期末テスト終わりの仙越の話「やっぱ夏って言ったら花火だよな」
夜空色の背景にカラフルな文字で書かれた特集記事を指差す。
「いいねぇ」
隣で自分と同じように胡座をかく仙道も頷く。二人の太ももを架けるように開かれた旅行雑誌には、県内で開かれる花火大会の日程が網羅されていた。
苦杯を喫したIH予選から数日。悔しさに浸る暇もなく、慌てて詰め込んで挑んだ期末テストも今日で終わり。夏休みを目の前にして、学生が最も開放感に溢れる瞬間である。
採点業務とやらのせいで体育館は使えないため、珍しい、昼下がりの帰り道だった。
「せっかくだしどっか寄っていこうぜ?」
眩しく煌めく海面を眼下に、坂道を下りながらたわいもない提案をしたところ、「じゃあ、家来る?」と仙道がいつもの調子で返してきたのだ。
仙道とは、最近付き合い始めた。
いや、コイツには一年の頃からずっとアピールされてはいたのだ。だけどいつも飄々として練習もサボりがちな仙道に対して、俺は毎日のようにキレていた。だからそういう意味で好かれる意味が分からなくて、ずっと揶揄われているのだと思っていた。しかしそれがどうやら本気だということを最近ようやく察し、何だかんだあってこういう形になったのだ。
夏に浮かれた自分に、この提案を断る理由はなかった。
返事を期待する視線が日差しと一緒に肌に刺さる。さっきより大きくなった鼓動に気付かない振りをして一言、「おう」とだけ応えた。
「神奈川だけでこんなにあんだな」
「な。知らなかったわ」
蝉の声を聞きながら、二人で雑誌を覗き込んで花火大会の日程を頭から確認していく。全開にした窓から入ってくる風が心地よい。
入る時こそ少しばかりの緊張をしたが、仙道の部屋は自分のとそう変わらない普通の男子高校生の部屋だった。すぐに馴染み、もうすっかり寛いで、用意してもらった麦茶もグイと飲む。
「流石にこの辺は遠いよな」
「あとこの時期は合宿と被るから無理っと」
たとえIHに行けないとしても、その分これからに向けて夏休みの間も練習は詰め込まれている。しかし限られた高校生の夏を楽しまない手はない。そのための努力は惜しまず、こうして帰りがけに買った旅行雑誌で計画を立てているというわけだ。
「お」
行けないところにペケをつけていく中で、ひとつ目に付いた。
「ここなら練習終わりにも行けそうじゃね?」
「確かに。むしろ時間的にもちょうど良さそうだ」
仙道と頭を突き合わせて細かい文字も確認し、心の中でここで決まりかけた時、ふと気のいいチームメイト達の顔が頭に浮かんだ。
「他の奴らも来るって言うかな」
何せ部活終わりにちょうど良いのだから、他のメンバーだって行きたがるだろう。横目で仙道の顔色を伺うと「んー」とどうも飲み込めない相槌をこぼしている。
「……いいんじゃないか? アイツらとはもう海行く約束してるんだし」
いつもの穏やかな口調だが、少し低くてぶっきらぼうな声には拒絶の色が滲んでいた。上がりそうになる口の端を隠すように、唇を突き出して答える。
「……そーだな」
床に隣り合わせでついた手の、くっつきそうでまだくっついていない指の先がじわりと熱を帯びた。
「それじゃあこれは、要チェックや、っと」
仙道は知ってか知らずか、あっけらかんとした口調で雑誌の端を折り曲げる。
「出た。彦一」
「つい使っちゃうんだよな」
「分かる」
顔を見合わせて声を出して笑ったら、少しだけ緊張が解けた。
「アイツなー。本当元気だし、うるせーけど可愛いよなー」
声も動きも賑やかな後輩を思い出すと自然と普段の調子を取り戻し、クールダウンしていく。そのまま雑誌に手を伸ばしてパラパラとページを捲った。
「横浜はともかく、箱根って家族以外と行ったことねーや。東京だとさ、家族で出掛けるってなった時どういうとこ行くの?」
