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    天使サマと人間の交流についての短編小説です。

    #天使
    angel
    #悪魔
    devil
    #創作
    creation

    ある天使の肖像 天使と悪魔の繁忙期がどうにか過ぎ去り、私と彼は、ようやく週に一度、どちらかの自宅で落ち合えるようになった。よく使う喫茶店は最近、近隣の区画を担当する天使が顔を出すようになったので、あまり落ち着いて話が出来なくなってしまったのだ。
     今日は悪魔が私の家に来て、ひとしきり、人界の世界情勢について話をした。結局のところ、人間はまたも同じ過ちを繰り返そうとしており、悪魔はそれを誘導し、天使はそれを牽制している、という訳だった。
    「しかし仕事とは言え、気が滅入るぜ。悪意は好物だが、最近は純粋な悪意以外も蔓延していて、腹がいっぱいだ」
     私の淹れたコーヒーを飲みながら、黒髪の悪魔は嘆息する。
    「それなら、少し手を抜いてくれよ。お前の働きぶりは、他の天使たちから聞いてる。お前がちょっと休んでくれれば、人界も多少はのんびり出来る筈だ」
    「冗談。ご主人サマから受けた命令は絶対だ。お前もそうだろ」
     悪魔は肩をすくめ、空になったカップを置いた。
    「そもそも俺たちは、仕事とセットで生まれてきたんだからな。仕事しないなんて、死んでるも同然だ」
    「まあ、それはそうだけれど」
     確かに私たちにとって、仕事をしないなんて選択肢はあり得ない。あり得ない、のだが‥‥‥。ついこの間、目の前の男は仕事を永遠に放棄することを選択して自分を封印し、私は私で全ての仕事を放棄して男を探し歩いたのだ。それを思うと、なんだか少しおかしい。
    「天使サマ? 何を笑ってるんだ」
    「いや、何でも。そうだ、コーヒーのお代わりを持って来よう。ちょっと待っててくれ」
     カップを受け取ってキッチンに立って、戻ってきたら、もう男の姿がなかった。いったいどこに、とよく見ると、いつもは閉めてある寝室へ続く仕切り戸が開いているのが見えた。
    「あ、ラブ、そっちは」
     焦って寝室を覗くと、やはり、悪魔がそこにいた。長身を屈めて、寝台の裏、ほとんど物置となっているスペースに頭を突っ込んでいた。
    「天使サマ、全然こっちには入れてくれないから気になっていたんだが‥‥‥、お前にしちゃ随分と雑然としているな」
     見られたくなかった場所をとうとう見られてしまい、恥ずかしさにいたたまれなくなりながら、私はため息をついた。見られてしまったものは仕方ない。観念するしかない。
    「だから見せたくなかったんだ。天使の仕事をしていると、どうしても人間とのかかわりの中で物が増えていってしまってね‥‥‥。捨てたり売ったりするわけにもいかないし‥‥‥」
     悪魔と違って天使の仕事は、長期的に同じ場所で行われることが多い。もちろん定期的に配置換えを行いはするが、戦場の真ん中で幻術を使ってすぐに姿をくらます悪魔のような、瞬間的な仕事は殆どない。だから、人間に混じって仕事をする中で、プレゼントをもらう機会もあるし、一緒に何かを作ることもある。食べものなら残らないが、彫刻や絵画、アクセサリーなどはそうもいかない。それをくれた人間のことを全て覚えていられるわけではないが、それをくれた暖かな気持ちは、物を見ればすぐに分かる。だから捨てることも売ることも出来ず、増えていく一方なのだ。
    「魔法でコンパクトにして、どうにか収納出来てるようだが‥‥‥、これ、圧縮を解いたら、ここいら一帯が骨董品で埋まっちまうぜ」
    「そうなんだ‥‥‥。仲間の天使にも相談してみたんだが、皆、どうしようもないから捨ててしまったと言って、全然参考にならなくて」
    「そりゃあ、そうだろうな」
