彼の嫌いなもの 「侮辱」「炭鉱夫あがりのくせに」
野営地でみなで語らっている時、どこからか吐き捨てられた言葉が聞こえた。
特に気にもせずに明日のことも考え、そろそろテントに戻ろうかと思った時、隣で座っていた主が勢いよく立ち上がった。
「今の言葉は誰だ!!」
鋭い声に、和やかだった空気が一気に張り詰めたものに変わる。
その場が一瞬で水を打ったように静かになった。
「レノックスを侮辱する言葉を吐いたのは一体誰かと聞いている」
戦場でもよく通る大きな声が響く。いつもと同じ丁寧な口調ではあるが、普段との違いはその声に明確に怒りが表れているところだ。
談笑していた兵士たちはみな口を閉じ、息を呑んでこちらを見つめている。
「…名乗り出ないのならそれでいい。だが、この中で彼よりも戦える者はどれだけいる?側近としての役目も充分に果たしている。意見があるのなら僕に直接言いに来い」
こちらを見つめたままの者もいれば、気まずそうに目を逸らす者もいる。少し不満そうな顔をする者も見えた。
正直、自分は何を言われても気にしていないし、言われても仕方のないことだと思っている。
むしろ自分を庇うことによって、大事な主が(一部の者とはいえ)不満や反感を持たれる事の方が嫌だった。
兵士たちの様々な感情の混ざった視線を全く気にせずに彼は言葉を続ける。
「僕たちは、みな同じ目的に向かっている同志だ。それなのにその中で優劣をつけるのか?各々が生きてきた歩みを馬鹿にするのか?」
厳しい言葉に兵士たちはどんな反応をしているのか、そっと周りに視線を走らせる。
じっと彼を見つめ、頷きながら話を聞いているのは主に魔法使いたち。権力者等に抑圧された生活をしていたり、自分より前から軍にいた人間たちも同じように頷いている。
少し不満そうな顔をしているのは、比較的新しく加わった者たちだ。
「僕たちが目指しているのは人間も魔法使いも同じように生きて行ける世界だ。そのことを忘れないでくれ。ここに集っているのは、それに賛同した者たちのはずだ。それが不満なのなら、抜けても構わない」
もしかしたら、不満そうな顔をしていた人間たちは数日中にここを去るのかもしれない。
その際、不平不満を言い合うのかもしれない。
自分の主を悪しざまに言うのかもしれない。
言い合うだけではなく、周りに悪評をばら撒くのかもしれない。
正直想像しただけで、はらわたが煮えくり返るような気持ちになり、拳を力いっぱい握りしめた。
自分は何を言われようが構わないのだ。
そもそも炭鉱ではまともな扱いなどされない。
最初はファウストが自分に対して、余りに気安い態度で接してくるのに驚いたくらいだ。
「行くぞ、レノックス」
場の空気を一切気にせず、踵を返してテントに向かう主の後を慌てて追った。
皆の視線を感じながら彼の後ろを歩く。
お互いに無言でテントまで歩き、するりと中にに入った。
すぐに休めるように寝所の準備をする。
中に入っても彼は入口付近で立ちつくしたままで動かない。口元に手を当て、何かを考えている。
体を休めるためにも取りあえずは腰を下ろして欲しいが、どう言ったらいいものか…と悩んでいると、こちらの様子に気が付いたのかゆっくりと隣に腰を下ろした。
自分を真っ直ぐに見つめながら彼は謝った。
「…嫌な思いをさせてすまなかったな。今後このような事のないように…」
「いえ、ファウスト様。俺は特に気にしていません。それよりも…」
自分の言葉に彼は眉を顰めた。
怒りのような、呆れのような表情で自分を見る。少し視線を宙に彷徨わせた後、口を開く。
「君は父親を侮辱されても気にしないのか?」
「それはありえません。すぐにその言葉を撤回させます」
「それと同じことだよ。レノ」
話がよく分からないという顔をしていたのだろう。彼は少し笑ってから説明してくれた。
「君は、君を形作ったもので出来ている。ご両親にご兄弟、炭鉱の仲間、村の人達…。
君を侮辱することは、彼らを侮辱することと同じだよ」
「…それは…」
「今ならもちろん僕も含まれるかな?」
「…!!」
その言葉を聞いて衝撃が走った。
自分は主を侮辱されても平然としていたのか!
「申し訳ありませんでした、ファウスト様。俺は貴方に何て失礼な事を…」
「いや…そんな大袈裟なものじゃないよ、レノ」
少し気まずそうな顔をしてから恥ずかしそうに笑って、彼は言った。
こちらをまっすぐに見据え、紫の瞳に俺の姿を写しながら。
「まぁ、実のところ…僕が君が侮辱されるのを許せなかっただけなんだ」
はにかむようなあの笑顔と彼の言葉は、自分にとってはキラキラと輝き続ける宝石のようで、ずっと心の奥底で大切に抱えながら生きている。