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    5shiki

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    5shiki

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    現パロマドル
    カプは微妙
    ワス君病んでます

    Hex1.

    「まって待ってなにこれ有り得ねえんだけど」
    「?」

    弟がリビングの床に座り込んで、ケラケラと笑っている。こちらから見えるのは丸まった背中ばかりで、何をやっているのかは見当もつかなかった。

    「……帰ってたのか」
    「ねぇーー見てこれ全然落ちねえんだけど」
    「……ネイルリムーバー??」

    背中を向けていても兄が入ってきていることは認識していたらしく、突き付けられた半透明のボトルに書かれた文字を読む(恐らく生まれて初めて口にした単語)オーターに、ワースは期待した顔で見ててとぱきんとキャップを開けた。今日は機嫌が良さそうだ。

    「百均で買ったんだけどさ、全然落ちねえのこれ。やばくね?」

    己の足の爪に塗られた、あまり上手とは言えない剥げた塗料を、ワースはリムーバーを染み込ませたティッシュでごしごしと拭った。

    「……落ちたか?」
    「だから落ちねえって言ってんじゃん!さっきからすげーゴシゴシやってやっと一本落ちた、やっぱ百均だめだわ」

    足の形も綺麗に出来ている弟に、これはどうしたのか聞いたら「寝てる間に勝手にやられてた」と最悪な答えが返ってきた。二日ほど顔を見ていなかったから、その間に転がり込んだ先の女が面白がって塗ったのだろう。ワースの目と似たような、アース系のくすんだ緑。どうせならもっとうまく塗ればいいものを。
    オーターが何とも言えない気持ちになっているのもおかまいなしに、ワースは兄さんこっち側の足やってと片足を投げ出し、ティッシュの箱を突き付けてくる。

    「……」

    溜め息を飲み込んで、オーターはティッシュを何枚か取ってその薬剤を染み込ませた。弟の長い足の先に胡座をかいて、そのつま先を自分の交差させた足の上に乗せた。ワースは反対側の足を抱え込むように曲げ、同じように爪の色を拭う。どのくらい力を込めていいのかわからなかった。

    「……こういうの、何の為にやるんだろうな」
    「気分を上げる為?気分転換かなァ」

    おっかなびっくりそっと拭いてみても、なるほどいつまで経っても全然落ちない。オーターは弟の足を両手で包んでぐしぐしと爪を拭った。つい夢中になっていると、ワースが足を曲げてずるずると移動し、すぐ目の前まで近付いてきた。

    「……ッ、なんだ」

    キスするかのような距離、弟の鼻先が一瞬オーターの髪を掠める。離れてもまだ近過ぎるところにあるワースの顔は、いたずらが成功した子供のように笑っていた。

    「兄さん図書館行ってきた?」
    「……ああ」
    「やっぱり。匂いで分かる」
    「すごいな」

    特徴的な匂いの場所しかわからないらしいが、こうやって髪の匂いを嗅がれて、何処に行ってきたのか当てられるのも慣れっこになってきている。以前は違和感しかなかった。オーターの弟は、オーターの中ではそういう感覚的なことを言ったりやったりするタイプではなかったからだ。そしてこの距離の近さ。ほんの幼い頃を除いて、男兄弟では考えられないのではないか。それが今では。
    オーターが作業に戻っても、ワースはにこにことそれを眺めていた。彼の担当していた左足は、塗ったままの爪と落とした爪が混在している。弟の現状を象徴するかのように見えたが、何もかもを結び付けて考えるのも早計だ。オーターは今なら大丈夫だと思うことにした。


    「……図書館、ボランティア募集してたぞ」
    「…………」
    「生涯学習課とか書庫の整理とか、……お前ならレファレンスもできるだろう。あんなにたくさん、」
    「兄さん」

    穏やかな、しかし有無を言わさぬ弟の声に、オーターも手を止めて目線だけ上げた。ワースはその美しい顔を歪ませるように、笑っている。彼の足先が、兄の胡座を組んだ足の間にするりと入り込み、そのつま先で中心をわずかに押した。

    「!ワース、」

    びくりと身体を震わせ、慌てて弟の足首を掴む兄の姿を、ワースは耐え切れないというように今度こそ声を上げて笑った。苦しそうに涙まで浮かべて、何でもないことのように言う。