     悪魔は相槌を打ちながら尚も暗がりの中でもぞもぞと動いていたが、不意に「おっ」と声を上げた。
    「天使サマ、これはお前か?」
     彼の手の中には、小さなキャンバスが収まっている。そこに描かれているのは、数世紀前の姿ではあるが、確かに私だった。
    「懐かしいな。それは、ある画家が描いてくれたんだよ」
    「へえ。もっとよく見てみたいな。圧縮を解いても?」
     私が肯くと、悪魔は指を鳴らしてキャンバスを元のサイズに戻した。ついでにどこからかイーゼルも出現させた彼は、それを掛けて、まじまじと見つめた。
    「これは‥‥‥俺が知らない頃のお前だ。ふうん、今より少しばかり年齢が上に見えるな。それに、今よりももっと‥‥‥」
    「は、恥ずかしいから、そういうのはよしてくれ」
     慌てて止めて、私は寝台に腰かけた。立って話をするには、少しばかり長くなる思い出だ。私に合わせて、悪魔も隣に座った。
    「あれは、そうだな‥‥‥大きな戦争が始まる前の、小休止のような時代だった」

     そのころ私は田舎の小さな教会で、司祭の職に就いていた。教会は小さいだけではなくとても古く、石造りでなければとうに、どこかから隙間風が吹いてきていてもおかしくはなかった。埋め込み式のステンドグラスから差し込む日の光は美しかったが、壁面を飾る聖人たちの絵は劣化が激しい。
     その日、私はひとりで午後の祈りを捧げていた。その地方の住人のほとんどは農民で、日曜日以外に説教を聴きに来る人は稀だった。私も、教会の仕事よりも近隣の農作業の手伝いや、子どもたちへの教育活動に従事している時間の方が長いくらいだった。しかし、その日は来客の予定があったので、色づいた陽光を浴びながら、古びた演壇に向かって、主へ祈っていたのだ。
    「‥‥‥天使様」
     そんな呟きが聞こえて目を開けると、教会の入り口に、ひとりの男が立ち尽くしていた。大きなショルダーバッグを携えた農夫らしからぬ身なりの男は、ぽかんと口を開けて私を見つめている。
     私はそっと自分の背中を見て、翼が出てしまっていないことを確認し、男に声を掛けた。
    「今、何と仰いましたか?」
    「あ、い、いや、すみません。ここの神父様でいらっしゃいますね」
     男はしどろもどろに言いつつ、近づいて来た。生まれてこのかた力仕事などしたことがないのではないかと思われる細身で、ひょろっと背ばかりが高い。穏やかな顔立ちや佇まいから、清廉な気質が伝わってくる。
    「私、ここの絵の修繕を頼まれて来た者です」
    「ああ、市長に頼んでいた画家の方でしたか。お待ちしておりました。どうぞ、よろしくお願いします」
     握手をした手は案外硬く、絵筆を握り続けたことによるタコがあちこちにあった。よく見れば、男の着ている服には、あちこち絵具がこびりついている。
    「それでは、さっそく絵を見せていただけますか」
     仕事への熱心さには、先ほどの発言をなかったことにしてしまいたいという気持ちが混じっているようにも思えた。恐らく、口にするつもりはなかった言葉だったのだろう。しかし、私が天使だとばれてしまったのだとしたら、それはなかなかの問題だ。詳しく話を聞きたいところだが‥‥‥。
     そんなことを考えながら、壁画を見せて回る。画家は真剣な眼差しでそれらを見つめ、時おり、節くれだった指で撫でた。
    「古いが、丁寧な仕事ですね。この教会を建てた人は、よい画家に頼んだのでしょう」
     教会内を一周し、会衆席に座った画家は、そう言った。
    「やはり本業の方は、そのようなことがお分かりになるんですね。私は門外漢で」
    「いやあ、私は絵しか取り柄がありませんから。同じように絵を愛する人の作品は、見れば分ります。神父様も、信仰のある人は、見ればお分かりになるのではありませんか」
