「おや。まだ起きているのですか?英智」
不意に耳に入ってきた愛しい声に、僕は思わず振り返った。
「……渉」
虚を突かれて反射的に名前を呼ぶ僕に、彼はクスッと笑う。
「ほら、ご覧なさい。時計の針は、既に丑三つ時__魔が最も力を持つ時間帯をさしていますよ。夜闇が支配する空間で彼らに逢ってしまうのはあまりにも危険です」
バルコニーつきの大きな窓から月明かりがさすだけの薄暗い部屋の中。闇に紛れるように現れた彼は、静寂を優しく溶かすような歌声で言葉を紡いだ。
凛とした紫水晶の瞳と長い銀髪が月明かりに照らされて鈍く光っているその姿は、まるで一つの絵画のようだった。そう、見た者の足を止めて虜にしてしまう。ゾッとするほど恐ろしくも美しい芸術品。
数秒前までは確かに、この部屋には時を刻む音だけがやけに大きく響いていたはずだ。ぼんやりとしていたから彼が扉を開閉する音に気づかなかったのか。それとも、最初からそんな音は鳴っておらず、別の方法で入ってきたのだろうか。なんにせよ、その奇術師はいつの間にか僕の目の前に立っていた。
近くにあった部屋の置き時計に触れながら語るその姿は、寝巻き姿にもかかわらず、さながら不思議の国へと誘う白うさぎのようだ。神出鬼没でミステリアスな所も相まって、きっとどんなアリスも不思議の国へと簡単に誘ってしまうのだろう。勿論この僕も。
「逢魔が刻って? それは夕暮れだよ、渉」
「おやまぁ。意地悪言わないでください。こんな時間に貴方に何かあったとしても、私はお護りできませんよ」
生憎夢の中での小旅行を満喫しておりますので、と続ける彼に、ちゃんと来てくれる癖に、とだけ返す。どうやら、彼は僕に寝てほしいらしい。
常日頃からバラの花弁を振りまいているとはいえ、彼の言の葉にここまで刺があるのは珍しい。きっと僕を心配してくれているのだろう。彼はそういう人だ。
「……そうですねぇ。ですが貴方に何か起こる前に間に合いませんよ」
「なら僕がそれに間に合う便を用意するよ。そうすれば君が飛んできてくれるだろう? 飛行機や船よりももっと速い物が良いよね。呼び鈴と目覚まし時計とスマホ、どれがいい?」
咎めるような言葉に僕も負けじと応戦すると、彼はAmazing! と両眉を上げた。
「そんなものを用意するくらいなら、最初から私と共に旅行すればよろしいでしょう。いかがですか?」
ほぅ。そうきたか。
さらに返ってきた言葉に、魅力的なお誘いだね、と優雅に微笑んでみせる。どこからか現れた赤い薔薇を差し出して素敵な招待状を書いてくれた彼に、僕もお返事をしなくてはね。お待たせするのは申し訳ない。
「でも残念ながら、僕はそういう薬は飲まないよ。既に他の薬を大量に飲んでいるしね。これ以上はごめんだな」
芳しくない返信を受け取った彼は、おやおや、と肩を竦めてみせる。
「ああいえばこう言いますねぇ。tripですか?」
「うん、小旅行と薬をかけてみたんだ。君をリスペクトしてね」
「まにあう」をかけただろう?と答えを提示してみせると、彼は少しだけ得意そうに笑う。
「英智はそういうのお好きでしょう?」
「うん。君も好きだろう?」
僕も不敵に笑い返してみせる。
「はい。大好きですよ、英智」
「ふふ、僕もだよ。渉」
__ああ。なんだか、それこそ上手く言葉で表現できないけれど、僕は今とても幸せだ。君と会話したからかな。なんてことない会話だというのに、君は本当に素晴らしい魔法使いだよ。
これは、ますます眠ってなんていられないね。今なら一日中ワルツを踊りあかせてしまいそうだ。
金色のスポットライトに照らされて、落ち葉に彩られた暗闇のダンスホールで天体観測をしながら三拍子のステップを踏んで、あれがオリオン座で、あっちはこぐま座で、なんて語り合うんだ。2人でオリジナルの星座を作り出したって良い。ロマンチックだと思わないかい? 渉。一曲どうかな?