    「まだオレに期待してんの?」


    あんなにたくさん勉強してたんだから。学校以外の居場所になるのでは。



    言ってやりたい台詞は山とあったが、オーターは今日も二の句が継げなかった。









    ブー……ブーー……


    数カ月前の秋口、オーターが午前中の客先での打ち合わせを終えて、オフィスに戻ったばかりの時だった。ノートの画面に資料を開いたところで知らない番号から着信が来て、しかしスマホのディスプレイは見覚えのある大学の名前を表示していた。確か弟の通っている大学だった筈だ。

    「……もしもし?」

    仕事柄、クライアントから携帯電話に連絡が入ることは珍しいことではない。デスクを立つオーターの姿を不審がる同僚はいなかった。電話の相手はオーターマドルさんですかという確認から入り、大学の事務課を名乗ってから、学内で倒れたという弟の現状について説明を始めた。

    「倒れた原因については貧血か寝不足だと本人が言っているのですが、倒れた時結構酷く頭を打ったみたいで……。今は保健管理センターで相談員が付き添ってます。意識もありますし大丈夫だとは思いますが彼は一人暮らしですし、一応ご家族にご連絡差し上げた方が良いとなりまして」

    寝耳に水、青天の霹靂。他にも妙な胸騒ぎがした。しかしオーターがまず一番に思ったことは、「何故自分に?」だった。電話の相手は、彼の提出した学籍簿の緊急連絡先にお兄さんの名前がありました、と事務的に答えた。

    「……弟が私の連絡先を書いたということですか」
    「そうなりますね」

    家族なのだからもちろん番号くらいは知っている。だが自分が実家を出てから随分経つし、もともと年が離れていて交流も少ない弟が、実家の両親でなく自分を指定していたのは想定外だった。オーターは何が何だかわからないまま、とりあえず疑問に思ったことから口にしていった。

    「弟の状態は。その、相談員の方が診察して下さったのですか?」
    「相談員とはスクールカウンセラーのことで頭の状態については何とも……切れてはいませんし、本人の受け答えもはっきりしていますが」

    スクールカウンセラー。また想定外の名前が飛び出してきた。

    「養護教諭みたいな方はいないんですか。何故カウンセラーが?」
    「大学としては病院で詳しく診てもらうことを勧めました。カウンセラーは、普段から彼が利用していて」

    何となく言い難そうに尻すぼみになっていく相手の言葉を、普段の仕事の要領で巧みに引き出す。いわく、

    「………精神科?」
    「大学カウンセラーとも連携を取れていますし、何とか学校にも来れるように働きかけていて」


    自主休講、心療内科への通院、カウンセリング。そのどれもが、いつぞやの正月に会ったきりの弟の姿に重ならなかった。新しい環境での緊張でメンタルを落とす生徒もいますという、励ましにも言い訳にも聞こえる事務方の言葉も、まるで現実感がない。ワースが?どうして自分の弟がそんなことになっている?両親は何をやっているんだ?疑問は尽きないが、ここで答えが出る筈もない。己が弟について何も知らないという事実が、オーターにとってはいきなり喉元に突き付けられた刃のごとく感じられた。しかしそれを避けてしまっては、弟は永遠に失われる──そうも直感していた。


    寝不足だと言うのなら自分が迎えに行くまで寝かせておけ、ベッドくらいあるだろう。絶対に逃がすなよという念押しをして、完全にモンスターペアレントの様相で通話を切り、そのままオーターは会社を早退した。大学の敷地の隅にある保健管理センターで大人しく待っていた弟は、やはり記憶にあるよりだいぶ顔色が悪い。何が入っているのか登山用みたいな巨大なリュックを抱えて、「……ほんとに来たんだ」とシニカルな笑みを浮かべる姿は、数カ月前に高校卒業したばかりの18歳としては、随分不釣り合いに見えた。

    「病院は」
    「行かねー。大袈裟なんだよいちいち」

    打ち付けた箇所を冷やす為の保冷剤をぐにぐにと手で弄びながら、ベッドの端に腰掛けたワースはなかなかこちらを見ようとしない。ようやく立ち上がると、僅かばかりオーターよりも目線が高そうに見えた。

    「とりあえず今日は帰るぞ」
    「……帰る、ぞ?オレんち知ってんの?」

    知るわけがない。大急ぎで取りに帰った車に弟を乗せ、今日はこちらの家に泊まるように言うと、ワースは微妙に嫌そうな顔をしつつも黙って頷いた。

    「適当に食いたいものを頼め」
    「ぅおっ、と、ハ、……やば」

    ウーバーイーツのアプリを開いたスマホを放ると、助手席でキャッチしてぽちぽちと操作を始める。「兄さん辛いの好き?」と聞いてくる弟は特に変わった様子もない。オーターがクソ狭くてごちゃごちゃした都会の道をいつも通りに運転していると、隣で兄さんの車初めて乗ったな、としみじみ呟かれて首を傾げた。

