イカロスの渇望 生まれてこの方本気で人を好きになったことがなかった青年の。これは強烈なまでの渇望だった。
どんなに思っても届かないのかもしれない。
無意味かもしれない。
だからこそ。手を伸ばし続けることに意義がある。
彼がそう説いたように。
青年は誰に求められることがなくともこの戦場に立つ。
そこに自分を肯定してくれる人々がいるからでは決してない。
自身を神だという人々もいるが、神ではない。ただの人だ。
神と崇める者たちは知らない。何度も失敗を重ねてハズレを潰していく作業があるのだと、それに目を瞑っているだけだ。成功など結果論にしか過ぎない。
『失敗は成功の元と言うじゃないか。うんと失敗して失敗して失敗して最後に生み出したものが成功じゃなくとも。挑戦には意義がある。君は続けたときにその尊さに気付くだろう。だから続けなさい。アルバート』
『コノエ先生』
幼い頃の記憶が蘇る。
(だから私は恐れない。何千何万の試作品が潰えようと珠玉の逸品を生み出すために何度だって挑戦する)
一人の技術者としての決意だった。
アルバートはコンピューター画面に写し出された図面とにらめっこを続ける。
それは彼に対しても同じだった。
幾度も幾度も愛の告白を敢行してきたが彼への心が折れることはけしてなかった。例え掌から零れ落ちる砂粒とて掴み続ける。アルバート・ハインラインは実に執念深い男だった。
本人にしてみれば偏に恩師の教えを守っているに過ぎないのであるが。
彼が翼を授けてくれる限りアルバートは何処までも飛ぶのだろう。地位や名誉など些末なこと、どうでもよかった。
彼に与えられた翼で何処までも、例えイカロスの羽根であろうと飛べるのだ。太陽に身を焦がされたとしても本望ではないのだろうか。
コノエという太陽に焦がされたのはアルバートの方だったが。
アルバートのただ一つの太陽、アレクセイ・コノエ。
――太陽に手を伸ばし続ける。例え届かなくとも
それだけがアルバートにできる唯一だった。
いつか彼に認められる男になる。それが細やかな夢であった。
深夜、人気のないブリッジに明かりが灯っている。
そこには作業に打ち込んでいるアルバートが一人画面相手に難しい顔をしていた。
コノエはアルバートを咎めるでなく優しく諭した。
「熱心なのはいいが。根を詰めすぎてはいないかね」
「ですが。この新兵器は私にしか完成できない。替えなどきかない」
「そうまでして…」
アルバートの足元には何本かの栄養ドリンク剤の空き瓶が転がっていた。
食事もままならないのだろう。
「私が授けられた翼で今度は准将に翼を授けるのです」
「そうか。君はこうと決めたら融通がきかない男だということは承知しているよ。だから好きなようにするといい」
彼はいつも相手を慮ろうとする。持って生まれた性格がそうさせるのだろうか。
元来慈しみ深い男だった。
またそんな所に心惹かれるているアルバートであった。
彼の懐は深海より深いのではないかと疑うほどだ。
「アレクセイ。貴方はいつも私の理解者でいてくれる。その信頼がどれだけ得難いものであるか。いつも部下を罵倒している私にはわかる」
「君はもう少し部下に優しく接したらどうか?」
「私はスタンスを崩しません」
「やれやれ。それはそうとして。仮眠ぐらい取ったらどうだ」
アルバートの目の下のクマが酷かった一体何徹目なのだろうか。
「ならば…肩を貸して頂けませんか?」
「肩?」
コノエは不思議そうな顔をした。それなら自室に帰って仮眠を取ればいいはずである。
「貴方の傍ならすぐに寝付けそうだ。仮眠を取ります」
「私で良ければ。肩でいいのか?」
アルバートは少しでも彼に触れていたかった。その願望が素直に口から出てしまう。
「できれば膝がいいです」
子供じみた懇願にコノエがクスクスと笑う。
幾つになってもコノエにとってはアルバートは教え子であり子供であるのだ。
「いいだろう」
二人は仮眠室まで移動した。
簡易ベッドに腰を掛けたコノエの膝には見たこともないくらいあどけない顔の青年アルバートが体を丸めて横たわる。
彼に毛布を被せたコノエは壁を背もたれにして寄りかかった。
「子供の時だって膝枕をしてもらったことなどないのに。こうして貴方にしてもらえるのは贅沢以外のなにものでもない」
コノエの太ももはほどよい硬さであった。枕は硬めでなくては寝られないアルバートにとっては抜群に心地いいものであった。
「そんなに褒めてもらっても何も出ないんだけどな」
とコノエは嘯く。実際膝枕で喜ぶのはアルバートくらいだった。
暫くするとアルバートが寝息を立て始めた。
彼が寝たと思ったコノエは独りごつ。
「そろそろ私から卒業してもらわなくてはいけないね。アルバート」
「嫌です。貴方こそ早く僕の告白を受け入れるべきなんだ」
コノエが恨みがましそうな表情をする。アルバートはまだ寝てはいなかった、薄目を開けて横になっている。
「狸寝入りかね…」
「私はあと何年待てばいいのですか……そうのちジジイになりますよ」
「私の方が先にジジイになるから心配いらないよ」
などと軽口を叩く。
「そしたらジジイになった貴方を抱きます」
ムキになったアルバートがコノエに食って掛かる。
