暁を 求める紫煙 煢煢と 沈む月光 行先示す 1「KK」
穏やかで柔らかい男の声が夢現で聞こえる。手を伸ばせば若く張りのある肌がすり寄ってくる。何度も借りた体をこんな風に触れるようになるとは思ってもみなかった。
「けぇけぇ」
あの夜にも聞けなかった幸せそうな声色がオレの心臓を揺らす。家族のこと、あの野郎のこと、渋谷の平和。同じように願ってやまない、この男の幸せをオレが直接与えられるならこれ以上の幸せはない。
「 」
オレの声はオレ自身にも聞こえなかった。
薄っぺらい布団ごと起き上がってから寝て起きたことを理解する。夢を見ていた。どんな夢だったか思い出せない。誰かが出てきた気がするが、ピンと来ない。仕事柄、人の顔と名前を覚えるのは得意なはずだが。
いつまでも考えてる時間はない。
トイレに行き顔を洗い歯を磨き着替えて外に出る。途中で缶コーヒーと煙草を買い職場に辿り着く。
警視庁渋谷警察署。
オレの表の仕事は刑事だ。
少し前までは捜査一課として現場にいたがワケあって今は半歩引いた位置にいる。未練がないわけではない。
元妻子にしてもそうだ。
人々の生活を守るという大義名分にかまけて蔑ろにした結果、気づけば修復不可能なレベルの溝が完成していた。
あの時に捜査よりも行事を優先していたら。プレゼントを買う前に話を聞いていたら。
考えてもキリがないし、今更どうしようもない。
オレにできるのは最近の未解決事件を集めて出てくるキーワードをピックアップして資料を作り署を出て幽玄坂のボロアパートに行くことだ。
「……こうだったか」
指示された手格好をすると錠前に貼られていた札がはらりと落ちる。
人が入ると再び札が貼られる仕組みらしいが理解できん。
モヤモヤしながら中に入るといかにも住居の壁を取っ払って事務所にしましたといった内装が広がっている。泊まり込みもあるのだろう。風呂や洗濯スペースはそのまま、湯を沸かす程度のキッチン、応接間と言うよりも単に寛ぐためにソファーとテーブルとテレビ。
「前と変わってないと思うけど」
来訪者をようやく出迎えた女、八雲凛子が呆れたようにオレを見る。職業病だと煙草を出すとすぐさま禁煙と嫌な単語が飛んできた。
「灰皿があるだろ」
テーブルを指すとすぐさま片付けられる。いや、ラックに移動するのは片付けた内に入らねえだろ。
「今日は絵梨佳が来るの。あの子は学生だから駄目」
この心霊研究所という胡散臭い肩書きの事務所の長が目の前の女であり、大学の教授も兼任しているという男の娘が絵梨佳である。
「絵梨佳もオレと同じ適合者とやらだったか?」
エドと名乗る眼鏡の外国人が何故かボイスレコーダーで語った内容を要約すると『あの世からこの世に流れ込んだエネルギーをエーテルと呼び、それを見たり操れる者を適合者と呼ぶ』そうだ。
適合者の能力には個人差があり、凛子のように『見えるが扱うには札のような道具が必要』なヤツからオレのように『見えるし素手で触れる』まで色々いるらしい。
とりあえずここ数日聞いた内容だけでゲンナリする。
オカルトを全否定するつもりもないが関わりたいとも思わない。
「そっちの捜査にも関わる話だから……ああ、来たわ」
チャイムもノックもなしに入ってきたポニーテールの女子高生は凛子を見てお邪魔しますとはにかんだ。
「お父さんはお母さんを家に送ってから来るって」
「今日定期検診だったわね、順調?」
「うん、次は1ヶ月後でいいって」
絵梨佳の母親、あの男の妻は大病を患っていたが先日奇跡的に快癒した。男の研究が功を奏した、つまりオカルト的な要因があったそうだ。
「刑事さんのおかげだよ」
「オレは何もしてねえんだが」
たまたま事件の捜査で同じ病院に行って、たまたま父娘に会い、たまたま異常に気づいた。それだけだ。
まああのいかにも理系な男はともかく嫁が助かって娘が喜んでるならそれはそれで良かったといったところか。
結果的にオレに引きずられる形で娘も適合者としての能力が開花したのは良くなかったかもしれないが。
「それにオレは事件解決のために動いてるだけだ」
アタッシュケースを見せるとちょうどドアが開く音がして均一な足音が近づいてくる。
「待たせてすまない」
スーツ姿の男は特に急いだ風もなくいつもの落ち着いた調子でオレにソファーに座るように促す。噛みつくのも面倒なのでコーヒーを淹れるという絵梨佳にブラックを頼んでオレは本来は部外者には見せられない捜査資料を広げた。