なんてね。お手をどうぞと誘われ手を差し出したが最後。今の君には、そのまま夢の中へとダイブさせられてしまうだろうね。
「さて。そういうことですし、一緒に夢を見ましょうか! 英智」
「そういうこと? どういうことだい? 僕は夢より月が見たいな。見てほら。綺麗だよ」
今夜は満月。冬場で空気が澄んでいることもあるのか、都会なのに空には星がいくつも散りばめられている。まるで宝石箱だ。あぁ、なんて綺麗なんだろう。そこに重厚な幕を下ろしてしまうのはあまりにも勿体ない。
カーテンに手をかける渉に感動を伝えると、見えませんよ、とぶっきらぼうに応戦してくる。
「意地悪だねぇ」
「先に意地悪をしたのは貴方ですよ。それに。そんなもの、今更目で見なくても分かります」
「え?」
「月は、ずっと前から綺麗でしたから。貴方もそれを知っているでしょう? 英智」
「……た、他意はない、よね?」
不敵に微笑んだ彼に思わず答えを問おうとすると、白うさぎは楽しそうにフフフ、とだけ笑ってみせた。
「どうでしょう? さぁ、良い子は寝る時間ですよ。毛布を被ってください。身体が冷えてしまいますよ」
「……じゃあ僕は悪い子だから寝なくていいね」
嫌だねぇ、反射的に意地を張ってしまう。今の僕は、自らを寝かしつけようとする母親にただをこねる幼児のようなものだ。
でも、たまにはわがままも許してほしい。今は眠りたくないんだ。僕はもっとたわいない話をしていたい。
どうして夜更かしをしていたかなんてもう忘れてしまったけれど、今この瞬間夜更かしをしたいのは、君のせいなんだよ。責任とって最後まで付き合ってくれたっていいだろう。
君は帽子屋さんではなくて白うさぎさんだったかな。なら、僕が帽子屋だ。「狂ったお茶会」は永遠に終わらないものだろう? 君は知っているはずだよね、渉。
「まったくあなたという人は……では、私は良い子だから寝ますね」
「……そう。おやすみ」
そうだ。僕は知っている。君が白うさぎだということを。永遠に続くお茶会を一緒にしてくれないということを。僕は所詮、どこまでも帽子屋なのかな。
「おや、英智。僕を置いていくの? って言うべきところですよ」
予想外の渉の言葉に、思わず顔を上げる。
「……言っていいのかい?」
「言いたくないですか?」
「そ、それは……」
言葉を詰まらせる僕に、渉は、それは? とオウムのように返してくる。白うさぎなのかオウムなのかハッキリしてほしいな。オーディエンスが混乱してしまうよ。配役は重要だろう。
「……質問に質問で返さないでほしいのだけど」
「フフフ、夜更かしする悪い子には、サンタさんからの意地悪をプレゼントいたしましょう」
「別に悪い子で良いけどね。クリスマスはまだ先なのだから」
そこまで口に出して、ふと気づく。
ダメだ。きっと今の僕は、ああ言えばこう言うを体現している。変に口が回って可愛くないね。
あの渉が今は僕にそんなことを言ってくれるだなんて、それこそおとぎ話みたいなのに、それが現実なのだから驚いてしまう。僕が受け取ってしまってもいいのだろうかと、どうしても考えてしまう。あんなに実感したというのに。
我ながら、僕って本当に面倒くさいね、と嘲笑したくなる。
「ふぅ、困った人ですねぇ……! 残念ですが、もう貴方との言葉遊びにお付き合いするつもりはありませんよ。そろそろ本格的に、数時間後に事務所で代表としてお仕事なさる貴方が心配になってまいりましたので」
あの時以来、渉は前よりも分かりやすくぶつかってきてくれるようになった。と思う。愛に鈍感な僕にもわかりやすいように、ストレートに愛を表現してくれている気がする。
「ええ、付き合いが悪いなぁ……」
「悪くて結構ですよ。そういった分野は元々得意ではありませんから」
強引な笑顔で、決して僕に有無を言わせない。でも僕にとってそんな存在はとても貴重だということを、僕は誰よりも理解している。
「……それに、貴方はどうやら勘違いしてらっしゃるようです」
「え?」
言葉の意味が分からなくて、思わず首を傾げてしまう。
「ええと、どういう意味かな?」
「私は良い子だから寝ます。ですが、今夜はもう自分の部屋には戻りませんよ」
「えっ?……………そ、それって」
頭の中に一つ浮かんだ可能性。いや、さすがにそんなはずはないだろう。でも、あるのだろうか。だって考えられる可能性なんて、一つしかない。
「ちなみに、もう10月ですので、私は今から外出する予定なんてありませんよ。英智」
精巧なフランス人形のような紫水晶の瞳が、僕を真っ直ぐ射抜いてくる。それはとても静かな声だった。
「あなたが今私にしてほしいことが、私が今あなたにしたいことです」
愉しげに肩をすくめる恋人は、まぁあなたのそういう所、私は嫌いじゃないですけどね、と続け、不敵に微笑んでみせる。
「そういう所含め、あなたのチャームポイントですから」
全てを包み込むような柔らかい声。うん、分かるよ。君が僕に言ってほしいこと。僕が君に言いたいこと。僕だって少しは分かるようになったのだから。
「一緒に寝てくれる……? ここで」
「ええ。ようやく素直になってくれましたね」
貧弱でかっこ悪い僕の声に、渉は眉を下げて笑った。
「もとよりそのつもりですよ。貴方はもっと傲慢になってよろしい」
小さい声だったのに、渉はどうやらきちんと聞き取ってくれたようだった。ねぇ、渉。君はいつだって、古びたレコードのクラシック音楽を嗜むような顔で、掻き消えそうな僕の心の声にそっと耳をすましてくれるよね。君は知ってるかな。僕はそんな君にいつも助けられてるんだよ。
「……うん。ありがとう。皇帝なのに、僕って変な所で」
「おやおや? これからワルツを踊りたいのなら、夢の中でいたしましょう」
さぁ。お手をどうぞ、英智。
言ったそばからネガティブになりそうな僕の言葉を遮ってそうやって差し出された手は、長くて綺麗で角ばっていて、貧弱な僕のそれよりも少しだけ大きくて。手を重ねて軽く握ると、しっかりと握り返してくれた。と同時にそのまま強く手を引かれて、フカフカな雲の中にダイブさせられる。ああ、なんて温かいんだろう。
「おやすみ」
「フフ。ええ。おやすみなさい。良い夢を」
目を閉じると、優しい口づけを落とされる。
なんだか、王子様が眠り姫の呪いを解くみたいだね。僕達は今から眠りにつこうとしているというのに、何とも変な話だ。
まぁ、僕達は王子様でも眠り姫でもない、ただの男の子なのだから。口づけで眠りについたっていいだろう?
おやすみ、渉。良い夢を。これからも、この現実で一緒に見ようか。ずっと隣でね。