本題に入ることは何となく憚れた為、まず今日あったことを話題にして、それから少しずつ本題に近づけていこうと思う。
紅茶の入ったコップを目の前のローテーブルに置き、司はゆっくりと口を開いた。
「類、プロデューサーと良い話はできたか?」
「...ああ、そう...だね。演出面について色々良い話し合いができたと思うよ」
一瞬合った類の瞳の奥には憂いと怒りの感情が隠されているように感じた。類が懇親会の日から司と目を合わせたがらなかった原因はこれか、と思う。他の人は誤魔化せても、長年一緒に暮らしている相手だと隠し事ができないと思い、司に自分の目を見せたくなかったのだろう。
溜息が漏れる。
何年一緒に暮らしていると思っているのだろうか。例え類の瞳を見ずとも、彼が何かに悩んでいるであろうことなんて、初めから気付いていた。
すぐ隣にあるひんやりとした類の手をそっと握る。演出に限らずとも、類に遠慮なんてして欲しくない。どんな想いも感情もちゃんと自分に話して欲しい。
「そうか、それは良かった。...ところで類、プロデューサーはどんな方なんだ?」
「...え?」
数分前に「少しずつ本題に近づけていこう」と決めた割には随分と直球的な質問をしてしまったかもしれない。だが、類の悲しそうな目を見てしまった以上あまり悠長なことは言ってられない。ここで一歩引いてしまうと、また類がひとりで辛い気持ちを抱えたままになりかねない。司より大きな、節くれ立った冷たい手を握っていると、類の心の中に直接触れているような気持ちになる。
「...どうしてプロデューサーのことを聞くんだい?」
「ああ...えーっとだな...その...あ!そうだ!原作だ原作!類のその舞台には原作の小説が存在するだろう?オレは類が演出を手掛けると知ってからその小説を読み始めたが、あのような話を舞台にしようとするプロデューサーの人柄が気になったというか...」
「...」
(何を言ってるんだ、オレは...)
自分で言っておいてなんだが、随分話が飛躍してしまった気がする。たしかに、原作の小説を読んでよりこの舞台に興味が湧いていたのは事実だが、だからといってプロデューサーの人柄まで気になったというのはさすがに無理があった。案の定、類も怪訝そうな顔をしている。
何か言わなければと、司が急いで頭をグルグルと回転させていると、類が何かに気付いたのか、はっとした顔をした後、そっと司の肩に触れてきた。
合っているはずの類の瞳は司を見ているようで、見ていないようだった。
「...もしかしたら、司くんには僕が元気がないように見えているのかもしれないけど、そんなことはないよ。少し仕事が詰まっていて疲れているだけさ。心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ」
「...!だ、だが...」
「司くん、実はさっき手を洗いにいったついでにお風呂を沸かしておいたんだ。もうそろそろ沸き上がると思うから、先に入っておいで」
類に話を逸らされそうになり、何とか食らいつこうとするがまたかわされてしまった。コップをサッと回収され、「後でまた飲めるように温め直しておくね」と笑顔で言われれば、今これ以上追及するのは難しいだろう。とりあえず類にすすめられた通り風呂に入り、そこで作戦を立て直そうと考える。
「...分かった...お風呂ありがとうな、類」
「うん、どういたしまして」
ぎこちない空気に何となく居心地が悪くなり、ソファから腰を上げそそくさとリビングを出る。類がどんな顔をしていたのか、目を合わせることはできなかった。
「...ごめんね。今はまだ、話せないんだ...」
1人になったリビングでポツリと類が零した言葉は誰に届くわけでもなく、ゆっくりと下へと落ちていく。
盗み見た司の瞳は類の目と同じ色をしていた。
***
「はぁ…司くん、やっぱり気付いていたな…」
翌日、稽古場に繋がる長い廊下を重い足取りで歩きながら、類は深い溜息をついていた。昨夜、司の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、2人で交わした会話を思い出す。