    「そうだったか?」
    「そうだよ。車持ってんのも知らなかったし」

    ついでに言えばどこに住んでんのかも知らねえしどこで働いてんのかも知らねえし、何でいきなり現れたのかも知らねえよ。

    助手席のワースは、注文した料理の配達時間を確認して、赤信号になったタイミングでスマホを返して来た。それを受け取って、スピードメーター前の窪みに置く。フロントガラスの向こうでは、空はまだ明るかった。
    何でいきなり現れたのか。お前が私の名を緊急連絡先に書いたからだろう。仕事を投げ出して大急ぎで駆けつけてもこの台詞。不完全な分析資料をそのまま渡してきたチームにも申し訳ない。オーターは機をうかがうのが馬鹿らしくなって、気付けば核心に触れていた。

    「……何で心療内科なんて通ってるんだ」

    ハンドルを握ったまま、オーターは信号が青に変わるのを待ちながら口にした。


    「……は?」

    ワースの眉がわずかに動き、信じられないというように目を見開くのが視界の端に映った。弟はすぐに前を向いて、同じように信号を睨んでいるようだった。

    「……なに、それを聞く為に来たのかよ。つか、あのカウンセラーが喋ったのか?守秘義務とかねえのかよ」
    「直接話したのはカウンセラーではなく事務だ。お前が何度か面談していること、だから付き添いにそのカウンセラーが選ばれたと言われただけだ」
    「…………じゃあなんで……、テメェ鎌かけたのか??」

    弟がクソ、と吐き捨てているうちに信号は青になって、車を発進させた。罵倒を重ねてくるわけでもないようなので続ける。

    「原因がわかれば対処できる。だから聞いている」
    「…………フッ、は、ハハ」

    乾いた笑いが、少しずつ暗くなっていく車内の空気に溶けて消えた。

    「ああ、そう。じゃあ一生対処できねぇな」



    マンションに着いて部屋に上げると、ワースは「意外と片付いてる」と言っただけで部屋の片隅に荷物を置いて、ソファに膝を抱えるように深く沈み込んだ。スマホを弄って当然目線も合わず、つい先程まであった身内感覚の馴れ馴れしさはなくなっていた。やがて届いたデリバリーを向かい合って食べる間も無言で、オーターはじわじわと己の失言を認めた。リカバーするには精神病に関する知識が足りない。

    「着替え貸してやるから風呂に入って、今日はもう休め。何かあったら、」
    「着替えは要らない」

    持ってる、とワースは俯いたままぼそぼそと言って、でかいリュックからずるずるとスウェットを引っ張り出した。

    「……持ち歩いているのか?」
    「うん。家帰ってねえから」
    「……じゃあどうしてるんだ」

    知り合いの家を転々としてるよ、と何でもないように言っているが、オーターにとっては何でもなくなかった。どうしてそんな家出少年みたいなことをしている。先程地雷を踏み抜いたことも忘れ、また問い詰めるように聞いてしまった。弟は顔を一瞬だけこちらに向けて、「別に」とだけ答えた。

    「別にってなんだ」
    「……使えなくはないよ」
    「どういう意味だ」

    ワースはしばらく黙って何か考えるような素振りを見せたが、ぽつりと落ちた声は結局断片的で、言葉遣いは悪くとも理知的に話す彼らしくないように思えた。

    「人がいる」
    「人?……恋人と住んでいるのか?」
    「いや。まあ……似たような奴ら」

    着替えを抱えたまま、指先は相変わらずスマホを弄っている。

    「奴ら?複数なのか」
    「帰るとだいたい誰か寝てる。ソファとか床とか」
    「友達か」
    「……あんたも一回会ってみりゃ分かるよ」

    含みのある言葉である。問題のある“友人”に目を付けられて、良いように部屋を占領されているということだろうか。そもそもワースの部屋は親が借りているアパートの筈だ。似たような奴らとは?しかしここでまた詰問するのも同じ轍を踏むことになる。