     画家は謙遜なのかそう言って笑い、「それでは今日はこれで」と立ち上がった。初めの言葉の真意を、まだ確認できていない。仕方なく単刀直入に聞いてみることにして、私は細い背中に声を掛けた。
    「ところで、最初、ここに来たとき仰っていたのは、どういう意味だったのですか」
     ゆっくり振り返った画家は、真っ赤な顔で、しきりに頭を掻いた。
    「申し訳ありません、ばかなことを。その‥‥‥神父様が祈ってらっしゃる姿が、ステンドグラスを通した光に照らされて、あまりに神々しかったものですから、つい‥‥‥」
     なんだ、そういうことか。
     天使だとばれた訳ではなかったらしいと分かり、私は胸をなでおろした。もし万が一にも正体に気が付かれてしまっていたら、この男の記憶を少し弄らねばならないところだった。
    「ああ、そうでしたか。どうかお気になさらないでください。芸術に通じていらっしゃる方は、感性が豊かなのですね。明日からの修復作業、どうぞよろしくお願いします」
     男は恐縮したように頭を下げて、教会を出て行った。
     それから半年ほど、男は教会に通った。彼の仕事道具はとても多く、筆だけでも何種類もあった。彼はそれらを桶にまとめて入れ、細い腕で何度も持ち上げて運んだ。朝、まだ涼しいうちからやって来て、室内の聖人画の前に座ったり立ったり、いっときも休まずに働いた。私は日に何度か、彼に水差しとコップを提供し、少しずつ雑談をした。私は専ら、描かれている聖人についての話を。彼は専ら、施している修復の内容を。私が話しかけると、彼は決まって、はにかんだような笑みを見せた。もしかして会話するのが苦手なのかもしれないと思ったこともあるが、何度か話してみて、そうではないことが分かった。彼は、少なくとも私と話すことを嫌がってはいないようだった。
    「貴方の仕事のお陰で、最近、教会の中が見違えたように明るくなりましたよ」
     あるとき私がそう言うと、男は大いに照れて、下を向いてしまった。
    「い、いえ、私などは、まだまだで。本業の方もさっぱりで」
    「さっぱりとは?」
    「私は人物の肖像画を主に手掛けているんですが、あまり注文がなくて」
     聞けば、彼にはよいパトロンもいないと言う。それでも自分には絵しかないので、と男はまた頭を掻いた。言われてみれば、彼はいつも同じ作業着だ。画家はそういうものなのかと思っていたが、話を聞くとそういう訳でもないようだし、線が細いのも、食が細いゆえなのかもしれなかった。
     私が言葉を探していると、男は「あ」と声を上げた。そして、おずおずと切り出した。
    「神父様。神父様さえよろしければ、私に肖像画を描かせていただけないでしょうか」
    「え? 私の肖像画を?」
     驚く私に、男は珍しく積極的に頷いた。心なしか、身を乗り出してまでいるようだ。
    「初めてお姿を拝見したとき、その神聖な佇まいに、私の心は打たれてしまいました。ですが、なぜでしょう。こうして面と向かってお話しているときには、神父様のお姿もお顔もはっきり分かるのに‥‥‥家に帰って思い返してみると、どうしても、ぼんやりとしか浮かんでこないのです。私はそれが悔しいのです」
     芸術家というものは、誰でもこうなのだろうか。私にはその出所がよく分からない熱情が、彼の目の中に浮かんでいる。私の印象が曖昧になってしまうのは天使に特有の性質のせいだが、それに言及してきた人間はこの男が初めてだった。少々うろたえはしたが、しかし、そういう気持ちを寄せてもらえるのは嬉しい。少しだけ人間に近づけるような、そんな気がした。
    「いいですよ。私などでよければ」
     そう返答すると、男の頬は紅潮した。
    「ありがとうございます。実は、ずっと前から申し出ようと思っていたのです。不躾なお願いなので、言い出せずにいましたが」