霧ヶ丘神社周辺で男女が相次いで行方不明になった。
当初二人は無関係と思われていたが、後から調べると高校の同級生だった。しかし卒業後に関わりはなく連絡を取り合った形跡もなかった。監視カメラにも映っておらず、捜査が難航の兆しをみせたある日、二人は忽然と姿を現した。
それぞれ数日間の記憶はなく、神社に行ったことさえ覚えていなかったし、相手の失踪も知らなかった。
ただ女の方は男に良い思い出がなかったらしく、正直憎しみさえあったと言っていた。そう、過去形だ。何も覚えていないが何故か数年の怨みがスッキリと消え、男の方はその事実を覚えていなかったのだが話を聞くとあっさりと謝罪をして和解に至った。
結局事件性を見出だせず捜査は打ち切りになった。
隠天神社周辺で小学生男児が行方不明になった。
調べたところ両親の不仲、日常的な暴力や暴言の応酬があり、少年に直接被害はなかったものの当然家には居辛く、学校にも相談できず家出の線が濃厚となった。
実際少年は数日後に無傷で帰ってきた。未成年者略取の可能性は当然あがったが少年はやはり記憶がなく、ただ久しぶりに楽しかったとむしろ精神的に安定した様子で児童相談所等が間に入り家庭のいざこざも落ち着きそうだ。
渋谷区内で去年の年末から起きていた連続放火の犯人が逮捕された。動機はこれから取り調べるが奇妙なのは逮捕時の状況で、日曜夕方住宅横の倉庫に火を着けようとして強風にあおられ自身に引火、大騒ぎしていたのを住民の女子高校生が発見し通報したそうだ。少女曰く両親は仕事で不在であり、昼寝をしていたそうだが窓がひとりでに開いたため不思議に思い起きて様子を見に行ったところ放火魔に鉢合わせ。その日の予想最大風速は1m程度だったが突如突風が吹いて男は火だるまになったらしい。
男は一命は取り留め、少女や住宅に被害はなかった。
なお男が入院しているのが目の前の父娘の家族が入院していた病院である。
すべての記録を事細かに黙読して男は息を吐いた。
「非常に興味深い」
読み終わったらしい資料は凛子に移動する。悪いがここのガジェットやらには残せないものなので記憶してもらう他ない。まあこの男なら仔細までシワだらけの脳みそに入ったことだろう。
「神隠しか」
文字列に目を走らせながら凛子が呟く。渋谷だけでない、全国で失踪事件は存在し、そのほとんどは本人による家出や自殺または認知症患者の徘徊等で事件性はない。当人が覚えていないというのも本当かどうか怪しいものだ。人の記憶はあやふやなもので本人の無意識下で書き換えたり消去したりすることもできる。
これらの事件も個別のなんてことない出来事だ。
そうとは思えないからオレはこうしていけ好かない科学者に捜査資料を見せたわけだ。
「三件の事象に類似点はない。だがあまりにも有るべき筈の人為的な要素が抜け落ちている」
「妖怪や心霊現象の可能性があるってことか」
コイツとレコーダー野郎は会話が成り立つのだろうか。どうでもいいことを考えるが男はもっとだと胸を張った。
「先程凛子が言った通り、神に近い可能性があるということだ」
「カミなんか信じられるかよ」
妖怪や幽霊でさえも信じていなかったというのに。ああ煙草が吸いてえ。凛子の横から資料を覗き込んでいる絵梨佳が首を傾ける。
「神様の仕業ってこと?」
「神なんているかしら」
凛子も言葉の綾で、神の実在に対しては懐疑的な様子だ。そういえば死後の世界も認めないとか言ってたな。しかし男は仰々しく首を振った。プレゼンをしているつもりなのか役者もやれるんじゃないか。
「神とは我々人間にとって都合のいい偶像ではない。人知を超えた理解不能な存在だ。私は妻の件でそれを感じた」
「で、ソイツはどこにいるんだ?」
できれば外で煙草が吸える場所だといい。
霧ケ丘神社の森は禁足地だ。そこまで広くはないのに迷うだとか、鎌鼬や透明の化け物が出たとか田舎の山みたいな話があるにはある。何にせよ禁煙だ。悪態を吐いて鳥居をくぐり階段を上がる。
禁足地に入るには順番が大事らしい。参道を通り神社で挨拶をする。
獣の声がして足元を見ると狸がいて驚いた。
「何だぁコイツ……注連縄してんのか?」
野生にしては小綺麗だし神社で飼っているとかか?