    「じゃあ、ここに住むか?」
    「ハァ??」
    「帰りたくないのなら、暫くここにいればいい」
    「…………正気かよ」

    そもそも一人暮らししなければ大学に通えないほど実家も遠くないのだが、恐らく実家に帰るのは論外なのだろう。問題を起こそうものなら、あの父が何を言い出すのかわかったものではない。ワースはぽかんとして、やっと兄の方を見た。スマホの画面は見える限りでは、ずっと変わっていなそうだった。

    「物置きに使ってる部屋もあるし、布団もあるから何とかなるだろう」
    「あの、扉全開なってたから見たけど積読部屋?オレあそこで暮らすの??」

    文句あるのか。壁一面本棚の、最高の部屋だろうが。寝転がって読めるようにマットレスもあるから寝られるし、ちょっと整理が追いつかなくて棚から本が溢れているだけだ。

    「積読ではない読んでる」
    「……いやどっちでもいいけどォ……」


    えぇ……と困惑気味ではあるが、何となく嬉しさが滲み出ているように見える弟の横顔に、積読しておいて良かったなと思った。







    「あ、……お、はよ」
    「……おはよう」



    それから実家以来何年ぶりかの奇妙な共同生活が始まった。兄弟と同居するのに奇妙もないが、今までの交流の度合いを考えれば万が一にもあり得なかったことなので、奇妙は奇妙だったろう。他人が自分の家にいることがほぼなかったので、顔を合わせるたびに不思議な感じがした。

    「なんか食べる?」
    「食ってきた」

    ほんの最初のうちはお互い距離を測りかねて、相手の視界に入らないようにさえしていたが、すぐに馬鹿らしくなってやめた。ワースは拍子抜けするくらい普通に朝起きて学校に行って、夜帰ってきた。向こうから話しかけてくることも多く、オーターはインターネットで早急に集めた精神病に関する記事を、危うくガセネタとして処理するところであった。それくらい、ワースは普通に生活できているように見えた。だが破綻はすぐにやってきた。



    「ワース……、起きてるのか?」

    しんと静まり返った暗い部屋。こんもりした布団の中から、んーという唸り声だけが聞こえる。

    「今日授業ないのか?体調悪いのか?」
    「ん〜〜、………大丈夫……」

    何が大丈夫なのか。しかしオーターにも出勤時間が迫っている。具合悪いなら寝てろよという当たり障りのないことだけ口にして、慌ただしく家を出た。オフィスに着いて弟のことなど欠片も思い出さずに業務を終え、夜も更けてから帰宅すると、ワースは朝の状態から寸分違わずそのままの状態でそこにいた。いや、違う。うつ伏せの状態で頭は出して、目の前に本を開いている。

    「ずっと寝てたのか?電気つけないと目が悪くなるぞ…ワース?」

    部屋を覗き込んでぱちりと明かりをつけても無反応。オーターはそっと枕元に近付いて、何を読んでいるのか覗き込んだ。水中からきらきらと輝く海面を撮影した、この部屋のものではない、大判の写真集のようだった。こんなにたくさん本があって何でも自由に読んで構わないのに、一冊たりとも手を伸ばそうとしない弟に一抹の寂しさは感じるが、そんなことはおくびにも出さず「何の写真だ?」と聞いた。

    「………」
    「ん?」
    「………水のなか………」

    弟はぽそぽそと頼りない声で言った。そっと手を伸ばしその輝く水面を撫で、暫くそれを繰り返す。ページを捲ろうとしているのだとオーターが気付いた頃には、ワースは頭を抱えるように枕に突っ伏してしまっていた。

    「明日……、出てく」
    「…………どうして」
    「ごめん、ちがう……兄さんが悪いんじゃないんだ。ただこの部屋……、いや、ちがう、」

    辛そうな声音で途切れ途切れ、どうにか説明しようとしても最終的にはちがうになってしまう。聞き取りづらい上にまるで要領を得ない。

    「この部屋嫌だったのか?気に入る本が見つからなかった?」
    「……………………………文字、が、」
    「?」
    「あんま、頭入ってこなくて……」

    悲痛な声で吐露された言葉に、背筋がしんと凍るような気がした。この一言だけでも、いまだかつてこんな弱っている人間の姿をオーターは見たことがなくて、かける言葉が見つからなかった。ただ漠然と得たネット知識を思い出して、弟は本を読んだりペンを走らせたり、そういうことができなくなっているのだと察した。デリバリーを注文するのにやけに時間がかかっていたのも、メニューに悩んでいたわけではない。好きなの勝手に読んでいいぞとこの本ばかりの部屋を明け渡した時の彼は、確かに笑っていたように見えたのに。かつてのように文字を追うことができなくなっている弟は、こんな部屋に閉じ込められて、本当はどんな気持ちだったろうか。