     画家は言いながら、何度も頭を下げた。そんなに喜ばれるようなことをした覚えはないが、人間が喜ぶ様子は見ていて嬉しいものだ。早速、翌日から描いてもらうという話になって、その日は別れた。
     そうして、昼間は教会で、夕方から夜にかけては男のアトリエで、彼と過ごすようになった。彼は本当に仕事熱心で、壁画の修繕は予定よりも早く仕上がっているようだったが、私をアトリエに招いて行う、彼の言葉で言えば「趣味」に対しても、相当、力を入れているようだった。それは、彼が私とキャンバスとを見つめる目で分かった。職人の目と言うよりも、それはむしろ、熱心な信仰者のものだった。
     彼のアトリエは、言ってしまえば彼の自宅だった。家財道具などは最低限の物しかなく、小さな寝台が窓際に置いてある程度で、あとは画材しか見当たらない。服などは数着、彼がいつも着ている絵具染みだらけの作業着とさして変わらないものが壁に掛かっているのみだ。床には所狭しと紙や筆、絵具の類が散らばっており、ひとつだけしかない机の上も床と殆ど同じ状況だ。天井から壁にかけては乾くのを待っている作品が吊り下げられ、作品の構想やメモが壁中に貼り付けられていた。賃貸の部屋のようだが、これでは大家さんにいい顔をされないだろう。
     男は部屋の中心に椅子を置いて私を座らせ、自身は寝台に腰かけてキャンバスと向かい合った。
    「神父様、その‥‥‥描いている間、話しかけてもよろしいですか」
    「ええ、もちろんですよ」
     ただ黙って壁を見つめている、というのも、特に苦痛ではないが、その方が彼の作業がしやすいのなら、それに越したことはない。私としても、普段あまり接する機会のない職業の人間と話が出来るのはありがたかった。
     男は絵筆を使いながら、私に色々な話題を投げかけた。それはときには単なる質問だったり、私の意見を尋ねるだけのものであることも多かった。彼自身がその話題に興味があるという風ではなく、彼の言葉に返す私の表情の動きを追おうとしているように思えた。
    「神父様は、何をされているときが、一番、心が休まりますか」
    「神父様は、神について、どう解釈されていますか」
    「神父様の好きな食べ物は何ですか」
    「神父様は、昨今の国内の情勢について、どうお考えですか」
     そんな調子の質問の間に、彼自身についての話も差し挟まった。それによると、彼はここよりも更に田舎の町に次男として生まれ、あらゆることにおいて長男と比較されて育ったらしい。腕っぷしも強く頭もよかった兄は両親の期待を背負っていたが、弟である彼は、兄に匹敵するものの持ち合わせがなかった。手慰みにと地面に描いていた絵を、町に来ていた美術教師が目に留めてくれるまで、彼には何もなかった。期待も愛情も、彼には注がれることがなかったのだ。
    「首都から来ていた先生に引き取っていただかなければ、私はあのままごくつぶしの次男坊として煙たがられ、ひとつの自信も持てないまま、生きていたでしょうね」
     そう言う彼の笑顔には、しかし自嘲のかけらもない。ものごとをありのまま見る、そういう性質が、彼を芸術の道に導いたのかもしれなかった。
    「その美術教師というのは、今は?」
    「少々、体調を崩してはいますが、健在です。でも、私ももういい歳ですから、いつまでもそのお膝元に安穏としてもいられないでしょう」
     だから独立して、数々の町を回りながら画題を探しているのだと、男は言った。実はこの街にも、あと半年ほどしかいる予定はないのだと。
    「しかし、‥‥‥神父様のようなお方と出逢えるとは思ってもいませんでした。最初に見たとき、教会に天使が舞い降りたのだと、本当に思ってしまったんです。目の前の天使様を描くために、私はこの街に来たのだと思いました」
