なみだのあと あらかじめ連絡を受けて待機していたところで、運良くコンビニの前を通り過ぎる目当ての人物を見つけたところだった。
「いた。全く、手間のかかる…」
濡れ鼠ならぬ濡れ隼、と言ったところか。
仕方ないと降りしきる雨の中、手持ちの傘を勢いよく開いて私は彼の元へと駆け出していた。
「坊ちゃん! そんなびしょ濡れで風邪ひきますよ!」
「……なんだ、お前か」
「なんだ、じゃないですよ。この雨の中傘も差さずにふらふらしてる大男なんて嫌でも目に入りますって」
差し出した傘はよくある規格のせいで、大男2人が雨を避けるにはその幅は十分とは言えず、自分も彼も半分ほど傘からはみ出してしまう。だが、びしょ濡れの男をそれ以上濡らしておくわけにもいかず、自分の傘を無理やり坊ちゃんの手に握らせた。
「ちょっとここで待っててくださいね!」
声に多少の怒気を含ませて言ってから、私は待機していたコンビニへと大急ぎで向かったのだった。
コンビニでビニール傘と他に必要になりそうなものを購入してから再び坊ちゃんのところへ戻ると、傘を差したままきちんとそこに留まっていてくれたことに安堵のため息が出ていた。
「セト様から話は聞いてますよ。うち、この近くなんでついてきていただけます?」
歩き出せば、きちんと後ろをついてきてくれるようで雛を連れて歩く親鴨のような気分になりつつ、夜道を急いだ。
ひどくなる雨に重い気持ちになりながらもマンションの玄関に到着し、コンビニで購入したタオルの封を開けて坊ちゃんに手渡す。
「これで少し体の水分を拭き取ってください。さすがに濡れたままではよくないので」
「わかった」
小さく返答し、渡されたタオルで大雑把に体の水分を拭き取った坊ちゃんからタオルを受け取り、オートロックの玄関を通る。それから自室までの道すがら、私も彼も一言も互いに言葉を発することはなかった。
自室に入り、靴下を脱ぐよう指示してから部屋に上がる。浴室の照明をつけてから玄関に佇む青年に声をかけた。
「シャワー貸しますんでどうぞ。体冷えてるでしょう?」
「着替え、持ってない」
「下着、さっきコンビニで購入したので使って。スウェットなら私のでも着れなくはないでしょう」
コンビニの袋から購入したボクサーパンツを取り出してランドリーボックスの脇に置き、クローゼットルームに向かおうとしたところで未だに玄関から上がろうとしない坊ちゃんを揶揄うように言う。
「シャワーまでご一緒したほうがよろしいですか? 私はそれでも構いませんが」
「…余計なお世話だ」
ぼそりと呟いた声は小さかったがこちらにはきちんと届いたので、彼には気づかれないよう少し笑いながらクローゼットルームへと向かうことにした。
用意しておいたスウェットを身につけ浴室を出てきた坊ちゃんをリビングに招き、ソファへ促す。律儀にも室内にいるというのにスウェットパーカーのフードを目深に被っているのは、その方が落ち着くからなのだろうというのは予想できた。
「ホットココアです、どうぞ。冷え切った体が温まりますから」
マグカップに注いだホットココアを差し出すと、無言で口をつけている。テレビのリモコンを目の前に差し出しながら立ち上がると、びくりと跳ねた頭が私を不安そうに見上げていた。
「私もシャワーを浴びてきます。テレビでも見て待っていてくだされば。ついでに坊ちゃんのお召し物も洗濯もしておきますからね」
「何から何まで…すまない」
「おや、随分としおらしいですね」
感心するようなこちらの言葉を無視し、坊ちゃんはテレビのリモコンに手を伸ばした。
シャワーを浴びながらぐるぐると考えてしまうのは、今後の坊ちゃんの身の振り方だ。彼は今セト様と同居していたはず。
私を含め、セト様も坊ちゃんも前世の記憶を持ってこの時代に転生している。前世が神であったせいか物心ついたときには既に自分はそういう存在だったという自覚があった。だからと言って何か特別な力を持っているというわけではなく、神としての記憶を持つただの人間にしかすぎない。自分に関連した神話の書物を読んでみると、あることないこと書かれているのには正直うんざりはしたが。
前世でセト様と坊ちゃんは心を通わせ、私は負け組になってしまったわけだが、偶然にも同じ時代、同じ国に居合わせたことで以前起きたことを再び繰り返す羽目になった。坊ちゃんとセト様は前世と同様叔父と甥という関係で、本当に偶然3人鉢合わせたときは運命というものを感じてしまったものだ。その後はセト様の心を射止めようと躍起になり、坊ちゃんとは互いに牽制し合いつつ、それをうんざりしながら見ているセト様、というのがこれまでの日常だった。前世では恋仲になり、更に甥という立場を利用してセト様の部屋に転がり込んだ坊ちゃんは私よりも遥かに優位ではあったものの、その関係に変化が起きたのはつい先日のことだった。