    「わかった、悪かった。起き上がれるか?」
    「…………」

    違う部屋に行こう、と弟を覆っている布団を剥いで、無理矢理に起き上がらせた。成人ではないが成長しきった男性の身体はとてつもなく重かったが、どうにか歩かせて自分の寝室に連れて行く。

    「朝から何か食べたのか?」
    「…………」

    食ってないんだな。オーターは弟を自分のベッドの縁に座らせて、何か食べたいものがあるのか聞いた。

    「……食欲ねえし…」

    ワースは力なくスマホを握り、俯いたまま小さな声で言った。オーターは風邪を引いた時に、実家で出た食べ物を必死に思い出した。あの頃の小さな弟は、一体何を食べていただろうか。

    「……りんご摺ったやつとか、食べるか?」
    「…………いくつだと思ってんの」

    あれ子供用なのか。

    「じゃあ、桃缶とか」
    「…………」

    どっちの沈黙なんだ。ちょっと心惹かれているのか、呆れて黙ってしまったのか。それとももう返事もする気力もないのか。オーターが判断しかねていると、ワースは少しだけ顔を上げて、ここで寝るの、と言った。

    「ん?」
    「オレ、……ここで寝るの?兄さんは……」
    「ああ、気にしなくていい。私はどこでも寝れるから」

    リビングのソファでもあの部屋でも、オーターはどこでも寝られる。自分の家なのだから。けれどやっと目を合わせた弟の、不安に揺れる少し潤んだ瞳に、ようやく彼の言いたいことを理解できたような気がした。これは以前見たことある目だ。遠い昔の幼い頃、オーターが小学生の間は兄弟同じ部屋に寝かされていて、たまに夜中に起こされた。小さな弟は暗闇の中いつもちょっと困った顔をして、喉が渇いたとかトイレに行きたいとか言って、「兄さんついてきて」と、



    「……一緒に寝るか?」


    その言葉にも、ワースの反応は鈍かった。けれど否定はない。ようやく彼の望むものを渡せたような気がして、オーターは詰めていた息を少しだけ吐き出した。







    2.


    高校を卒業して家を出て、ようやく父の支配から抜け出した。随分大袈裟な表現だが、自分としてはこれが一番しっくりくる。試験結果や成績をいちいち父に報告して、とにかく罵倒される日々がようやく終わったのだ。ひとり暮らし最高。大学に進学するにあたって、母に無理を言って部屋を用意してもらった甲斐があった。甘やかされたお坊ちゃんと言われようと構うものか。
    大学の授業も楽しかった。まだ座学や基礎が中心ながら、定期的に行われる小テストやレポート、課題に次ぐ課題で息をつく暇もないが、勉強すること自体は嫌いではないワースにとっては苦痛ではなかった。頭痛の種は頻繁にかかってくる父の電話攻撃だったが、課題や試験勉強を盾にしてうまく切り上げることができた。やはり父の言葉は聞いていると気が重くなる。大学ではとにかく何も気にしないで勉強したい。話のできる友人もできて、ワースの学生生活はまずまず順風満帆に始まったように見えた。



    「圧子、摩耗してんな……これじゃ正しい数値出ねぇわ」


    隣の班が投げやりに笑って、机の上の試料を放った。
    この実習は始めた当初からトラブル続きで、しかし何故か講師は沈黙を続けている。正確な数値を出して、班ごとに発表するまであと僅かな時間しか残っていない。トラブル対応も含まれているのだろうか、生徒の間には諦めムードが充満していた。
    ワースの班でも同じことが起きていた。金属片の硬さを測定する筈の機器は、何度やっても明らかにおかしな数値しか吐き出さない。

    「手動でやる?もう時間ねーよ」
    「これ提出間に合わなくね」

    他のメンバーは半分諦めた声で囁き合う。ワースは一度だけ顎に手をやり、それから試料を手に取った。

    「……補正かければいける」
    「は?」
    「手動測定して、その分の誤差を足す」

    機械の代わりに、研磨した試料に手動で圧痕を付けて、顕微鏡で読み取る。計算はメモを取りながら全部頭の中でやり、ノートには確定値だけを書き込んだ。

    「え?できたの、これ?」
    「すげーじゃん!」
    「天才かよ」

    その場は笑顔と称賛で溢れた。肩を叩かれ、感謝され、少しだけ胸が軽くなる。発表はうまくいった。教員からも「トラブルを柔軟に解決できた」と褒められた。
    ワースは試料を返却するため、他の生徒より少し遅れて実験室に戻った。廊下の角を曲がる時、ふと聞き慣れた声が耳に入る。