     そんなことを話すとき、男の目は潤んだ。彼が私を描くことに、彼が抱えている情熱の、ほとんど全てを傾けているのだということが、それでよく分かった。彼にとって、芸術は恐らく、単なる仕事ではないのだ。
     毎晩、私がアトリエを辞す前に、彼はその日の進行具合を見せてくれた。最初は線の集合にしか見えなかったのが、日を経るごとに色が付き、影が付き、形になっていくのが面白かった。人間の目から見えている私を知ることが出来て、不思議に充実した気持ちになった。
     秋が過ぎ、冬になった。初雪が降ったその日、教会壁画の修復は完了した。色褪せていた聖人たちは鮮やかに蘇り、日曜に礼拝に来る信者たちの評判も上々だった。仕事の後片付けを手際よく行う画家に礼を言うと、彼はやはりいつものように微笑んだ。
    「頼まれた仕事をしたまでです。喜んで頂けたのならよかった」
     報酬を受け取った彼は顔を綻ばせ、初めて、私を食事に誘ってくれた。
     街の小さな店で、彼は手にしたばかりの金貨を使ってご馳走してくれた。教会やアトリエで見るのとは違う、芸術から離れた男の朗らかな顔を、私はそのとき初めて見たのだと思う。
    「神父様。よい仕事に携わることが出来て、本当に嬉しく思います。よきご縁、それを導いてくれた主に感謝しています」
    「こちらこそ、存分に力を発揮していただきまして、ありがとうございます。信者も喜んでおりますよ」
     笑い合いながら食事を終え、アトリエに向かう道で、男はぽつりぽつりと話しだした。首都にいる師匠の容態が思わしくない。急な話ではあるが、もう明日には荷物をまとめて、この街を発たなくてはいけない。
     まだひと月ほどは滞在すると聴いていたので驚きはしたが、そういう事情なら早く向かうに越したことはない。行って顔を見せて、安心させておやりなさい、と言うと、男は頷いた。しかし、まだ何か気がかりな様子で、歩調も遅い。
    「‥‥‥神父様、それでお願いなのですが」
    「私で出来ることなら、何でも協力しますよ」
     交通手段の手配などだろうかと思いながらそう請け合うと、男は思い切ったように顔を上げて、私の目をまっすぐに見つめた。
    「今晩で、あの肖像を仕上げたいのです。わがままなのは重々承知で申し上げます‥‥‥、神父様のひと晩を、私にいただけませんか」
     他人の時間を奪うことへの罪悪感と天秤にかけて、それでもなお、彼がやり遂げたいことなのだ。これまでのやり取りからも、それはよく伝わってきた。どうせ、天使には睡眠の必要はない。彼がそれで安らかに出発できるのなら、私に文句はなかった。
    「ひと晩、眠らないくらい、どうということはありません。結構ですよ」
     私の答えに、男は夜目にも分かるほど、表情を輝かせた。何度も礼を言われながらアトリエに着き、すっかり片付けの済んだ室内で、これまでと同じようなやり取りを交わしながら、夜を過ごした。
     明け方になって、彼は完成した絵を見せてくれた。そこには、紛れもない、私の姿があった。ひとつの表情、ひとつの定められたポーズをとる私ではない。彼と幾晩にも渡って交わした言葉、感情が、ひと筆ひと筆に乗ったそれは、彼と過ごした私に他ならなかった。精緻な筆遣いに、彼の真心がこもっているのがよく分かり、胸が暖かくなる。
    「素敵な絵になりましたね。これは、正真正銘、私に他なりません」
     朝の清浄な日に照らされた絵を見て言うと、男は涙ぐんだ。
    「描かせていただきまして、ありがとうございました。本当は写しを作って神父様にも差し上げたかったのですが、今は時間がありません。首都に戻って写しを作り、必ずお手元にお届けしますから」
    「いえいえ、私のことなどは、お気になさらないでください。こうして描いていただけて、貴方のためになれたのですから、これ以上のことはありませんよ」