「こういう場合は……こうだったか」
右手に水のエーテルを集めて地面に落とす。オレの意識をエーテルを媒介とすることで拡散し浸透させ動物や幽霊などの魂を読み取ることができるらしい。
理屈はわからんが狸はオレを見上げて
『自分、前におうたかなー』
と聞いてきた。
「知らねえよ。ここはオマエの縄張りか?」
『とんでもねえ!ワイらはちいとばかし間借りさせてもらってるだけでさあ』
「誰からだ?」
ちりんと鈴の音がして顔を上げると猫が浮いていた。法被を着て算盤を持って二本の尾を揺らめかせている。まさに猫又だ。
『刑事サン、ダメですニャー。あのお方の名前を口にするなんて畏れ多くてとてもとても』
「恐いヤツなのか?」
『いえいえ、とてもお優しい方ですよ』
だからこそ心配なのですニャと猫又は顔を撫でた。狸がしたり顔でオレの足に手を置く。
『自分、あのお方は大事にせえよー。渋谷の守り神やさかい』
「守り神?」
『言わば渋谷のヒーローニャー』
そして狸と猫又に手土産を持たされた。猫又がタダで物をくれるのは怪しいがオレのではなくあのお方への上納品らしいのでセーフだろう。
荷物は増えたが道もわかったので神社の脇から森に入る。獣道を通って割とすぐ目的の祠に辿り着いた。巨大な岩でできた祠の入り口には注連縄と小さな社があり、札で封印されている。
「まあわかりやすくはあるな」
社に描かれた印を結ぶと岩が地響きをたてながらスライドし祠が開いた。ファンタジーすぎるだろ。スマホを確認するが緊急地震速報は来ていない。通報されていないことを祈りながら中に入る。
地上からは巨大な岩だけだったので予想していた通りすぐ急な下り坂になっている。地下に結構な空洞があるのか。そう思って滑落しないように注意しながら下りていくとそこには森が広がっていた。
「いや、何でだよ」
明らかに下りてきたよりも天井が高い。というか恐らく杉と思しき三十メートルほどの樹木の上に空が見える。そのせいで外と変わらぬ明るさだ。気のせいか植物もぼんやりと光っている気がする。森そのものも禁足地と変わらぬ広さだ。何もかもありえない。
「猫又や狸はいなさそうだが……」
生き物の気配はない。鳥もいなさそうだ。ただ風に葉が揺れる音だけがする。リラクゼーションCDのようだが現実な以上薄気味悪い。オレは警戒を怠らず銃でも持ってくるべきだったなと今更後悔しながら注意深く先に進んだ。枯れた川の跡を辿ると小さな洞窟がある。洞窟の中に洞窟とはこれ如何にと問答したい気持ちであるが、そこでようやく植物以外のものを見つけた。
巨大な白銀の毛玉だ。
また動物かとげんなりするがただの猫や狸ではない。
普通の狐の五倍以上はある巨体はほんのり光を放っており、霊視しなくてもタダモノではないとわかる。ケツをこちらに向けているがかなりデカイ尾は恐らく四本ある。九尾の狐ではない。エドに聞けばウンチクがレコーダーで聞けただろうがそれは後でもいい。
コイツが『あのお方』だとすぐにわかった。
確かにこれは妖怪や悪霊がかわいらしく思えるレベルの強大な存在だ。
こちらにケツを向けてゆっくりと全身を上下させているところからして寝ているのだろうから直視できるが、例えばこちらを見て睨みつけられたら委縮して飲み込まれるのを待つしかできないだろう。
そして幸か不幸かあちらはこちらに気付いて体を反転させた。
『んん……お客さん……?』
いかにも寝起きのぼんやりした声、思ったよりも透き通った心地の良い成人男性のような声が全身に響く。
オレはこの声を知っている。
隈取された金色の瞳がオレをじっと見据える。敵意はない。吸い込まれそうなほど今時純粋で真っ直ぐな瞳も、オレは知っている。
見た目は何もかも違うのに、オレは記憶にない、ある人物を思い出していた。
「オマエ……暁人なのか?」
伊月暁人。渋谷のヒーロー。オレのかけがえのない相棒。
ただの人間だったはずのソイツは高位の狐の妖怪になっていた。
んあ、と狐いや暁人は気の抜けた声を上げてオレを見て瞬きをする。
『……どこかでお会いしましたか?』
「覚えてねえのかよ!?」
あの夏の夜にあの男の儀式に巻き込まれて二人で誰もいない渋谷を……!?