たしかに『類が何か悩みを抱えている』ということまでは司に気付かれているだろうと思っていたが、まさかその原因がプロデューサーにあるのではないか、ということまで勘付いているとは思っていなかった。妙なところで勘の鋭い司の顔が頭に思い浮かぶ。
類だって本当は、あの時全部司に話してしまいたかった。辛かったこと、悔しかったこと全部、彼に聞いて欲しかった。
だが、そういう訳にもいかないと類は自分の甘えた考えを慌てて振り払う。少なくとも類が今抱えている舞台の千秋楽を迎えるまでは、このことは隠し通さなくてはならない。もし、知ってしまったらきっと、司は類をひどく心配するだろう。たしかに、互いに悩みごとや困ったことを打ち明け、助け合うことは大切だ。だが類はどうしても、このことについてだけは司に関わりを持たせたくなかった。高校の頃から変わらない、純真無垢な司にプロデューサーが放ったあの言葉は絶対に知られたくない。
それに、懇親会の翌日「反省している」と言ったにも関わらず、あのプロデューサーはまた、昨日の食事会で2人の関係を揶揄した。きっと類が、このことは黙っておくと約束したことに気を良くし、調子に乗っているのだろう。だが、千秋楽が終わったら、次はこの舞台の打ち上げがある。飲みの席でまたあのプロデューサーが絡んできたらその時は、先日録った音声データがあることをほのめかしつつ、打つ手を考えようと思う。懇親会では、突然の出来事だった為、証拠を何も残せていないことが歯がゆいが…。
考え事をしていると、いつの間にか稽古場に着いていたようだ。
とりあえず今は目の前の舞台に集中しようと、扉を開け、中に入ろうとした時、なんだか中が騒がしいような気がした。類が来るこの時間はまだ人が少なく、いつもなら、耳を澄ませば準備をしている声や音が聞こえる程度の音量なのだが、今日はざわざわとした空気が外からでも感じとれる。
(何かトラブルだろうか…)
ドアノブに手を掛け、扉をゆっくりと開くと、そこには、一箇所に集まり何やら話し込んでいる役者達、電話をかけたり忙しなく駆け回っているスタッフの姿──。
何かしらの問題が発生したであろう光景が広がっていた。
ひとまず今の状況を把握しようと、類はちょうど扉の近くにいたスタッフに声を掛けた。
「すまない、今来たところで状況が掴みきれていないのだけれど……何かトラブルでもあったのかな?」
「神代さん!!大変なんですよ!実は…役者の森さんが倒れてきた大道具で足の骨を折ってしまって…」
「え…森くんが…?」
「はい…森さん、自主練の為に今日は早い時間に来ていたみたいなんですが、その時に窓から部屋に鳥が迷い込んできてたらしいんですよ。それで、鳥にびっくりした森さんが後退って、壁に立て掛けてあった大道具にぶつかり……その衝撃音に驚いた鳥は結局窓から逃げていったみたいなんですが、大道具は森さんの足に倒れてきて……」
「骨折してしまったというわけだね」
「…はい…」
準主役の骨折という一大事だが、それでも優秀な類の脳は、冷静に物事を分析していった。
今回の舞台は、特段目立ったアクションシーンは無いものの、足を骨折した状態で舞台上に立つことは難しいだろう。怪我の程度にもよるが、もし骨折によりまともに練習が出来ず、本番に間に合わせることが出来ないのなら、代役を探すことも視野に入れておかねばならない。
もちろん、類の一存で決めることは出来ないため、監督やプロデューサーと相談しながらにはなるが、もし準役者が急遽交代となれば、その理由は仕方無いものにしろ、ファンの動揺は大きそうだ。
「森くんは、今病院かな?」
「はい。先程、呼んだタクシーが来たのでマネージャーと一緒に近くの病院に……怪我の程度等が分かったら、こちらに連絡するようお願いしてあります」
「分かった、ありがとう」
森達からの連絡を待つ間、類は、今現在の状況整理と今後の対応を考えようと、ポケットに入っていたメモ帳とボールペンを取り出した。