     本当にありがとうございます、と何度も頭を下げる男に見送られながら、私はその家を後にした。恐らくその日のうちに街を出立した彼とは、それから暫くの間、会うことはなかった。彼と再会したのは、それからおよそ二十年後のことだ。
     姿は変えず、ただ住む場所と職とを変えていた私は、その仕事の都合で、たまたま首都を訪れていた。空いた時間に大きな画廊を散策していると、見覚えのあるタッチの作品群に出くわした。思わず足を止めて見入っているところを、不意に声を掛けられたのだった。
    「神父様‥‥‥?」
     振り向き見ると、二十年前に別れた、あの画家が立っていた。二十年分の年月が容姿に表れているが、別れた当時よりもよほど肉付きがよく、幸福そうだ。
    「し、失礼しました。貴方が昔の知人とそっくりだったもので‥‥‥そんな筈はないのに」
     謝る彼に、私は首を振って見せる。
    「大丈夫ですよ。恐らくそれは、私の叔父でしょう。叔父は田舎の方で司祭をしているのです。どうも、私はよく似ているらしくて、よくそうやって驚かれるんですよ」
    「そうでしたか。叔父様はお元気ですか。昔、叔父様をモデルに肖像画を描いたんですが、その写しを差し上げることが出来ないままになっていまして‥‥‥」
     聴けば、あの後、首都に辿り着いた彼は、師匠の訃報に際して打ちひしがれ、暫くの間は画業が手に付かなかったのだと言う。しかしどうにか立ち直り、それまでより更に力を入れて仕事に打ち込み、こうして画廊に並べてもらえるまでになった。そうした経緯から、私を描いた肖像画の写しに着手する暇がなかったのだと、彼は話してくれた。彼がそれを本当に申し訳なく思っていることはよく分かったし、そもそも私はあの後転居してしまったので、今になって写しを送られても困ってしまう。だから、叔父はそんなことは気にしないだろうから、写しには、本当に着手する必要はないだろうと、それとなく話しておいた。
     男は、二十年前よりも流暢に話を出来る人物になっていた。私を見て当時の記憶が蘇ったのか、彼は年相応に皺の目立つようになった顔で、くしゃっと笑った。
    「貴方を見ていると、神父様にまた出会えたような気がして、とても嬉しいですよ。もう、私は首都から離れることが出来ませんが、こうして甥の貴方に会えて、本当に良かった。私は神父様のことを、本当の天使だと思ったんです。ふふ、笑ってしまうでしょう。‥‥‥ですが、今でもやはり、思うのです。毎晩、あの肖像画を眺めて、あの人のことを考えていると‥‥‥あの方はやはり天使だったのではないか、と」
     天使として生きていると、時おり、こうして昔関わりのあった人間と再会することがある。もちろん、私の方から、昔交流のあった誰それだと名乗ることはないが、ここまで私のことを思ってくれる人間は珍しかった。人間に対する印象が薄められる筈の天使だが、大切に描いてくれた肖像画が、彼の記憶のよすがとなったのだろう。懐かしそうに目を細める彼と向き合いながら、私も懐かしくなるような、不思議な気持ちだった。
     ひとしきり昔話を聴いて、それで彼とは別れた。もう、二度と会うこともないだろうと思いながら画廊を後にしたのだが、それからまた十年後に、私は再び彼と向き合うことになった。黒い棺に横たわる彼と。
    「‥‥‥故人は我が国の芸術の発展に多大なる寄与をし、その功績は国外にも影響を及ぼし‥‥‥」
     新聞で式を知り、慌てて駆け付けた墓地では、葬儀の真っ最中だった。よく晴れた綺麗な夏の日で、彼が教会に通って仕事をしていた日々を思い出す。葬儀を執り行う神父の言葉が終わり、参列者が彼の棺に花を投げ入れた。棺が閉じられ、彼の魂が安らかでいられるようにと、その場の全員が祈りを捧げる。
     式が終わり、ひっそりと立ち去ろうとした私に、声を掛けた男がいた。
    「失礼ですが、もしかして貴方は『神父様』の甥御様ではありませんか」
     男は画家の弟子で、彼から私の肖像画を見せられ、何度も思い出話を聞かされたのだと話してくれた。