渋い温泉宿と青々とした山の写真を眺めながら呟いていると、真横から視線を感じる。雑誌から目を離せば、元々下がり気味の太眉を更に下げた仙道がこちらをじっと見ていた。
この男が目立つのは何もデカい図体とバスケの才能のせいだけではない。甘いマスク、という表現が合うのだろうか。コイツの顔を目当てに試合を観に来る女子生徒も多い。そして付き合い始めてからは自分もこの顔に弱くなった自覚があるからムカつくのだ。
「……何」
穴が開きそうな視線を堪えながら、投げかけた。
「俺は?」
「は?」
「俺は? 可愛くない?」
こてんと首を傾げながら問われた想定外の発言に、一瞬呆気に取られた。
「何言ってんだよお前」
馬鹿な質問はそのまま流して終わりにしたかったが、仙道はまだ首を傾けたまま情けない顔でこちらを見ている。
思わずため息をついて、後頭部を掻きながら、
「……お前さはー、可愛いって言うより――――」
と、ここまで口から出てしまったものの、この先を素直に話したらとんでもなく恥ずかしいことになると気付き、尻すぼみに口を噤んでいった。
「可愛いって言うより?」
不自然な止め方に食い付くのは当然で、子犬のような上目遣いをした仙道からおうむ返しの質問が来た。長いまつ毛が影を落とした瞳がやけに潤んで見える。この顔にねだられて逃げ切れる精神は、今の自分にはない。
「………………カッコいい、とかの方が嬉しいんじゃねーの?」
視線を横に逸らしながら、続きを絞り出した。そのままは憚られたから、最後は濁して。それでも仙道は満足そうに目を細めていた。
「越野に思われるなら何だって嬉しいけどな」
「何だよそれ」
軟派な発言に思いっきり呆れ顔を見せたつもりだが、仙道はニコニコといつもの掴みどころのない微笑みを浮かべるばかりである。また大きなため息が出た。こちらの方が決まりが悪く感じるのは何なんだ。
ふと、まだ笑みを浮かべたままの端正な顔が近づいてきた。同時に、床に置いた手に手を重ねられる。
「ちなみに俺は越野のこと可愛いと思ってるぜ」
俺だけを映した瞳がやけに熱っぽく細められた。
「バッ、バッカじゃねーの!?」
いつもと違う顔に驚き、勢いに任せて体を後ろに引いたが、重ねられた手に力が籠り、引き留められる。
「ハハッ」
いつもの声色で笑っているが、穏やかさの代わりに色っぽさを宿した瞳は相変わらず俺を見ていた。散々告白してきていた時の単純な好意が溢れる顔ではない。試合中のゴールを見据える真剣な顔つきとも違う。
「……っ」
初めて見る仙道の表情に思わず肩が竦んだ。本能的に唾を飲み込む。どうしよう。三日月型に微笑む仙道の唇がやけに艶やかに見えてきた。無意識のうちに手にも力が入っていたようで、重ねられた手に宥めるように撫でられた。
熱い視線を向ける仙道の顔はゆっくりと迫ってくる。あれよあれよともう目と鼻の先だ。浅くなっていた呼吸はとっくに出来なくなっていた。
「…………ッ」
観念してギュッと瞼に力を込める。そして受け入れるように、少しだけ顎を上げた。
時間にしたらほんの数秒だったと思う。
だけど初めての自分にとっては時が止まったようで、触れるだけの行為の間、神経という神経が唇に集中していた。
ようやく離れた時には呼吸を整えるのに精一杯だった。落ち着きを取り戻したところで顔を上げると、うっすら頬を染めた仙道と目が合った。眉をゆるやかな八の字にして照れ臭そうにはにかんでいる。あの仙道が余裕のなさそうな顔をしてるのを見たら、今更ながらに自分達がとんでもない事をしてしまったんじゃないかと全身が沸騰した。
バクバクと激しい鼓動を体全体で感じている間、何でか蝉の声だけがよく聞こえた。
夏は、始まったばかりだった。