思い出そうとすると途端に記憶が散らばっていく。
あの夏っていつだ?今は2021年3月だ。
あの男は誰だ?顔も名前もぼんやりとしている。儀式?オレは……生きている。世の中、大小の事件はあるが世界の危機なんてマンガみたいなことはあり得ない。
二人?オレは誰とどうやって……。
「暁人!」
それだけは忘れないように叫ぶと狐は全身の毛を逆立てた。
『なに?君の名前?』
「オマエの名前だよ!」
『ええ?僕の名前は……』
そこまで言って暁人は洞窟から顔を完全に出すと天を仰ぎ、地を見下ろし、オレを見た。
『なんだっけ?』
「覚えてねえのかよ!?」
二回目のツッコミにえへへ、と照れ笑いをする。
コイツこんなんだったか?もっと逐一オレに言い返すような強かなガキだった気がする。
そう、記憶にはないはずなのにオレは確かに人間だったコイツを知っている。
オレは知っているのにコイツは覚えていない。
『長く生きてるしあんまり呼ばれないから』
「長くってどれくらいだ?」
『えーっと、二千年くらい?』
キリストかよ。ノストラダムスから二十年過ぎているがまあ誤差だろう。とにかくコイツは元の百倍生きているってわけだ。元が何かはさておき。
「おい、寝るな」
こっちが考え事を始めると頭を落ち着かせて目を閉じようとする。
『……起きてるよ』
「オマエずっとここで寝てんのか?」
『ううん……ここは神社と繋がってるから』
のそのそと出てきて、オレの五倍ほどの図体があるのでぶつからないように避けつつ、洞窟の中を示されて覗き込む。
すぐに行き止まりだが鳥居があり、そこから外の世界が見える。これは……広川神社か?
『お話を聞いたり助けたりするんだ。神格を維持しないといけないからね』
なるほど二件の神隠しはやはりコイツの仕業か。確信を持って問い詰めるが本人はそんなことがあったようななかったようなと曖昧だ。
『僕、あんまり外のことは覚えてられないんだ』
「何でだよ」
『うーん、何でだったかなあ。聞いたはずなんだけどなあ』
コイツマジで話通じねえな。
精神の安定のために煙草に手を当てるといいよと狐は目を細めた。
『ここは燃えないから大丈夫』
ならお言葉に甘えさせてもらおう。一本咥えて火をつけると狐は尾を離してペタリと座り込みオレを見下ろした。
『ふふふ』
「……何だよ」
『煙草吸えて良かったね』
そうだなあの夜はオマエの体だから一度も吸わせてもらえなかった。
「いや、覚えてんのかよ!?」
『えっ、何が?』
結局突然『もう帰る時間だよ』と言われて禁足地に戻された。そういえば手土産を渡しそびれたが手元になかったのであの場に置いていったのだろう。そう思っておく。
で、アジトに報告に行くと外国人コンビしかいなかった。
『彼はああ見えて愛妻家だ。勿論娘のことも大事に思っている。多少不器用だが』
「オマエが言うか」
『凛子も本業に忙しい。報告は後でまとめてこちらからしておく。その前に所見を述べるから聞いてくれ』
ボイスレコーダーの時点で聞かない選択肢はないのだろう。ていうか今さっきオレが喋った事実の内容が録音されているとかコイツは未来が視えるのか?
『妖狐にもいくつかの分類があるとされている。まずは単純に善い狐と悪い狐。そして猫又と同様尾に歳を重ね妖力が増すごとに尾の数が変わる。有名なのは九尾の狐だが情報から判断すると君が会ったのはさらに上位の天狐だろう。千年以上生きる神にも等しい存在だ』
アイツは現代を生きる普通の人間だった。なのに何でそんなモンになっちまったんだ?