    「本当に、あの絵に描かれた『神父様』そっくりでいらっしゃるので、絶対そうだと思いました」
     男は笑い、もし時間があるなら画家のアトリエに一緒に来てくれないかと言った。葬儀のために休みを取っていたので承諾し、ついて行った先に、私の肖像画があった。
    「先生は、この絵を生涯にわたって大切にしていました。毎晩、眺めて、祈りを捧げているのだと仰っていました。そんな風に大切にしていた作品なので弟子の私が保存しておくべきかとも思ったのですが、やはり、これはモデルとなった方にお渡しするのが一番だと、今日お会いできて思ったのです。どうか、持ち帰って、『神父様』にお渡しいただけないでしょうか」
     男は頭を下げる。私に、断る理由などはなかった。嵩の割に軽い絵を布にくるみ、私はそれを持って帰った。

     話を終えると、悪魔はふうん、と、肖像画を見つめた。
    「その画家は、かなり変わった奴だな」
    「そうなんだ。普通、そこまで私という存在に思い入れを抱く人間はいないんだが‥‥‥。こうして絵を見るまではすっかり忘れてしまっていたけれど、見たら鮮明に思い出せるものだな。やはり、処分なんて出来ないよ」
     再び、絵に圧縮を掛けようとしたとき、悪魔がそれを止めた。
    「ちょっと待ってくれ。確認したいことがある」
    「‥‥‥?」
     悪魔は絵の裏側に回り、キャンバスが木枠に留められている辺りをじっくりと調べた。鑑定家のような物腰だ。やがて彼はひとつ、大きく息を吐いて、私の隣に戻って来た。
    「何かあったのか」
    「ああ。天使サマは天使サマの癖に、随分と罪作りだってことが確信できたよ」
     まあ、確認するまでもなく、話を聞いただけで分かってたけどな、と呟く彼の言葉の意味が、私にはよく分からない。疑問符を浮かべる私に、悪魔はもうひとつため息をつき、キャンバスの裏側を指で示した。小さな、小さな文字で、画家のサインの下に、アルファベットが並んでいる。
    『My angel in love.』
    「dearじゃない、loveだぜ。その画家は、お前に恋してたってことだ。いや、恋なんて通り越してたのかもしれん」
    「な‥‥‥」
     もう一度よく見直すが、文面は変わらない。肖像と同じだけの年月を感じさせる絵具の具合は、この文が画家の手によって書かれたものだと示している。言葉の出ない私に、黒髪の悪魔は面白そうに笑った。
    「お前の魂の輝きは、人間にまで恋情を抱かせるものなんだな。流石は俺の愛するエンジェルだ」
     何と言っていいのか、さっぱり分からない。あまりに思いがけない事実に、頭がついて行かない。そんな風に思われていたなんて、当時も、そして今の今までも、まったく思わなかった。
     ‥‥‥ただ。こうして絵を前にして、当時のやり取りを思い返してみると、そこには穏やかな魂の交流があったのだと分かる。私にとっては人間に近づけるよい機会だったあの日々が、彼の魂に深く根ざし、少しでも彼を幸福に出来たのだとすれば。
     それは、間違いなく天使としての幸福だ。
     絵を圧縮し、掌に載せる。彼と過ごした幸福な時間も、またいつでも開けるように、圧縮する。元の場所にそれを仕舞い直し、私は現在に戻る。今、目の前にいる悪魔に、手を差し出す。
    「昔話はここまでにしよう。さあ、コーヒーを温め直すから、居間に戻ろう」
    「ああ、そうしようか」
     私の手を握るのは、あの日握った画家の手とはまったく違う、冷たく、すらりとした手だ。いつか、こうして過ごす時間を、ふたりで思い返して笑い合う日も来るのだろうか。
     また会いに行きますね、と心の中で呟いて、寝室の戸を閉めた。
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