    「正直、必死過ぎて笑えたわ」
    「実習ひとつに張り切り過ぎなんだよ」
    「発表もさぁ…あれ俺らの発表じゃなくてあいつの独演会だったよな」


    あぁ、と思った。こういうことは以前にもあって、全く経験してこなかったわけじゃない。そういうくだらねえ輩は圧倒的な差をつけて、実力で黙らせてきた。そんなことしたって、父は褒めてくれなかったけど。そういうトラブルに巻き込まれるのは、こちらに隙があるからなのだと、取り合ってもくれなかった。父の電話を取らなくても、結局こうやってうまくいかなくなる。兄さんを見習え。穀潰しめ。誰もお前などに期待しない。いつかの父の言葉が久しぶりによみがえって、ワースは思わず壁に手を付いた。

    その後はなるべく出過ぎないように舵を取った。グループ内でも発言はする、けれど目立たないように立ち回ることが増えた。不本意だが仕方ない。その方が精神衛生的にまだマシに思えた。
    しかし段々と寝付きが悪くなり、集中力を欠くようになって、ワースは自分が取った行動が、あまり良い方に向かっていないことを認めないわけにはいかなかった。高校の頃、とにかく親の顔をうかがっていた頃の方がよっぽど健康だった気がする。じゃあどうしろって言うんだ。評価の下がった結果を父に罵倒される日々が復活する。やっと逃げられると思ったのに、うまく切り上げられない。実習中顔色の悪いワースを、教員は保健管理センターに向かわせた。頭痛薬をもらって帰ろうと思ったのに、あれよと言う間にカウンセリングを受けることになってしまった。何なんだこの展開。



    「ここではあなたが困っていることを一緒に整理していきたいと思っています。答えたくないことは、無理に言わなくても大丈夫です」
    「はあ……」

    明るい印象の小柄な女性。長方形のテーブルとキャスターのついた事務用の椅子、メモ帳とティッシュの箱。壁の小さな時計。窓はあるから明るいが、まあ殺風景な部屋だった。ワースが身体を縮めるようにその椅子に座ると、カウンセラーは笑みを浮かべながらはきはきと話し始める。

    「じゃあ、まずは最近の生活から。夜は眠れていますか?」
    「……あんまり……」

    朝はちゃんと起きられていますか?
    気分が落ち込むことは?それとも何も感じないことの方が多いですか?

    「今、一番自分で気になっているのはどんなことですか?」

    気になっていること。と言うよりも、ずっと囚われていること。
    父から離れられたのに、充分にやっている筈なのに、どうしても上手くいかない。何にも煩わされず、自分の為に勉強したい。けれど結局は人の目を気にして、誰かと比べて、虚勢を張るのにも疲れて。父の電話を必死で遠ざけようとしても、父の言葉が頭を回って。ここで何がしたかったのかわからない。みんな、こんなことはないのだろうか。


    カウンセラーはメモを取りつつ、そうなんですね、と言葉尻をオウム返しに口にしながら、やがて時計に目をやった。

    「……話してくれてありがとう。今日はここまでにしましょう。また、何か気付いたら教えて下さいね」

    一時間弱、あっという間に終わりが来た。取り留めもなくべらべらと喋っただけで特に何の結論も出ていないが、またと言われて、カウンセリングは何回か通うものだと知った。ここで全て吐き出してしまえば、また前を向けるのだろうか。わからないが、他に手もないのだから、やってみてもいいかもしれない。

