共に暮らす「遅刻しますよ」
暗く静かな部屋に上がり込み、カーテンを開ける。
勢いよく差し込む日の光に、ベッドに沈んだままの人は眉を顰めて唸り声を上げた。
「イス様」
子供のようにむずがる身体を起こし、着替えを用意する。
小さなダイニングテーブルには簡単な朝食をセットした。
寝癖を撫でながら彼はパジャマのままダイニングに歩いて来る。
「早く着替えてください」
「変なの。会長にしてもらう事じゃないよね」
彼が言った。
「変ではありませんよ。これからも今まで通りにお世話をさせていただきます」
そう言うと彼は恐れ多いなあ、などと明るく笑う。
未だにぼんやりしている彼を急かして身支度をさせていると、ふと思い出したように首を傾げながらそうだ、と呟いた。
「チェさん」
「はい」
「ねえ、ウチに住まない?」
「え?」
突然の提案に言葉が見つからず、ぼんやりと精悍な顔を見ていると、彼はそのまま言葉を繋げ始めた。
「会長なんだから、時間に余裕あるでしょ?」
「ええ、まあ」
すっかり身綺麗になった彼は私の両手を取って握った。
「温かい手だね。何度助けてもらったことだろう」
「当然の事です」
彼の父親に頼まれて始めた仕事だったが今となっては人生の一部となっている。
「愛おしい手だ」
「イス様?」
「ねえ、これからは二人でゆっくり過ごそう」
彼は小さく微笑みを浮かべると、私の指先にゆっくりと唇を近づけるではないか。
「何をするんですか!」
驚きと羞恥で素早く手を引っ込めながら彼を諫めると、彼は悪戯っこのように声を上げて笑った。
「からかってないで、早く行きなさい!」
あからさまに動揺した声になっているのも厭わず、彼の尻を叩いて追い出す。
「からかってない、本気だよ」
肩を竦めながら彼は言う。涼やかな瞳が嘘をついていないのは明白だった。
「考えといてよ、ね。というか、今日家に帰ったら荷物ないかも」
「何ですって?」
彼の思い付きはいつも突飛で驚かされる。
門の外まで見送っていると、彼はニヤニヤしながら車に乗り込み、意気揚々とアクセルを踏み込んだ。
思わずため息が出てしまう。
自分の感情に素直な彼が羨ましい反面、この歳になって慕われる事に戸惑いつつもどこか擽ったい。
突き放せないのは自分にもまだそういう感情があるからなのだろうか。
父であり、兄であり、母であろうと決めていたというのに……今になって繊細な少年はいつしか逞しく聡明な青年に変わっていた事にようやく気づく。
夜、自宅に戻ればそこはもぬけの殻だった。
私の意志など素知らぬ顔で、有無を言わせない所は父親譲りのようだ。
携帯の着信音が鳴った。
ディスプレイにはチン・イスの名前が浮かんでいる。
「本当に私でいいんですか」
若者の気まぐれに付き合うには私は年を取り過ぎている。
彼は笑った。
そうか杞憂なのか。
彼の穏やかな声に自然と口元が綻んだ。
がらんどうの部屋を後にして車に乗り込む。
行き先はもう決まっている。