残念ながらその答えはレコーダーの中にないらしい。
君はどうしたい、と体格のいい方が聞いてくる。
まだ記憶は曖昧で、すべてはオレの思い込みかもしれない。
それでもオレはアイツをあのままにしておきたくない。
『わかった。キミは彼を助けてくれた。今度はボクたちがキミを助けよう』
「大したことはしてねえんだが」
『もし彼の妻が助からなかったら彼は道を踏み外していたかもしれない』
不意にあの夏に存在した般若面の男を思い出した。
いや、そんなまさかな。
今日はアジトに行くと男がいた。呼び出されたので当然ではあるが。
「結論から伝えよう。君の言う伊月暁人という人間は存在しない」
予想していたので特に何の感慨もなかった。
こちらでも職権乱用で調べ尽くしたし、勿論凛子や絵梨佳も覚えていないのは確認済みだ。
「やっぱりそうか」
「頼んでいた資料は完成したか?」
「ああ」
この男の慰めなどハナから期待していないので、さっさとオレのあの夏の記憶のような断片のメモの束を渡す。思い出した時に書き留めておかないとすぐに忘れてしまうので骨が折れた。同じことを何度も書いたことに気づくと自分が認知症になったみたいで嫌になる。もしかして暁人の『外のことはすぐに忘れてしまう』もコレなのか?
男はオレのメモを読み般若かと頷いた。
「悟りをもたらすための真実の智慧、あるいは全てを見通す見識。これから裏の職業の際はそう呼んでくれ」
「アンタがそれでいいならいいけどよ」
本業との兼ね合いもありペンネームのようなものが欲しいとは言っていた。それが『般若』でいいのかどうかは、まあコイツの趣味がいいわけがないな。
「君はKKと名乗っていたようだな」
「イニシャルだろ。ネットに書き込むときのままだな」
「狐殿にもそう呼んでもらうのがいいだろう」
「暁人な……」
この名前も一悶着あった。
あの後も気が向けば禁足地に出向き暁人に会いに行った。気にならないはずがない。
暁人のほうは相変わらず『どなたでしたっけ?』『ああ思い出したうん覚えてるよ』『昨日?何したっけ?』『お土産ありがとうお礼したよ』とのんびりした様子で
「名前は思い出したか」
と聞いても瞬きをしながらゆっくりと天を仰ぐものだから確実に時間の無駄だと判断して首元を叩き意識を戻した。
オレはコイツに触ることを許されている。
コイツは優しいので誰にでも許しているのかと思ったがなまじ強すぎるせいで弱いやつは触るどころか近づくのも厳しいらしい。
因みに般若たちも来たらしいが祠が開かなかったそうだ。勿論コイツは『そうなんだ?何でだろう?』とふにゃふにゃしていたが。
まあ普段ぬぼーっとしてるのは力を抑えているのもあるかもしれない。それとコイツのそばにいるとオレの力も強まるようだ。やはり以前二心同体だったからか。
わからないがとにかくコイツは暁人なのだ。
「オマエは暁人だ。暁の人」
オレは秘かにこの名前が気に入っていた。夜明けをもたらす人間というのは夜にバケモノ退治なんてやってる身にはご利益のありそうな名前だ。そして実際に暁人はオレたちの人生を変えてくれた。コイツがいなければあの夜は明けなかっただろう。
しかし肝心の暁人はうーんと納得がいかない様子で首を傾けた。
『僕は人じゃないから暁人は変だよ』
その事実にイラつくが間違ってはいない。なら暁一字ならどうだと絞り出すと
『アキか……いいね』
と暢気に応えた後に
『あ、でも人間の姿の時は暁人で合ってるね』
などと言うのでオマエは今は狐だろうがとはったおしてやろうかと思った。
経緯を聞いた般若はこれまたしたり顔で頷き名付けは契約だと言い出した。
「彼は強大で元よりの名であるが君が伝えたのは大きい」
「オレはアイツを使役するつもりはねえぞ」
あの夜に色々指示したがそれはオレの身体がないからで、今はオレの方が自由だ。
「そう単純な話ではない」
「単純で悪かったな」
オマエに比べたら世の中のほとんどが単純だろうと思うがオレは優しいので言わないでおいてやる。本当は面倒くさいからなのだが、気づかず般若はホワイトボードに図を書き始めた。
「仮に現在の暁が狐の世界をA世界とし、君の記憶にある暁人が人間の世界をB世界とする」
「パラレルワールドか」
オカルトからSFに変わってきたなと思ったがやはりそんな単純ではないらしいことは般若の表情でわかった。
「それは『異なる選択肢を選んだ場合のifの世界』であり今回の定義には当てはまらない」
般若は丸で囲んだAとBの間にニアリーイコールを書いた後にバツをつけた。オレはアンタの講義を受けに来たつもりはないんだが話を聞かないと物事が進まないというのは捜査でもよくあることなので黙って煙草に火を点けた。
「何故ならB世界は既に存在しないからだ。あの世の境まで潜ることができる私の知人すら認識していない。バタフライエフェクトを加味してもあまりにも違い過ぎる『伊月暁人』の存在を鑑みるにB世界はA世界に飲み込まれ消滅したと私は考察する」
今度は丸で囲んだBを消してAを書く。そしてその隣に狐の絵。ホワイトボードマーカーで写実的に描こうとするな。
「B世界の2021年頃に世界を二千年前のA世界に書き換えたのが『伊月暁人』だ。彼にはその力がある。接触する時はそれを念頭に置くべきだろう」
今があの夜の二千年後だって言うのか!?