    そうして一週間後の、二回目の面談を終えて部屋を出た時だった。


    「マドル君」

    名前を呼ばれて振り返ると、同じ科の生徒だった。彼女は君もカウンセリング受けてるんだね、と気まずそうに笑った。

    「なんか意外」
    「………何か用か?」

    気まずそうにするなら話しかけてくるなというワースの冷めた目線もどこ吹く風、彼女は一層おかしそうに声を立てて笑った。

    「ごめん、私も面談だったの。君の前。マドル君があの部屋入ってくのが見えたから、終わるまで待ってたの」
    「……暇人かよ」

    世の中には病んでる奴が大勢いるんだな。ワースは黙って踵を返したが、彼女はぱたぱたと走って着いてきた。

    「ねえ、待って、お話しよ?」
    「話ってなんの」

    気晴らしになるし、情報交換にもなる。そんなことを必死に繰り返す姿が滑稽で、しかし振り払うのも憐れに思った。こいつと自分はそう大差ないと思うと、こんな状態の自分が一層許せない気がして、どうにか自分の方がましだと証明したかったのかもしれない。今思えば依存先としてまんまと寄生されただけだ。困っていることを助けてやって、帰りたくないと言われれば部屋に上げてやった。感謝されるのは嬉しかったが、これじゃ何の解決にもならない。それどころかすぐに薬を処方してくれるチョロい心療内科とやらを紹介されて、立派な病人として彼女の仲間入りを果たしてしまった。類は友を呼び、カウンセリング仲間は他にも何人かワースの部屋に自由に出入りするようになる。落ちる時は転がるように落ちていくものだ。居心地の悪くなったワース自身も、他人の家を転々とするようになった。出ていけとは言えなかった。寄る辺のない痛みを、自分もよく知っていたから。





    「ワース買い物行くか」

    兄が扉からひょこりと顔を出して言った。ワースはあまり気分じゃないなと思ったが、うんと返事をしてタブレットを置き立ち上がった。

    「何観てたんだ?」
    「トナカイの目の話」
    「?」
    「……ドキュメンタリーだよ」

    トナカイの瞳の色は季節によって変化する。夏は黄金色、冬は青色。極夜の冬、太陽から何とか届く青い光。その僅かな光を取りこぼさないよう集めた結果、彼らの瞳は青く変化するのだという。そんな内容だった。頭では何とか理解できたが、説明する気が起きなくてワースは黙った。オーターはナショナルジオグラフィックか、とだけ言って納得したようだった。エレベーターを降りて、車で行くのかと思ったら兄はそのままマンションのエントランスを抜けて、今日は殊更天気が良い。



    大学で倒れて頭を打って、保健室で休んでいたら「お兄さん迎えに来るわよ」と言われ、夢でも見ているのかと思った。実際スーツ姿の兄を見ても実感がなく、そのまま彼の家に連れて行かれて今日からここに住めと言われて、これはいよいよ夢じゃなくて死後の世界かも、と疑ったのは仕方のないことだろう。ワースのどうにもならない日常を吹き飛ばす、鮮烈な稲妻のような出来事だった。兄には通院のことはバレていたが、ワースはものすごく頑張って普通通りに振る舞った。朝起きて学校に行って、どうにか授業を受けて帰る。講義の内容は難解で、今のワースにはわからないことの方が多かった。メモがうまく取れない、ぼんやりと霞がかったようで内容が頭に入ってこない。ふとわかったような気がする瞬間もあるが、すぐに霧散してしまう。集中できない。実習では完全にお荷物となった。どうにもならない不安と焦燥で、疲労ばかりが溜まっていく。家に帰っても安らげなかった。オーターがワースに充てがった部屋は彼の読書部屋で、読めもしない本に囲まれているのはじわじわと神経を削った。何もかもに疲れて、布団から出られなくなるのはあっという間だった。



    「一緒に寝るか?」

    珍しく焦ったような顔をしたオーターに本の部屋から引き摺り出され、彼の寝室のベッドに座らされると、なんかとんでもない提案をされた。物理的に無理だろと思ったが、笑い飛ばすことも、拒否することもできない。そうこうしているうちに、オーターはうちにはりんごも桃缶もないと言って、慌ただしく出て行ってしまった。残されたワースは突然の出来事に暫く呆然としていたが、現実逃避したい願望からか単に寝不足だからなのか、急に眠気が来てそのままベッドにばたんと横になって目を閉じた。早朝目を覚ますと、薄明かりの中すぐ目の前に兄の顔があって飛び上がりそうになった。ほんとに一緒に寝たのかよ。シングルよりは広そうだったが男二人ではかなり狭いベッドで、ワースは久方ぶりに見る兄の寝顔をじっと見つめた。自分がきちんと認識している兄の印象より、だいぶ大人びた相貌だった。何を考えているのかわからない男だが、彼が手を差し伸べようとしてくれているのはわかる。ワースは自分にかかっていた毛布を、そっと兄の身体にかけた。




