「♪♩♬♩♫〜〜……」
書庫の棚の前に立って資料整理をしていた徐庶は、何となく曲を口ずさんでいた。何日か前に街で耳にした演奏が印象的だったのか、メロディが自然と鼻歌になって出てしまう。沢山あった仕事が片付いてきて、気が抜けていたのかもしれない。
ふと気配に気付いて横を見ると、いつからか通路側に法正が立っていて徐庶の方をじっと見ていた。外の光で若干逆光になった彼の姿に少したじろぐ。
この人に鼻歌を歌ってる所なんか見られてしまうなんて……
徐庶は法正のことが少し苦手だった。
諸葛亮と彼の反りが合わず空気がギスギスした時は仲裁役になる場面もしばしば、用があって何言か言葉を交わしたこともある。しかしそれ以上はあまり関わりたくないと、苦手意識を持つ男だった。
「おや、失礼──」
法正はそう言って緩慢な足取りで歩いてくる。
そして徐庶が書簡を整理していた付近へ引っ掛ける様にして、手を置いた。出口への道を塞ぐ様に。
「俺もこの段に用があったものですから」
徐庶は口内の唾をゴクンと飲み込んで気持ちを落ち着かせる。至近距離で見る法正に迫力を感じた。自分の方がいくらか背丈はあるが、そんなもの誤差でしかない。そう感じて、余計に萎縮してしまう。
「……それより徐庶殿、先程は邪魔をしてすみませんでしたね」
──用を済ませて早く戻ってほしい。
徐庶はそう願った。
邪魔って、鼻歌のことかな……俺は困ってないので、大丈夫です。
すると法正が突然、さっき徐庶が口ずさんでいたメロディを耳元で真似して歌ってきた。低く艶っぽく聞こえてくる、苦手な男の鼻歌。徐庶は何故だか、ひどくゾクゾクした。絶妙に音量が小さく、囁かれているみたいなくすぐったい感覚に戸惑いを覚える。
何も出来ずそのまま徐庶が立ち尽くしていると、やがて法正は歌うのをやめて尋ねた。
「この後はどうなるんですか?」
徐庶が先ほどまで口ずさんでいた所までをその場で覚えたようだった。一体いつから居たのか。徐庶は怖くなった。
「え、ぇと……どうでしょうか。忘れてしまいました。俺も普段は鼻歌なんて歌わないので」
上手く返せたと思った。この人が何を考えているのかは分からないが、これでどうにか引き上げてほしい。そう考えた矢先の事だった。
「へぇ……では、もう一度さっきの、お願い出来ませんかね。綺麗な曲だと思いまして。徐庶殿のそのお声で、もう一回お聞きしたいんですよ」
ドスの効いた声でそう詰め寄られて、徐庶はさながら肉食動物に首根っこを掴まれた草食動物だった。もう一度歌え、と言われても。
今この書庫には徐庶と法正以外は誰も居なかった。二人きりだ。それでも恥ずかしい。どうして俺がそんな事をしなければ……
徐庶は文字通り身動き出来ない状態だったのだが、法正は徐庶に指一本も触れていない。腕で通せんぼをしている事を除けば、ただ悠然と徐庶を眺めているだけだった。
「お願いしますよ……かれこれ二日、寝ていないものですから──貴方の歌う声を聞けたら、お望み通り速やかに帰ります」
徐庶はギクっとした。そこまで顔に出ていたか。しかし、背に腹は変えられぬ。そして、促されるままに要望に従った。
逃げる様な気持ちで目をつむって、口ずさみ出す徐庶。すると程なくして法正も同じメロディでその声に合わせてきた。徐庶の声量に寄り添って少し控えめに抑えられた優しい声。徐庶の眉間に寄せされていたシワが、段々と薄くなっていく。気が付けば、歌うのを中断したその先まで思い出して口ずさんでいた。法正は当然さっき耳にした部分以降は知らないので、徐庶のその鼻歌に合わせて適当にメロディを作って歌う。
そうだ、そういえばこんな曲だった。曲を最後まで歌って徐庶が目を開けると、法正は楽しげに言った。
「覚えてたじゃないですか。そういう調べでしたか」
徐庶殿は綺麗なお声をしておられる、と囁かれて、徐庶はかあっと顔を赤くした。
俺は、どうしてこんな事をしてしまったんだ…………本当に恥ずかしい。それに、俺の声が何だって?ただの男の声だ。それを言うなら貴方の方が、低くて太くて色気のある声と言えるだろう……彼はそう頭の中で思うのだった。
黙りこくる徐庶を面白そうに眺める法正。去り際に一言だけ残して仕事に戻っていった。
「また来ますよ。頃合いを見てね」
徐庶は棚に戻すはずだった資料を持ったまま、法正の事ばかり考えて固まってしまっていた。
俺は、法正殿の事は苦手だったはずなのに。
さっき一緒に歌った時の、不思議な心地よさが意識に焼き付いて離れなかった。
──参ったな……
徐庶は両腕に書物を抱えたまま、為す術もなくその場にしゃがみ込んで項垂れた。