般若の言葉に煙草を取り落としそうになった。
暁人のいる世界は人間の世界と神の世界の狭間らしい。入る度に変わる世界にコンビニの前にあるような灰皿ができソファーができテーブルができた。
「いや、手厚すぎだろ」
「えっ!?」
暁人はソファーの後ろを陣取ってうとうとしながら仕事をするオレの匂いを時々嗅いでいたが、ヘビースモーカーのおっさんの匂いの是非はさておき、オレの突然のツッコミにびくりと毛を膨らませた。
「ここにはオレ以外来ないんだろ?」
『うん、何でかなあ』
暁人的には般若や凛子たちを弾いているつもりはないらしい。人生に迷い込んだものとオレだけだ。
『あ、この前、女の人が来たよ。弟さんが呪われていて助けて欲しいってお願いしに来たからお札を二枚あげたんだ』
「ほお……」
ちょうど今ストーカー事件の報告書をまとめているところだ。被害者は当初自分が男で相手が女故に楽観視して状況を放置していた。まあ正常バイアスもあるだろう。しかしそれを見ていた姉が不安に思い弟を説得し警察に相談しに来た。結局第三者から見ても目に余る内容に注意がいき、逆上した女の矛先は姉に向かった。交通事故に見せかけて殺そうとしたらしいが姉の目の前で急にスリップして電柱にぶつかった。調書では姉は鞄からお札が落ちて拾おうと屈んだら車がひっくり返ってと証言したが札は現場から発見されていなかった。
なるほど出所はここだったか。
「よくやったな」
首元を撫でてやると嬉しそうに目を細めた。
本当は動物は何を考えているかわからない上にすぐ牙を向くので好まないのだがコイツは妖怪だし会話ができるしオレには危害を加えないと確信しているのでむしろ人間の時より触りやすい。まあ生身で会ったことがないんだが。
「オマエ、前に人間になれるって言ってたよな」
『そうだっけ?』
言うと思った。
狐のコイツにも大分慣れてしまった。いや、オレはコイツを人間に戻したい……のか?
オレは美しく大きな獣を見上げる。コイツはどうしたいんだろう。コイツが世界を今の形にしたなら狐のコイツがいなくなったら世界はどうなるんだ?
『姿は自由に変えられるよ。どんな人間がいい?』
そうか、オマエ、自分の姿も忘れちまったんだな。
「……言葉で説明してわかるのか?」
オレは何とも言いがたい胸の苦しさを誤魔化して聞いてみる。暁人は想像したのかあーうーと唸って首を横に振った。
『視てもいい?』
「霊視……いや、千里眼か」
この世の全てを見通すという神通力をやはり持っていて、コイツにしては珍しく気を利かせて使わずにいたらしい。
『だってプライバシーの権利とかあるじゃん』
それは妖怪には適用されんのか?