    「いや待てよ米買うなら車だろうが!??」
    「散歩した方がいいんだろう?」
    「散歩っつーか筋トレじゃんこれ……」

    買い込んだ一週間分の食料、プラス米五キロ。レジ袋の持ち手がちぎれそうになりながらそれらを手分けして持って、ぶらぶらと家路につく。兄さんエコバッグとか、持ってないんだな。恐らく自炊もそんなにしてなかったのだろう。規則正しい生活、栄養を考えた食事。適度な運動。気晴らしになる何か。兄がスマホで検索しながら作ってくれた、料理の数々。自分は恵まれている。
    それでもどうしようもない時があって、そんな時はそっと家を出る。兄に酷いことを言ったりしないように。兄に弱いところを見られないように。子供の頃から比べられ続けた優秀な兄は、自分が家を出た後エスカレートしていった父の弟に対する扱いを、何も知らないのだ。オーターはきっと、ワースが他人の家に行ってしまうことを良く思っていない。自分が弟に安らげる場所を提供できていないと、思い悩んでいる節がある。
    堂々巡りだな、と思った。兄に全てを吐き出せれば、楽になれるんだろうか。それだけは絶対に嫌だと思うのに、本当は兄さんに全部受け入れてほしい。気持ち悪い、馬鹿じゃねえか、死ねばいいのに。きっと、離れた方がいいのだ。迎えに来てくれた事実だけで、充分じゃねえか。
    悶々と考えながら無言で歩いていると、隣の兄がぼそりと口を開いた。

    「……トナカイの目は…」
    「あ?」
    「トナカイの目って、何色なんだ。瞳孔が横になってる……」

    瞳孔が横長なのは草食動物の特徴だ。視野を広く保つ為と言われている。兄はただ真っ直ぐ前を向いて、本当に顔に出ないから、どんなつもりで喋っているのかわからない。ワースはなるべく考え込まないように、先程見た映像を思い出した。

    「……夏は、…てか冬以外は金色で、冬になると青くなる。暗闇でも見えるように……」
    「極夜か」

    優秀な兄は一を聞いて十を知る、それを地で行くような男で、ワースは子供の頃からほとんど化け物を見るような気持ちで呆気に取られるしかなかった存在だ。ほんの幼い頃は良かった。圧倒的な差を見せつけられることもなく、ただ兄さん兄さんと甘えられたのだから。こんなことは口が裂けても言えないけれど。本当に堂々巡りだ、兄さんで始まって兄さんで終わる。助けてほしいなんて、本当に都合が良いよな。

    「…そういえば、兄さんの目と同じ色だな」
    「トナカイと同じ?」

    そう言って兄は少しだけ笑った。ふと心が軽くなるような、そんな笑顔だった。兄さんがまだ笑いかけてくれるのなら、気休めでも大丈夫なんじゃないかって、性懲りもなく期待して。ワースはそっと目を逸らした。

    僅かな光だけでも、どうにか集められたら。そうすれば少しはマシになれるのだろうか。


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    Replies from the creator

    5shiki

    CAN’T MAKE敬語オーターさんに思いを馳せてキメラを生み出しました。それに引き摺られてレイン君もちょっと変?まあキャラ崩壊はいつものこと……。
    何でも許せる方向け。ワンライクオリティなので本当に許してくださいワンでライしてないけど

    *ふたりとも煙草吸ってます
    「オーターちょっと付き合えよ」


    中庭に面した廊下に出た途端、そんな声が聞こえてきた。恋人の名前に思わず辺りを見回すと、背の高い後ろ姿がふたつ、揃って廊下の先に消えていくところだった。その先は喫煙室だ。

    (……煙草、吸うのか)

    別に知らなかったわけではない。過去には吸っていたというのは何かの折に聞かされたし(たぶん神覚者の飲み会)、彼は自分と交際を始める前にはやめていた筈だ。だからショックだとかそういうのではなく。

    (……見てえ)

    彼が喫煙している姿を見たことがない。単純に見てみたかった。しかし声をかけようにも後ろ姿は既に喫煙室の中に入って行ってしまった。今まで一度も入ったことのない部屋。用もないのに自分が足を踏み入れるのははばかられる。喫煙室は廊下のどん詰まりにあって前を通り過ぎるというのもできないし、そうこうしている間に彼らは出てきてしまうだろう。忙しいオーターがいつまでも休憩しているとは考えにくい。詰みだな。仕方なくレインは諦めて元々行こうとしていた方へ足を向けた。
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