「この間、偶然ネフティスに会ったんだ」
「ああ、奥様ですか。その…以前の記憶は?」
「あるらしい。アヌビスも一緒にいるみたいだ」
セト様に坊ちゃんには内緒で、と呼び出されたバーでそう切り出された。セト様はひどく思い詰めた表情で私から視線を外し、顔を片手で覆って俯きながら声を震わせていた。その悲壮感にただならぬ予感しかせず、ひどく心が落ち着かなかったことをよく覚えている。
「ネフティスに会って、俺はもう一度やり直したい、って思っちまったんだ」
「それは…夫婦として、ということですか?」
私の問いにセト様はゆっくりと頷いた。
「坊ちゃんには?」
「まだ言ってない。アイツはまだ何も知らない」
セト様が奥様を選べば、坊ちゃんはどうなってしまうのだろう、とそんなことを思った。彼のセト様に対する並々ならぬ想いはよく知っている。セト様もそれをわかっているからこそ、こうして私に打ち明けてくれたのだろう。
2度目の生は限られた時間の中でどれだけ後悔なく生きるか。信仰が薄れたせいで神としての力は失われ、寿命もただの人間と変わらない。また同じように生まれ変われるかの保証もない。そうであれば、生前の後悔をやり直したいと考えるのはおかしくない話だな、とセト様の選んだ選択にそんなことを思っていた。
「ネフティスとやり直したいことを、ホルスに伝えようと思ってる。それで…もしホルスが思い詰めてしまいそうならアイツのことを頼みてえんだ」
「恋敵の私に、ですか」
「あいつを力ずくで止められるのは、お前しかいねえだろ。頼む、この通りだ」
そう言ってからセト様は居住いを正して深々と頭を下げてきた。セト様の覚悟も既に決まってしまっているようで、結果的に数千年越しの2度目の失恋になってしまったことに気付いたのはセト様を見送った後のことだったわけで。
セト様が坊ちゃんにどんな風に話をしたかは私の知るところではなく、最悪の事態にはならなかったことだけは確信できた。セト様も言葉をうまく選びながら坊ちゃんに思いの丈を打ち明けたのだろう。セト様から連絡が入り、ふらふらと夜の街を彷徨う濡れ隼になった青年を、無事に捕獲できたわけだ。
互いに失恋したから腹を割って酒でも飲むかとも一瞬考えたが、彼はまだこの国でいう未成年であったからそうもいかないな、とそんなことを漠然と思いながらリビングへ入ると、テレビをつけたままソファに体を預けてぼんやりとしている姿が目に入った。
「セト様に連絡は?」
私からの問いかけに静かに首を横に振ったので、自分のスマホからセト様へ電話をかける。すぐに応答があり、坊ちゃんをこちらで預かる旨を伝えると、セト様は「本当に悪い、ホルスのこと頼んだ」と沈んだ声で返してきた。
坊ちゃんの隣に少し距離を取って座り、ふうと一息つく。できたばかりの傷口を抉ることにはなるが、避けられない話題を切り出すことにした。
「さて…何から話しましょうか」
「おまえ、知ってたんだな」
「ええ、貴方よりも先に振られましたからね」
肩をすくめてそう答えれば、俯いたまま冷え切った空のマグカップを握りしめ、坊ちゃんは声を懸命に絞り出した。
「叔父様は、俺の気持ちも考えずに勝手なことをしようとする自分が全部悪いって言うんです。俺に応えられないことをずっと謝ってきて、泣いてくれて。そんな風に言われて、俺が叔父様のことを無下にできるはずなんてないのに」
坊ちゃんの口調が密かに変わったことに、正直驚いてしまった。私に対してはぶっきらぼうな口調で繕っていた素の仮面がここにきて剥がれてしまうほど、彼は弱りきっているということなのか。
「叔父様を誰よりも幸せにしたいのに、それをできるのは今の俺じゃないんです。叔父様の選択を止める権利なんて、強引に側にいるだけの俺にはないから」
声の震えに一瞬泣いているのかと思ったが、その頬に涙は流れているようには見えなかった。泣き喚いたほうが幾分すっきりはするだろうに、それができないのは私の目があるからだろう。
彼が誰よりも気高く強い青年だということは、この時代に生を受ける前から嫌というほど知っている。セト様の治世で荒廃しかけたエジプトという国を自らの手で建て直し、ファラオと呼ばれる人間の王につつが無く王権を譲り渡して最高神という形で昇華されたホルス神という偉大な存在は、その偉業を目の当たりにした私にも多大な影響を確かに及ぼしていた。
「ホルス坊ちゃんはセト様の幸せのために身を引いたのでしょう? セト様が奥様とやり直すことで幸せになれるなら、と」
「………」
「それはなかなかできることではないと思いますよ。私が貴方の立場なら泣いて縋って、みっともなく足掻いていたかもしれない」
「けど、俺は逃げたんです。叔父様のいるあの部屋にいられなくて気付いたら雨の中を…」
