私のサルバドル 転機は突然訪れた。死を覚悟し固く目を閉じた刹那、胸部への鋭く冷徹な刺激の代わりに聞き慣れた女性の呻き声を聴覚が拾う。
カランと床に響く刃物の音に続き伝わるどさりと何かが倒れた衝撃、短く繰り返される嗚咽、そして断末魔に未練がましく溢された父の名。それっきり、この廃れたアパルトメントのこぢんまりとした一室から一切の気配が消え去った。
開け放たれた窓から夜風が入り、埃っぽい薄地のカーテンが舞い上がる。その音を聞いて俺は恐る恐る目を開く。
母が、倒れていた。殺意を迸らせた目から生気はもう伺えない。腹部から同心円上に広がる黒緋の先端を追う内に、使い慣らされた形跡の残る男性物の革靴が映る。
俺には母以外の同居人が居ない。嘗ては父と三人暮らしだったが、物心が着く前に姿を消していた。どうやら俺は父の遺伝子を強く受け継いでいるらしく、母と目が合えば必ずと言っていいほどの頻度で暴力を受けていた。
1902