「懲りない男だな」
「ええ。諦めが悪いのが取り柄なので」
以前から何度も交わされてきた会話だった。アルバートは隙あらば彼の気を惹こうと言葉を紡ぐ。いわゆるモーションを仕掛けていた。しかしコノエが真剣に応えた試しはなかった。
アルバートは相手にされていないのを承知でコノエに踏み込む。でなければ成就など程遠いからだ。つなぎ止めておかねば幾らでもかわしてしまう、もとより飄々たる男だからだ。
「全くだ」
「ようやく貴方も私の執念深さに気が付かれましたか」
「寝なさい」
低い、だけれども優しい声音でアルバートに言い聞かせる。
「……興奮して寝付けなくなったみたいです」
「子守唄でも唄うかね」
「結構です」
「……」
「私は貴方に認められるに足る存在になりましたか?」
「充分過ぎるくらいにね」
コノエは目を伏せて微笑んだ。コノエからこれ以上ないほどストレートな解答が返ってきた。それは彼はとっくにアルバートを認めているという意味だった。
「ならば」
「私は恋だの愛だのには疎くてね」
「では私はこのまま生殺しですか」
「このままじゃイヤかい?」
コノエにとってこのまま師弟関係でいるのが都合がよかった。上官と部下という建前もある。もしアルバートの愛を受け入れようものなら今まで築いた信頼関係全てが崩れ去ってしまうのではないかという懸念があった。それほどまでに恋情という儚い物語に疑心を募らせていた。
二人の瓦解を恐れているといってもいい。
「貴方が欲しい。ずっと幼い頃から熱望してきた。先生が言ったんじゃないか。『挑戦には意義』があると。貴方は私の願いを挫くのですか?」
「そんな昔の言葉を…」
「私が後生大事にしている言葉です」
辛い時も過酷な状況下でも彼の言葉によって支えられてきたアルバートである。
天才と謳われた男にも当然苦悩はある。妬み嫉み、足の引っ張りあいに巻き込まれることもあった。技術が盗み出されるときもあった。理論上は可能なのに上手くいかないこともあった。
だが挫折だけはしなかった。
それは偏にコノエの言葉があったからだ。
「人の心は移ろいやすい。絶対なんてないんだ。恋も愛も蜃気楼かもしれない」
「随分臆病なんですね。流石に逃げ上手といわれるだけはある」
苛烈な軍隊において進めば極楽引かば無限地獄とは一体だれの言葉であったか。大戦中そのようなプロパガンダは確かにあった。そのせいで人死にを増やしたといっても過言ではない。コノエのように戦略的撤退が後に非難されることになるとはそれほどザフト軍が追い詰められていたとも言える。
コノエにできたことと言えば人的損耗を最小限に抑えるために犬死を防ぐ、詰まる所常に敗戦の空気を嗅ぎ取ることこそ最重要任務だった。だが他人が口で言うほど撤退戦は甘くない。敵は死にもの狂いで追ってくるそれを掻い潜るのは容易ではなかった。
どの様に言われても生きて帰ることこそ軍人の本懐であるとコノエは思う。自分は幾らでも泥を被ってもいい。元よりその覚悟だった。
大戦の記憶が蘇って少し陰鬱な気分になる。
「どう言われても構わんよ…私は」
「貴方はもっと自覚するべきだ。深く愛されるに足る人格者だと」
「笑ってくれ」
「これは宣戦布告です。冗談でなくいずれ貴方を抱きます」
アルバートは相変わらず強気な応えを返す。
「……随分と挑戦的じゃないか」
コノエは鼻でせせら笑う。
「貴方の教えに忠実ですから。私は手を伸ばすのをやめません。それが月でも太陽でも貴方という存在でも」
「果たして君にできるかな」
これは最早己のプライドを賭けた勝負だった。
どちらが先に音を上げるかの。
「貴方を堕として差し上げますよ。アレクセイ・コノエ」
青年の愛はジリジリと男を焦がす。気付かないのは本人だけだ。
「私の膝枕で言う台詞ではないね」
アルバートは欠伸をゆっくりと噛み殺すと眠気に耐えられなくなったのか目を瞑った。
「愛してます……アレク…セイ」
アルバートは今度こそ深い微睡みの底に落ちていった。長い睫毛が影を落とす。
「君は知らないだろうね。私も。果敢に挑む君が好きだということ」
「………」
「やっと寝たか。君の見ていない所では言えるのにね」
コノエはアルバートの柔らかい幾らか癖毛の混じった髪をなぜた。
こんなに近くで寝顔を見るのは初めてだった。
昔教えを授けた少年と寸分違わないあどけなさで今コノエの膝で眠っている。
あの頃はコノエの半分の体格だったというのにいつの間にこんなに成長していたのだろうか。驚かされる。家という鳥籠の中にいた少年が立派に羽ばたいてしかもコノエのことが好きだと言うのだから。全く不可思議なこともあるものである。
所で太陽に羽根を焼かれたイカロスはまっ逆さまに墜落して死を迎えたが。アルバートは違う。蝋の翼が使えないのならば機械仕掛けの翼くらい開発するのだろう。
一説にはイカロスは自身の慢心と無謀に負けたのだという。が別の説によると負けたのではなく彼は勇気を持って向かったのであったとも。
アルバートの勇気はとうの昔に男の心を融かしていた。
とっくに太陽に手は届いていたらしい。
知らぬは本人だけという。
「このままでは私が勝ってしまうぞ。アルバート」
終