まあ何でもかんでも視られるのは気分がいいものではないのは確かだ。
「今はいいぜ」
暁人の姿を覚えているのはオレだけだ。とはいえ取り憑いていることがほとんどだったので正面からまじまじと見たのは数えるほどだ。
年頃らしくワックスで流した黒髪はオレより少し長く、意思の強そうな眉と吊り目がちの睫毛の長い目元、わずかにエラの張った精悍な顔立ちは女が放っておかねえが家庭環境のせいか浮わついた話は聞かなかった。
幸い体格は似ていたのでいざというときに扱いやすかったし、スポーツはしてないと言っていたが運動神経は抜群に良かった。
腕はよく見たし使わせてもらった。アイツも右手はオレの自由にさせてくれることが多かった。同時にその手で犬猫に触るので悪寒が走ったものだったが。
成人しているがまだ若い真っ直ぐな指と綺麗な爪だった。野郎の手に興味はないが昔のオレもこんな手だった気がした。
それから胴体は記憶にない。よく食っていたが胃はどうなってたんだ?あの夜のあの体が特別だったのか。冥界の飯も食ってたしな。下半身はバイクに乗ってるだけあって肉付きが特に良かった。ん、コレはセクハラか?いや、いやらしい意味ではないはずだ。
何にせよ全裸を見たわけでもないし、オレの記憶だけでいけるのか?
「んー、こんな感じ?」
しかしソファーの背もたれから覗き込んできたのは間違いなく『伊月暁人』だった。
「あれっ、泣いてる!?」
何か間違った?と伸びてくる手を捕まえて、煙草を灰皿に捨てると上下逆さまのまま暁人を抱き締めた。
しばらく抱き締めていると暁人の四本の尻尾が左右に揺れだした。
尻尾は消えないのかと聞くと見えにくいようにはできるけど消せるのは更に格上の空狐だけだと返ってきた。
「どうやったらそれになれるんだ?」
「あと千年くらい待ってくれたらなれると思うよ」
千年か……10回くらい生まれ変われそうだな。
腕を引いてソファーに座らせる。コイツこのまま押し倒して抱けそうだな。
流石に犯罪なのでしないが。妖狐に法が適用されるかどうかはさておき。
それに猫又と狸、般若の野郎の忠告も忘れてはいない。
もしかしなくとも暁人が嫌がって妖術を使われるとひとたまりもない。
元々小細工は苦手なので正攻法で攻める。
「オレはオマエが好きなんだが、好きってわかるか?」
えっ、と頭からぴょこんと狐耳を出して、コイツ前からだが全部口と顔に出るな、神妙に頷いた。
「交尾して子どもを作りたいってことだろ」
「若干飛躍してるが、まあ番になるって観点では合ってるな。で、オマエはどうだ?」
大事なのは暁人の気持ちだ。嫌われていない自信はあるが、恋愛感情かと言われるとまた別だ。それにそもそもコイツに恋愛感情があるのかも怪しい。
あの夜に比べて全体的にふわふわしてるのは二千年生きたせいか。
心配していたが暁人はオレを真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「僕は貴方のことが好きだよ。たくさん遊びに来てくれて、たくさん話して、触って、褒めてくれる。今までそんな生き物いなかったから」
やはりそれが恋愛感情かどうかは微妙なラインだ。それでも脈アリと思っていいだろう。
本人の言う通りそもそもそういった対象がオレしかいないという事実もあるが。
しかし暁人はオレの心を見透かすようにわずかに上目遣いで問うてきた。
「でも貴方の好きな暁人は本当に僕?」
鋭いのは相変わらずか。オレも顔に出てしまったらしい。耳と尻尾がぺたりと倒れた。
「悪い。オレ自身もまだはっきりわかってねえんだ」
確かにあの夜の暁人に惚れた。
それまでオレは異性愛者で、多分今でもそうで、それだけあの夜は異常で、オレたちはお互いに深くまで混じりあってしまった。
今の暁人は確かにあの夜の暁人とは大分違うが、二千年妖狐として生きてきたからで別人になったわけではない。
大体あの時の暁人は生き延びることと妹に会うこと、それに魂や幽霊や妖怪や犬猫を助けることに必死だったから平時はもっと違う印象だったかもしれない。
いや、そんなことは関係ない。
「オマエはオレをこの場所に受け入れて煙草も吸える居場所を作って話を聞いてくれる。それで十分じゃねえか?」