少しずつ小さくなっていく語尾には、普段の彼からは考えられないほどのしおらしさが滲み出ている。父親譲りらしい大きな体が力無く項垂れ、悲壮感の漂う背中は目も当てられない。
だが、セト様から頼まれたとはいっても私にできることには限界がある。失恋に沈む青年を慰める気などさらさらないし、恋敵である私に慰められるなど彼にとっても屈辱にしかならないだろう。となると、下手に手を差し伸べるよりは今まで通りに接してやるのが最善だ。
「どちらにしろ貴方はこれからのことを考えないといけませんが、もう夜も遅いですし、寝室に案内しましょうか」
マグカップを坊ちゃんの手から受け取り、キッチンのシンクに置いてから寝室へと案内するため、リビングの照明を落とした。
「どうぞこちらへ」
寝室の扉を開け、中に促す。戸惑うように立ち止まった坊ちゃんの背中を軽く叩いてから、キングサイズのベッドに上がる。
「じゃあ隣に」
「は? まさか…一緒に寝るのか!?」
「あいにくベッドは一つですし、来客用の布団などもないので」
「だけど…」
「なんです? 別に同じベッドで寝たからといって取って食うわけではあるまいし。心配しなくても私にも好みというものがあるのでご安心を」
恭しく頭を下げてやったのはわざとだ。自惚れが過ぎる坊ちゃんへの意趣返しのつもりだった。
唖然としていた顔がむっと歪んでから、坊ちゃんは少しわざとらしく勢いをつけてベッドに乗り上げそのまま寝転んだ。ぎしりとスプリングが弾んでこちらにもその振動が伝わってくる。
「もう寝る」
「そうですか、おやすみなさいませ」
私の方に背を向けて眠る体勢をとった坊ちゃんが小さくおやすみ、と呟いたので、リモコンを操作して寝室の照明のスイッチを切った。
「ゔ、ぅ…っ」
近くで呻くような声がして、眠っていた意識が覚醒する。隣で鼻を啜る音が暗闇に包まれた静寂の寝室に響いていた。
「おじ…さま…」
静かだからこそ聞こえた声は哀れなほどに震えていた。私の前で必死に張っていた去勢がなくなってしまえば、抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出したのだろう。ぐしゃぐしゃに涙を溢れさせて目を腫らせているのだろうか。
「っは、…うっ、ぐ…! どうして…俺じゃ…」
あまりの嗚咽の痛々しさにいっそのこと腕の中に抱き寄せてしまおうかという考えが一瞬浮かんだが、それは私のすることではないなと、何も聞こえなかったかのように寝たふりを決め込むことにした。
翌朝、朝食を2人でとっているところできり出したのは、今後のことだった。
「で、この後どうするんですか」
「何が」
「セト様のところにこのまま住み続けるつもりなんです?」
「あ…」
パンを齧っていた手が止まり、坊ちゃんの顔が一気に暗くなる。この反応は何も考えていなかったということだろうな。確かにセト様のことで頭がいっぱいにはなっていただろうが、セト様の部屋で今後も素知らぬ顔で生活し続けるような図々しさをこの青年が持ち合わせているとは思えない。
「セト様の部屋を出るつもりなら、住むところが見つかるまで私が面倒を見てもいいですよ?」
「は? なんでそこまで…」
「セト様に頼まれたのですよ。貴方を頼むって。部屋も1人ぐらいなら貸せますよ」
「だからと言って、そこまでしてもらう義理はないはずだ」
「ただで面倒を見るつもりはありませんがね。部屋が見つかるまでの生活費は入れてもらいますし」
慈善ボランティアではないのだからきっちりとそこは線を引かなければならない。金を出してもらった方が後ろめたさも感じないだろうし、こちらの負担も減るので悪くない提案だとは思うのだが。
「………」
「それとも大学を辞めてご実家に戻られますか」
セト様のそばにいるために実家から遠く離れた大学を選んだのは彼自身だ。別に責めているわけではなくその選択肢もあると示しているだけなのに、やけに深刻に受け止めているのか、坊ちゃんの顔が少し強張っている。
「いやまあ、ひとまずどうするかという話なので、ここでゆっくりと考えてみたら、という提案です」
「わかった。ひとまずお前の世話になろうと思う」
そう言ってパンを一気に頬張り、坊ちゃんは勢いよく椅子から立ち上がった。
「一旦叔父様の部屋に行って荷物をまとめてくる。それから…」
もごもごと何か言葉にならない声が、坊ちゃんの口の中にこもっている。
「その、いろいろとありがとう…と伝えたかった」
「おや、それは嬉しいですね」
着替えてくる、とぶっきらぼうに言って、くるりと背を向けた彼の耳が少し赤くなっているように見えたのは気のせいではなかったと思いたい。
その数ヶ月後、私の部屋で生活を共にするようになったホルス坊ちゃんの手料理に胃袋を掴まれた私が、出て行かないでほしいと必死に縋り付くことになろうとは夢にも思っていなかったのだった。