「そうかな……?」
そうだと応えれば耳と尻尾が起き上がっていく。これが愛おしいってやつだろう。
「オマエはこの世には住めないのか?」
「僕は人間じゃないよ?」
「この世に妖怪が隠れ住んでるのは知ってるだろ。それにオマエは妖狐になる前は人間だったんだよ。覚えてないか?」
暁人は大きな目をぱちくりさせて、妖狐になる前、と繰り返した。
「考えたことなかった」
だろうなとオレは笑う。あの夜は長いようで短くて何もかも知ったつもりになっていただけで、オレもオマエも考えなきゃならないことはまだまだあるようだ。
「時々こっちに来てたんだろ。この書類ができたらデートしようぜ」
「デート!?」
顔を赤くして飛び上がった暁人に感じるのはやはり愛おしさで、少しでも長生きしなくてはならないと気持ちを改めた。
折角人の姿なのでキスしてもいいか聞くと顔を赤くして眉を八の字にするので煙草を吸ったばかりなのを思い出した。
「禁煙するか」
「な、長生きはして欲しいけど僕はKKの匂い好きだよ!」
そういやさっきも嗅いでたな。風呂と洗濯はちゃんとやろう。
「口も苦いぜ」
「あう……でもしたい」
そうか恥ずかしいだけだな。理解したので手を伸ばして頬を撫で、人の耳の裏をくするぐるようにして力が抜けたところで後頭部を押さえて引き寄せる。
薄い唇を啄んで「ふあ」と間の抜けた声が出たところに舌を捩じ込んだ。牙は尖っていなくて安心して口の中を舐め回す。特に味はしない。経験不足な舌が彷徨っているので裏側から重ねて擦るとビクビク身体が震えた。
「うっ、ン、んふ~~~はあっ!」
限界そうなので放してやると先程よりも真っ赤な顔で深呼吸する。妖怪も呼吸が必要なのか。オレがエドや般若ほど研究熱心じゃなくて良かったな。
「オマエ、今まで恋人とかいなかったのか?」
「いないよ!求婚されたことはあるけど僕はずっと……ずっと……?」
段々暁人の目が虚ろになって声に力がなくなる。覚えてないパターンだ。オレもこんな風にあの夜のことを思い出しては忘れてるのか。
「無理して思い出さなくてもいいぜ」
「ううん、きちんと覚えていたいし、思い出したいんだ」
そうだ、あの夜もオレたちは同じ方向に向かって走っていった。オレは駆け抜けて満足して消えて、オマエはまだ走り続けるはずだった。
オレが眠った後に何があったんだ?
ずっと変化しているのは疲れると暁人は狐に戻り再びソファーの後ろを陣取った。
「デートするんじゃなかったのか?」
『貴方はヒト型の方が好き?』
それより名前で呼ばれた方がいいなと言えば危険だと返ってくる。そりゃあ本名はそうだろう。コイツなら名前を呼ぶだけで思いのままにできておかしくない。
「イニシャルでいい。知ってるだろ」
『……KK』
ああ、そうだ。あの夜何度も聞いた声に安心感と罪悪感がわく。
『大丈夫、僕もKKって呼ぶと安心する』
「心を読んだのか」
『顔を見ればわかるよ』
ふはっと大きな口から小さな息を吐いて笑う。
オレが大事にしているように、覚えていなくても暁人の中にも確かにあの夜の記憶があるようだった。
「不思議だな。妖怪なんか最近まで見えなければ好きでもなかったのに……いや、おかしいな」
前のオレはガキの頃から色々見えて親に信じてもらえず祖父を頼り身を守る術を教わった。祖父が死んだ後は見ないフリも上手くなってきて一人でどうにかこうにかしていた。
今のオレも適合者だ。なのにガキの頃は何もなかったなんて不自然じゃないか?
差異があるなら基本的に目の前にいる天狐が大きな要因だ。
「もしかしてオマエ、ガキの頃のオレに何かしたか?」
『えっ……したっけ?』
まあそうだよなと新しい煙草を出す。
神格を維持するためには善行を積む必要がある。だからコイツは今まで神社に来た人や動物や妖怪を助けてきた。
そうだオレもじいさんと神社に行って「何とかしてくれ」と小銭を投げなかったか?
金にも銀にも見える毛玉が鳥居から出てきてオレの頭を突っついて
「何とかなれはねえだろ!」
『ええ!?僕は何とかなりますようにって言ったよ!』
同じだ馬鹿、と両耳の間の毛をかき混ぜるようにすると僕は馬でも鹿でもなく狐だよと屁理屈が返ってきたので耳を引っ張ってやった。